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もうすぐ春がやってくるというのに、暖炉で暖められた会議室は、冬のずっしりした重さを今も残して沈み込んでいる。
雰囲気が重いだけなのに、ともすれば部屋全体まで暗く感じるのはどういうことだろう。
元々あった高価な調度品を始末してしまった上、植物すら置かれていないからだろうか。
エドワードは小さく息を吐く。
分かっている。この部屋のせいではない。
落ち込んでいるのは、エドワード自身の気分の方なのだ。
内戦終結宣言をしたというのに王城の状況が好転しないことを気に病んでも仕方ない。生前のジェラルドも、王太子としての時期が一番大変だと分かっていて色々な助言をしてくれていた。
グラントやコネル、カークランドもそれを分かってくれているし、もちろんリッツとギルバートはそれを何とかするべく動いてくれている。
それでも心は微かばかりも軽くはならない。
ジェラルドが生きていればと思っても仕方が無いが、それでも彼が居ないことは相当な痛手だった。
グラントやコネルも頼りになるが、気兼ねなく自分を晒して相談できるのはジェラルドだけだった。
リッツのように遠慮無い関係とは違うが、自分の師であり、父のような存在でもあったジェラルドに自分がどれほど頼っていたのかを、失ってからの方が痛感している。
エドワードはすっかり凝った眉間を揉んでから再び小さく息をつく。
必要最低限しか調度品が無く、窓さえ南の海側の崖に面していて殺風景なこの部屋は、革命軍からの仲間達と密談するのにもってこいの場所だった。
最低限の見張りしか置かなくても、盗み聞きされることが無いのである。
会議の内容は主に二つである。
一つは元国王ハロルドとルイーズの葬儀のやり直しである。ルイーズはその死後初めて王国王妃と認められることになるのだ。
だが二人の遺体は死人として損壊され尽くしており、国民の前にその棺を出すことは現実問題として無理だった。
そのため、代替え案として考えられたのは、シアーズにある光の精霊王の正神殿の神官達による、王と王妃が女神の国で平穏な暮らしが出来るようにという祈りの祝祭である。
大陸に存在する国家全てに守護精霊王がいる。ユリスラ王国の守護精霊王は言わずと知れた光の精霊王であり、それ故にリッツたち精霊族を光の存在として神聖なものとして扱う。
リッツが前に言っていたが、精霊族は自分たちのことを光の一族と呼ぶそうだから、あながち間違いではないのだろう。
実際に何をするのかと言えば、光の正神殿から大神官達を先頭に神官服を纏った神官達が真っ直ぐに王宮の墓所を目指すのだ。
それに荘厳な音楽を奏でる神殿音楽隊と聖歌隊が付き従う。
元々精霊信仰、女神信仰が基本のこの国ではそれは素晴らしい光景となるだろう。人々にはそんな彼らに振りまく、聖なる花を用意しなければならないから、その調達は急がねばならない。
彼らは王太子であるエドワードや王国幹部の人々と共に王室の墓所に向かい、国王と王妃の棺の前で祈りを捧げる。
そして大神官達が王家の為に存在する王宮の奥地に存在する神殿で祈りを捧げる。
これだけの儀式だが、一日がかりの大がかりなものとなるだろう。
政務部には光の正神殿に関係する部署も存在するため、彼らに一任となるがその経路と、やるべき事はこちらで決めて指示するしか無い。
今の所それを実行するのは五月二日となっている。五月二日は五月の第一周光の日である。
こちらの方は簡単に決まった。
問題はもう一つの方だ。
エドワードは目の前にある紙束を前に、深く溜息をついた。
「まだこんなにか」
「はい殿下。ですがこれで減りましたが?」
ただでさえ鋭いグラントの目が、更に細められる。
「分かっている。愚痴を言っただけだ」
「そうですか」
分かっているくせにグラントは説教を口にする。ジェラルド亡き後、グラントの口うるささは更に磨きが掛かったような気がするのは、気のせいだろうか。
もしかしたらグラントもグラントで、エドワードを導くという責任を背負わされた状況を、痛感しているのかもしれない。
何しろ決断するのはエドワードでも、政務関係の提案や実務を行うのはグラントだ。
今のグラントは、その責任を痩せた身体で一身に背負っている。
本格的に動き出した政務部だが、やはりこの暗殺騒ぎで疑心暗鬼に陥る者も少なくはなく、全体での動揺は隠せない。
「書類を増やして申し訳ありませんが殿下、こちらを」
差し出された書類を受け取って目を通す。全て機密書類だ。
「先日押収した剣ですが、あれは政務部の河川管理部にいた貴族のものでした」
数日前にリッツが撃退した暗殺者集団だ。
エドワードが自分に向かってきた二人を倒して顔を上げると、リッツはとっくに首謀者以外を切り伏せていた。
あまりの実力差に言葉もなかった。リッツと本気でやり合ったなら、おそらくエドワードなど一瞬で殺されるだろう。
何故かリッツはエドワード相手に勝てないと思い込んでおり、今もエドワードに面白いように負けてくれるのだが、やがて自分の実力がエドワードの遙か上を行っていることに気がつくのだろうか。
あの夜の、返り血一つ浴びずに笑っていたリッツを思い出しながら書類を捲る。
あの首謀者が持っていた剣のことと、それに関する事情聴取が事細かに書かれている。
「憲兵隊に調べさせたところ、自殺した男はその貴族の執事の甥にあたる男だったようです」
その男が数日前まで貴族の家に出入りしていたのは、使用人に確認済みらしい。
「それで剣はどうしてこの男に渡ったと?」
「……そうですな。剣は盗まれた。それがどう使われようとしらんと……」
これが貴族たちの常套句だ。貴族たちは自らが手を汚す前に自分の使用人、その親族を使って街のごろつきを集めていく。
当然街のごろつきの手には、かなりの額の金が握らされているのである。
「家名入りの剣を盗まれておいてどう使われようと知らないのか?」
「所詮、剣一本です、殿下。自分の命をかけることに比べれば今の貴族にとって安いものでしょうな」
「だろうな」
貴族制度が発足した当初は、貴族の誇りや威厳を賭けて決闘などということも少なくは無かったようだが、現在の貴族はすでに敗残者だ。
食えもしない誇りなどより命の方が大事だろう。
「結局の所は何の証拠も無いから処罰のしようもないと」
「その通りです、殿下」
「……いつも通りだな」
「いつも通りです」
溜息交じりにエドワードは眠たげな表情で穏やかに分厚い書類をまくっているフレイザー・カークランドを見遣った。
「フレイ、北部の復興状況はどうだ?」
「元々サラディオ、グレインは豊かだ。問題ないよ。オフェリルも内戦前に北部同盟に加入しているから、すでに復興が済んでいる。アイゼンヴァレーは、内戦前から現在まで、状況の変化がほとんど無いと言っていいね」
カークランドは地図を広げた。王国の詳細図だ。北部同盟加入の自治領区の現在状況を几帳面に書き込んだそれは、まめなカークランドらしい。
「難民は?」
「サラディオ、グレインに押し寄せていた難民はほぼ帰郷できたようだね。ただグレインに移り住んだ人々の三分の一はグレイン永住を望んでいる」
「その処理どうするかな」
いいながら顎をさすると、全員の視線が突き刺さった。
「俺は何か変なことを言ったかい?」
本気で理解できなかったらから尋ねたのに、その呆れたような顔は何だろう。
「殿下、グレインの事はグレイン自治領主代行が決めますよ」
言われて初めて気がついた。グレイン出身ではあるが、もうエドワードは王太子であり、グレインに責任を取る必要がないのだ。
いや、それどころでは無い。王族が自治領区に口を出すのは、自治領区に問題があり国王が解決するための最終手段として介入する時だけだ。
つまりエドワードにはもう、グレインに何の権限もないのである。
グレインはジェラルド亡き後、パトリシアに引き継がれているのだから。
「……そうだった。すまない、俺がグレインに口を出したら内政干渉になるな」
胸のどこかが痛んだ。
十二歳から王太子の名乗りを上げるまで十年以上グレイン騎士団を名乗ってきたから、今まで心のどこかに、自分がグレインを守る立場にあるという自覚があった。
でも今のエドワードが口を出すのは自治領区の内政ではなく、自治領主がよりよく自治領区を運営できるように国主として手を差し伸べることだった。
「……続けてくれ、フレイ」
「はい殿下」
カークランドは穏やかに笑う。その全てを飲み込んで理解してくれる表情に、少し救われた気分になった。
カークランドは自分に厳しく、他人に柔らかく接する。戦うことにはグラントとと同じように向いては居ないが、自治領区の運営や後方勤務に於いては相当な凄腕だ。
前線に出ては来ない彼だが、後方に於いて軍に物資を途切れること無く送るという激務を、寝ずにこなし続けてくれた男だ。
彼なしでは前線を維持できなかった。
見た目はいつも少々眠そうで頼りなげな印象ではあっても、几帳面で視野の広い彼に自治領区監督官を任せておいて問題ないだろう。
「その前に殿下に安心していただきましょう。グレイン自治領区代行から連絡があり、グレイン北部難民を正式にグレイン自治領区の民として受け入れる旨、決定したとのことです」
「……そうか」
父親を亡くし、アリシアと生まれたばかりの弟といまだ大混乱にあるだろうに、パトリシアはきちんと役割をこなしているようだ。
そのことに安堵し、同時に寂しさを感じた。妹のような存在だったパトリシアが、本当に大人になっていた。
父親を亡くしたというのに、父とエドワードのために臣下としてエドワードに傅き、感情を抑えて父の遺体を移送し、自治領区を守ろうとしている。
いつも隣にいたときは、その存在の眩しさに全く気がつかなかった。
アデルフィーに行ったとき、エールの村に行ったとき、アンティルに行ったとき。離れれば離れるほど、彼女の存在が自分の中で大きくなった。
気がつくと隣にあったその輝きを求めずには居られなくなっていた。
リッツの想い人だと知りながら、止められない自分の思いが友への裏切りでは無いかと悩みつつも、それでも彼女を愛していることに気がつかされた。
その彼女が、今一番遠い。
駄目だなと心の中で自分に言い聞かせる。
彼女が傍にいるときは、危うい生を何とか繋いでいるリッツのことばかりを心配しているくせに、彼女が離れていくと彼女のことばかりを考えてしまう。
居て当然だと思っていた人が遠ざかっていくことが、これほどに気の塞ぐものだとは思っても居なかった。
ジェラルドもパトリシアも、居なくなるなんて今まで一度も考えても見なかった。
再び小さく息を吸う。
彼女に次に会ったとき、こんなみっともない自分ではいられない。今は王太子としてしっかりしなくては。
「セクアナの状況は?」
「一番荒廃しているから復旧には時間が掛かりそうだね。特に田畑は放棄されていた場所が多いから、一から耕し直しだ。しばらくはグレインとサラディオの支援が必要で、年間援助資金は、各自治領主に話し合って貰っている」
「……なるほど。昨年は豊作だったから、グレインにも予算はあるだろうな」
パトリシアは大忙しだ。いや、忙しいのは執事であり、補佐官であり、秘書であるエドワードの育ての親、アルバートだろうか。
妻だけで無く、親友も失ったアルバートのことだから、仕事に打ち込む方が楽かもしれない。少なくともエドワードは、仕事が詰まっている方が気が楽だ。
「セクアナとアイゼンヴァレーの防衛面はどうだ?」
気持ちを切り替えて冷静に尋ねると、カークランドは微笑む。
「それはこちらへどうぞ。ね、コネル」
カークランドはあっさりとコネルに話を振って微笑んだ。
「……先輩も人が悪い。説明は行ってるでしょうに」
カークランドとギルバート、ジェラルドは軍士官学校の同期生だ。それはコネルの先輩でもある事を意味する。
学生時代ギルバート達と行動を共にしていたコネルもまた、軍をすぐに辞めたカークランドと顔見知りだ。
「でも担当はきみだったね?」
「分かってますよ、先輩」
軍に在籍している期間がかぶらない二人だから、コネルとカークランドは互いを階級で呼ぶことはないのだ。
あくまでも先輩、後輩の関係なのである。
穏やかなカークランドにのんびりとだが断りようがない口調で諭されて、コネルは渋々といった体で手元の資料を広げた。
そこにあるのは諜報部の情報から推測される現在の国境地帯の詳細図だ。
「さすがだな」
コネルのマメさに心から感心すると、何故かコネルは言葉に詰まる。
変わって答えてのはグラントだった。
「どうせ書いたのはチャックだろう。それともジョゼフか、コネル」
「……ばらすなよグラント」
「お前は昔からそうだ。抜群の用兵を用いるのに作戦行動が雑でいかん」
「……そういうのはジョゼフがやるからいいんだ。そのための双翼だろうが」
確かにそこに書かれている文字はコネルの物ではない。ついつい吹き出すと、コネルは小さく咳払いして真顔に戻った。
「まあそれはそれ。報告は報告です」
「ああ、頼む」
エドワードも真顔で頷いた。
これ以上コネルを困らせても仕方が無いだろう。
「アイゼンヴァレーとランディアの国境線はアイゼンヴァレーの自治領主が守りを固めていますが、いかんせん人数が少ない」
「自治領主の軍だ。そうだろうな」
「敵に舐められては面倒ですから、ここは何とかする必要があります」
「どうするつもりだ?」
「増援部隊を送る予定です。殿下」
「軍として一部隊を?」
「いやいや。防衛部の人員増加の名目で、ですよ」
コネルの提案は良案だった。
革命軍であった現ユリスラ軍を派兵してしまうと、敵を刺激しかねない。
だから元々アイゼンヴァレーに在駐する王国防衛部の人員を増やす方が、相手を刺激する可能性を低くできる。
「ランディア側の王国防衛部員はどうしているんだ?」
「最後の戦いに参加していなかったようなので、おそらくアイゼンヴァレーと睨み合っているのでしょう」
「戦いになる可能性は?」
「小競り合いは起こるかもしれませんが、本格的に戦火が拡大するようなことは無いでしょう。なにせ利が無い」
「ないかな?」
「ありませんよ、殿下」
あっさりというと、コネルは腕を組んだ。
「大体においてランディアがアイゼンヴァレーを支配しても、鉱山一つまともに掘れないでしょう。鉱山夫達が従うわけも無い。そうなると資源が得られなくなってしまうわけですし」
「……そうだな」
アイゼンヴァレーの鉱山夫のことは身をもってよく知っている。あの彼らのことだ、力で思い通りに動かせるわけがない。
「そもそもランディアが我々に仕掛けるとしたら、オフェリル、アイゼンヴァレーを通り抜け、ファルディナからシアーズに入るか、船しか無い。あの戦いで兵士の大半が死んでいるランディアに陸上戦闘は不利すぎます」
「確かに」
その大回りでは、本当に戦わねばならないシアーズに着いたときには、部隊が崩壊している可能性が高い。
「つまりランディアは、戦力が整ってから船でせめてくるのが当然です」
「それまでにどれだけ掛かるかな?」
「そうですねぇ……四、五年はかかるかと。何しろ彼らはほとんどの戦力をあの戦いで無くしましたからね。しばらくは無茶しないでしょうよ」
「フォルヌと組む可能性は?」
「ありませんな。フォルヌと戦うと真っ先に被害を被るのはランディアですし、最もフォルヌへの敵愾心が強い自治領区ですからね」
確かにコネルの言う通りだった。エドワードとジェラルドの考えもそれで一致している。
「まあ、ランディアから見ればアイゼンヴァレーは最大の取引先ですからね。もし相手に戦いを仕掛けたら、あの頑固なアイゼンヴァレーの自治領主は宝飾品に使う宝石や金属の貿易を止めてしまうだけだそうで」
小柄な髭の自治領主カルを思い出すと、微かに頬が緩んだ。
確かに彼はしたたかな一面がある。その点は上手くやるだろう。
つまり気をつけねばならないのは、今も沢山の貴族たちを受け入れ、傭兵を雇って戦力強化を図っているという地続きの自治領区ルーイビルのファルコナー公爵の方だ。
「では問題はセクアナの防衛か」
「ええ。何しろルーイビルとの境界線が接しすぎている」
この二つの自治領区を分けるのはそれほど大きくない川と旅人の街道のみだ。そのくせセクアナの自治領区の半分をルーイビルと接することになる。
「ルーイビルに不穏な噂がありますからね。警戒するに越したことは無いでしょう。こちらの方は敵さんに戦意がある。だから偽装すること無く軍の一部隊を警護に回します」
「それがいいな」
エドワードが頷くとコネルは口元に皮肉の笑みを浮かべた。
「ま、小官が警告する前にダグラス中将当たりが動いているでしょうけどね」
その通りだった。
今まで会議室の片隅で黙って煙草を吹かしていたギルバートが顔を上げた。
「まあな」
「あの馬鹿も、その一貫で今日の会議は欠席だとか。ダグラス中将?」
「そんなところだ」
楽しげな笑みを浮かべて全員をみたギルバートの思わせぶりな表情でエドワードは気がつく。
暗殺者が襲ってきた日の夜にリッツが言った、ごろつきを仲間にする練習をやっているのは、そのためだ。
そして今リッツはまさに街のごろつき共の巣窟に足を踏み入れているのだろう。
やれやれ。今日こそは上手くいくのだろうか。
ちらりとギルバートを伺うと、笑みを浮かべて頷かれた。気にするなとでも言っているのだろうか。
実はギルバートが動いている作戦の一貫で、リッツ以外にひとり、この場にいつもいる人物がいない。
小さく息を吸い、エドワードは全員を見渡した。
「ではセクアナ、アイゼンヴァレーの軍の配置は王国軍総司令官に一任する」
コネルの顔を見つめながらそういうと、コネルはおどけたように胸に手を当てた。
「御意にございます、殿下」
「グラント、仕事が立て込んでいるのに済まないが、洗い出しの方も頼む。国王直轄の査察部動けないから色々手数を掛けるが……」
「仕方ありません。査察部は一度崩壊してしまえば立て直しに時間が掛かって当然です」
「ありがとう。グレタには急ぐように伝える」
「御意にございます。それから殿下、もう一つ報告がございました」
深刻な顔でじっとこちらを見つめてきたグラントに、頷く。
「話してくれ」
「はい。実はサラディオのルシナ家に引き取ってもらった装飾品や調度品の、代金の一部が紛失しています」
「……は?」
思いも寄らない言葉だった。
「だが管理は……」
「そうです。宰相秘書官室です」
つまりそれは……。
「政務部の秘書官室に犯人が居ると言うことか?」
「情けない話ですがそうなります」
「調べは付いているのか?」
「全く。それが悩みの種ですな」
やせこけた頬に疲れの影をうっすらと落としているグラントが大きく溜息をつく。
「こんな時に我が一番弟子がいないとは……」
そう。この場に居ないのはシャスタなのである。それどころかシャスタは今、この直轄区にもいない。
今まで黙っていたギルバートが楽しげに顔を上げてグラントを見た。
「すまないな、グラント。ヴェラの奴が革命軍の幹部から一人なら、シャスタ以外はいらないと言い張ってな」
「……本当に困りますよ、ダグラス中将」
「すまんすまん。グラントも殿下も数ヶ月我慢してくれ」
本当に申し訳なくは思っていないだろう笑顔でギルバートは豪快に煙草の煙を吹き出した。
「それになグラント。シャスタの居ない今が、裏切り者をあぶり出すいい機会なんだろ?」
楽しげに目を細めたギルバートに、グラントは小さく息をつく。
「……そうで無くてはこの忙しい時期に貴官に弟子を貸したりはせぬ」
「お互いの為だ。グラントは、年若い王太子の義弟にして天才的な手腕を持つグラントの愛弟子を面白く思っていない奴らをあぶり出す。こちらはヴェラの監督と現地の詳細な経済状況を分析できる」
そう、実は今、エドワードの兄弟と呼ばれるリッツ、シャスタの二人は、ギルバートの指示で動いているのである。
「仕方ありませんね」
深々と溜息をついたグラントが、エドワードに向き直った。
「シャスタが留守の間、秘書官室に三人ほどの増援をお願いしたいのですが、殿下」
「三人も?」
「ええ。その三人を入れることで、動きを加速できるかと」
グラントの指が、最初に示された不平貴族のリストの上を滑る。それで全員が察した。
グラントも裏切り者に仕掛けるつもりなのだと。
「許可する」
「ありがとうございます。弟子が帰ってくるまでに目星を付けておきたいので助かります」
グラントの口調には、シャスタに対する本当の信頼があった。
いつの間にか、口うるさい弟は、このグラントに信用されるだけの立派な政務官に成長しているらしい。
そして自分の保護下にあったのに、いつの間にか王国随一の剣士へと成長を遂げたリッツも……。
もしかして成長していないのは、自分だけなのかもしれない。
子供時代に早く大人になる必要に迫られて背伸びをし、その背伸びの状態のまま今も王太子という大人を演じているだけなのではないのだろうか。
ジェラルド、パトリシア。
こんなに自分がまだ成長していないと思い知らされるとは夢にも思わなかったよ。
会議の終了を告げるグラントの言葉を聞きながら、エドワードは窓の外に見える冷たい海の水面を見つめていた。




