<1>
こちらから第九巻『不軌の権謀』となります。王城を制圧し、王太子として国家の政治を動かす立場になったエドワードに、貴族たちからの刺客が次々に襲いかかります。その刺客を一斉摘発するためにギルバートとリッツが考え出した謀略とは?
よろしければお付き合いの程を宜しくお願いします。
扉を開けた途端、剥き出しの頬に未だに冷たい早春の夜風が吹き付けた。巻き上げられた少々伸びた黒髪を軽く手で押さえつつ薄明るい庭を見遣る。
いつもと同じ、静かな夜だ。
「さむっ……」
呟くと隣の友も寒さに微かに肩をすくめていた。
「そうだな」
人目が無くなった途端に風に乱れた髪を面倒くさげに括っている友に、リッツはつい吹き出した。
エドワードは基本的に長髪が好きではなく、面倒だと思っているのをリッツは知っている。だがこの国の王位継承者は、長髪が決まり事なのだから仕方が無いと諦めているようだ。
「何だ?」
「べっつに~」
「そうか。それにしても冷えるな。今年は春が遅いのかな」
エドワードの言葉にそっと目を閉じて、吹き付ける風を感じ取る。吹く風に生命の芽吹く香りが混じっていた。
「ん~、どうかな。もうそこまで来ている気もするけどな」
土の香りに混じった微かな若草の香りは、春の息吹を運んでくる。冷たいからこそ清々しく澄む香りは、どの季節よりも心地よい。
微かに感じたのは花のような甘い香りだ。
やはり春は近くまで来ているらしい。この風はきっとそれを教えに来たのだろう。
再び強く吹いた風が、人より大きな耳をくすぐる。その冷たさにリッツは身体をすくめた。まとわりつくように小さく渦巻く不思議な夜風に、リッツは心の中だけで告げた。
もうすぐ春が来るんだろう? 分かったから離れてくれよ、シルフ(風の精霊)。寒いよ。
自分にまとわりつく風の中には時折風の精霊が含まれていることをリッツは知っている。母やソフィアが言うように、リッツの周りに風の精霊が寄ってくることがあるのだ。
精霊を見られないリッツにも、何故かそれだけは感じることが出来た。母親も父親も風の精霊使いで、幼い頃はリッツの護衛に風の精霊を付けていたせいかもしれない。
そうで無くては精霊を見ることも出来ないリッツにはそれを感じ取ることも出来ないはずだ。
だがリッツは気がついている。
最近風の精霊の気配を感じることが少なくなってきた。
今晩のように季節が入れ替わるような特別な時期の風の甘さは分かるし、そこにいる気配を感じることは出来る。
でも昔のように風の精霊の存在を、そこかしこに感じることは出来なかった。
両親の庇護から離れて何年も経っているからなのか、自分の手が血で穢れてしまったからなのか、それは分からない。
おそらくこの精霊使いの力でも、精霊族の力でも無い微妙なリッツの力は近いうちに消えてしまうだろう。
そうなったら本当に両親との目に見えない何かも消えてしまうような気がしてうすら寒くなり、微かに首をすくめた。
不意に何かが突き刺さるような気配を感じて足を止める。
「どうした、リッツ?」
一歩先を歩いていたエドワードが気がついて立ち止まり振り返った。
「ん……何だろ。変な気配がする……」
再び心を研ぎ澄まし、心の中で手早く唱える。
『共に生を受けし我らの友、風の精霊よ。我が望みを聞きそれを叶えよ』
エドワードを探すときにも使う、おまじないにも似たリッツの詠唱。精霊使いではないリッツが微かに感じることが出来る不思議な力だ。
昔はかなりの精度を誇っていたのだが、今はもう本当におまじない程度の効力しか無い。
それでもこのまじないを失うことが少し怖かった。このまま人間でも精霊族でも無い自分がどこに行くのか分からなくなりそうだからだ。
力が無くなっても、空間に自分を溶かすような集中の仕方は、気配を読むことに最適だった。現に今は風の力を借りているのか、自らの集中力を極限まで高めているのか区別が付いていない。
不意に庭のある一点が気になった。
宵闇の中へ目をこらすと、冷たい夜の庭に微かな人の息づかいのようなものを感じる。
この気配……緊張感に満ちた悪意だ。
「リッツ?」
訝しげなエドワードに黙るよう僅かな仕草で示す。察したエドワードは動きを止めて微かに視線を彷徨わせる。
リッツは軍服の胸ポケットから鋭く尖った小型の飛刀を取り出し、敵に怪しまれないようにさりげない仕草で持ち上げる。
ファンの持つ物よりも一回り小さなその飛刀は、王宮に住むようになってから作らせた特別製だ。
その仕草だけでエドワードには何をしようとしているのか分かったようだ。その上で何気ない世間話のように言葉を発する。
「寒いのにご苦労なことだな」
「本当だな」
エドワードの手が、本当にさりげなく腰に吊られている剣の柄にかかる。それを確認してからエドワードに低く問いかけた。
「いい?」
「ああ」
短く言葉を交わすと、気配に向かって素早く飛刀を投げつけると、少し離れた茂みの中から悲鳴が上がった。
ついつい口笛を吹く。
「当たったぜ」
そんなリッツに、エドワードが楽しげに笑う。
「お見事」
途端に闇色の服を身につけた男たちが一斉に飛び出してきた。
「簒奪者エドワード! お命頂戴する!」
白刃が宵闇に鈍く輝く。
張り詰めた宵闇に響いた男の言葉に、エドワードは苦笑した。
「簡単に取られる訳にはいかないな」
「かかれ! 首を取り、名を上げろ!」
「……聞く耳持たず、か」
溜息をつくエドワードの前に出て、一斉に飛びかかってきた男たちを見つめつつリッツは笑う。
「エド」
「何だ?」
「下がっとけよ」
軽くいうと案の定エドワードがむくれた。
「馬鹿いうな。楽しみをお前にばかり取られてたまるか」
剣を抜いたエドワードと目が合った。王太子になっても結局騎士団の頃と同じく騒ぎ好きだ。
だがエドワードの実力なら問題はない。
「怪我すんなよ!」
「お前こそ」
軽口をたたき合い、お互いに微かに頷くと、走り込んでくる男たちめがけて駆け出す。まさか向かってくるとは思わなかったらしく、男たちは狼狽えた。
前に四人、後ろに三人、最奥に一人。こちらへ向かってきたのは合計七人だ。
エドワードの方はもっと少ない。
「動揺するな! 討ち取れ!」
最も後方にいた男の怒鳴り声が聞こえた。
だがこの至近距離だと、もう遅い。
「遅いっての」
剣を抜かずにリッツは闇を駆ける。
向かってきた男たちを目前にして、リッツは短剣を抜いた。
男たちには、何かの影が走り込んできたとしか見えなかっただろう。
だから避ける間も無かった。
もっとも、逃がす気は毛頭無いが。
リッツは短剣をひらりと舞わせるように、身体ごと回転した。
長くなった髪が微かに頬を打つ。
髪、切らないと。
「なにっ!」
目標を一瞬見失った男たちが、混乱の声を上げた。
そのほんの微かな動きの乱れが、彼らの命を縮めることとなった。
敵の一瞬のを見逃すわけが無い。
男たちの剣に触れることすらせず、リッツの短剣は寸分の狂いも見せずに、狙い通り鈍く光る。
極力軽く作られたこの短剣は、抜群の切れ味を誇る。
それは対象物が人間であっても変わらない。
手応えがあった。もうすっかり慣れてしまった人の皮膚を裂く感覚だ。
「エドを殺ろせるとでも?」
笑みを浮かべて低く告げると、何が起こったのか分からずに男たちは動きを止めた。
次の瞬間には四人の男たちが、不思議そうな表情のまま、首から血を吹き出して崩れ落ちる。
後衛の男たちが錯乱状態に陥った。悲鳴に近い怒号が飛び交う。いつどうやって殺されたのか分からない状況で仲間が死ねば当然だろう。
リッツはゆっくりと立ち上がって微笑みかける。
「何をそんなに慌ててんの?」
恐怖に絡め取られていた男たちが凍り付いたように目を見開く。
「もしかして、怖がってたりとかすんの? 俺に叶わなそうだし?」
挑発するようにいうと、怒りで男たちが顔を歪める。
「……貴様……っ」
「王太子の犬風情が……よくも……っ」
怒り狂って迫り来る男たちの目の前から、リッツは跳躍した。
「な、何っ!?」
驚愕の声を無視して、彼らの後方に付き、一息に男たちの頸動脈を断つ。
苦痛の呻きと悲鳴が静かな宵闇の中に響く。この断末魔は城内に届いただろう。
「俺の動きについてこれないと、死んじゃうよ?」
笑いかけたが、それを見ること無く男たちの目は光を失っていく。
「わん」
死体を見下ろしながら一声鳴いてみる。
「全くどいつもこいつも犬犬っていいやがって」
まあ、暗殺まがいの事をしている自分には本当はふさわしいのかもしれないが。
リッツのこの暗殺技術は、ダグラス隊やグレタに学んだ。
エドワード暗殺に攻め寄せてくる敵の数はいつも尋常じゃ無い。剣で相手にしているのでは手間が掛かりすぎる。しかも狭い場所や天井が低い場所では不利だ。
結局守る側のリッツは、常に身につけていられて、場所を選ばない短剣を選択せざるを得ない。
ここ一月の間に表立ってエドワードに不平不満を漏らす者は減ってきている。
エドワードを殺したい者は、王城に於いて少数かもしれない。
だが貴族に雇われていた傭兵崩れや、荒くれ者は、未だ金払いのいい貴族に捨て駒として送り込まれてくるのだ。
暗殺者を殺すために、暗殺者の技術を身につける。
リッツの選択したことだが、あまりに自分に適正がありすぎて嫌になる。
唯一暗殺者として適していないのは、この身長だろう。あまりにも大きすぎて隠れる場所が無い。
「リッツ!」
エドワードの声に身体ごと反応して、逃げ出す気配を追う。
一番後ろにいた指示者だ。
暗殺者達と違って、動きの遅いその男を、リッツは易々と捕まえる。
「何をするか! 放せっ!」
「駄目だね」
一人ぐらいは生かしておかねば、この暗殺集団の黒幕が分からない。
「さて、黒幕を吐いて貰おうか」
飛刀を手に男に微笑みかけると、男は突然血を吐いた。
「お前っ……毒か!」
男は捕まることを見越していたのか、毒をどこかに仕込んでいたのだろう。
消え入りそうな息の中で、男は呪うように呻く。
「……貴様らの思うようにはさせぬ……いずれ貴様らは正しき剣の前に倒れるのだ」
男が痙攣している……そう思ったら笑っていた。男は心からそれを信じているのだろう。
……黒幕は……また分からずじまいか。
男が完全に絶命したのを確認して、リッツは死体を放り出して短剣をしまった。
念のために男の身体を調べてみたが、身元が分かりそうな物は剣ぐらいしかない。
「正しき剣って、俺じゃん?」
暗殺を企て、再びユリスラを混乱に導くことの方がよほど悪だ。
「駄目だ。ごめん、エド」
返り血の一滴も浴びること無く、敵の剣を下げてエドワードの前に戻った。
「気にするな。剣は?」
「……家紋入りだよ。貴族だな」
男から抜き取ったのは、家紋入りの剣だった。
「明日、グラントに見て貰おう。要職から外した者のリストにあるかもしれない」
「そうだね」
このところ暗殺者は引きを切らない。たったひとりで襲ってくることもあれば、今晩のように徒党を組んでやってくることもある。
「七人を一度に片付けるとは、さすがだな」
そう言って笑ったエドワードの前にも、二人ほどの死体が転がっている。
「エドにいわれると褒められてる気がしないな」
「何言ってるんだ。数の上では圧倒的にお前の勝利だろう」
「まあね」
二人が肩をすくめると、後方がにわかに騒がしくなった。
この騒ぎを聞きつけて城内警備をしている近衛兵達が駆けつけてきたのだ。
「近衛兵が来たようだな」
「うん。でもどうして侵入に気がつかないのかな」
ついつい疑問を口にする。
するとエドワードが苦笑した。
「簡単なことだろう。手引きをしている者が城内にいるってことさ」
「……そうだよね……」
それをあぶり出すのはリッツの仕事だ。
「そうなんだよなぁ……」
小さく呻くとリッツは溜息をついた。
この間ギルバートにそれを告げられてから、リッツはよくこの街の盛り場に出向くようになった。
もちろん変装してだ。
そこでリッツに命じられた課題というのがまた難しかった。なんとギルバートはここで傭兵を募集して一隊を作れというのだ。
その傭兵隊に信用され、隊長になれたら合格。作戦行動に移るということらしい。しかもダグラス隊の名を一切出してはいけないという縛りもあった。
一応補佐にチノが付いてくれているが、チノも具体的に教えてくれるわけでも無い。質問には何でも答えてくれるが、そもそも質問すべき事すらよく分かっていない状況だ。
ダグラス隊の面々はリッツのことを信頼して任せてくれるが、それはあくまでもギルバートの存在があってこそだ。
あの当時、リッツが一人でダグラス隊と向き合っていたなら相手にされなかっただろう。
今まさにその現実の重さを実感している。
何しろリッツは見た目が若い。身を持ち崩したような男たちをまとめるには若すぎるのだ。
だがギルバートは、彼らをリッツがまとめ上げることは可能だという。何が必要か、何をすべきかチノの助言を受けながら自分で考えろというのだ。
今の所その課題はまるで上手くいっておらず、その代わりに暗殺技術だけが上達していく。
エドワードを守るために暗殺者を狩り出さなければいけないというのに、リッツはその為のスタートラインにたったばかりだ。
はったりって……いったいどうやるんだろう。
ギルバートははったりでは無く実力を身につけている。リッツだって剣を使うことだけは自信がある。
でも……それをどう使うというのだ?
訳が分からないままに停滞する毎日に、リッツは小さく溜息を漏らした。
「リッツ?」
「なあ、エド。もしも、もしもだよ? 街をうろついている荒くれ者をまとめて傭兵部隊を作って指揮官に収まれっていわれたら、お前どうする?」
唐突な問いかけにエドワードが目を見開いた。
「どうするといわれてもなぁ……」
「……だよね」
「金は?」
「……あんまり使えない」
最初にそれを考えたが、ギルバートに早々に却下されている。
「そうだな」
エドワードがゆっくりと顎をさすりながら口を開いた。
「俺なら、荒くれ者達が抱えてる何らかの問題を探すかな」
思わぬ言葉にエドワードを見つめる。
「問題?」
「ああ。その中でより多くの荒くれ者が困っている共通項を探して恩を着せて解決してやる」
「……恩を着せて解決……」
「そうさ。俺が今やっていることと大差ないだろ?」
リッツの頭の中に、エドワードのいった言葉の図式が浮かんだ。
荒くれ者=国民
共通項の悩み=貴族社会への不公平感・恨み
恩を着せて解決=国王になって不穏分子を一掃。
「……確かに」
頷きかけてはたと思いとどまる。
「いやいや、一緒にしたら駄目だろうが、エド」
「そうか? いつでもやるべき事は一つな気がするけどな」
あっさりとそう断じたエドワードは、駆けつけてきた近衛兵達に軽く手を上げて見せた。




