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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
争覇の終極
139/179

呑気な冒険者たちシリーズ読者さんのための争覇の終極エピローグ

「……ひとついいか、リッツ」

 話が途切れたところで目の前の相棒に尋ねる。無意識で出た声は低い。アンナたちからこちらへと向き直ったリッツは、不審そうに目を細めた。

「何だよ、そんな顔して」

 どうやらエドワードは酷い顔をしているらしいが、今はそんなことはどうでもいい。

「初めて聞いたことがいくつかあるんだが?」

「へ?」

「……お前……、シュヴァリエ公爵暗殺事件の黒幕か?」

「……あっ……」

 小さくリッツが声を上げ、それから気まずげに黙った。エドワードは溜息をつく。今の今までシュヴァリエを誰が暗殺したのかは謎だったのだ。

 ジェラルドとエドワード、ギルバートの間では、ルーイビルのファルコナー公爵家の暗殺者だろうと決着が付いていた。

「黒幕じゃねえし……」

「だが私がその日にシュヴァリエ公爵を捕らえることは分かっていただろう?」

「……それは……」

「それをみすみすグレイグに殺させるとは……」

 吐き捨てるように言うとリッツは一瞬唇を噛んで俯き、それから睨むようにエドワードを見つめてきた。

「誰にだって知られたく無い秘密がある」

 真摯な言葉にエドワードも言葉を失った。あの頃暗さを増していたリッツの瞳が、正面にいるリッツに影のように重なった。

「シアーズ派を率いてた男が、実はシュヴァリエ家の性奴隷だったなんて、そんなことがしれたらグレイグは生きていけないだろ」

「それは尋問過程で極秘裏に……」

「なるかよ。誰かが知ったらそれはどんどん広がる。そうなればグレイグは生きられなくなる。俺はそれが分かってたからグレイグに言ったんだ。エドには絶対に言わないから自分で始末を付けたいならそうしたらいいって……」

「リッツ……」

「あいつも俺も閉鎖した世界の名無し(アノニマス)だったから」

 シュヴァリエ邸に来るのが妙に遅かったリッツ。明るく振る舞いつつ、エドワードを決して見なかったリッツ。

 四十年近い時を超えて初めて知るあの時の真実。

 大陸を旅してリッツの真実を知った今だから理解できるリッツの感情。それがエドワードの心を静まらせた。

 あの当時の自分では確かに理解してやれなかっただろう。それどころか『リッツが俺に何故秘密を持つんだ、裏切るのか』と思ったかもしれない。

 自分以外の者と秘密を、痛みを共有するリッツを知れば、心が酷く痛んだだろう。

 あの頃の自分はリッツに対してかなり独占欲を持っていたと、この昔語りをしていて初めて自覚した。当時の自分はそれに気がついてすら居なかった。

 溜息をつくと、エドワードはワイングラスを傾けた。

「四十年目の真実だな。ようやくすっきりした」

「許してくれるのか?」

「過去のことを怒っても仕方ないだろう?」

「……ああ」

 あからさまにホッとしたようにリッツは蒸留酒を入れたグラスを煽った。もし昔語りをしなければ、リッツはこの秘密を墓場まで持って行ったのだろう。

 そう思うと少々寂しい気がした。

 自分はまだリッツに独占欲を持っているのだろうか。リッツのことは全部知っておきたいと駄々をこねるのか。

 今更?

 小さく息をつくと、もう一つ知らなかった事実が知りたくなった。

「それからリッツ」

「まだあるのかよ」

「グレタと愛人関係にあったんだな」

「……うっ……」

「しかも俺に秘密で、ずっと会ってたんだな?」

「仕方ねえだろう! グレイグが死んだ後、あいつは後を追おうとするし! 身体と命令で縛るしか、あいつを生かす術が無かったんだよ!」

「……縛る?」

「ハロルドの命令を守れなかったから死ぬとかいうから、俺はあいつの次の絶対的上司にならなきゃいけなかったんだよ」

 あの当時のリッツがそんなことを背負っていたなんて微塵も知らなかった。

 王太子として国のトップに立ち、いつも以上に忙しく暮らしていたから、リッツがどう過ごしていたのかを気にかけてもいなかった。

 ただ時々疲れ切って立ち止まりそうになった時や、誰かに甘えたい時はいつの間にかリッツが後ろにいた。

 エドワードから何も願わなくても分かっているかのように甘えてきたり、ふざけてきたりと、それが当たり前になってしまっていた。

 思い返せばリッツが去って数年後、グレタが査察官の職を辞した時、引き留めるエドワードにこう言ったのだ。

『大臣閣下との誓約を全て守りましたので、小官のやるべき事はもう終わりました』

「グレタ・ジレット中佐は、現在のジレット査察部総監の叔母で伝説の査察官なんですよね?」

 不意にフランツの声が割り込んできた。視線を向けると、いつもの冷静な青い瞳がじっとこちらを見つめている。

「そうだな。現在の査察官制度の礎をつくった希代の査察官だった」

 いつも通りに静かに答えるとフランツの視線が次はリッツに向く。

「つまり今の査察官制度が機能しているのはリッツが中佐の愛人だったから?」

「お前ねぇ、身も蓋もない聞き方をするなよな」

「事実だろ?」

「……まあ、事実だな。俺の最期の命令をちゃんと守ってくれたのは、ファルディナのお宝騒動で分かったよ」

 リッツがサラリとそういった。

 ファルディナのお宝騒動。それはエドワードとリッツが再会することになったあの騒ぎのことだ。

 そういえばリッツは迷い無く『査察官に知らせて欲しい』と手紙に書いてきていた。憲兵隊では無く、軍でもなく、査察官に、だ。

 国家で動乱が起ころうとしたとき、それを阻止することを第一目的として、国王、大臣、宰相の三人のみを上司として動く特殊部隊。

 軍の内部、自治領主、商人、全ての職種・貴賤を問わず、国家安泰の為に働く特殊機関。査察官はずっとそういう部隊として再結成されていた。

 グレタの手によって。

 そう思われていたのに、本当に査察部を整備したのは、大臣として何の功績も残さなかったはずのリッツだったのか。

 そしてそれが軍で実行されているかを確認するために、さりげなく書面にそのことを書き込んだ。

「お前が査察部を立て直したのか。どうしていままで……」

 愕然と聞くと、リッツは小さく呟くように答えた。

「……だって、俺がもしお前よりも前に死んだりしたら、誰が俺の代わりにお前を守るんだよ。守れる場所と制度を残さないと駄目じゃ無いか」

「じゃあ……」

「査察部はエドにとって、実務面の俺じゃなきゃ駄目だろ」

 ハッとした。そうだ。リッツはあの当時死にたがっていた。だから査察部の整備をしたのだ。

「リッツ」

 動揺はしたがいつも通りの静かな優しい声を出せただろうか。リッツは顔を上げてこちらを見上げる。

 叱られたみたいな顔をするな。アンナやフランツ、ジョーの目もあるのに。

「明日はじっくり話せそうだな」

 敢えて明るく言葉をかける。目的も無い遠乗りのつもりだったが、話したい。

 共にいた時も、離れていた間もずっと抱えてきたもの、黙ってきたもの、過去に互いを気遣い忘れたもの。

 楽しみ、喜び、寂しさ、悲しさ。

 そして言葉にならない互いの存在への愛おしさ。

 共に旅した二年間では話すことさえ出来なかった過去のあれこれを、想いをようやく話すことが出来そうだ。

「何か色々白状させられそうで嫌だなぁ……」

「お前に隠し事が多すぎるのが悪い!」

 話に決着が付きそうな時、不意にテラスから小さなくしゃみが聞こえた。誰か侵入者がいるのかと、全員がぎくりと身をすくませる。

 エドワードの正面に座っていたリッツが、反射的にエドワードを庇い護衛用に置かれていた安物の剣を手に取る。

 だがテラスの隙間から顔を覗かせたのは、想像もしない人物だった。エドワードは意外すぎるその姿に我が目を疑った。

「あらら。最後の最後で見つかっちゃったわ」

 寒さで鼻の頭を真っ赤にして、冬物の厚いコートの上に幾重にも巻き付けたマフラーに埋もれるように、いたずらっぽいアメジストの瞳が笑っていた。

「パティ!?」

 リッツと同時にその名を呼ぶと、パトリシアは何事もなかったかのように、テラスの扉を開けて中に入ってきた。

「そうよ。持久戦の覚悟を決めては来ていたけど、なかなか冬の庭は辛いわね。騎士団一の精霊使いも焼きが回ったものね」

「それは君……何年前の話だと思っているんだ?」

「さぁ? 過ぎ去った時間なんて忘れたわ。アニー、暖かな紅茶をちょうだい。ショウガの蜂蜜漬けも入れてね」

 堂々とした足取りで中に入ってきたパトリシアは、慌ててコートを受け取りに走ったアンナとジョーにマフラーと手袋を手渡すと、分厚いコートを脱いだ。

 下から出てきたのはやはり防寒用の軍用防寒着で、それを脱いでもまだ防寒着が出てくる。

「……玉ねぎみてぇだな……」

 リッツの呟きに苦笑する。確かにいつもからは考えられないほどパトリシアは着ぶくれていた。脱いだ服を受け取るアンナとジョーも目を丸くしている。

「ああ、寒かった。盗み聞きするのは久しぶりで体に応えるわ」

 最後の防寒着を脱ぐと、昔のようにただ束ねただけの長い亜麻色の髪がさらりと揺れた。

『エディ、リッツ!』

 遠い日のパトリシアが、苦痛の中から一瞬垣間見せた笑顔で振り返った、あの光景が現在と重なった。目の前のリッツも息を呑んでいる。

 永遠に分かれてしまうのかと思っていた。もう二度とパトリシアは帰ってこないのでは無いかと思った。

 でもあの瞬間、彼女はもう一度二人の元に返ってきてくれるのだと分かった。リッツもそうだったろう。

 本当に俺たちは似たもの同士だ。苦笑しつつエドワードはそう思う。あの頃、二人ともがパトリシアに心惹かれていた。

 思い出に引きずられる男二人など構うでもなく、全てをアンナたちに渡したパトリシアは、赤々と燃える暖炉の前で手をこすり合わせた。

「あ~さむっ!」

 思い切り素のパトリシアに我に返った。何のためらいもなく自分の行為を盗み聞きだと断言しつつ、暖炉に当たる妻が分からず、困惑しつつも声をかけるしかない。

「どうしたんだい、パティ?」

「明日アンナとジョセフィンと買い物に行くの。だから今晩はここに泊めてもらおうかなってね。いいかしら?」

 笑顔で宣言するパトリシアに、紅茶を運んできたアニーが飛び上がる。

『お部屋は一つしか掃除をしておりません……』

「大丈夫よ、何とかなるわ」

『でも大公陛下が……』

「うふふ。それもきっとなんとかなるわ」

 紅茶を手にしてアニーを見送ったパトリシアは意味ありげにこちらを見て微笑んだ。これは何かを企んでいるようだ。

 彼女は当然のように、一番暖かいアンナとジョーのいたソファーに座ろうと優雅な動作で歩き出す。

「すぐに中に入ればよかっただろ? もう若くない……」

 リッツが禁句を最後まで言い切る前に、リッツの横を通りすがりがてら、パトリシアは頭にげんこつを落とす。我が妻ながら鮮やかだ。

 痛みにもがくリッツを尻目に、パトリシアは温かな紅茶を口にする。

「いてぇよ、パティ!」

「ほほほほ。熱い紅茶をかけた方がよかった?」

「嫌だ!」

「じゃあ我慢なさい。レディを年寄り扱いするなんてもってのほかだわ」

「……悪かったよ」

 口でリッツがパトリシアに敵うわけがない。むっすりと黙り込んだリッツは、パトリシアのためにか、エドワードの正面の席を空けて、アンナの隣に陣取った。

 でもパトリシアは暖かな暖炉前から離れようとしない。

 平気そうな顔をしているが、相当寒かったのだなと分かって、ほほえましい気分になる。

 結婚をして共に暮らすようになって三十七年になるが、時折見せるこのパトリシアの正直ではない態度が可愛らしく見えてしまう。

 渋々エドワードの正面に戻って来たリッツが、溜息交じりにエドワードにグラスを差し出す。それにワインを注いでやった。

「それで何を盗み聞きしていたんだい?」

 穏やかにエドワードは話を振る。暖炉に当たったままのパトリシアは、振り向きもせずに答えた。

「土曜日の会合よ。昔語りをしているんでしょう?」

「ならば君も参加すればいいだろうに」

「駄目よ。私がいたらエディもリッツも正直に話さないことが多いんじゃなくて?」

 くるりと振り返ったパトリシアの瞳に微かに漂う非難の眼差しで言葉に詰まる。見ればリッツも同様で、何ともいえぬ表情でパトリシアを見ていた。

「あの頃、若いあなたたちが正直にどう思ってたのか知りたかった。それに今晩当たり、お父様の話をすると、アンナに聞いて分かっていたし」

 リッツが小さく身を強ばらせた。エドワードも黙ってワイングラスを傾ける。

 あの時、二人は何もできなかった。いや、何もさせて貰えなかった。

 それは未だに二人の中で後悔に繋がっている。

 結婚した後、エドワードとパトリシアは飽きるほどジェラルドの話をしたが、実はあの日の事だけは一度も話していない。

「過去のことなのに、何を困ってるの」

 二人の微妙な後悔に気がついているのか、パトリシアの表情はあくまでも柔らかい。

 肩の力を抜くリッツ同様、気付かずに握っていた拳の力を緩めた。

「あの時私、リッツを責めたわね。リッツ以外に当たれる人がいなかったんだもの。でも一番苦しかったのは、私があの場にいなかったことなの」

「パティ……」

「お父様の最期の言葉が聞きたかった。ウイリアムのために守りたかった。でも私がいたら更に酷いことになっていたって、アリシアに言われたわ」

『私には私の、お前にはお前のやるべき事がある。果たすべきを果たせ、エドワード!』

 あの時のジェラルドの声が甦る。

 果たすべきことを果たせたのだろうか、俺は。

 あの時一度ならず、二度までもスチュワートを殺せなかった。スチュワートを断罪したのは他でもない、アンナだった。

 ジェラルドが望んだ果たすべきことを、果たせたのだろうか。

 そんな考えを見透かされたのか、パトリシアの口調が明るくなった。

「なーんて、それは口実よ。王宮からよそにお泊まり、楽しいじゃない?」

 あの重い話を、リッツとエドワードの苦悩を聞いてしまったから敢えてそれを言わずにいてくれるのだと分かった。

「珍しいな」

 こちらも明るく口にすると、パトリシアは目を細めて笑う。

「ええ。あなたと違ってねエディ」

「それは……そのだな……」

 しどろもどろのエドワードに向かって、パトリシアはふいっと顔を背ける。まるで妹と兄として過ごしていた頃のように。

「今日も泊まって、明日は遠乗りですって? 失礼しちゃうわ。妻を何だと思っているのかしら」

「すまない」

 パトリシアは、旅に出たきり便りも出さずに世界を巡っていたエドワードに、たまに恨み言を言う。やはり一年以上も城を開けるなら、何らかの連絡手段を確保しておくのだった。

 苦が虫を噛みつぶしたようなエドワードの表情に気がついたのか、パトリシアは肩をすくめて笑った。

「冗談よ、冗談。いえ、愚痴かしら?」

「愚痴……」

「そうよ。私だっても街を歩いてみたいわ。買い物して遠乗りだってしたいもの。でも遠乗りはちょっと久しぶりすぎて怖いから買い物で十分。それでもちょっとした冒険だわ。そうでしょ、リッツ?」

 嬉しそうに微笑むパトリシアに、リッツが柔らかな笑みを浮かべた。パトリシアには今も恋愛では無くとも愛情があるのだろう。

 小さく息を吐きながら周りを見ると、笑みを浮かべてパトリシアを見ているリッツを、口をとがらせてみているアンナに気がついた。

 視線に気がつかない恋人に業を煮やしたのか、現在のリッツの恋人は、リッツの耳元にフッと息を吹き付けた。

「なっ……」

 耳を押さえて飛び上がったリッツが、むくれたアンナにようやく気がついて目を見張る。

「あ、アンナ」

「パティ様にみとれてたでしょ……?」

 上目遣いに睨むアンナに、リッツはたじろいだ。

「パティ様綺麗だもんね。私なんて目に入ってなかったもん」

 アンナは頬を膨らませてそっぽを向く。そんな恋人の嫉妬が嬉しいのか、リッツが笑み崩れた。年下の彼女に想われている実感があると、途方もなく幸せなのだそうだ。

「馬鹿。お前の方が綺麗だって」

「またお世辞ばっかり」

「違うって。俺は本気でそう思ってるさ」

「……どうだかなぁ……」

「怒るなよ。愛してるって、アンナ」

「ホントかなぁ~」

 頬を膨らませたアンナに嬉しそうなくせに口調だけ弱るリッツ。二人をほほえましく眺めていると、同じように見ていたパトリシアが笑った。

「アンナったら、本当にリッツが好きよねぇ。リッツって、本当に天然の人たらしだものね」

 思いがけない言葉に、アンナが目を丸くしてパトリシアを見つめる。

「人たらしって、何ですか?」

「リッツってこういう性格でしょ? 本当のことを知らない人からすれば明るくて接しやすいし。意外と色々な人に慕われてるのよね」

「何を言い出すんだよ」

 パトリシアの意図が分からず困惑するリッツに説明も与えず、パトリシアは言葉を続けた。

「みんなと平等に接してるように見えて、その実、すっごい人見知りなの。完全に心を許した相手にだけ、ものすごく素直で、ものすごく懐くのよね。それが犬たるゆえんだけど」

「犬って言うなよ」

 不本意そうに眉をしかめるリッツだが、その性格は昔と変わらない。パトリシアだってそれを知っているからからかうのだ。

「まぁ、元来の甘え上手なんでしょうね」

「確かにリッツって、甘えっ子ですよね」

 元想い人の言葉を、あっさり現恋人アンナが肯定する。

「おいおい!」

 冷や汗を掻くリッツに、パトリシアが容赦なく言葉を浴びせている。

「でしょ? その上昔は、黙って遠くを見ていれば謎めいた美少年みたいだったわよ。口を開いたら台無しだったけど」

「美少年? 見た~い!」

「見せてあげたいわよアンナ! あの頃のリッツとアンナなら、ものすごく似合いのカップルよ? こんなにごつい傭兵じゃ無かったし!」

 アンナの視線にリッツが思い切りたじろぐ。

「パティ! やめろよ!」

「本当のことでしょうに。顔はいいくせに態度のでかい剣士に、純粋無垢で信じ切った顔を向けられて無邪気に笑われたら、大抵の人間は落ちるわよね。守ってやりたいって思うのよね」

 ため息混じりにそういって、パトリシアは肩をすくめた。ひたすらリッツの分が悪い。

「……お前、俺になんか恨みでもあるのかよ?」

「あなたは黙ってなさい」

 きっぱりと言われてアメジストの瞳で睨まれたらリッツはエドワード同様黙るしかない。二人にとってパトリシアは最強の女性なのだ。

「……へい……」

「それなのにリッツ本人と来たら、それにも全く気がつかないの。大切だと思われていても信じれないのよ」

「分かります! 私、いつも大好きをいっぱいリッツにアピールしてるのに、リッツったら『俺の事、好き?』とか『ちゃんと俺を愛してるよな?』なんて、本当に大真面目に聞いてくるんですよ? たまに怒りたくなります。『私の気持ち、ちゃんと伝わってるかな』って不安になりますもん」

 アンナがしみじみと頷いた。

「アンナっ!」

 恥ずかしさに真っ赤になりパトリシアを止めようとしたリッツだが、凄まれて動けない。長年離れていても、リッツはパトリシアに敵わない。

「アンナなら分かると思った。だってリッツが本当に懐いてるのって、アンナとエディだけだもの。ねぇ?」

「……別に……そういうわけじゃ……」

 口の中だけでぼそぼそと反論しているリッツを見ていて、何だか嫌な予感がしてきた。この火の粉、こちらに飛び火してきそうだ。

 リッツを無視して、パトリシアは肩をすくめた。

「世間的にリッツはエディに懐いていて、リッツがエディを大好きに見えるじゃない? でも現実はアンナと同じよ」

「え? 私と?」

「そう。リッツがエディを好きだとしたら、アンナと同じくエディはリッツをその倍以上は好きなの。つまり、妙な感じに片想いよね」

 その物言いが妙にはまっていたせいで、飲み込みかけていたワインを吹き出しそうになる。慌てて飲み込むと咳き込んでしまった。

 気管にワインが入って呼吸が苦しい。

「あらあら、動揺してるのね、エディ」

「ち、ちがっ……」

 否定したくても咳が止まらない。

 雪が降り出してから、妙にリッツのことばかり考えていたからどうしようもなく狼狽える。

 更に今日の話が追い打ちをかけていた。

 あの頃のリッツがエドワードに全て支配されたいと望んでいたなんて話を聞いて、これを暴露されたらこれからどんな顔してリッツを見ればいいんだ?

「リッツがいなくなったばかりの頃は、ずっと迷いに迷っていたわよね。本当に旅立たせてよかったのか、ずっと手元に置いておくべきだったのかって。ねぇエディ?」

 パトリシアに笑みを向けられたが、半ば涙目でむせながら睨む事しかできない。視線の先にいるリッツが、動揺しているのが分かった。

「……エド?」

「正しかったのか、間違いだったのか。ずっとエディは自分に問いかけてた。夜中にあなたの名を呼んで飛び起きたこともある程よ」

「パっ……」

 これ以上は言わないでくれ。そう思ったがパトリシアはそれを分かっていつつも言葉を切らない。

「あいつ、無事かな? 生きてるかな? って、寝てる私に聞かれても知らないわよ」

「うそだ……」

 リッツからみるみる血の気が引く。それはそうだ。リッツはエドワードが迷い悩んだことを知らない。

「リッツがいない三十五年の間、エディはいつも張り詰めてた。どことなく緊張感があって、たまにその緊張感が伝わってくるほどだった。相談相手なら私やシャス、コネル、グラント、ジェイムズもいたけど友はあなただけだったものね、リッツ」

「何で……だってみんないるのに……」

「あーら、あなたみんなと自分が同一にあると思っているの?」

「……それは……」

 リッツの表情が暗く沈んでいく。リッツはもう十分に後悔している。だからこれ以上責めないで欲しいと願うも、パトリシアは言葉を切らない。

「政治や経済、社交界や貴族の問題に関しての相談は受けても、エディは私たちの前ではいつも、悩みなんてありませんみたいな顔で、穏やかに微笑んでいるのよ。リッツ以外には決して自分の弱さを見せない人だものね。だから私もシャスも、リッツのいないエディに痛々しさを感じてたわ」

「パティっ……」

 むせつつも必死であげた制止の声をきっぱりと無視して、パトリシアは言葉を続ける。

「そんな中で唯一私にいう愚痴と言えば、リッツの事ばっかりよ」

「……愚痴?」

 訝しげなリッツに、パトリシアは小さく息を吸い込み、眉間に皺を寄せて姿勢を正した。しかもその眉間を揉んでいる。

「リッツが欲しいのは一緒に時間を過ごせる人で、それは俺じゃないから帰ってこないんだ。俺はあいつだから大切に想っているのに、あいつは分かってくれない」

 ものの見事にエドワードをまねてパトリシアはそう言い切った。さすが夫婦、よく見ている。いや、感心している場合じゃない。

「なんてぶつぶつ言いながら、いじけて深酒してたわよね」

「……嘘だ……」

 リッツが青ざめた顔で首を振っている。帰ってきてから今の今までずっと明るく接してきたリッツには信じられないだだろうが、それは事実だ。

 それにまさかエドワードがそんな風に一日千秋の思いを抱えて待っていたと知れば、リッツはますます萎縮してしまい、昔の仲間に遠慮がちになってしまうに違いない。

 そう思ったからエドワードだって言うつもりは無かった。

「嘘でこんなこと言わないでしょ。ねぇ、エディ?」

「ぱ、パティっ……」

 咳き込みながらなんとかパトリシアを制したが、パトリシアは一向に気にせずに肩をすくめて見せた。

「あなたがちゃんと言わないから私が言ってあげるの。いくらリッツが大切だからって、苦しめないように守って守って。それで自分が苦しかった三十五年を墓場まで隠して持って行ってどうするのよ。ねえ、アンナ?」

 振られたアンナも深刻に頷く。

「そうですよね。全部話して、お互いをぶつけて理解し合う。それでこそ親友ですよね。ね、ジョー?」

「うわぁ……この状況で俺に振らないで~」

 フランツの影に隠れてジョーが身を縮める。元王と元王妃と元大臣の間に入りたくないのだろう。フランツも同様で溜息交じりに視線を戦史の本に落としている。

 状況を誰よりも考慮するはずのパトリシアの追求で、徐々に彼女がここに来た目的が読めてきた。彼女は未だエドワードとリッツの完全に打ち解けられない何かが歯がゆくてしようがないのだろう。

 だからそれを打破しに来た。自分が割って入るという乱暴な方法で。でもそれはエドワードにとってもリッツに取ってもきつい。

「エディは、どれだけ苦しくて、どれだけ辛くて、どれだけ寂しい想いをしたのか、分かってるのかって、リッツを殴る権利があるはずなのに。私から見たら馬鹿みたいよ」

「頼む……頼むからパティっ……」

 未だむせながらパトリシアに黙っていてくれと仕草で頼み込む。でもパトリシアは言葉を止めない。

「それとも親友にそんな情けない姿は見せたくない?」

「そ、それは……」

 図星だ。

 リッツが虚勢を張るのと同じく、エドワードだってリッツの前では昔と変わらぬ親友でありたい。だから昔通りの自分でいる事を、あえて心がけてきたのだ。

 痛みも苦しみも、流した涙も全て隠して。

「リッツ相手に何の虚勢を張っているの、エディ」

 ものの見事にとどめを刺されて一言も発せない。

 確かにリッツがエドワードの元を去ってから、かなり無理をしてきたことは事実だし、最初の十年はパトリシアの言うとおり、帰ってこないリッツに悲しみ、時に腹を立てたこともあった。

 でも徐々に諦めというか、静かな観念のようなものができてきて、自分なりにリッツのいない時間を消化できるようになっていった。

 昔を懐かしみ、心の中だけにしかいなくなった友に、迷い、悩むことを問いかける。それだけでも友と出会わなかった自分と比べれば安定して、穏やかに王位を努めてこられたと思っていたのだ。

 それをパトリシアはどうやらずっと痛々しいと思っていたらしい。パトリシアにずいぶんと相談したし、シャスタに愚痴も言ったつもりなのだが、どうやら二人はそう受け止めていなかったようだ。

 確かにリッツの不在に一人ため息をつくことは多々あった。綺麗に隠し通していたと思ったのに、どうやら見透かされていたらしい。

「リッツが帰ってきたとたん、ものすごく嬉しそうに私に笑顔を向けるようになったのよ。リッツがああだった、こうだったって。子供ですかって言いたくもなるわ。旅から帰ってきてからは、そんな話ばかりしているわね、エディ。私、リッツと再会してから旅を終えて帰るまでのあなたとリッツのことをたぶん全部話せるわ」

「……うそだ……」

 リッツが呆然と呻く。

「全部日記に書き留めたから、エディ目線で貴方たちの冒険譚を書けるぐらいよ」

 それは知らなかった。

「三十五年もあなたを支えた妻は、私なのにね。久々にリッツに嫉妬したわよ」

 ため息混じりのパトリシアに、返す言葉も無く、小さく未だ止まらない咳を繰り返していると、アンナが深々とため息をついた。

「分かります。リッツもすっごく嬉しそうに、エドさんの話をしますもん。エドさんよりも好きになっては貰えないかもって、思うこともあるし……」

 アンナの言葉にリッツが焦る。

「お前まで何を言い出すんだよ、アンナ!」

 だがパトリシアとアンナは、二人で同じように膝に肘を付いて、両手のひらの上に顎を載せたポーズをとり、揃ってため息をついた。

「でしょ? この二人の場合、何かあったら絶対に妻よりも親友を選ぶわ。そういえばアンナ、エディに『人を一人救うのに、もう一人の人生がいる』っていわれたことがあるのよね?」

「はい」

「もしも国王の座がなかったら、エディは絶対に自分の人生をリッツにあげてたわよ。お前のためなら何もいらないってね」

「まてまてまて!」

 そこまではない……つもりだ。だが女性陣はかしましく騒ぎ立てる。

「ええっ! そしたら私、エドさんに敵わないじゃないですか!」

「そうよ。片想いの世界へようこそ、アンナ」

「ちょっと嫌です~!」

「でも事実よね、エディ?」

 すべてを暴露されて、どうしようもなく顔に血が上っているのが分かった。それに当然気がついているパトリシアは、いつもの完璧に綺麗なほほえみでこちらを見遣った。

「あら、違う?」

「……」

 思い切り言葉に詰まる。

 違うともいいきれないが、そうとはいえない。固まったのはエドワードだけではなかった。同じように固まりきっているのはリッツだ。

「……エド……パティの冗談だよな?」

 恐る恐る尋ねられた。そんなリッツの態度に、パトリシアの言葉には正しい部分もあると認めざるを得ない。

 リッツは自分の存在価値を自分で認められず、エドワードにとっての友という存在がどれだけ大きいかそれすら自覚していないのだ。

 アンナに何度も『俺のこと好き?』などと分かり切った質問をしてしまうのと同様に。

 エドワードはふいっと顔を逸らし、深々とため息をついて眉間を揉んだ。

 全員の視線が痛い限りだが、ここまで来て笑って誤魔化すのもおかしいだろう。たった一度のことだ、隠していたことをばらしても差し支えないだろう。

 そう、ここに居るのは年も経験もバラバラな人間たちだが、皆が仲間でもあるのだから。

 覚悟を決め、小さく息をつきぽつりと呟いた。

「お前が悪いんだぞ、リッツ」

「えっ? ええっ?」

 全く分からずにおののくリッツを見ていて覚悟が決まった。こいつは言わないと分からない男だ。自分のためにも、そして今後関係を深めるであろうアンナのためにも言わねばならない時なのだろう。

 だが正面から顔を見つめて、隠していた弱さを言い切る勇気はない。

 視線を暖炉に向けて口を開いた。

「普通、三十五年も帰ってこないものか? 俺はお前をずっと待っていたんだ。最初の五年はまあ無理だろうと思っていた。それぐらいでお前が強くなるとは夢にも思えないしな。でもそれが十年、二十年となれば、俺だってお前にもう二度と会えないのかと不安にもなる。それなのに三十五年だぞ?」

「あ、あの、エド……」

 戸惑った声にも顔が上げられない。目を見てしまえばもう何も言えない。誤魔化して何事もなかったようにしてしまう自分を十分に分かっている。

 だから吐き出すように言葉を繋いだ。

「鏡の中の俺は歳をとってく。気がつけば老年だ。でもお前の姿は変わっていないだろう。年を食って死んでいく俺なんぞ、お前にとって無価値だったんだろ? 所詮俺はお前にとってその程度の存在か。約束したくせに、俺が死ぬ時傍にいないのはどういうことなんだ? 俺は友に……見捨てられたのか。ずっとそんなことを悶々と考えていた」

 リッツの顔を見ずに一息にそう言いきった。これが三十五年を経てようやく口にしたエドワードの本音だった。

 本当ならば再会した時にそう言って怒鳴りつけて殴ってやりたかったのだが、あの状況でいえるわけもない。

「エド……あの……」

「なのに人の気も知らずお前って奴は。俺の唯一無二の友だろう? 帰ってくると信じたから何も言わず送り出したんだ。答えをみつけられなければ共にみつければいいと思っていた」

「エド……」

「お前を王宮の化け物にする気は更々無かった。俺という存在の檻に縛り付けたくなかった。だからお前を手放したんだ。でもお前は帰ってこないどころか、便りすらよこさない」

「……ごめん」

「英雄だ何だとおだて上げられても、俺だって、愚痴ぐらいこぼしたいし、甘えたい時もある。なのにお前が居なかった。三十五年は本当に辛かった。手紙の中の元気な俺なんて、みんな空元気だ」

『リッツ元気か? 俺は元気にやっている……』

 いつもそう書きだした手紙。歯ぎしりしながら書いたことを、お前は知らないだろう。

「無意識にお前がいた左側を見ては、不在にため息をついてた。俺の友なら、さっさと帰ってこい馬鹿野郎」

 一息に言い切ると、かなりすっきりした。どうやら自分の中でもわだかまっていた部分はあったらしい。

 こうなると自分以上にエドワードを知っているパトリシアの存在のすごさが身に染みる。

 顔を上げると幼い仲間たちが目に入った。フランツは本を捲る手を止め、完全に硬直したように動かないし、ジョーは俯くようにして目だけでこちらを伺っている。

 アンナは静かにリッツに視線を注ぎ、目の前に身動きできずに俯いたまま、震えて固まっているリッツが目に入った。

 だがあえてそれら全てを無視してパトリシアに話しかける。 

「これでいいかパティ。全部ぶちまけてやったぞ」

 苦笑しながら告げると、一瞬だけ寂しげな表情をしてから、パトリシアは大きく息をついた。

「すっきりしたわ」

 満足げな微笑みを浮かべたパトリシアに、エドワードも肩をすくめる。

「エディを見ているともどかしくって、一度リッツにガツンと言ってやらなくちゃってずっと思っていたのよ。本当にチャンス到来だったわ、今晩は」

「……そうか」

「ええ。お互いに腫れ物に触るような目をして背中を伺うのは、もうやめてちょうだい」

 どうやらエドワードの微妙な心の揺れに、パトリシアは気がついていたようだ。

「本当に君が一番怖いな、パティ」

 しみじみとため息をつくと、パトリシアは楽しげに笑った。

「あなたを一番よく見ているのは誰だと思って?」

「……君だな……」

「そうよ、私よ。物心ついた時からずっとエディを思っているんですもの」

「そうだったな……」

「そうよ。年期が違うわ。お忘れ?」

 穏やかなパトリシアに、残っていた愚痴がこぼれた。

「言わねばと思っていたが……機会を完全に逸してしまってな。このまま死ぬまで黙っていようと思っていたが、気が楽になった」

 肩の力を抜いて笑うと、パトリシアも昔と同じように笑みを返してきた。やはり彼女は最強だ。エドワードにとってもリッツにとっても。

「本当に周りが見えない男ね、リッツ。人をたらし込むなら、ちゃんと責任取りなさいよね。エディにしろ、アンナにしろ、あなたが思う以上にあなたを想っているんですからね」

 パトリシアに言われて、リッツががっくりと肩を落とし、両手で顔を覆った。自分の愚かさを心の中で振り返りつつ、自分を責めているのだろう。

 別にリッツを落ち込ませるために言ったのではないから、軽くフォローしてやる。

「まあ、それぐらいで許してやれ、パティ。私はとっくにこいつを許しているんだ。再会した時に、アンナとフランツの前でお前、泣いてたもんな?」

「うわっ、そ、それは……っ!」

「おっと、アンナとフランツには秘密だったか?」

 会いたかったんだ、エド。

 寂しかった。辛かった。

 ……ずっとそばに戻りたかった。

 言葉になどならなかったが、リッツの顔にはそう書かれていた。その時に思ったのだ。

 お前が帰ってきてくれただけで、謝罪も、償いも、何もいらない。いてくれるだけでいい、と。

 ああ、パティ。

 やっぱり俺は多少おかしいんだな。普通の大人の男なら、友にこんな感情を抱かない。パトリシアの冗談が冗談になっていないじゃないか。

 そんな複雑な感情をごまかすために、軽く肩をすくめて笑ってみせる。

「君もリッツがいなくて寂しかった口だろう? 確かに私も落ち込んだが、私以上に怒って落ち込んで、泣いて悲しんだのは君だからな」

「……だってあんな風に関係を気付いてきた仲間が帰ってこないのよ?」

 言葉も無いリッツに、パトリシアは静かに微笑んだ。

「本当に馬鹿な人ね、あなたは」

 その声にかすかな愛おしさが混じるのを、確かにエドワードは聞いた。パトリシアにとってのリッツは、恋愛感情ではないが確かな愛情で結ばれた特別な相手ではあったのだ。

「リッツは自分が大切にされている感覚とか、愛されている感覚を受け止められないのよね。だからエディが、倍の愛情をリッツに注いでた」

 そういうとパトリシアは眼を細めた。少なくなってきた暖炉の燃えさしがコトリと音を立てた。それほどに静かに夜が更けていく。

 誰もが黙りこくる中で、エドワードは口を開いた。

「……リッツ」

「……何?」

「覚えておけ。あの頃から見れば俺たちはずいぶんと変わっただろう。見た目も立場もだ。だがな、俺たちの想いだけは何も変わっていない」

「……エド……」

 言葉に詰まるリッツを置き去りに、エドワードは深々とため息をつき、新しいワインをグラスに注いでから、静かにグラスを傾けた。

 エドワードに残された時間は、空白の三十五年より短いと分かっている。その時間をリッツと、リッツを愛して共に生きると決めたアンナと共に大切に過ごしたい。

 エドワードにはまだ、この身をもってリッツに教えなければならないことが一つだけある。

 それは人は死んでもなお、心の中でずっと生き続けるのだと言うこと、そして心の中に大切に仲間の心を持ち続ければ、決して一人になることはないのだということだ。

「誓え」

「……何を?」

「俺が死ぬまではここにいると」

 短く告げると、リッツは不安そうな顔で頷いた。

「……ああ」

「許可無く、俺たちの元から離れることは、二度と許さんからな」

「分かってる」

 伺うように見るその瞳は、やはりまだエドワードが先に死ぬことを認められていない。恐怖が深々とリッツの中に根付いている。

 だから死ぬまでの間、離れないという誓約に未だ動揺するのだ。

「またそんな顔をするか、お前は。仕方ないな、今日はアンナの代わりに私が頭を撫でてやろう」

「へ? 何で?」

「片付いている客間は一つだ。それはパティに譲らねばなるまい?」

 冗談めかして聞くと、アニーが再びしゅんと身を縮めた。

『ごめんなさい。お布団も干してないし……それにあの、神殿からお預かりした書籍の修繕に一部屋つぶしていて……ああ、今日が雪じゃなければ……』

「私はどこでもいいんだ。旅慣れてる」

 あっさりとそういうと、アニーは申し訳なさそうに身を縮めた。

『明日のお弁当は豪勢にさせていただきます』

「期待している。というわけだから、お前は俺に付き合え」

 アンナの隣のリッツに笑いかけると、リッツは不審そうに眉を顰めて首を傾げた。

「何に付き合うんだ?」

「頭を撫でてやると言っただろ? この辺に一緒にごろ寝だ。明日は早いしな」

「ええっ!?」

「お前に拒否権はない。昔はよくそうしていただろ?」

「部屋にごろ寝はあったけど、頭は撫でられて寝てない!」

「おや? そうだったかな」

「当たり前だろ!」

 むくれるリッツはやはりあの頃と同じように若く、時の流れはこれからも残酷に友と自分を引き離していくだろう。

 分かっている。今度リッツと長く離れる時があるとしたら自分が死ぬ時だ。

 その覚悟はできている。

 でもリッツはそんな覚悟はまだできないだろう。

 死ぬ時に後悔したくはない。そして友の記憶の中の自分が、リッツの後悔に彩られていたくはない。

 だからもうリッツが作り出した、強い親友像を保ち続けなくてもいいのだ。パトリシアがそう教えてくれた。

 いずれにしろリッツ相手に格好付けていても仕方がないのだから、なるように残された時間に身を任せてみるのも一興だろう。

 もう王太子ではないし、国王でもない。

「決めたぞ。これから死ぬまで、嫌と言うほどお前を可愛がる」

「はっ!?」

「どうやらお前はそこまでしないと私やパティの思いが分からないらしい」

「いや、分かったって! 十分分かりました!」

「嘘をつけ。これでお前もそんな辛い顔をしていられんだろう?」

「何言い出した、エド!」

「覚悟しておけ」

「い、嫌なんだけど?」

「拒否権はないと言ったはずだ」

「益々嫌だ! パティ、こいつ酔ってる! 絶対酔ってる!」

「おほほほほ、どうかしら?」

 酔っている? そういえばもうワインが五本ばかり空いているような……。

 昔に比べて、弱くなったものだ。

「はいはいはいっ!」

 アンナが唐突に手を上げた。

「何だねアンナ?」

「じゃあエドさん、いっそ三人で寝ます? リッツを挟んで右と左に!」

「ほう。それは面白そうだ」

 冗談めかしてリッツを見ると、リッツが悲鳴に近い声を上げた。

「やめろ! 何を考えてんだアンナ!」

「ええ~? だってリッツのベット広いよねぇ? 二人で寝ても余裕だもん」

「だからって何でエドまで一緒のベッドだ?」

「だって、エドさんもリッツのことが大好きなんだもん。いいんじゃないかなぁ?」

「よくない! 断じてよくない!」

 必死で抵抗するリッツに、パトリシアが吹き出した。

「いいじゃないの。左右からいい子いい子してもらいなさいよ。二人ともあなたがこの世界で完全に心を許した、たった二人きりの大切な人なんだもの。癒されるわよ?」

「アホか! 眠れねえよ!」

 頭を抱えたリッツの心からの叫びに、フランツが小さくため息をついた。

「いつまでもやっててください。僕はもう寝ます」

 本を抱えて立ち上がったフランツに、ジョーが慌てて立ち上がる。どうやらこれ以上巻き込まれてはたまらないという判断だろう。

「あ、あたしも! みなさんごゆっくり~」

 さっさと出て行ったジョーの後を、アンナが慌てて追う。

「待って待って! 明日の打ち合わせまだだよ! リッツ、今日は自分の部屋で寝るから、エドさんとベットで寝てね! お休みなさい!」

「待ってくれアンナ! 嫌だって!」

 扉が閉じられると、不意に談話室に沈黙が訪れた。図らずもリッツ、パトリシア、エドワードの三人だけが取り残される。

「リッツ」

 気まずそうなリッツの前に、パトリシアが立った。一歩引いて逃げ腰になるリッツに、パトリシアが手を伸ばす。

 戸惑うリッツに両手を伸ばしてパトリシアは竦んだままのリッツをぎゅっと抱き寄せた。

「え……パティ?」

「あなたが帰還してからずっと大騒ぎだったから、あの時から一度も、ちゃんと言ってなかったわよね?」

「……何を……?」

「お帰りなさいリッツ。三十五年は長すぎる旅だったわよ」

 心の底からの、愛情を込めたパトリシアの言葉だった。リッツの表情がみるみる歪んでいく。

 これは昔よく見た、泣き出す寸前の顔だ。

「パティ……」

「ほら、ただいまのキスは殿方からするものよ? そんなことも忘れたの?」

 微笑むパトリシアの頬に、リッツが伏し目がちに、おずおずと身をかがめて唇を寄せる。その姿に、モーガン邸でアリシアの頬に不器用なキスをした、昔のリッツの姿が重なった。

 不意にリッツは、傭兵をしていた三十五年の間にすっかり逞しくなったその腕で、自分を抱きしめたまま微笑んでいるパトリシアを、力をこめて抱き返した。

 指先が微かに震えている。

 リッツがこうしてパトリシアを抱きしめるのは、本当に三十五年以上無かったことだろう。

「ただいま……。ごめん、パティ」

 リッツの声はか細く震えていた。

「反省したら、もう二度と私たちを辛い目に遭わせないって、ちゃんと心に決めておきなさい。私もエディもここにずっといるんだからね」

「うん……」

「私たちはずっとここで、あなたを待ってたのよ」

「……うん」

「これからもずっと見守っているんだから」

「……うん……」

「愛してるわ、リッツ」

「俺も、パティ」

 静かに、だが幸せそうにリッツはその目を閉じた。エドワードの前では傭兵を経てきたリッツなのに、パトリシアの腕の中にいるリッツはあの頃のリッツだった。

 二人はいつもこうだ。男同士つまらぬ意地を張ってしまう自分たちとは違い、全てを飛び越えて昔のままに抱き合えてしまう。

 正直に自分の気持ちを言い合えなかったあの頃を乗り越え、お互いを大切な存在として。

 友の愛する人と知りながら、彼女が選ぶのが自分であると知りながら愛し、友から奪ってしまったパトリシア。

 あの頃の懐かしく暖かな痛みを感じながら、そっとテラスの外を眺めた。

 これから先の未来も愛する友、愛する妻の二人が幸福でいられるようにと祈らずにはいられない。

 二人はエドワードにとって、共に無くてはならない自分の一部なのだから。


「ところでエド、その、本気で一緒に寝るつもりか?」

「昔はよくあっただろ? お前は酔っ払うとよく俺のベッドで寝こけていたしな。身体も態度もでかくて何度蹴り落とされたことか」

「それ、昔のことだから!」

「安心しろ。昔同様、手は出さない」

「怖ええよ! その冗談はマジで怖ええ!」

「パティもどうだ?」

「私は遠慮するわ。二人で目眩く夜を過ごしてちょうだい」

「そうしよう」

「ぱ、パティ~、見捨てないで~」

 雪は降り積もり、夜は更けてゆく。

 通り過ぎてゆく苦しく空しい幾つもの夜があり、切なさの溜息に溺れそうになる幾つもの昼があった。

 だが今この瞬間は、苦しみの上にある幸福の上に立っていられる。

 それは帰ってきた友がもたらした何よりの贈り物なのだ。 

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