<16>
エドワードの勝利宣言の翌日には、グラント・サウスフォードが宰相執務室に入った。
当然のように今まで彼の秘書官を務めてきた人々も、隣室に宰相秘書官室を置き、みなそこに詰めている。
シャスタも今では戦力として秘書官室の人々を支えているようだ。
新祭月から今に至るまで、政務部は実質運営されていなかった。名誉職の貴族たちがみないなくなってしまい、平民である官僚には、何の権限も与えられていなかったからだ。
その政務部が動き出したのは、エドワードが国王の国璽を見つけ出し、国王代理として『政務部の各部署担当長任命は、宰相に一任する』との許可を出してからだった。
内戦終結を見越して戻ってきた元政務部の人々は、グラントの厳しい目によってより分けられることとなった。
元の部署に戻る者、元とは全く違う仕事に付けられる者と明暗は分かれたようだが、政務部の一定以上の階級に付く者の全てを覚えているグラントのやりように間違いは無いだろう。
彼がその位を離れていた期間は十年に満たない。その上ジェイド・グリーンは宰相としての仕事を最低限こなしていたらしく、政務部の綻びは想像したほどでは無かったようだ。
とはいえ、王族と貴族による巨額の浪費は、今後の軍の運営にも事欠きそうな程であった。このままでは国民から希望されている橋や道の整備に問題が出てきそうな有様だったそうだ。
報告が上がってきた直後、王宮の客室に居を移したエドワードが命じたのは、王宮にある金目の贅沢品を全て売り払うことだった。
王宮には、イーディスを筆頭に王族が買い集めた高価な品が、所狭しとひしめき合っていたのである。
それだけでない。ベッドで過ごすことが多かった前国王ハロルドの部屋は、天井に巨大な絵が描かれてい。それを額縁状に飾るのは金で出来た彫刻と埋め込まれた宝石類だった。
絵を天井ごと持ち去るわけにはいかないため、天井はそのままになったが、周りを飾っていた金と宝石は全て売り払うことになった。
その際は緊急の連絡を受けたサラディオの自治領主であるルシナ家が直々にやってきて、自ら鑑定して引き取ってくれるようだ。
財政関係は、あとはグラントに任せてしまえば問題は無く、エドワードに出来ることは書類を読んで決済することぐらいらしい。
大変だったのは軍務部の方だった。何しろ大臣にと望まれていたジェラルドが戦死し、その地位が宙に浮いてしまったからだ。
とりあえずそこは空席とし、先に実務の責任者である軍の総司令官の地位を埋める事になったのだが、それももめることになった。
当初、元は軍の中将であるギルバートが押されたのだが、頑なに拒絶されたため、現在は渋るコネルを何とか納得しようとしていた。
今まで通りに機能しているのは、平民の多い憲兵隊と、当然のように諜報部で、ハウエルによると貴族の内部処理をほぼ終わって、今後は性質の違う諜報員を集めるとのことだ。内部処理が何であるかを教えてはくれなかったが、ここは長年諜報一筋で生きてきたハウエルに一任している。
近衛兵はほぼ全滅といってよく、これはマルヴィルを隊長として再構成されることになった。当然近衛兵の資格は以前のように貴族の高位にある子息ではなくなり、騎兵による戦闘能力の高さと王族への忠誠心の高さになるようだ。
リッツはあの日から数日、ずっと忙しく動き回り、書類の決済を続けるエドワードの後ろでただ立っている。
戦いが終わった今、リッツにはやることが無い。
戦場にあってはエドワードの傍らで戦い続けるのが役目であるが、この戦後処理という分野では全くの役立たずだ。
ここに来てリッツとは逆に目立つ活躍を始めたのはシャスタの方だった。
グラントの秘書官を務めるシャスタは、政務部からエドワードの詰めている国王執務室に書類をせっせと運んで来ては説明をしていく。リッツはただその後ろに座って、二人の話を聞いていることしか出来ない。
そんなリッツを見かねたのか、回ってきた仕事は近衛兵の新兵訓練だった。見慣れたマルヴィルが指揮を執る事になる部隊と思えば、それはそれなりに楽しい。
でも本音を言えばエドワードから離されるのは少々気がかりだった。
あのパトリシアとエドワードのやりとりを聞いていて、エドワードの心が受けた痛みの大きさを痛感していたからだ。
エドワードにとって、ジェラルドとパトリシアは、絶対に変わって欲しくない家族だったのだ。その家族の一人を失い、もう一人は家族では無く臣下になってしまう。
まるで今までの関係が砂上の楼閣の如く崩れ、その手からこぼれ落ちてしまったような喪失感だろう。
パトリシアはきっと、エドワードが自分を見失い立ち止まらぬよう、自分という犠牲を払ってああいう態度を取ったのだろうと思う。
不思議だけれど、あの時離れてみていたリッツの方がパトリシアの気持ちに気がつけた。
パトリシアがエドワードを愛していること、ずっとその苦しい想いを抱え、リッツに嫉妬のような感情を抱いていたことを知っている。
だからきっとパトリシアだって、臣下としての態度を貫くことで傷ついたはずだ。
そのパトリシアはきっと、リッツにエドワードを託した。
私はこうするから、あなたが何とか慰めなさいということなのだろう。
パトリシアとエドワードという二人の関係はあのまま二人が一緒にいたら変わらざるを得なかった。だからパトリシアは距離を置くしかなかった。
きっとそれはエドワードのためだ。
だけどリッツとエドワードの関係は変わりようがない。ジェラルドの事だってお互いに自分が悪いと思っている。
だからこそ近くに今いるのは、リッツで無くてはならないと、パトリシアは考えるはずだ。
買いかぶりすぎだと思う。
パトリシアはエドワードにとってリッツの方が大切だと思い込んでいるが、リッツからすればパトリシアがいてこその部分も多分にあると思うのに。
エドワードは確かに、パトリシアに心惹かれていた。アンティルの戦いの時、馬から落ちたパトリシアを抱きしめたエドワードは確かに妹としてではなく、愛する人としてパトリシアを見ていた。
このまま彼女をグレインに帰すのか?
何も言わずに送り出して、彼女が帰ってくる保証はあるのか?
二人に幸せになって貰うことは、リッツの願いでもある。パトリシアの事は好きだし、エドワードを想う彼女の瞳を見ていると胸がきりきりと痛む。
それでも大好きな二人が別れゆくよりも、幸せになる方がましだ。二人が苦しむ姿なんて、絶対に見たくない。
おかしいんじゃ無いかとダグラス隊の面々には言われる。好きな女を譲って平気なんて、変態なのかともいわれた。
でも仕方ないのだ。パトリシアを好きなのと同じか、それ以上にエドワードが大切なのだから。
パトリシアがグレインに発つ前日の夜、リッツはエドワードの部屋にやってきた。リッツもエドワードと同じく王宮で暮らしているから、エドワードの部屋とは隣同士だ。
一度訪ねたその部屋では、エドワードが難しい顔で書類を片付けていて話すような雰囲気で無かったから、それ以後足が遠のいていた。
リッツが近衛兵舎に行ってからも、何かに憑かれたように昼も夜も無く戦後処理に追われるエドワードと、戦い以後じっくり話す暇がなかった。それをしみじみと思い出す。
自室に戻っていると聞いていたのに、扉は鍵が掛かっていて開かない。普段部屋にいるときは鍵なんてかけないのだが、鍵をかけた理由が何となく察せられて、仕方なく自室に戻ってテラスに出た。テラスは繋がってはいないが、リッツほど身軽ならば簡単に乗り越えられる。
扉と違って開いたままの窓辺から、リッツは音も立てずに忍びこんだ。そこには明かりも付けずに、デスクに向かうエドワードの姿があった。
「エド、寒いのに窓開けっ放しなんて不用心だよ」
「リッツ」
うつろな目でリッツを見上げたエドワードに、リッツは胸を突かれる。
そこにいたのは、王太子エドワードではなく、自信に満ちたいつものエドワードでもなく、二十七歳の普通の青年だった。
エドワードは父親代わりだった男をなくし、そしてわかり合うことができなかった叔父を同時に亡くしてしまった。
そしてそれは、愛する人の父親を死なせたことになるのだ。
落ち込んでいることも、悔やんでいることも分かっていたが、あまりにうつろなエドワードに、リッツは動揺した。
かける言葉が見つからないとは、こういうことを言うのだろう。
「エド、あのさ……」
言葉の接ぎ穂を失い、黙ってしまったリッツに、エドワードは無表情で呟く。
「一晩くれれば立ち直る。放って置いて欲しい」
「……え……?」
「俺だけの問題なんだ、だから……」
「……俺だけの?」
「そうだ。ジェラルドも、グレイグも俺の判断ミスが原因で死んだんだ。あの紋章の意味をもっと考えていればよかったんだ。闇の紋章かもしれないと思ったら、お前やギルに見せて確認すべきだった」
そういうとエドワードは顔を覆い、大きく溜息をつく。何故かそのため息で苛立った。
「王太子だ、指揮官だと持ち上げられて、俺は全然成長していない。未熟で愚かだ」
ランプのついていない薄暗い部屋で、エドワードの口角が微かに持ち上がる。
笑っている?
いや自分をあざ笑っているのか。
その表情が微かに見えるのは、廊下に灯された明かりが、扉の上のガラスから漏れてくるせいだろう。
「俺はどうしようも無いほど、馬鹿だ。もし俺が王太子なんぞに生まれてこなければ、ジェラルドは死なずにすんだ。パトリシアから父親を奪わずにすんだのに」
ジェラルドの死の全ての責任を、全部一人で負おうというのか?
あり得ない。そんな馬鹿なことがあるものか。
「それにお前も苦しめた。人格が壊れそうなほどの幻覚を見せた。俺が幻覚に落ちていたから、守ってやれなかった」
呟きのような小声に、リッツの苛立ちが怒りに変わった。
「お優しいよな、お前はさ」
地を這うような暗いリッツの呟きに、エドワードの身体がびくりと震えた。
エドワードの前でこの傭兵の、闇に近い部分を見せたことなど無かったなと、心のどこか冷静な部分は考えるも、頭の芯は熱を持ってあわだちそうだ。
「お前は俺じゃ無くておっさんを選べばよかったな。それが王太子として合理的判断だろ。そうすりゃ後悔が一つですんだ」
エドワードの顔を覆っていた手が、ゆっくりと下がった。
「選択を間違ったよなぁ、王太子殿下。役立たずの精霊族よか、経験豊富な軍の要人だったジェラルドの方が今後重要じゃないか。どうしてその選択を誤るんだ? お前がもし本当に有能だったら間違えるとこじゃないよな。なにしろそのせいで好きな女まで失っちまったんだからさ」
「……その選択はあり得ない」
無表情にいいながらリッツを見たエドワードの表情に、苛立ちは頂点に達した。
座ったままのエドワードの元に大股で歩み寄り、その襟元を掴み上げる。
「どうあり得ない? どっちが正しいか、どう判断できる? お前が今望んでいる完璧な判断を下せる人間だったなら、俺を助ける選択など無いぜ? 矛盾してるよな、エド。いつもみたいに正論かざして俺をただしてみろよ」
「……頼むリッツ」
「何だよ」
「俺を、放って置いてくれ。俺は今……俺の命の価値を重要視できない……」
それは死ねばよかったと言うことか?
覚悟を決め誰かを犠牲にして前に進むよりも、自分を犠牲にして死にたいと言うことか?
何故……何故、お前がそれを言う?
お前は俺の光だろう!
気がつくとエドワードを殴り飛ばしていた。床に倒れ伏したエドワードに、リッツはあの日、目の前でローレンを失い、自らを失った時を思い出していた。
「放ってなんて置いてやるもんか……」
振り絞るようにリッツは呻いていた。怒りと苦しさと悲しさが混じった感情に、上手く言葉がついてこない。
「放っておくもんか、馬鹿野郎! お前が放って置いてくれっていうなら付きまとってやる。そんな目で俺を見るなら。ずっとお前にくっついてやる。そんな顔で、そんな目をしたお前を放っておけるか!」
「リッツ……」
「もうおっさんは居ないんだよ、もう時間は戻んないんだよ!」
ようやくエドワードの目がリッツの目へと焦点を結んだ。だがすぐに逸らされる。倒れたエドワードの隣に膝を付き、その襟元をまた掴み直した。
「ジェラルドの代わりに死ねたら、お前は俺を置いて死んだってことか?」
苦しいのか、エドワードが小さく呻く。
「お前の命の価値を、安く見積もり過ぎてんのは、お前だよ」
小さく宣告し襟元をきつく掴むと、徐々にエドワードの端正な白い顔が赤くなってくる。
「なっ……りっ……」
「苦しいか? このまま殺してやろうか?」
「うっ……」
「ちゃんと抵抗しろよ。でないとお前を殺しちまうぞ? それで、俺も死んでやるけどな」
ただ呻くだけしか出来ないエドワードに顔を寄せる。
「お前は確かに間違えた。紋章のことも注意を怠ったこともそうだ。そんなこと俺だって分かってんだよ。だけど同じものを見ていたおっさんも分からなかった罠を、エドが分かると思うのかよ?」
強く締め上げると、エドワードが苦しげに喘ぐ。本当に殺しかねないから力を緩めなくてはと思うのに、手を緩められない。
「おっさんが分からなかったことを分からなかったからって自分を無能呼ばわりか? 命に価値が無いっていうのか? お前、いつからおっさんよりも有能な指揮官になったんだよ?」
呻きつつも、エドワードがこちらを睨み付けてきた。今まで力なく落とされていた腕が上がり、リッツの手首を掴む。
「もし俺が闇に囚われてなければ、おっさん達を救えた。お前が俺を助けたせいでおっさん達は死ぬ羽目になったんだ。俺のせいってことだろう?」
目の前のエドワードの目が、異様な力を帯びてきていた怒りなのか苛立ちなのか悲しみなのか、表情は読めない。
「お前が命の価値を分からなくなったんなら、このまま死のうか? 俺は元から命の価値なんて無いし、お前が居ないなら生きてる意味も無いしな」
顔を近づけて囁くと、襟元を締め付けるリッツの手にエドワードの震える指がかかった。紅潮した顔の中で目を血走らせ、それでもその目は先ほどと違っていた。
死んで溜まるかとその目が語っているようだ。
エドワードは死にものぐるいでリッツの手をはずそうと手の甲に爪を立ててくる。
食い込んだエドワードの指が、いつの間にかリッツの手に食い込み、肉がえぐれ、血が滴っていた。
その顔をじっと見つめると、苦しさで顔を赤くしながらも、目は真っ直ぐにこちらを向いている。
その目は無表情では無かった。リッツに殺されてたまるかと必死で抗っていたのだ。
「俺とおっさんは、お前に守られたいんじゃ無い、守りたいんだよ。王太子だからってのもあるかもしんないけど、おっさんも俺もエドが大好きだから守りたいんだよ!」
そのためなら、どんなことが起ころうと構わない程に。
「自分の命の価値を認めろ! おっさんの選んだ道の正しさも認めろよ!」
食い込んだ指先が、皮膚を破る。血で手が滑って、リッツはその手を離した。
エドワードはその場に仰向けに崩れ、荒い呼吸を繰り返している。
自分の手を見ると、幾筋もの深い爪痕が出来、その全てから血が滴っていた。
感情に流されていたとはいえ、本気でエドワードを殺しかねないところだった。
じっとエドワードを見下ろしていると、エドワードが咳き込みながら顔を上げた。
「……自殺する気か、リッツ」
殺されそうになった男が口にすることでは無い。だがリッツは当たり前に肩をすくめた。
「まるで心中だな」
「……本当だよ……」
弱々しく笑ったエドワードは不意に口をつぐんだ。しばらくしてから小さく息を吐く。
「……それでも俺は後悔するんだ。後悔ばかりしてる気がする」
その目は先ほどと違って、ちゃんと生きている者の目だった。
「だけどやっぱり、俺は死ねないな。死にそうになると、色々なものが浮かんできて、このまま死ねるかって、死んでたまるかって思ったよ」
でもその弱音に、リッツは小さく頷いた。
「ローレンが死んだときエド言っただろ。ローレンの死を自分の物にするなって。今回のも同じじゃねえの?」
「同じ……?」
「そうだよ。パティがお前に臣下としての礼を取ったのと同じ意味じゃねえのか?」
『ローレンがお前なんぞに殺されるか! 俺の母親だぞ、軽々しく自分のせいで死んだなんて言うな!』
エドワードがあの時口にした言葉だ。そしてパトリシアはこういった。
『後ろを振り返れば、後悔する事は沢山おありでしょう。ですが我が父のことを後悔されますな。我が父は誇りを持ち、殿下のために戦ったのです』
二人の語った言葉に込められた意味がどう違う?
リッツに説教しておいて、同じ状況に陥るなんて本末転倒だろう。
それでもエドワードは俯く。
「でも俺は王太子だ……」
「んなこと知ってる」
「責任を負うべきは……」
まだいうのか。溜息をついてリッツはエドワードの目を見つめた。
「みんなお前のためなら……お前が作る新しい秩序のためなら死ねるって決めてんだよ」
「でも!」
「お前のせいで死んだんじゃない。お前のために死んだんだよ。すげえ違いだよ、それ。お前はみんなにそう思わせるすごい奴だってことだよ」
「リッツ……」
「もし俺がお前を守って死んだら、お前に苦しんで欲しくない。俺はお前を守って死ねたらすごく幸せだからだ。苦しめたくて守るんじゃないんだよ? 俺は極端な例だけど、きっとそう思う人はいる」
エドワードが息を呑んだ。
「お前は……まあ俺もだけど、背負わなきゃなんない。だけどそれを自分のせいとか言うのは違う気がするんだ」
「じゃあ俺はどうしたらいい? この気持ちをどう持っていけばいい? 俺は悲しむことすら許されないのか?」
「許されるに決まってるじゃん」
「……でも苦しむなと……」
「自分のせいでって思うなっていってんの。おっさんがいなくなって寂しいって、叔父と話すことなくなくして悲しいって言えばいいだろ」
後悔はつきない。だけど前に進むしか無い。彼らの死がその行く先を遮るのならば、それを認め、不在をちゃんと悲しみ、前に進むしか無い。
これは全部、エドワードが教えてくれたことだ。
「リッツ……」
「王太子とか立場とか、今はいいじゃん。悲しくて悔しくて辛くて、なんでそれを自分のせいってことにして、一人で黙って抱え込んじゃうんだよ。何のために俺がいるんだよ!」
そうかと気がついた。何で苛ついたのか、なんで腹が立ったのか。
エドワードの中に自分がいなかったからだ。リッツという存在に頼るといいながら、全ての責任をかぶり、苦しみ抜こうとしたからだ。
「今ここに居るお前は、ただのエドで、ここに居る俺はお前の友達だろ!」
「……」
「何で俺にまで一人にしてくれとかって虚勢張るの? お前が俺に虚勢を張るから、俺もお前に虚勢張るしか無くなるだろ!」
「……虚勢……」
「そうだよ! 俺がお前を殺したいっていうと思った? 思うわけ無いじゃん! 何で隣にいるのに放って置いてとかいって、全部抱え込もうとするの? 何で俺を頼らないんだよ!」
いつの間に近くに来たのか、エドワードの手がそっとリッツの頭に乗った。ゆっくりと撫でてくれるその手に何故かとても安堵して、声が震える。
「お前、壊れちゃうよ。抱え込んで我慢して我慢して、そしたら壊れちゃうだろ。俺、そんなのは嫌だ。壊れるなら俺の方がいい!」
あ~あ、ついに泣いちゃうのか、俺。今回は泣かずに済むと思ったのに、本当に情けない。
そんなことを思いながらも、泣き止むことが出来ない。エドワードを泣かしてやろうと思っていたのに、これじゃ本当にただの馬鹿だ。
それでも言葉はあふれ出す。
「俺だって後悔ばっかだよ。一番後悔してるのは、最後まで俺、おっさんのことジェラルドって呼ばなかったことだ」
最初におっさんでいいと言われて、ついそう呼んでいた。でも本当はジェラルドと呼びたかった。尊敬している人は、名で呼ばなくてはならないとローレンに習ったから。
だけど気恥ずかしくて最期まで呼べなかった。
不意にエドワードの頭が肩に乗った。俯いたままリッツの二の腕を掴んでいる。その力はジェラルドを失ったと聞いたときと同じように強い。
その指の力が、そのまま悔しさを表しているのだとリッツは気がつく。
「エド」
「パティのために守らなきゃならないと思ってたのに、いざとなったら守られてた。いつもいつも、俺はジェラルドに守られてた。子供の頃から大きくて立派で、優しくてすごい自治領主でこんな人が俺の父親だったらすごいだろうなってずっと……ずっと……」
肩口がほんのりと温かい。エドワードの涙なんだと気がつき、リッツは何も言わずにその身体をしっかりと抱きしめる。
エドワードが頼りなく、迷子の子供になってしまったような気がした。
「ハロルド王が実父だって分かった後も、俺はずっと……、ジェラルドが父親であって欲しかったって……」
「アルバートが聞いたら泣いちゃうよ」
鼻をすすりながらリッツがいうと、エドワードも微かに笑った。
「血が繋がっていなくてもアルバートは今も、俺の本当の父親だから」
「うん。そうだね」
「グレイグの話も聞きたかった。俺の二人の母さんたちがどんな人だったのか、アルバートとはどんな関係だったのか、もっともっと色々な話を聞きたかった。なのに俺があの人に言ったことは、死ねって……自殺しろってことだけだった」
思えばリッツはグレイグと一度だけだが腹を割って話をしたが、エドワードがグレイグと会ったのは、暗殺者がグレイグだと分かった時と、玉座の間の二度だけだった。
たったそれだけの肉親との時間。
「リッツ」
「うん」
「しばらくこうしてていいか?」
「勿論。たまには王太子やめて、甘えてよ」
「……ありがとう」
抱きしめたままのエドワードの肩が微かに震えている。
「後悔ばかりだ」
「……うん」
「あの時に戻れないのに、あの時こうしていればとばかり思う」
「うん。俺も」
「でも……」
「うん。先に進むしかないんだろ?」
「そうだよ」
もう道の大半は成っただろう。でもまだ半ばだ。王としてこの国が豊かになったと思えたとき、それがエドワードの道の到着点で、リッツの目標地点だ。
不意に顔を上げないままエドワードが囁くように訊ねた。
「お前は……死なないな?」
今まで一度も聞いたことの無い、エドワードのか細く甘えるような声に、何故かぎくりとした。
でもそれを悟られる前に小さく笑う。
「お前が生きてる限り死なないって、お前が誓わせたんじゃん」
エドワードが一瞬しがみつくように力強くリッツに縋った。気付かれたのかと焦ったが、その力はすぐに抜ける。
「そうだったな」
俯いたままエドワードはそっとリッツから離れて、後ろを向く。
「見るなよ」
「……何で?」
「あまり見られたくないだろ、この年で泣いてるとか」
「前に号泣してんのみたよ?」
「……うっ……」
「俺も号泣してたけど」
「今日もだな」
「……うるせぇよ」
リッツに背を向けたエドワードはしばらくしてからいつものように穏やかな表情で振り返った。だがその目は赤く、水色の瞳がほんのりと紫がかっている。
「リッツ」
「うん」
「ジェラルドの追悼だ。飲もう」
「うん」
「俺はもう……一人は嫌だな」
「え?」
「こんな日はずっとひとりでいるのが気が楽だと思ってたけど、もう嫌だな。たとえ一人で悩む時でも、黙ってお前が隣にいてくれたらいい」
「……エド」
「お前も一人で抱え込まないでくれよ」
あまりに切実な眼差しだったのに、何故かリッツは頷くことができなかった。だから軽く目をそらして笑う。
「当たり前だよ」
「リッツ?」
「それからエド、ちゃんと言葉をかけないとならない人は他にもいるからね?」
「……分かってる」
いつも以上に深刻に、エドワードは眉間を揉んだ。
シアーズで最も寒い二月中旬。数日前に降った雪がまだ溶け残る王城の庭園で、パトリシアはエドワードと向かい合った。
隣にはいつも通りにリッツが立っている。その反対側にはギルバートがいた。
ジェラルドが死んだ日から、エドワードとは兄としても友としても話していなかった。まだ自治領主以外の立場でエドワードと向き合って、彼を責めない自信が無いのだ。
エドワードとリッツの前で、本当にジェラルドの死を名誉と認められるようになるまで、グレインで過ごす決意をしている。
二人のために戦うと、二人のために強くなると誓ったのに、二人のそばから離れるなんて弱い。
でもこれを乗り越えたとき、パトリシアは本当に一歩踏み出し、パトリシア個人として先に進むことができるような気がするのだ。
「パティ」
声をかけてきたのはギルバートだった。
「おじさま……」
「これを持って行ってくれるか? ジェリーが好きだった銘柄の醸造酒だ。葬儀の後にでも墓に供えてやってくれ」
差し出されたのは、ジェラルドがシアーズに来ると必ず買い求めていた醸造酒だった。グレインでは手に入らないからとシアーズに行くたびに買い溜めていたことを思い出す。
「ありがとうございます」
頭を下げると、その上に大きな手が乗った。その手は優しくパトリシアの頭を撫でてくれる。
「無理はするなよ。無理しなくてもお前さんは強い」
「……はい」
ギルバートの手がジェラルドのようで、胸が苦しいほど痛い。
「それでは殿下。しばしおいとまを頂きます」
「ああ。道中気をつけて。貴族の残党もいるかもしれないし……」
「我が騎士団は実力者揃いです。大抵の貴族は敵わないでしょう」
「……そうだな」
言葉が切れる。いつまでもここで名残を惜しんでいる場合では無い。エドワードに背を向けると、少し先にある馬車が目に入った。
葬送の為に黒く塗られた馬車は、黒い飾り布で覆われている。この中にジェラルドがいるのだ。
もう一台の黒い馬車には飾り布がない。こちらはグレイグの棺だ。
馬車の隣に立つ騎士団のエリクソンとオドネルの方へ向かってゆっくりと歩き出す。これでしばしシアーズと、エドワードとリッツとお別れだ。
その時だった。
「パティ!」
自分を呼ぶ声に振り返ると同時に、抱きしめられていた。いつもこんなことをするのはリッツと決まっている。
でも違った。リッツは視線の先、ギルバートの隣で笑っている。子供みたいに、いたずらを仕掛けたみたいな顔で。
パトリシアを力を込めて抱きしめていたのはエドワードだったのだ。
「エディ……」
ついうっかり呼んでしまった。殿下で通していたのに。
焦るパトリシアに、何故か同じように焦りながらエドワードが告げる。
「パティ、もし、もし君が……」
いつもは歯切れのいいエドワードが言いよどんだ。顔を見上げると、エドワードは硬い表情でパトリシアを見つめていた。
いつもならば優雅に微笑む口元はこわばり、頬が軽く引きつっている。何故眉毛と目が微かに揺れているのだろう。
見た事のない顔に、思わず固まってしまう。そんなパトリシアに気がついたのか、エドワードは両手で自分の頬を勢いよく叩いた。
「え……」
まるでリッツのような行動に漠然とする。でもエドワードは落ち着いたのか大きく息を吐くと、ようやくいつものような微笑みを見せる。
「もし君がもう一度俺と共にこの街で暮らしたいと思ったなら……軍にではなく、俺の所に戻って来てくれないか?」
「……え……?」
「……その……」
言葉に詰まるエドワードに微笑み返す。
「父の死の責任は負わなくていいと申し上げました、殿下」
「違うっ! 確かにジェラルドのこともある。だからこそだ」
「だからこそ?」
「そう……いや、違う……その……」
ちらりとエドワードはリッツを見る。リッツは笑って頷いた。
二人の間にちゃんと何かしら意思の疎通があって、二人が一緒にいることでエドワードが少し立ち直ったのが分かった。
よかった自分が取った手段は間違いでは無かった。それにパトリシアは安堵した。
何故かリッツが身振り手振りでバタバタしている。それを見て決意したようにエドワードの目がパトリシアに向く。
「俺は戦乱の王太子だから、苦労はあるとおもう。それでも君がいいと思ってくれたら、一緒に王宮で暮らさないか?」
一瞬言われた言葉の意味が分からなかった。
「つまりその……」
再びエドワードの視線がリッツに向く。リッツは大きく拳を突き出して何か応援していた。エドワードは決意したように頷く。
「好きなんだ。君が俺と一緒にいてくれたら嬉しい」
頭の中が一気に熱くなった。それが何を意味するのかを理解したからだ。それはパトリシアからすれば待ちに待った瞬間だった。
なのに何故か心が急にしぼんで、複雑な気分になる。嬉しいといえば嬉しいのだけれど、やはり父の死が無ければその言葉は聞けなかったような気がする。
だとしたらそれを受け入れることは同情を受け入れることにならないだろうか。
見上げたエドワードの頬が赤く染まっているのを見て、パトリシアは口から出かかっていた『同情はいりません』の言葉を飲み込んだ。
普通に平然と感情を隠すくせに、何故こんなところで妙に素直なのだろう。このエドワードという男は。
それはリッツの専売特許では無かっただろうか。
それでも素直にエドワードの言葉を受け入れられない自分がいる。
だからパトリシアは微笑んだ。
「殿下。もし私がシアーズに帰ってきたとき、あなたの名を呼び、共に笑うことができたなら、その申し出をありがたくお受け致します。でも……」
「……分かっている。時間は掛けてくれても構わない。君に伝えることだけでも出来てよかった」
離れたエドワードに一礼すると、パトリシアは歩き出す。
シアーズから離れることを躊躇ってはいけない。それが今、エドワードを傷つけずにいられるパトリシアの精一杯だ。
エリクソンが持つ手綱を受け取り、いつものように馬に跨がった。
振り返って見ると、大好きな人と、大好きな友だちがいる。
このまま静かに立ち去らねばと思ったのに、気がつくと声を上げていた。
「エディ、リッツ」
弾かれたように二人が顔を上げたのが分かった。
「お父様と私がいないからって、さぼらないでちゃんと働くのよ!」
ジェラルドの死の前と同じ口調で言うと、エドワードは安堵したように微笑み、リッツは満面の笑みを浮かべた。
「ああ」
「もちろんさ!」
二人の笑顔が眩しかった。
どうしよう、二人のことが本当に大好きだ。
愛する人、エドワード。
愛する友、リッツ。
大好きだから、お互いに傷つけ合いたくないから、だから今は一旦分かれるのが正しいと思う。
パトリシアは前を向く。
「グレイン騎士団、出発」
パトリシアの声で、葬送の一団が進んでゆく。シアーズを離れ、父の愛する人が待つ、遠く離れた故郷グレインへ。
二人はずっとパトリシアを見送っているだろう。
だから、いつかここに帰ってこよう。
ジェラルドの事をアリシアと話して、沢山沢山泣いて、それでまだ戦えると思ったら、戻ってくるのだ。
ここ、シアーズへ。
エドワードとリッツのいる街へ。
冷たい空気が張り詰める中、馬車はグレインへと走り出した。




