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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
争覇の終極
132/179

<11>

「母さん……」

 駆け出したい衝動に駆られ、一歩踏み込んだ瞬間、後ろから誰かに羽交い締めにされた。振り返ると恐怖に顔を引きつらせたリッツがいる。

「リッツ? 何故止めるんだ?」

「止めるに決まってる! だってあの人、死んでるんだよ?」

「死んでる? だってああして生きて……」

 ふと何かが頭から消えた気がした。

 あれ? ここに何をしに来たのだったろう?

「モーガン侯、そなたらの働き見事であった。王宮に監禁されていた余は、そなた達の働きのおかげで開放され、こうして王の座に戻ることができた」

 玉座に座るもう一人が、満足げな笑みを浮かべてジェラルドに語りかけている。愕然としたように立ち尽くしたままのジェラルドが小さく訊ねる。

「……ハロルド王であらせられるか?」

「いかにも。余は第三十六代ユリスラ国王ハロルドである」

 堂々とした答えに、エドワードを羽交い締めしたままのリッツがびくりと震えた。珍しいことにリッツが震えている。

 まだ戦うことに未熟で、何も知らない子供だった頃のように。

 でもエドワードは玉座に座る二人から目を離すことができない。

 ハロルド王……エドワードの母を奪った男。そしてエドワードに王位継承権を授けた男。

 俺はいったいここに……何をしに来たんだっけ?

「エドワード、会いに来てくれたのですね。お願い、そばに来て。その顔を私に見せてちょうだい」

 そうか。俺は母親に会いに来たのか。

 グレインからジェラルドと一緒に。

 柔らかく愛おしい声に、エドワードはそちらへと歩み寄ろうと力を込めた。だがリッツの力は思いの外強い。

「駄目だってば、エド!」

「邪魔するなリッツ。ああそうだ、お前を母さんに紹介したかったんだ。あの時は紹介したくてできなかったから」

 そう、前に会った時にリッツを紹介できなかった。何故だったろう。

「エドワードっ!」

 必死のリッツに久しぶりに愛称では無く名で呼ばれた。リッツが自分を名で呼ぶ時は、必死な時だと知っているから不思議な気がした。

「しっかりしろよ、エドワード!」

 振り返ると恐怖を張り付かせた顔で、リッツは必死で首を振っている。

「リッツ?」

「正気に戻ってよ、頼むから!」

「……俺は正気だ」

「なわけあるか! 正気ならなんであんなに怖いものに近づこうとするのさ!」

「怖いもの?」

 目の前には微笑みを浮かべて両手を広げる、母の姿があるだけだ。

 そして隣にはハロルドがいる。母と父。

 父は憎むべき相手だったが、でもこうして生きて会えたのだから、少し話をしてみたい。

 何故自分に王位継承権を与えたのか。それは自分の息子であるスチュワートとリチャードに対する憎しみだけだったのか。

 それともハロルド王、あなたは少しでも俺を息子として愛したのか?

「怖くはない。あれは母と父だ」

「違うよ!」

 リッツの叫びと重なるように、ジェラルドの手から剣が滑り落ちた音が響いた。ゆっくりとジェラルドはその場に膝を付く。

 リッツが耳元で呻く。

「くそっ、おっさんもかよ!」

 こんな風に恐怖と焦りに支配されるリッツなど見た事がない。でもそれを気に掛けるよりも、母が見たい。父を見ていたい。

「陛下……ご無事で……」

 心底安堵したように、ジェラルドは大きく息をつく。それを受けたハロルドも、王者として堂々とした笑みを浮かべて頷いた。

「うむ。そなたのおかげで余もルイーズも解放された。これで余は晴れてルイーズを王妃とし、エドワードを王太子とすることができる。そなたには心配を掛けた」

「……はっ……」

 光溢れる玉座の間に、静かな平穏が満ちていた。

 ここまで来たのはどうしてだったろう。

 母に、父に会いに来たのだったろうか。

「あなたは導きの紋を通ってこなかったのね」

 不意にルイーズがリッツに向かってそういった。

「導きの紋?」

「そうよ、愛しいエドワード。あなたはずっと導きの紋を通ってここまでやってきた。だから私たちは会えたのよ」

 頭の片隅に床に書かれた謎の文様が浮かんできた。そうか、あれは母に会うために必要な紋章だったのか。

 納得したエドワードの後ろで、しっかりとエドワードを抱きかかえながらリッツが怒鳴る。

「お前……どこにいる、ジェイド!」

「やはり全く暗示にかかりませんでしたね」

 リッツがルイーズと話している。

 ルイーズと? 違うのか?

 だがその声はまるで遠くから聞こえてくるようで、エドワードの頭にまるで入ってこない。

「あれか! あの紋章を通ってきた人間は幻覚に囚われるのか!」

「思ったよりも賢いですね。そう。あれは通った数に応じて一階と二階に多く敷設しました」

「……だからか」

「その通り。これは暗示にかかりやすくする紋章。そしてここは最後にたどり着く強力な魔方陣です。残念ながら通らなかった半分はかからなかったようですが」

「じゃあ、扉を閉めたのは……」

「あの紋章を通った本隊の兵士たち。扉を閉ざした後は、一斉に遊撃隊に襲いかかったでしょうね」

「! くそっ!」

「仕方ありません。殿下はあなたを助け出したように闇にお強い。簡単に暗示に掛けられないですから」

「解けよ……」

 リッツが低く命じた。その声の底にあるのは聞いたことの無いリッツの威圧感だった。

「エドの暗示を解け」

「残念ながらその願いは叶えて差し上げられませんね」

「ならお前を殺すまでだ」

 殺伐としたリッツの声だった。

「エドを害する奴を俺は許さない」

 こんな声で話す奴だっただろうか。未だ腕の中に抱えられつつもそんな疑問を抱く。だがリッツの声に動じることも無く、その声は楽しげに笑う。 

「何がおかしい?」

「やはりあなたは闇だ」

「なに?」

「光を纏う殿下と違い、闇に飲まれやすいあなたなら、こちらの方が効果があるでしょうね」

 不意に空気が変わったような気がした。明るい空間が微かに曇ったような気がしたのだ。

「なっ……、やめろ……っ!」

 途端に今まで自分を抱えていたリッツの力がスッと抜ける。

「あ、ああ……ああっ!」

 足下に崩れるように座り込んだリッツは、頭を抱える。

「闇に飲まれてお眠りなさい。永遠に」

 次の瞬間耳朶を打ったのは、リッツの叫びだった。

「いやだっ……いやだっ……!」

「……リッツ?」

「いやだぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 絶叫しながらリッツは床にうずくまる。悲鳴を上げてリッツは何もない床で何かをかき集め始めた。

「……リッツ?」

「やだ、やだよ、駄目だ、駄目だよ、エド」

 ほとんどぶつぶつという呟きにしか聞こえないその声は、確かに自分を呼んでいる気がした。

 だが抗えない誘惑がエドワードを呼ぶ。

「こちらに来て。顔を見せて、私の可愛い子、エドワード」

 立ち上がった母親が、エドワードに向かって歩み寄りつつ両手を差し伸べてくれる。

「……母さん」

 リッツからの拘束が無くなったエドワードも、ふらふらと母に向かって歩き出す。

 会いたかった。

 ローレンが母ではないと知った時、ローレンに宛てた無数の手紙を見た時、どれほど会いたいと願っただろうか。

 決して彼女が母だと知られてはならなかった。だから手紙の全ては読み終わった後ローレンに返し、以後、一度も目を通さなかった。

 この手に残ったのは、ローレンから送られた細密画だけだった。

「母さん」 

 母の元へあと数歩というところで、不意に足が止まった。

 同時に息が苦しいほどに痛む胸に気がつく。

 何故、こんなに胸が痛い?

 何故こんなに苦しい? 

 母に会えたのに。父と話す機会を得たのに。

 母を向くはずの視線が、地べたを這いずるリッツに向かっているのに気がつく。

 母を見ていたいのに、でもリッツを何とかしてやりたい。

「エド……こんなの……エド……」

 呆然と呟くリッツを見ていると、やはり母へと視線が向かうことを止められない。

 心が二つになってしまったようだ。

 何故だ、全く体も心も思うようにならない。

「どうして私の元に来てくれないの?」

「……母さん……」

「何故私の所に来てくれないの? 何故来てくれなかったの?」

「……俺は……」

「私を見捨てたのですか、エドワード?」

「違う……」

「毒を飲まされそうだったのに、殺されそうだったのに……私を見捨てようとしたの?」

「違う……」

「何故、こちらに来ないの? また助けてくれないのエドワード?」

「母さん」

「あなたは母を、見捨てるような愚か者になりはてたのですか!」

「違う!」

 その時だった。目の前を飛んだ何かが、ガラス窓を突き破った。

「なんだとっ?」

 何者かが驚きの声を上げた。

 その瞬間に、ガラス窓から眩い本物の光が飛び込んできた。太陽の光だ。

 とたん、不意に世界がぶれた気がした。

 折り重なった二つの世界が、目の前で揺れ動く。全てのカーテンが引かれた薄暗い玉座の間と、陽光溢れる静かな玉座の間。

 同じ場所なのに、明らかに状況が違う。

「うっ……」

 気持ちが悪い。頭が直接揺さぶられたみたいだ。頭を押さえて顔を上げる。

 次の瞬間耳に入ったのは、断固とした男の声だった。

「誇り高き俺の妹、ルイーズ・バルディアは、いかなる事があろうと、愛する息子を責めたりなどしない!」

 強い意志を持った声だった。

「目を覚まされよ!」

 断固とした制止の声だった。

「目を覚まされよ、モーガン侯!」

 跪いていたジェラルドが、声に促されるように顔を上げる。エドワードも突如割り込んできたその男の顔を見た。

 顔の半分まで覆われた金の髪、意志の強そうな水色の瞳、そして手にしている槍……。

「ジェラルド様! 目をお覚ましください!」

「目を……?」

 槍を構え、ハロルド王を見据えながら男が叱咤する。

「ジェラルド様! ハロルド王は死にました。毒殺されたではありませんか!」

「……ああ……」

 ジェラルドが呻く。

「思い出して! 俺が太陽の光を入れました。もう魔方陣は不完全です! でも自ら闇を追い払わなければ術が解けません!」

 必死に呼びかけつつ、男はハロルドから目を離さない。

「ルイーズも死にました! 俺のたったひとりの妹は死にました! 死んだんです」

「死んだ……」

 男の……グレイグの絶叫が響いた。

「ジェラルド様!」

 ジェラルドは動きを止め、ゆっくりとグレイグを見上げた。

「ハロルド王も、ルイーズも死んだ……」

「そうです!」

「ふたりとも……救えなかった……。そして……グレイグも救えなかった。暗殺者に身を落とさせた」

「ジェラルド様……」

「グレイグ……すまない」

 呻くようなジェラルドの呟きに、おかしくてたまらぬと言う笑い声が重なった。

「おやおやアノニマスではありませんか。いつの間にここに入り込んだのです?」

 先ほど割られたガラス窓の横から、男が現れた。憎々しげにグレイグが吐き捨てる。

「ジェイド、やはりお前か」

「そうです。まさかあなたに邪魔をされるとはね」

「生憎だったな、俺はイーディス様の暗殺者。王宮の抜け道は幾つも心得ている」

「……そうでしたね」

 まるで茶飲み話でもしているかのように、笑顔でジェイドは応じている。対するグレイグも冷静さを欠いてはいない。

「お前の思うようにはさせない」

「ふふ。農民上がりの田舎槍術使いであったあなたに何ができるというのです?」

 せせら笑うジェイドに声を荒げるでもなく、確固たる意思を持ってグレイグが答えた。

「地に足を付け、大地と共に生きてきた我らを愚弄するな。国家は民である、それが分からぬ者にルイーズの名を騙らせはしない」

「農民ですら尊い。立派な思想だ」

 ジェイドの声がどこから聞こえてくるのか全く分からない。だがその声は遠く、近く、歪みながら響いてくる。

「ですが、あなたは遅かった」

 突然あり得ないほどの動きで、ハロルド王が剣を握ったままジェラルドに飛びかかった。

「何っ!」

 グレイグはとっさに槍でハロルドを突き刺した。

「そんな攻撃が効くとでも?」

 冷ややかなジェイドの言葉と共に、槍に胸を突き刺されたハロルドは歪んだ笑みを浮かべた。

「何っ!」

 自らの身体でグレイグの武器を封じたハロルドは、槍に貫かれたまま前進したのだ。

「なっ! 馬鹿な!」

 胸を槍に貫かれたまま、ハロルドは大きく剣を払った。未だ意識がもうろうとしているジェラルドが避ける間などあるはずもない。

 ハロルドの剣は、容赦なくジェラルドを襲う。

「ジェラルド様!」

 大量の血が飛び散った。

「おのれ!」

 叫びながらグレイグは槍を抜き、再びハロルドに突き立てる。だがハロルドは動じることも無く、血を流すことも無く笑みを浮かべた。

 胸に開いた穴から、向こうが見える。

「くっ!」

 振り下ろされた剣を受け止めたのは、怪我を負ったジェラルド自身だった。

「ジェラルド様!」

「……おかげで目が覚めた」

 静かに笑みを浮かべ、ジェラルドはゆっくりと立ち上がった。

「ご無事ですか!」

 グレイグの悲鳴に答えたのは、静かなジェラルドの声だった。

「グレイグか」

「はい」

「無事ではないが、戦えぬほどでもない」

 苦笑気味のジェラルドはゆっくりと頭を振った。

「私は何をしていた?」

 右肩から垂直に斬られたのか、流れる血が、傷だけでは無く腕を伝って床に滴る。

 問いかけたジェラルドに、グレイグは当然のように寄り添った。

「ジェラルド様は、闇の精霊の幻覚に襲われておりました」

「幻覚……」

「王城を空にし、ここまで紋章を用いて真っ直ぐに導くことで闇の精霊魔方陣に封じ意識を奪われ、幻覚を見せられていたのです」

 グレイグの言葉でゆっくりとジェラルドの視線がハロルド王とルイーズに向く。

 その表情が静かな笑みに変わった。

「……そうか。あれを私は生者だと思ったか」

「……はい」

 二人の会話の意味が分からず、数歩先にいる母へと視線を向けたエドワードは言葉を失った。

 先ほどまで母に見えていた物に吐き気を覚える。

 そこにいたのは確かにルイーズだった。

 ナイフを握ったルイーズの死体だった。

 そして父と認識していたのは、毒殺されたという伝聞通りに、すさまじい形相のまま黒ずんだ顔で、見開いた目に虫を湧かせるハロルドだった。

「エドワード、エドワード、どうしたの? 私に顔を見せて?」

 おぞましい声でルイーズの死体がそういった。じわりじわりと進んでくる手に握られたナイフだけが鈍く光っている。

「いらっしゃい、エドワード」

「くうっ……」

 上がりそうな悲鳴を必死で堪えて、エドワードは剣を抜いた。

「いけない子。私に逆らうの?」

「母さん……ごめんっ!」

 このまま殺してあげた方が母のためだ。そう思って剣を振るう。

 だが妙な手応えがあった。愕然と見つめると引き裂かれた腹から黒い塊を零しながら、ルイーズは笑っていた。

 恐怖のあまり剣を振ると、それは偶然にルイーズの頭に当たる。脳が割れて中身が零れた。

「エドワード、ごぶっ、ごぼっ……エドワード」

 傾げられた首が、そのまま横に折れ、皮だけでぶら下がる。

「えどわぁどぉ……」

「わぁぁぁぁぁぁっ!」

 これ以上傍に来るな!

 その想いだけでエドワードはルイーズだった物の足を切り飛ばした。

 どさりと倒れたルイーズの死体の目玉が、ぎょろりとこちらを見た。その瞳には生命の輝きなど一欠片もない。

 明らかに死者だった。

「え……どわぁ……どぉ……」

「うっ……」

 吐き気を必死で堪えた。

 リッツが言った『あんなに怖いもの』の正体はこれだったのだ。

 同時に先ほどのリッツと何者かの声との会話を思い出して慄然とする、あれは明らかにリッツとジェイドの会話だった。

 それすらも分からないほどに操られていたのか。

 あの二人の会話に寄れば、一階からここへ向かってきた騎兵隊と本隊半分、ジェラルドとエドワードだけがこの導きの紋を通ってしまった。

 それ故にこの闇の精霊魔方陣に操られてしまったのだ。

 必死で自分を守ろうとして、更なる闇に落とされたリッツへ目をやると、リッツは呆然とした顔で天井を見上げている。

「リッツ、リッツっ!」

「……エド……やだよぉ、こんなのやだよ……」

 リッツの目から涙が溢れた。そのあまりにも深い絶望にぞくりと背筋が冷えた。

 いったいリッツは何を見ているのだろう。

「俺は、ここに居る! リッツ!」

 揺り動かしてもリッツは正気に戻らない。

「おや、精霊族と闇の合いの子は、もう壊れてしまったのですか?」

 楽しげなジェイドの声は、どこから聞こえるのか分からない。だがエドワードの中に怒りがこみ上げてきた。

「貴様!」

「ふふ。ここは闇の精霊魔方陣の中。ここは術者の思いのままになる空間。幻術を見せる効果は失っても尚、封印は解かれてはいない。このままここに居ればその合いの子は完全に精神を崩壊させるでしょうな。本当に闇の深い男だ」

 前にもジェイドが言っていた。リッツが闇を持っている限り、闇の精霊に極端に弱いと。

「いかがでしたか、母上と父上との再会は?」

「……なんだと……?」

「私は闇の精霊使い。そして最高位の死人使い(ネクロマンサー)なのですよ、殿下」

「死人使い……」

 その響きのおぞましさに鳥肌が立つ。

 死体を意のままに操り、死なぬ兵士を作り戦場に連れてきたという伝承を聞いたことがある。

 当然死体はただの物であり、生前の本人の記憶はないと聞く。つまり先ほどのルイーズは、ジェイドが成り代わってエドワードと会話していたに過ぎないということだ。

 まさかこのように本当に死人を利用できるなど思いも寄らなかった。

 リッツはずっと、あの死体に話しかけるエドワードを見ていたのだ。だから必死に止めていた。

「光と闇の出来損ないは、いい死人になりそうだ。いただけませんか、殿下?」

 楽しげなジェイドの言葉に、自分の中に激しい殺気がこみ上げてくる。

 こんな殺意が自分の中にあったなんて、今日まで知らなかった。 

「殺す。殺してやる」

 気がつくとジェイドに斬りかかっていた。だがジェイドは避けるでもなくその剣を受けた。

 その瞬間にゆらりと揺らめくように、ジェイドの姿がぶれる。

「幻術か?」

「ふふ。まだ殺されるわけにはいきませんね」

「な……」

「死人は死にませんよ。どうなさるおつもりですか?」

「くっ!」

「さてそろそろ私は行きますよ。スチュワート様がお待ちだ」

「スチュワートだと!?」

「ええ。忠実なる死者の軍勢に守られてこの国の王として城内を制圧されようとしておられますよ」

「……!」

 とっさに思い当たったのは、あの部屋だった。入口が封印されているという三階の応接の間だ。

「精々残った時間を死者との戯れにお使いください、殿下」

「待て! ジェイド!」

 追おうとして、足首を掴む何者かに気がついた。ルイーズだった物が首をぶら下げながら足首を掴んでいたのだ。

 それ以外にも幾人もの死人が床を這っているのが分かった。

「王家の墓から使えそうな方にお目覚めいただきました。戦いに秀でた王族の身体はなかなか魅力ですな。それに王族に殺されるなど、名誉なことでしょう?」

 その声と同時に、ジェイドの気配が消えた。

 だが気味悪い気配が満ちてきた。

 歩くもの、床を這うもの、転がるように近づいてくる物、みな死体だ。

 その中にイーディスの死体もあった。半ばちぎれかけた首からは、半分骨が覗いている。明らかに殺されていた。

「……死者が……」 

 エドワードは唇を噛んだ。早くこの部屋を出なければ。ここに仕掛けられた闇の魔方陣から抜けねばならない。

 半ば意識が飛びかけているリッツを残して、エドワードは立ち上がった。

 死者はどうすればまた死ぬ?

 どうしたら倒せるというのだ?

 その時だった。

「エド、リッツを連れて逃げろ」

 断固とした声だった。

「ジェラルド?」

「ここはリッツに圧倒的に不利だ。リッツを失いたいのか?」

「嫌だ」

 そんなことは考えられない。唯一の友であり、たったひとりの自分の片割れだ。

 このまま狂ってしまったら、このまま死なせてしまったら自分も立ち直れる自信は無い。

 そもそもリッツがこうなったのは、エドワードが闇の魔方陣に落ちたからだ。

「ならば行け」

 撃たれるように厳しい口調だった。はっとしてジェラルドを見つめる。

 こんな風に命じられたのはいつ以来だろう。そうだ、山ごもりの時以来だ。

「でもこの部屋を抜ける方法が分からない!」

 叫びに答えたのはグレイグだった。ジェラルドを支えるように立つグレイグは、今まで一度も見た事がない表情をしていた。

 邪気のない、穏やかで明るい表情だ。

 まるでエドワードに全幅の信頼を置いて笑う時のリッツのようだった。

 ここに居るグレイグは、暗殺者では無く、心の底からジェラルドの部下であったグレイグなのだと気付く。

「エドワード、俺が通ってきた抜け道を使うんだ。玉座の裏の隠し扉から廊下に出られる。そこは封じられていなかった」

「だけど俺とリッツだけ逃げるなんてっ!」

 絞り出すように叫ぶと、ジェラルドが笑った。覚悟を決めた静かな笑みだった。

「違うぞエド。外で待つギルと共に術者を倒せ」

「え?」

「そうすれば死人を止められる。あいつは闇の国と戦うタルニエンの傭兵だ。この闇の精霊魔方陣を何とかできるだろう」

 嘘だ。

 エドワードとリッツを逃がすための理屈だ。

「一緒に逃げよう、ジェラルド! あなたもだ、グレイグ!」

 呼びかけると、ジェラルドは静かに首を振った。

「悪いがこの傷は結構深そうだ」

 ジェラルドが押さえた傷からあふれ出す血は、床に血だまりを作っていた。

 赤い絨毯を染めていく更に赤い血は、確かに重傷であることが一目で分かるほどだった。

「だけど!」

「それに彼らを置いて行けないさ」

 微笑んだジェラルドが目をやったのは、騎兵隊の面々だった。

 元グレイン騎士団第三隊。

 そしてジェラルドの護衛をと志願していたエリクソンだ。

「術者を倒すまで彼らを守るつもりだ。だから早く行け、エド」

「ジェラルド!」

「分かっているだろう? 最も重視すべきはなんだった?」

 幾度も問われた覚悟。

 例え誰を犠牲にしても、国民の希望を背負うエドワードは自分の命を優先させねばならない。

 それが例え、大切な人であっても。

「嫌だ」

「エドワード」

「できるわけがない! 俺は普通の人間だって言ったじゃないか!」

 リッツがいないと、パトリシアがいないと、シャスタがいないと、ローレンがいないと、アルバートがいないと……。

 ジェラルドがいないと……。

「お前はなんだ、エドワード」

 厳しい声で問われた。唇を噛んで俯く。

「答えろ、エドワード」

「俺は……」

「エドワード」

 唇を噛む。答えは分かっている。

「俺は……王太子だっ!」

「……そうだ。お前は王太子エドワードだ」

 満足げに頷くと、ジェラルドは片手で剣を構えた。

「行け、エドワード。私には私の、お前にはお前のやるべき事がある。果たすべきを果たせ」

「ジェラルド!」

 ジェラルドは死ぬ気だ。

 死んでも騎士団を守る気だ。

 ぎりっと音がするほど奥歯を噛みしめた。

 心を決めた人間はどれほどの言葉を尽くしても説得できないことをエドワードは知っている。

 それがジェラルドであるならばなおさらだ。

 呻いたままのリッツの両腕を掴んで無理矢理背負う。細身のリッツだからかろうじて背負えそうだ。

 力の抜けた身体はずっしりと重く、エドワードよりも背の高いリッツの足を引きずる形になった。

「くっ……!」

 肩に食い込むその重さに、歯を食いしばる。

 だがリッツを置いていくことは考えられない。

 ジェラルドが心を決めたんだから、エドワードは絶対にリッツを連れて行く。

 何があってもだ。

「すぐにジェイドを倒して戻る。だから……死ぬなよ、ジェラルド!」

 吐き捨てるように怒鳴った。

「頼むぞ、エド」

 振り返って見たジェラルドは、本当に穏やかに微笑んでいた。零れそうな涙を堪えて、エドワードは顔を上げて前を向く。

「分かった」

 だがエドワードには分かっていた。

 もうジェラルドに会うことはないのだと。

 この闇の魔方陣の中で死ぬまで戦う気だろうということも。

 歯を食いしばり、リッツを引きずり、エドワードは部屋の脱出口へ向かった。

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