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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
争覇の終極
128/179

<7>


 懐かしい部屋だ。

 外から聞こえてくる戦いの音を聞きながら、男は冷静にそう思った。

 あの頃の記憶など欠片しかないのに。

 そう思いつつも、この広い館の主の部屋に佇むと妙な感慨のような物が浮かんでくる。

 妙に生暖かく感じるこの手のひらは、先ほど殺してきた男の血のせいだろうか。

 滴る血には、何の感慨も浮かばないが、途切れ途切れの記憶の中にあるあの男は自分のことを『ブロンド』と髪の色で呼んだ。

 許せないほど憎んでもいなければ、愛情や愛着などは一欠片も感じたことがなかった。それでもやはりこの手にかける時、妙なむなしさを感じたのは事実だ。

 思えば悲しい男だ。長男のように将来を約束されることもなく、病弱ながら妄想ばかりの中で生きた男だった。

 枕元に置かれたのは幾つもの異国の物語と、倒錯した愛の物語ばかり。綺麗に整えられた純白の部屋は、生まれながら誂えられた棺のようだ。

 幾度となく感情も何もない人形のような男を抱いて、いったいどんな夢を見ていたのだろう。

 意思無き人形を抱いて、その体温だけでも救いになっていたというのか。

 そう思うと哀れさえも感じる。

 数えきれぬほど幾度も犯されていた男が言うのも、相手にとって屈辱だろうか。

 血塗られた手のひらを見つめて、あの男の死に際を思い出す。

 見知っていた頃よりも更にやせ細り、骨と皮しかないような状態だった。もう長くはないことは誰の目にも明らかだった。

 ならば見捨てても死ぬだろう。そう思った。見逃してやろうと。

 だが男は殺して欲しいと願った。

『殺してくれブロンド。頼む。君に殺されるなら僕は自分を納得させられる』

『何故?』

『君に命を絶たれるならば、それだけでも意味があるのだろう? 意味の無い死よりも、君からの意味のある死を望みたい』

 結局その願いを叶えてやることとなった。

 イーディスも、彼も、そして自分も同じようにシュヴァリエの駒であったというのなら、駒としての最後の願いを叶えてやるのも思いやりだろう。

 死ぬ瞬間、男はうっとりと『愛していた、ブロンド。ありがとう』と言い残した。

 人形遊びがいつの間にか彼にとって、人形遊びではなくなっていたようだった。

 そんなことにもこの人形は気がつかなかった。

 シュヴァリエ家に生まれ、生まれつき病弱だと思い込まされて、弱毒を与えられ続けた次男はそうして死んだ。

 長男の代替え品でしかなかった男だった。長男が生きている限り、長男と父に絶対服従させるため、毒を盛られ続けるしかなかった男だった。

 生殺与奪を握られ、唯一与えられた慰みが、彼の倒錯した欲望を満たすための奴隷だけだったというのに、その奴隷に想いを抱くとは愚かだ。

 そういえばイーディスは、どうしただろう。

 何故かそう思った。

「……アノニマスか」

 背後から男の声が聞こえた。老人の喉から漏れるのは低い掠れた呻き声だった。

「お前がやったのか……」

 引き連れたような恐怖の滲む声に、男は……グレイグ・バルディアはゆっくりと振り返る。

「残念ながらもうあなたの奴隷ではない。その名で呼ばないでいただこう」

 静かに告げると、男は……シュヴァリエ公爵は顔を歪めた。

 ゆったりとした王族のようなローブ。真っ白な長い髪に、豊かな髭を蓄えた絶対的な権力者。尊大にして疑い深く、己の策略を誰よりも信じた男だ。

 だが今は皺に埋もれたその顔が、白く血の気を失っている。

「地下通路を塞いだのは、お前か?」

「何のことでしょうか?」

「とぼけるな! あの抜け道を知るのは、わしとお前だけではないか!」

 こんな風に感情をむき出しにするシュヴァリエを見たのは初めてだ。この身を鞭打つ時ですら薄ら笑いを浮かべていたというのに。

「地下通路は古びておりますから、壊れることもありましょう」

「貴様! 奴隷のくせに……汚らわしい欲望のはけ口に過ぎぬ男が、わしに逆らうか!」

「先ほど申し上げた、シュヴァリエ公。私はもうあなたの奴隷ではないと」

 歯ぎしりしたその隙間から獣じみたうなり声を上げ、シュヴァリエが掴みかかってきた。年老いてシミが浮き出た枯れ木のような指だ。力などもうほとんどない。

「イーディスが死んだというのに、何故イーディスの奴隷であるお前が死なんのだ」

「……イーディス様は亡くなりましたか……」

 ああやはり生きてはいなかったか。あの哀れな女は。

 ただ愛情を求め続けただけのあの女は。

 先ほど話したばかりのリッツの言葉を思い出す。

『俺は初めてシュヴァリエ夫人に会った時、可哀相だと思ったんだ。何かにしがみつかないと生きていけない人は確かにいる。あの人はきっと、憎しみにしがみついてないと生きていられなかった。与えられた物が少ないほど、恋焦がれるってのは俺も知ってる。満たされない何かを埋めるために何かにしがみつくことしかできないその気持ちはよく分かるんだ。母親を毒殺した女を哀れんで同調の気持ちを持ってるなんてエドにはいえないけど』

 だから、とリッツは言った。

『だから俺はエドには何も言わない。あんたが自分の始末を自分で付けたいならそうすればいい。あの男が諸悪の根源なんだろう?』

 あんな表情をする青年だっただろうか。苦痛を抱えながらもまるで自らをあざ笑うかのように微笑むような、そんな青年だったろうか。

 リッツという男は。

『これから俺はエドと一緒にシュヴァリエ邸を攻める。シュヴァリエ公爵を捕らえて、民衆の前で処刑することに意味があるのは俺も知ってる。でもあんたはやるべき事をやればいい。あんたは海軍本部にいたことにしてやる』

『お前がエドワードを偽るというのか?』

『そうだ』

『裏切るのか?』

『……裏切りじゃない。ただ俺は知ってる。俺はどこまで行っても闇なんだ。そしてエドはどこまで行っても光だ。俺はシュヴァリエ夫人と同じようにエドに縋り付くしかできないやつで、だからこそ自らの闇を払うための精算は自分にしかできないって分かってる。そこからあんたは光を見いだせばいい』

 口には出さなかったが、リッツの言葉はきっとこう続くのだろう。

 俺にはそれができそうにないから、と。

『お前は清算できない過去を持っているのか?』

『分からないよ。たださ、俺はずっと捕らえられているんだ』

 独り言のような呟きは、答えなど求めていなかった。だからグレイグも答えずに話を変える。

『エドワードが俺を許せるように、俺の過去を俺自身で精算してこいと言うのか?』

『ああ。あんたが闇を断ち切ればきっと、エドにとって必要な協力者になれる気がするんだ』

『いいのか?』

『あたりまえだ』

 それからしばらくして、リッツは海軍の食堂から食料を手にして悠々と一人海軍司令部を後にした。その後を追うように、グレイグは暗殺者として使っていた抜け道から、このシュヴァリエ邸に戻ってきたのだ。

「何をしに戻った?」

「過去を清算するために」

 グレイグは短剣を構えた。グレイグ・バルディアの得物の槍ではなく、この男に命じられた暗殺者らしく、最後は過去ごと抹殺する。

 それがグレイグが決めた精算方法だ。シュヴァリエが消えればこの貴族の寄せ集めは、あっけなく崩壊するだろう。

「まてアノニマス。ミシェルが王城にいる。奴はもう助からないだろう。よってクリスをシュヴァリエ家次期当主とする。クリスはお前を愛している。お前はクリスの元でシュヴァリエ家を盛り立ててゆく名誉を与えてやる」

 ミシェルは長男の名で、クリスは先ほど殺した次男の名だ。

「どうだ、アノニマス? エドワードを殺せ。そうすればお前はシュバリエ家を影で動かせる一大権力を手に入れられるぞ? それは王族をも動かせる権力になるんだ」

 ああ、シュバリエ公爵がこんなにも汗を流して熱弁する姿は初めて見た。絶大な権力を持っていたのは、ただ単に家柄に寄り添っていただけに過ぎなかったのだ。

 貴族たちから引き離し、国家からも政治からも引き離せば、この男はこんなにも小さい。知略や陰謀を得意とする男だが、手足がもがれればこんな風に愚かな弱者でしかない。

「クリス様は今頃死の国で安らかにお休みでしょう」

「な……貴様……クリスを……」

 言葉を失ったシュヴァリエにグレイグはゆっくりと短剣を構え直す。

「イーディス様もそちらにいるのならば、あなたも行くべきだ」

「待て! 待て、アノニマス!」

「何度も言ったはずだ。私の名はグレイグ・バルディア。あなたに殺されたルイーズ・バルディアのたったひとりの肉親だ」

「ああ、あああっ! 誰か、誰かおらぬか!」

「もう誰もあなたを助けない。あなたが抜け道で逃がそうとした貴族たちも、ここで死ぬ」

「やめろ! アノニマス!」

 叫び、逃れるために身を翻したシュヴァリエ公爵を後ろから羽交い締めにした。

「離せ! わしが誰か分かっているだろう! 王族の血を引くシュヴァリエ家の主だぞ!」

「そう。そして前国王殺しの反逆者だ」

 優しくグレイグはその耳元に囁く。

「死の国でハロルド王とルイーズに詫びろ。俺は許さぬが、俺の妹は俺よりも格段に心が広い」

「待て! やめろっっ!」

 シュヴァリエは全力で抗っているのだろうが、グレイグの腕は微塵も緩まなかった。両腕をねじり上げ、抵抗できない姿になった権力の亡者の首に短剣をあてた。

「私の最後の暗殺の仕事は、あなただったようですね、シュヴァリエ公」

「ばかなっ! 馬鹿なぁぁぁぁ!」

 スッとナイフを横に引く。噴水のように吹き上がる血液の中で、シュヴァリエの絶叫が響く。軽くその身体を突き飛ばすと、その血飛沫を身を翻して避ける。

 血を吹き出しながらのたうっていた男はやがて全く身動きしなくなった。驚愕の表情のまま目を見開き、シュヴァリエは絶命した。

 表に出ることをせず、裏で全てを牛耳ろうとした男、シュヴァリエ公爵。

 戦いにおいても陰謀においても、全て他人にかぶせ、自らの手を汚すことのなかったその男が、自らの血に全身を汚して死んでいる。

 闇で貴族を操つり、王族をも翻弄した男が、戦闘の最中、闇から闇へと暗殺によって葬られるという皮肉。

「お忘れですか? 私が優秀な暗殺者であることを」

 グレイグは、一滴の返り血も浴びぬまま短剣を収めた。返り血を浴びていては海軍に戻ったときに疑われてしまう。

 この暗殺の秘密を知るのは、自分と、そしてリッツの二人だけだ。それでいい。

 たったひとりでシュヴァリエ家に終焉をもたらせた男は、窓越しに戦いの続く庭園を見下ろした。

 味方を鼓舞し、率先して戦うエドワードの横に、まるで影のように寄り添う一対の姿がある。

 黒髪をなびかせ、剣を閃かせて舞うように戦うその姿は、確かに闇夜の風のようだった。

 他の貴族が集うホールは、革命軍に任せればいい。もうたった一つの逃げ道は塞いだ。これで貴族たちの運命は決している。

 今やるべき事は、ギルバートと合流し、海軍の後始末を手伝うことだ。 

 グレイグは身を翻し、主の死に絶えたシュヴァリエ家を後にした。 

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