<6>
朝日が昇りきり、シアーズの街は明るい光に包まれている。本来なら朝食を終えた人々が賑やかに商店を開く頃だろうが、街はまるで廃墟のように静まりかえっている。
だが人々の視線は常にこちらを向いていて、気配だけがまとわりつくように漂っている気がする。
時折散発的な戦闘の音が微かに耳に届く。西門から逃れた一部兵士たちや、城門内に逃げ損ねた兵士たちによる戦闘は街のあちらこちらで起きており、街には戒厳令が敷かれたままだ。
エドワードがジェラルドと共に訪れていた頃は、ティルスの何倍もの人々で街はいつも賑わっていた。だがそれが嘘のように人通りのない通りをエドワードは部隊の先頭に立って歩いていた。
常時であれば王族を名乗る以上、馬車か馬に乗って移動をするだろうが、市街戦が収まっていないこの状況で馬に乗るのはどう考えても自殺行為だ。どこからでも弓で射てくださいという意思表示になってしまう。
それにエドワードは歩くことが嫌いではない。むしろ好きだ。街の空気を感じるためには、街を歩くことが一番だと考えている。
あちらこちらの家々からは白く煙が上がっている。人々の生活の息吹がそこからも感じられる。
吐く息が白い。日が昇ってしばらく立つのにこんなに寒いのだから夜明け前はどれだけ冷えていたのだろう。
大門の外で過ごした兵士たちは寒くなかっただろうか。防寒用具は足りただろうか。
そういえばリッツ率いる遊撃隊員たちも、この寒さの中を出かけていったのだった。
今朝方、というよりも夜更けに寝ぼけ眼で起きてきたリッツは、とっくに海軍司令部を占拠し終えた頃だろう。
いつものように軽く『後で合流するから』と出かけたリッツに手を振ったが、予定よりも合流は遅れている。
リッツのことだ、万が一のことが万が一にもあるわけがない。だが現にとっくに戻っているはずなのにリッツはこの場にいない。
海軍司令官であるマレーは、ジェラルドも太鼓判を押す海軍指揮官であり、元々はシアーズ王国軍改革派に所属していた人物であったそうだ。階級は元帥、貴族階級は伯爵だ。
元々は伯爵家の次男坊で子爵を継ぐ予定だったが、大陸一周を認められ、国王から伯爵の爵位を下賜されたらしい。
ギルバートがついていながら、海軍制圧にリッツが時間を取るわけがない。いったい何があったのだろう。
エドワードは溜息をついた。本来ならこの作戦にリッツがいる必然性は全くない。エドワードとジェラルドがいれば何の不足もないのだ。
同行すると言い出したのはリッツの方だったのに、その本人が帰ってこないのは予想外だった。
最近のリッツは様子が少しおかしかった。あまり目が合わないのだ。人との距離感を覚えられず、あれほどエドワードの間近に顔を寄せてきていたリッツが、エドワードと軽く距離を取る。
見つめ返す深いダークブラウンの瞳が、微かに逸らされることが気がかりでもあった。
そのくせやけにエドワードの身を案じる。今までなら海軍司令部を攻略したら飯でも食ってていいか、などというくせに、今日は頑固に『シュヴァリエ邸には俺も行く』と主張していたのだ。
一言で言うと、情緒が安定していない。ギルバートにはさりげなくその旨を伝え、気にかけて貰うように頼んであった。
戦場にいた昨日はいつも通りのリッツで、全く違和感はなかったのだが、闇の精霊に飲まれた後と、リチャードを倒した後は更に妙だった。
リッツはいつも通りに接しているつもりだろう。だがエドワードには分かるのだ。目が合わないということの意味が。
「何を隠してるんだよ……」
自身では気がついていないが、リッツは隠し事がそれほど上手くない。何を悩んでいるのか、何故そんなに苦しそうなのか。その理由は分からないが、悩んでいることだけはよく分かる。
前にもそう伝えたのに。
前……?
それを伝えたのはいつだった?
思考がふと捲き戻り、あの時のことを思い出す。
そうだ。この表情、この態度。
エドワードが死にかけて目を覚ました、あのファルディナの夜と同じだ。
違うことはたった一つ……。
あの時と違って何かを抱え込みつつも、リッツはエドワードの前で笑うことができるようになっている。泣きわめくことも、叫ぶこともなくただ静かに笑みを浮かべることが。
「エド」
小さく呼ばれて我に返る。隣に立つジェラルドだった。
「どうした?」
「寒いなと。門外の兵士たちは大丈夫かな」
軽くそういうと、ジェラルドは柔らかく微笑んだ。
「天幕と防寒用の毛布は人数分揃えてある。心配はない」
「そうか。でもあまり長いこと彼らに無理はさせられないな」
「そうだな。早いところ帰る土地のある民は自治領区に帰すべきだろう。正式に軍に残る者は正規の手続きを踏まねばな」
「ああ。遅くとも農家の繁忙期には故郷に帰したい」
歩みを止めることなく、空に向かって息を吐く。
ここシアーズを押さえてしまえば、あとはルーイビルとランディアを各個撃破するだけだ。
幸いなことにランディアはシアーズを攻める場合海路を使うか、大回りしてオフェリル、ファルディナを通るしかない。海路は海軍を制圧すれば封鎖できるし、陸路でアイゼンヴァレー、オフェリル、ファルディナ、直轄地を通ってここまで攻め上ることは到底不可能だ。
今後戦わねばならない勢力は、事実上ルーイビルであり、革命軍に参加した農民達は故郷に帰しても問題ない。正規軍だけになっても、十分対応できる。
国家を潤すのに巨大な軍隊はいらない。だが沢山の農民は必要だ。
それが国家運営の大前提である。
「……リッツが来ないな」
不意にジェラルドは小さく息をついて顎を撫でながら呟いた。エドワードの一番の懸念を見透かされたかと一瞬焦る。
革命軍の兵士たちよりもそちらを気にしていたなどと知られたら、大目玉を食らいそうな気がする。つい黙ってしまったエドワードに、ジェラルドはつまむように顎を擦りながら言葉を続ける。
「海軍の制圧は、とうに終わっているぞ」
「え?」
「先ほど伝令が届いた。エルナンドが戦わずして全面降伏をしたそうだ。それから抵抗する貴族を掃討し、全ての艦艇を制圧したがほとんど抵抗する者もなく、二時間ほどで全てが終わったそうだ。もっともヴェラの毒で戦える者自体が少なかったそうだがな」
「……そうか」
エルナンド・マレーはジェラルドの古くからの友人だ。というよりも人生の師であるとも聞いている。
元々、王国軍改革派の思想を持ちだしたのは彼だという話もあるぐらいだ。
「最初にマレー提督が降伏したのなら、リッツはいったい……」
「そうだな。司令官を降伏させ、ギルバートに海軍を委ねたら戻るといっていたのだから、もうここにいてもいいはずだが」
「……ああ」
「おおかたマレーの冒険譚にでもやられているのかもしれないな」
「そうかな」
まだ妙な胸騒ぎは残っているが、そうこうしていても仕方がない。
「そのうち追いつくさ」
自分に言い聞かせるように明るく言い切ると、エドワードは笑って見せた。肩をすくめたジェラルドが苦笑した。やはりエドワードの杞憂を感じ取っているのかもしれない。
だがここで悩んでいても仕方がない。
再びエドワードは目的地へと真っ直ぐに視線を向ける。エドワードを含む千名近い部隊が向かっているのは、王城の門に最も近いところにある、広大な敷地を持つ館だった。
ユリスラ王国の王城は元々丘の上に立っていた。海からの攻撃が当たらず、陸からの攻撃を防ぐ壁が築けるこの立地は、最高の防御機能を備えている。
王国が大きくなるに従い、城に近い所から順に階級の高い貴族が住むようになっていったらしい。歴史書にはそれと同時に確立されたのが貴族制度だと書かれていた。
元々は王城から最も近い所には、王族の血を引く王国三大公爵の大邸宅があった。王城の壁を背に立つ館に、私兵たちが住む集合住宅までを持つ広大な敷地だ。
だが三大公爵のうち二公爵家は現在、ランディアとルーイビルに移り住んで王国東部・西部に分かれて絶大な権力を、振るっているのである。
昨日の戦闘で逃げ去ったとはいえ、彼らは西部と東部の覇者だ。また力を付けて反撃してくることだけは間違いなかった。
そして残る三大公爵家がイーディスの生家であるシュヴァリエ家だ。当然のように私兵集団を抱えており、その数は百を優に超えるという。
「あの情報は本当かな」
リッツのことは頭から追い出し、エドワードはジェラルドを見た。
「シュヴァリエ公はまだ敷地内にいるっていう」
「それは確からしい。シュヴァリエ公は知略に富んだ男だ。城に逃げ込む方が理がないことぐらい分かっているだろう」
「……みすみす飢え死にしたくはない、か」
「その通りだ」
エドワードが攻城戦を即時に取らなかったのは、これが理由だった。
城門内に逃げ込んだほとんどの人々が貴族である。安全を求めて城内に逃げ込んだであろうが、そこは檻の中同然なのだ。
革命軍がシアーズの街を攻略し、海軍を味方に付けてしまえば、籠城した貴族たちの補給は完全にたたれる。
城内に井戸はあるから水だけは飲めるかもしれないが、食料はあれだけの人数がいれば一月は持たない。
籠城している貴族を見張り、門を押さえつつ、シアーズの街を完全解放する。城から見下ろすシアーズの街の賑わいを眺めつつも、貴族たちは飢えと闘う羽目になるだろう。
多くの難民を見てきたエドワードは、貴族階級廃止を徹底するために、貴族たちに平民に強いてきた差別を実感させようとしているのである。
だがシュヴァリエを含む幾人かの貴族はエドワードと革命軍のその策略を見抜き、シュヴァリエ邸に集結していた。私兵集団を各自が持っていたことを考えると、その勢力は五百を超えると見られる。
私兵集団は元軍人もいるが、多くは街に溢れていた凶悪犯罪者である。国家の乱れで様々な自治領区から逃れた犯罪者がシアーズに集い、それを貴族たちが私兵として召し上げた形だ。
中には一代限りの貴族名誉職、王国騎士の称号を持つ者もいるという。
昨夜その情報がもたらされ、当初の予定を変更した。市街での散発的戦闘をコネル指揮下の部隊に任せたのである。警備、戦闘要員含めて街中に配備されたのは、千人を超える。
そして城外に残った貴族たちと戦うためシュヴァリエ家に向かった部隊は、騎士団を初めとする元軍人が主体の部隊千人で構成された。
「シュヴァリエ公はどうするつもりかな?」
「隙を見てルーイビルに逃げるだろうな。彼らにはおそらく、古来から伝わる秘密の抜け道がある」
「……地下水道……」
「おそらくな」
シアーズの地下には、広大な地下道がある。まだ街が作られ始めたばかりの頃、水を引くために作られたものだ。
現在は離れた大河から近くまで用水を引き、そこから新しい地下水道を使ってシアーズの井戸に水を運んでいるが、古代の地下水道は放置されたままになっているのだ。
「逃げられる前に押さえたいな」
「そうだな」
気を引き締めてエドワードは歩みを早めた。
シアーズ大通りから王城へと垂直に真っ直ぐに続く通りは、綺麗に整備された上り坂だ。富裕層の家を通り過ぎ貴族の邸宅外に入る頃には、街は荒れ始めた。
扉を開けたままの邸宅、斬り殺された召使いの死体、散らばった荷物など、貴族たちが如何に慌てふためいて城門へ逃げ込んだのかがよく分かる。
それらの邸宅から不意の攻撃を受ける可能性も捨てきれないため、警戒しつつの行軍は続く。千人ほどで構成された部隊が王城のあるこの道を攻め上るなど、ユリスラ王国史上あまり例のないことだろう。
王城の門が遠くに見え始めた頃、右手に頑丈な鉄柵に守られた広大な庭園が見えた。鉄柵の向こうには巨大な館を守るように人がうごめいているのが見える。
どうやら貴族を守ることが優先で、こちらに奇襲をかける気は無いらしい。閉ざされた鉄門を開けるために工作班が前に出る。
工作班と言っても、彼らはシアーズ大門広場から一本細道を入ったところにある職人街の鉄職人たちだ。昨夜、門の破壊を交渉したのである。
職人たちが作業に取りかかろうとしたとき、警戒の声が上がった。職人たちが見つめるところには、男が一人座り込んでいたのだ。その男の腰には当たり前のように剣がある。
「な、何者だ!」
職人の誰何に、男はくるりとこちらを振り向いた。口いっぱいに何かを頬張っている間の抜けたその顔に、全身の力が抜けた。
その手にはどこから仕入れてきたのか、具をたっぷり挟み込んだバケットがある。口いっぱいに頬張っているのはそれだ。
「リッツ……」
「おう」
ようやく飲み込んだリッツが座ったまま軽く手を上げた。
「お前、何をしてるんだ?」
「え? 腹減ったから飯食ってた。戒厳令なのに、パン屋はやってんのな」
そういうとリッツは再び残りのバケットにかじりつく。エドワードの後ろにいた元騎士団から笑いが漏れた。エドワードも溜息をつく。
遅いと思ったらまさか朝食を買いに行っていたとは。しかも敵の目の前で食事をしているなんて、図太いにも程がある。見ると水の入ったガラス瓶まであった。それも買ってきたらしい。
心配して損したような、ホッとしたような複雑な気分だ。
「どうかしたの、エド?」
脳天気に聞かれて、思わず頭をはたいた。
「いってぇ! 何?」
「何だか腹が立った」
「何で!?」
まさか最近の暗いリッツを心配して、何かあったのか気になっていたとはいえない。変わりに溜息交じりに問いかける。
「海軍はどうなった?」
「ん。巨大砲はシアーズ革命派が攻略済み。船はヴェラの毒と大砲が撃てない状況にさほどの抵抗なく攻略。マレー司令官は全面降伏。あっけなかったよ」
「貴族の抵抗はどうだった?」
「うん。海軍は本来左遷先なんだって? 危険だしね。だからかな、抵抗した貴族は少数で、ほとんどが無抵抗でマレー司令官の全面降伏に従ったよ」
水に口を付けながらそう流れるように語ったリッツに、つい口調が尖る。
「そうか。それならもっと早くこっちにこれたろう?」
「俺が遅くて寂しかった、エド?」
にやつきながら見上げてきたリッツの頭に、再び拳を落とす。
「いでででで……」
頭を抱えるリッツを前に立ち、ゆっくりと見下ろしながら腕を組んだ。
「寂しがるか。作戦よりも食事を優先するとはいい度胸だな」
「だって腹が減ったら戦はできないんだぞ」
むくれたリッツが残ったバケットを口に押し込んだ。そんなに入れたら食べるのが大変だろうなんて父親のようなことを言う気になれず、エドワードは溜息をつく。
ようやく飲み込み、水で残りを流し込んだリッツが立ち上がった。しかもエドワードではなく目の前の職人達に向き直ったのだ。
リッツの背の高さに、職人達が一瞬息を呑んだのが分かった。
所々赤黒いシミのついた黒い騎士団の制服、腰に差した剣、そして尖った耳。戦場に出たことがない職人達からすれば異様な風体なのかもしれない。
なのに口調はあくまでも子供っぽい。
「何か手伝おっか?」
「い、いえ、アルスター様に手伝っていただくほどのことでは……」
「遠慮するなって。こう見えても俺、力持ちだよ?」
「いえ、本当にお心使いだけで……」
恐縮する職人に変わって、エドワードがリッツの身体をこちらにむき直させる。
「仕事の邪魔をするんじゃない」
「え~、だって初めて見たんだよなぁ、あの工具」
「そういうのは戦いが終わってからじっくり見せてもらえ」
「ちぇ~」
子供っぽく口を尖らせるリッツの目が、一瞬エドワードと合う。その目が微かに細められたのが分かった。今までリッツがそんな目をするのは見た事がない。
「リッツ?」
エドワードの変化に気がついたのか、リッツはいつものように笑顔を見せた。
「何?」
そこに曇りは何もなかった。何の曇りもないという違和感がエドワードを不安にさせる。
掴めない。リッツが。
何故だ。今までのお前なら、俺に気がつかれた瞬間慌てるのに、それでなにかを隠しているのだと分かるのに、なのに……。
どうしてそんなに落ち着いているんだ?
「エド?」
「え、ああ。すまないちょっと惚けてた」
「疲れてんじゃん? お前ほとんど寝てないし」
「まあな。ここが終わったら、今日はゆっくり眠れそうだ」
「だよな。よし、気合い入れてぱっぱと終わらせようぜ」
「ああ」
先ほどの微かなリッツの表情に浮かんだのは、エドワードへの切なさだった。そんな目で見られたのは初めてで戸惑う。
だがリッツはなんの頓着もせず、ジェラルドに向かい合っている。
「おっさん、沢山いんの?」
「言葉が雑だなリッツ。私が沢山いるようではないか」
「違うって、敵だよ」
「五百から千。まあ革命軍以上に寄せ集めだ。お前ならわけないだろう。すぐに片付く」
「了解。んじゃ、昼飯は暖かいもん食べたい!」
「考慮しよう」
いつもの通りのリッツで、いつもの通りではないリッツだ。
何があった?
だがエドワードはこの状態のリッツには何も聞き出せないことを知っている。リッツの生い立ちを隠すときと同様の頑なな何かがあるのだ。
目の前で門が音を立てて倒れた。鉄柵は倒され、入口が大きく広げられていた。
今はリッツのことを考えている場合じゃない。やるべき事をなす。それがエドワードの役割だ。
味方を振り返ってエドワードは大きく声を張る。
「総員戦いに備えよ。ハロルド王を陰謀にて殺害したシュヴァリエ公爵を討伐するのだ」
兵士たちが鬨の声を上げた。
「総員、突撃!」




