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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
争覇の終極
126/179

<5>

 まだ日も明けきれない薄闇の中で、リッツは小さく息を吐いた。真っ白に曇った息の向こうに海軍司令部の門が見える。

 昨日からの天候はまだ回復しておらず、底冷えするような海風が容赦なく吹き付けている。

 冷たくなった鼻を擦り、冷えきって痛む耳を優しくさする。

 一月のシアーズは真冬だ。雪が降る王国北部やグレインに比べたら凍てつく程の寒さではないが、それでも十分に寒い。

 防寒用のコートの上から腕をさすってみても全く効果はないが、やらないよりはましだった。

「寒そうだな、リッツ」

 聞き慣れた笑いを含むどっしりと低い声に、振り返りもせずに肩をすくめる。

「寒いさギル。人より耳が大きいから余計寒さが身に染みるんだ」

「分からなくもないが、その耳が隠れる耳当てもないだろう?」

「まあね。今度ラヴィに作って貰おうかなぁ」

「あいつはこだわるからな。できてくるのは春になるぞ」

「いくら僕でも、耳当て程度ならそこまで時間が掛かりませんよ」

 のんびりとした声が加わった。凄腕の槍使いにして巨体のラヴィの声は、いつも柔らかく優しい。見た目と実力がこれほど合っていない人物もいないだろう。

「じゃあ作ってよ、俺の耳当て」

「了解。この作戦が終わったらね」

「だよな」

 軽口を叩きつつ、再びリッツは正面を見た。そこには未だシアーズ陥落を知らず平穏な朝を迎えようとしている人々が眠っている。

 奇襲を仕掛けて海軍の被害を最小限にとどめ、戦力を無力化する。それがリッツの仕事だ。

 海軍の兵士たちは特殊技能の持ち主が多い。無差別に殺してしまえば海軍の復旧が遅れ、隣国フォルヌに決定的な機会を与えてしまうことになりかねない。

 そのためにこの海軍は情報を遮断していたのである。ここの貴族を倒し、平民出身の兵士たちを味方に付ければ、被害は最小限ですむ。

 まさに策を持って被害を最小限にとどめるを地でゆくエドワードの作戦そのものだ。

「お前の相棒はどうした?」

「ん? エド?」

「そうだ。お前と違って街に入ってからも忙しく働いていた王太子殿下は、どうなさっておいでだった?」

 軽くからかい口調のギルバートに、ふざけて肩をすくめる。

「妙に丁寧じゃん」

「そりゃあな、どこに間者がいるか分からんし」

「んなわけないじゃん」

「それもそうだ。まったく公私の切り替えの面倒なことだ」 

「そんなこと思ってないくせに」

 ここにはダグラス隊の幹部連中しか居ないからギルバートの口調は砕けたものだった。改めてリッツは今朝のエドワードを思い出す。

 豪華で広い部屋にエドワードと二人で宿泊したリッツだったが、昨夜は疲れ切って食事もそこそこにベッドに倒れ込んでしまった。

 エドワードが言っていた通り、闇の精霊に取り憑かれたのは相当に堪えていたようだった。

 だがリッツと違い、エドワードはあちこちに指令を伝え、ジェラルドと打ち合わせをしていたらしい。

 目覚めた時、となりのベッドにはすでに友の姿はなく、隣室の真ん中に置かれていた十名近くが座れそうな円卓には書類が積み上がっていた。

 欠伸混じりで現れたリッツに、書類に埋もれたエドワードは書類から顔を上げることなく、笑顔で尋ねてきたのだった。

『よく寝ていたな。立ち直ったか?』

 我が友ながら呆れるほど頑健だ。

「朝から忙しそうにしてたよ」

「さすがだな」

「うん。今日はコネルたちも大貴族の邸宅を押さえる予定だし、エド本人はおっさんとシュヴァリエ邸を押さえる予定だしね。その合間にグラントを呼ばないとってさ」

「お前もだらけてないで気合い入れて行けよ」

「わーってるって」

 黒髪をがしがしとかき混ぜて、リッツは大きく息をつく。こちらの制圧が終わり次第、リッツもエドワードに合流する予定だ。

 貴族の邸宅は正規軍で制圧した方が今後のためにもなるから、遊撃隊員は海軍を制圧するというのは、元々ギルバートの策だ。

 もし元々傭兵たちが主体になっている遊撃隊員が貴族を攻撃し国家の権力を覆してしまうと、今後正規軍になるだろう本隊の立場が弱まってしまうと言うのだ。

 その上で指揮官としてリッツを立てておけば、王太子直属のイメージをこの部隊に与えられる。大義名分としてリッツがここに居ることは重要なのだ。

 正直、リッツは面倒だと思う。

 戦力は戦力で別に誰がどうとか関係がないと考えてしまうからだ。でもリッツの分からないところで組織には難しい決まり事が沢山あるようだ。

 やはり人間は難しい。傭兵だろうと革命軍だろうと人間であることは変わらないだろうに。

 ふと暖かな光が頬に差した。東の水平線から太陽が微かに顔を覗かせ始めたのだ。雲は多いが切れ目から差すその微かな光さえも暖かい。

「夜が明けたな」

 呟くと隣に立ったギルバートが頷く。

「ああ。シアーズの民にとって、久しぶりに不安のない夜明けになるだろう」

「そうだね」

 貴族に怯え、新祭月の狂乱に身をやつし、疲れ切ったシアーズの民衆に、革命軍は、エドワードと自分たちは光を照らせるのだろうか。

「惚けている場合じゃないぞリッツ」

「うん。分かってる」

 頷きながら門の中に視線を向けた。同時に門の中にあった見張り小屋から二人の兵士が出てきた。門番を務める男たちだ。

 彼らは門の外に集う革命軍を見ても動じずに、いつもの通り門を開ける。

 手にしていた警備兵用の槍を下げ、兵士たちはリッツとギルバートの前にやってきた。そっとギルバートが一歩下がるのを感じる。

 そうだ。ここで最も責任ある立場なのは、ギルバートではなくリッツでなくてはならない。

 シュヴァリエ家に攻め入るのが王太子であるならば、海軍を制圧するのは精霊族の戦士でなくてはならないのだ。

 それは傭兵と正規軍の問題と同じく、今後の海軍の指揮系統の問題を解決するための一つの布石である。

「お待ちしておりました、アルスター様、ダグラス中将」

 兵士たちの最敬礼にリッツは頷く。

「状況は?」

「未だ彼らはシアーズ陥落を知らず、待機任務に就いております」

「大砲はどうだ?」

「グレイグ様が占拠しています」

「……そうか……」

 グレイグ・バルディア。あの戦闘以来の再会だ。やはりこちらがリッツで正解かもしれない。エドワードはまだグレイグに会うことが気まずいだろう。

 静かにリッツは兵士を見つめた。

「ご苦労だった。今後も王太子殿下に忠誠を」

「はっ!」

 頭を下げる兵士を前に、リッツは振り返る。そこにいるのは戦場を共に越えてきた遊撃隊の面々だった。ダグラス隊とグレイン騎士団第三隊を中心とした、少数精鋭部隊だ。

 人を率いる器ではないリッツにとって、この少人数が指揮をするのに丁度いい。

「指令を、指揮官殿」

 軽く笑いを含んだ口調でギルバートがいう。本当の指揮官はギルバートなのにと思いつつ、立場上指揮官のリッツは遊撃隊を見つめ、息を大きく吸い込んだ。

 まだだ。戦いはまた終わっていない。

「海軍を制圧する。大砲はシアーズ派によって無力化されているが、油断はするな」

 全員が了解の声を合わせた。

「ソフィア」

「はいよ」

「一番小さい艦に炎の弾を撃ち込んでくれ。いい目覚ましになるからさ」

「了解、アルスター指揮官」

 からかわれているような気しかしない。だがソフィアは吹かしていた煙草を構えた。紫煙が風に乱れた瞬間、そこに白熱した弾が生まれた。

「いくよ、リッツ!」

 いつものソフィアにリッツは頷くと剣を抜いた。

「うん!」

「燃えさかれ、火球!」

 一直線に走った炎は、一番小さい船に突き刺さり大音量を上げてから燃え上がった。

 港が一気に目覚める。

「突撃!」

 かけ声をかけると共にリッツは駆け出す。目指すのは指揮官がいるだろう本部の建物だ。

 リッツはマルヴィルを副官に、ジェイとラヴィと数名の元騎士団第三隊と共に、指揮官を降伏させる役割を負っていた。

 外はギルバートが指揮を執り、残りの人数全員で船を抑える予定だ。

 駆けるリッツの目の前で、混乱と共に人々が飛び出してきている。本部の建物の隣に立っているのは兵士たちの宿泊施設なのか、武器すら持たない者もいた。

 呆然と立ち尽くす彼らの間をリッツはすり抜ける。無益な殺しは無用だ。とにかく頭を押さえればいい。

 それはここに奇襲をかける際に取り決めたことだった。

 ジェラルドに聞いた海軍指揮官の人となりから推測すれば、指揮官を味方にすることができるかもしれないようだ。

 ほとんど抵抗を受けないまま、リッツは建物にたどり着いた。入口で振り向くと船に泊まっていたらしい宿直の兵士が慌てふためいている姿と、その船に乗り込んでいく遊撃隊員の姿が見える。

「リッツ」

 マルヴィルに呼ばれて頷く。

「うん。あっちは任せろってことだよな?」

「その通りだ」

「了解」

 返事をしつつ、リッツは目の前の大きな扉に手をかけた。

「リッツ。そういうのは部下に任せるんだよ」

「その通りだ。指揮官が雑用してどうする?」

 苦笑しながらラヴィとジェイが両側から扉に手をかける。

「そっか」

「そろそろ慣れなよ、リッツ」

 そういうラヴィはリッツを子供扱いしている。黒髪を掻きながらリッツは二人に扉を任せた。両開きで左右の扉を合わせると四メートル近いその扉は、鍵すら掛かっていなかったらしく、抵抗なく二人によって開かれていく。

 不用心だと思いつつ開いた扉の向こうには、武装した兵士がいた。図らずも彼らの正面に立ったリッツは、ゆっくりと彼らを眺める。

 警備兵だろうか。先ほどまで見た兵士たちに比べてまともな武装をしている。だが彼らはここまで敵が来ているとは思えなかったのか、リッツを見て訝しげに眉をしかめた。

「何があった?」

 指揮官と思われる男に問われて、リッツは肩をすくめる。

「俺に聞かれてもな……」

 からかわれたと思ったのか、男は声を荒げる。

「どこの部隊所属だ?」

 きつい誰何の言葉に、リッツはゆっくりと剣を構えながら微笑む。

「エドワード王太子殿下直属の革命軍遊撃隊だ」

「な……」

 愕然と指揮官は目を見開く。小刻みに唇が震えている。情報を遮断されていた彼らは、まさかこのシアーズに敵が乗り込んでくるなど想像外だったのだろう。

 その混乱にリッツは乗じた。うっすらと笑って見せたのだ。

「海軍司令官はどこだ? お目にかかりたい」

「……貴様、何者だ?」

 穏やかな威圧に気圧されたように数歩下がった男に、静かに告げる。

「リッツ・アルスター。精霊族にして我が誠の王の友」

 穏やかに微笑め。相手を大声で脅しても実入りは少ない。恐怖は脅したり大声を出すことで煽られはしない。余裕を持つ相手に攻め込まれることで最大限の効力を発揮する。

 ギルバートとダグラス隊に教わった、馬鹿でもできる攻めの対話術だ。

「馬鹿な!」

 案の定混乱と恐怖を浮かべた相手に、リッツは静かに告げる。

「シアーズは我らの手に落ち、貴族はみな王城に逃げた。抵抗するだけ無駄だ。降伏しろ」

「嘘をつくな! このシアーズが陥落などするものか!」

 裏返った叫びを上げながら、男は剣を抜いた。剣にはさりげなく紋章が入れられている。なるほど貴族だ。

 後から続いていた兵士たちは戸惑ったように顔を見合わすばかりで剣を抜くことすらしない。だが頭に血が上っているのか、指揮官は全く気がついていないようだ。

「王国軍が賊軍ごときに敗れるはずがない! 貴様も偽物に違いない! これは我ら海軍を陥れるための罠だ!」

 わめき散らす男は振り返って初めて部下たちが皆剣を抜いていないことに気がついた。

「何故、剣を抜かぬか!」

 怒号のような男の叫びに、部下たちはじりじりと下がる。なるほど彼らは平民のようだ。海軍は上下関係がかなり厳しい部隊だと聞く。このような上官に従っていたのは大変だっただろう。

 人ごとのようにそう思いつつ、リッツは穏やかに部下たちへと語りかけた。この状況ならばリッツの言葉が届くだろう。

「シアーズはもはや貴族の物ではない。我が誠の王エドワードのものだ。エドワードは貴族制度を廃止し、全ての民が救われる国家を作ると私に誓った。志あるものは剣を納めよ」

 英雄として告げると、兵士の間に更なる動揺が走った。無為に虐げられてきた者たちにとって、エドワードの思想は救いなのだ。

 だが指揮官は苛立ち紛れに近くにいた部下に剣を向けた。切っ先を突きつけられて竦む部下を怒鳴りつける。

「私の命令が聞けんのか!」

 それでも部下たちは剣を抜かない。腹立ちが頂点に達したのか、指揮官は剣を振り回した。

「何を迷っている! こやつらは敵だ! スチュワート王に逆らう逆賊だぞ!」

 男の大声はヒステリックに響いた。だがそれに答える者がいない。こんなに人がいるというのに、静まりかえった空間は異常だった。

 誰も反応しないのを見て、男は目を血走らせた。

「逆らうのか……逆らうか、平民風情が!」

 大声で喚いた男は、ふと真顔になった。

「そうか街が落ちたのか。貴族は避難したと言ったな……では焼き払えばいいではないか……偽王太子がいる街ごとな!」

 口の端から唾を飛ばしながら、男は狂喜の笑みを浮かべて叫ぶ。

「簡単なことではないか! そのための力を我らは持って……」

 狂ったような男の声は唐突に途切れた。

「なんだ……これは?」

 自分の腹からつきだした数本の剣を呆然と見つめ、惚けたように男は呟く。

「なぜだ……?」

 次の瞬間、男は喀血した。だらりと下がった腕から剣が落ちて床に転がる。

「シアーズは我々の家族が住む街だ。これ以上家族を殺させはしない!」

 今まで上官だった男の腹に剣を突き立てた兵士たちが毅然と告げた。

「きさまら……平民の……分際で!」

「そうだ、平民だ! だが人間だ! 貴族に易々と殺されてたまるか!」

 決意を持って告げられた言葉と同時に、突き立った剣が一斉に抜かれた。その剣によって立っていた男が、力を失い音を立てて倒れる。

 冷たい床に赤黒い血だまりがじわりと広がっていく中で、指揮官だった男は数度痙攣を繰り返して息絶えた。

 本当だった。本当に大砲を撃とうとするんだ、貴族は。

 そのことにリッツは戦慄した。いくらなんでも街ごと焼き払うなんて考えないだろうと思っていたが甘かった。

 人間同士なのに、貴族と平民という肩書きだけで分けられただけの同じ種族なのに、ここまでやるのか。

 そのことに純粋に驚いた。

 虐殺、焼き討ちなど、貴族がしてきたことは見てきたつもりだ。だが街一つを滅ぼそうとするなんて正気の沙汰じゃない。

 やはりエドワードやジェラルドが言う戦略通り、シアーズ派に巨大砲を封じさせておいて正解だったのだ。

 不意に背中をつつかれて飛び上がりそうになったのを必死で堪えた。微かに振り返ると背中をつついたのはラヴィだった。

「リッツ」

 小声で呼ばれて初めて、目の前で剣を納めた兵士たちが跪いているのに気がついた。

「リッツ・アルスター様」

「ああ」

「降伏します。我々は家族に弓引く貴族にこれ以上は忠誠を誓えません」

 俯く男たちの顔には、安堵の感情が満ちていた。貴族に支配され、貴族に虐殺されても文句も言えぬこの街で暮らしてきた兵士たちにはどれだけの苦悩があったというのだろう。

「降伏を認める。王太子殿下と共に、新しい世を作ろう」

「はっ! ありがとうございます」

「では早速ですまないが、一人、海軍指揮官の元へ案内を頼む。残りは全員、海軍兵士たちに降伏を勧めてくれ」

「了解致しました」

 未だ街一つを焼き払おうとする貴族の考えに衝撃を受けたまま、リッツは案内されるままに司令官室へと向かった。

 案内された先にいるのも貴族のはずだ。巨大砲は封じられているから街を攻撃される心配はないが、またそのような貴族が出てきたらと思うと気が重い。

 いっそのこと斬りかかってきてくれれば斬り殺してしまえるから気が楽だ。

 建物の最奥にある司令官室の扉を開けると、そこには想像と違う光景が広がっていた。

「わぁ……」

 思わずリッツは感嘆の声を上げてしまった。扉を開けると目の前にあったのは巨大で精密なエネノア大陸の地図だったのだ。

 海には無数に浮かぶ島々の姿まで書き込まれていて、大陸内部よりも海や港に、ぎっしりと詳しい書き込みがされている。

 リッツがまだ見た事のない世界。

 エドワードが知りたいと願っている世界。

 その精密な地図がそこにあった。

「これがエネノア大陸……」

 無意識に近寄った地図の横には木造のシルフ像がある。シルフは風の精霊、船の守り神だ。

 その正面にあるのは見た事のないような不思議な形の彫刻やランプだった。どう見てもこの国の物ではない。

「すごい……」

 思わず呟いたリッツは、再びラヴィにつつかれて我に返る。

 そうだった。ここは敵の司令官がいる場所だ。感動している場合ではない。

 改めて部屋を見渡すと、細身で初老の男が執務机に片手をついて立っていた。ジェラルドよりもかなり年上だろう。

 着ている軍服から、海軍司令官だと分かった。

 リッツが口を開く前に、その男が話しかけてきた。

「小さいだろう?」

「……え?」

「ユリスラ王国だ。地図で見ればこれだけの大きさしかないんだ」

 穏やかで意外な言葉に男をまじまじと見つめる。人に偽られることを嫌うリッツは、癖で必ず初対面の相手の瞳を凝視してしまう。その癖は今も変わらない。

 男はまるで静かな海のような深い青の瞳をしていた。そこには敵意や偽りを感じない。ただ好奇心のようなものが見え隠れしていた。きっとリッツ個人への興味なのだろうとすぐに理解する。

 精霊族を初めて見る人間は、いつもこんな表情を多かれ少なかれするものだ。

 年相応の皺に彩られたその表情はただ静かで、綺麗になでつけられた髪は元々色素の薄い茶色なのだろうが、ほぼ全てが白髪だ。

 言葉を発しないリッツに怪訝な目を向けるでもなく、男は春の日の凪のように穏やかに言葉を続ける。

「この大陸のたった六分の一だ。そしてこの大陸の外は全て海だ。どこまで行っても海だろう。どうだい? 小さいと思わんかね?」

「……うん」

 つい頷くと、男は神妙に頷き返してきた。

「その小さい地図の中で、人々は争いを繰り返している。貴族だ平民だと実に小さいことだ」

 司令官はゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

「この国の内部にいれば、貴族、平民、王族と分かれている。だがこの国から出てしまえば我々は全てユリスラ王国人だ。世界を知れば自らの地位や名誉や誇りなど、ちっぽけであると知る」

 穏やかながら実感のこもった語り口。

 リッツはジェラルドから聞いていたこの人物評を思い出していた。

 穏やかで博識でありながらそれを誇るでもなく、そして誰よりも強い好奇心を持つ男。

 隣国との戦争状態にない現在、最も昇進することができぬと言われる海軍において、貴族、平民どちらからも尊敬を集め、両者をよく従えて統率を守り続ける海軍司令官。

 そしてハロルド王がまだ若かりし頃、王の命によってエネノア大陸一周を成し遂げた伝説の艦長にして冒険家。

「あなたが……エルナンド・マレー提督……」

「若いのに、しかも精霊族であるのによく知っているな」

 男は……マレーは楽しげに目を細めた。これはリッツに色々と知識を授けようとするときのジェラルドと同じ表情だ。

「モーガン元帥に聞いております」

「懐かしいな。ジェラルドは元気か?」

「はい」

「それはよかった。彼がシアーズを去ってから、誰も私の冒険譚を聞きにこない」

 ジェラルドがマレーに詳しかったのは、親しくしていたからだった。このマレーの冒険譚はジェラルドを通して幼き日のエドワードに伝わったそうだ。エドワードの世界の憧れは、こうして培われたのだという。

「貴官が来られたということは、シアーズは革命軍の手に落ちたということだな」

「はい」

「ならばまたジェラルドと話ができるのが楽しみだ」

 そういうとマレーは真っ直ぐにリッツの前に立ち、静かに最敬礼をした。

「海軍は全面降伏する。我らの望みはユリスラ王国の海を守ること、そして海の神秘を探ることだ。それを王太子殿下が叶えてくれることを望む」

「全面降伏を受け入れる。現時点から海軍は王太子殿下の配下に置かれるものとする」

「王太子殿下に忠誠を」

 膝を折ったマレーに、リッツは頷いた。大きく息をつく。これでリッツの仕事が一つ片付いた。後はエドワードの元に行くだけだ。

 ふと視線を感じて部屋の片隅を見ると、闇に紛れるように男が立っていた。ユリスラ王国軍の軍服に身を包んだ長身の男だ。

 見覚えがあると思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。思わず息を呑む。

 同時に思い出すのは、出会った時に太ももに突き立てられた短剣の燃えるような痛みだ。

 反射的に剣に手をかけ、それから思い出す。そうだ、ここで巨大砲の攻略を指揮したのはこの男だったと。もう敵ではないのだから、殺害の恐怖に神経を使わずにすむのだ。

「久しぶりだな、リッツ・アルスター」

 金の髪で顔の半分を覆い隠した男は、こちらを見て伏し目がちに苦笑する。ティルスから敵であり、現在はこの街の革命軍を率いていたと今朝方知らされたばかりのグレイグだった。

「あんた……なんでここに……?」

 リッツの疑問に答えたのは本人ではなく、リッツの葛藤を知らないマレーだった。

「我が軍の巨大砲を占拠したことを伝えに来てくれたのだよ。まあ一般的には脅迫というのかな?」

「脅迫ではありません。あなたが民衆に大砲を撃ち込むような人物ではないと存じております」

 静かに答えたグレイグに、知らず知らずのうちに歩み寄っていた。

 もし再会したら言いたいことがいっぱい会ったような気がする。何故自ら動けるようになってからも暗殺者として生きていたのか、何故ティルスを燃やしたのか、何故あれほどの苦しみを受けても今、生きているのか……。

 なのに言葉が出てこない。エドワードには『味方になったら気を遣えばいい』とうそぶいて見せたが、本当にグレイグを気にしているのはリッツの方だったのかもしれない。

 あの時自殺しようとしたのに、死のうとしたのに、何故今生きている?

 いや、何故、生きていられる? 

 目の前で並んだのは初めてだが、リッツよりも少し背は小さいが、年を食っていてもエドワードにかなり似ている。エドワードが年を取ったらこんな顔になるのだろうかと思うと胸が痛んだ。

 その頃自分はまだ、この姿のままだ。

 じっと瞳を見つめると、見つめ返された。エドワードよりも青みがかった水色の瞳にはエドワードとは決定的な違いがある。澄んだ水色の奥に底知れぬ暗闇が見え隠れしているのだ。

 リッツと同じように。

「俺、あんたと二人で話してみたいって、ずっと思ってたんだ」

 正面から見つめながら告げると、グレイグは頷いた。

「俺もお前と話してみたいと思っていた」

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