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エドワードがシアーズの街に入った時刻から、少し時をさかのぼる。
街路に等間隔に置かれたオイル灯の薄明かりの中を駆け抜け、グレイグはようやく約束の場所へとたどり着いた。
そこは王国海軍司令部の建物の裏手である。どこからも影になって見られることのないこの場所は、これからの作戦において最も都合がいい場所なのである。
予定の場所にいたのは、勿論チノだった。
「よう大将。大忙しだな」
「まあな。大門の攻略は終了だ。これで無事、シアーズに王太子殿下が入られるだろう」
「そりゃあよかった。西門で派手にたいまつを焚いたかいがあったってもんだ」
現在西門はすでに革命軍の手に落ちているが、大門が西門陥落の報を受け大混乱に陥っていた時には、まだ陥落してはいなかった。
西門陥落と見せ掛けて、大門を揺さぶり陥落させる。これが革命軍が門の外に集結したときに、内部から呼応し実行する作戦だった。
作戦に使用した木材は事前に油を染みこませて乾かし縛り上げ、借り上げた西門の近くの住宅に極秘裏に協力を要請し保管していた。
それをシアーズ派の面々は、革命軍にいる協力者の狼煙で素早く西門を囲むように木材を広場に並べ、一斉に火を放ったのである。
突然激しく燃えさかる炎によって市街地から隔絶されてしまった西門警備兵たちは大混乱に陥った。燃え上がる炎は西門の城壁を焦がし始め、恐怖に耐えられなくなった警備兵たちは、我先にと西門を開けて街の外へ逃げ出した。
当然そこに待ち構えていたのは、革命軍である。
秩序を失いバラバラに逃れ出た王国軍と、待ち構える革命軍。どちらが勝つかは自明の理であった。
ちなみにこの西門攻略に当たっていたのは、シアーズのすぐ西に位置するアンティル自治領区軍だったそうだ。
「アンティル自治領主軍が……」
イーディスの奴隷であった頃、一度だけ見かけたアンティル自治領主を思い出す。あの気むずかしげな女性領主だったはずだ。
「彼女は軍の指揮を執ったことはないはずだが?」
「そのようですな。実際に指揮を執っていたのは、俺の顔なじみでしたがね」
「顔なじみ?」
チノの顔なじみがアンティルの指揮を執っている? つまりそれはダグラス隊がそちらにいたと言うことだろうか。
グレイグの疑問が顔に出ていたのか、チノが愉快そうに笑う。
「後で会う機会もあるでしょうよ」
教えてくれる気は無いらしい。
「そうか」
「俺は高みで見物していただけだ。実際の報告は指揮官に後日聞いてくださいよ」
事前の準備に関わっていたチノだったが、実際に指揮をしていたのは、シアーズ派の指揮官たちだ。元ユリスラ軍人の彼らに指揮を任せておけば間違いはなかった。
傭兵は正規の兵ならず。本当に信用がおけるのは自国の軍だ。
今後を見ているかのようにチノはそういい、指揮権を持ったことは一度もない。彼は今現在も常に以前のグレイグと同じく、影の存在だった。
「こっちの様子は?」
「ファンの奴が見張ってますが、まあ順調ですな。兵士たちは寝込んでいたり手洗いに籠もっていたりと散々ですわ」
「ランディアは?」
目の前の港は負傷兵と、荷物でごった返している。主にそれは戦いから逃れてきたランディア自治領区兵だった。
彼らは炎の上がった西門を確認し、大慌てでランディアへと引き上げようとしている。陥落しつつあるシアーズよりも、王国第三位のランディア港に戻った方が安全だからだ。
彼らが引き上げてくれる分には全然構わない。
「戦場から戻ってきた兵士たちはまだ動けますからな。彼らが一番危険でしょう」
「ランディアの大砲の無効化は?」
「たっぷり祝いの蜂蜜酒を飲ませてやりましたよ」
「では問題ないな」
「そりゃあもう。彼らにできることは、尻尾を巻いてランディアに逃げ帰ることでしょうな。火薬はもう使いようがないでしょうしね」
楽しげに口元を緩めるチノの表情は、戦いを楽しむ傭兵そのものだ。グレイグも小さく笑う。
「それはよかった」
大砲は鉄球を詰めてから火薬を入れ、そこに導火線を繋いで撃つ。距離がそれほど稼げる物ではないが、撃たれればこの港湾地区が壊滅的な打撃を受けかねない。
そうなると困るのだ。この港湾地区の王族、貴族の持つ倉庫には、大量の食物が収められており、この戦いが終わった後、しばらくシアーズの民衆を支える糧となる予定だからだ。
「王国軍の艦船はどうだ?」
「同じく火薬はすでに使い物になりません。まさか酒を運び込むと見せ掛けて、火薬樽になみなみと水と蜂蜜を詰め込まれるとは思わなかったでしょうからな」
新祭月の祝いの酒を運び込む際、蜂蜜と水を混ぜたものを蜂蜜酒と偽って運び込み、工作員たちが火薬の詰め込まれた樽になみなみと注ぎ入れたのだ。
もし彼らが慌てて大砲を撃とうとしても、火薬が使えねば手も足も出ないはずだ。
「海軍にはシアーズ陥落の報が入ってはいないな?」
「勿論ですよ大将。伝令は全て縛り上げてますからねぇ」
シアーズ港湾部と海軍本部を繋ぐ場所には、大きな門がある。この門はすでに制圧済みだ。門番を務めていた者は、シアーズ派が懐柔し彼らの出入りはすでに自由となっている。
だがシアーズ陥落の情報を持って駆け込んでくる兵士たちは、後を絶たない。当然の如く伝令の兵士たちはここで縛り上げられ倉庫に放り込まれている。
その代わりに戦局の確認に来た海軍兵士には王国軍は未だ健在の報を流し続けている。
これもまた港湾地区を守るために必要な手段であった。朝から戦いに明け暮れてきた革命軍だが、いかんせん人数が少なく、夜通し戦闘するだけの力はない。
だから翌朝の戦いまで海軍には一切の情報を流さないようにしなければならない。ありがたいことに海軍関係者は全て戦闘開始から緊急招集されていてこの門の内側にいる。
そしてこの門の外側にいる王国軍人は、王城に逃げ込んだか革命軍に降伏していた。だから一定の人間の口を塞げば十分だったのである。
まさか彼らも、情報を遮断され身動きも取れないなど思っても見ないだろう。
ちなみに城から海軍へと結ばれた緊急連絡を流す数本のロープと連絡籠は、現在革命軍によって断ち切られている。
「ではやはりあちらか」
「そうです。ファンの奴も、もうあっちに行ってますぜ」
「彼は手練れだ、助かるよ」
「そうですぜ。急がないと見せ場を奪われちまいますよ大将」
「それは困るな」
軽口を叩きながらグレイグが向かうのは、海軍本部裏の高台に設置されているかなり長い筒を持つ巨大な大砲三門だった。
この大砲は海軍司令部が他国に艦船による攻撃を受けている場合に敵艦船を打ち払うために設置されたものだ。
この大砲で使うのはただの火薬ではない。紅火薬と呼ばれる、激しい爆発力を持つ紅火石の粉と火薬を混ぜ合わせた特製の火薬だ。くすんだ紅色をした紅火石は宝石並に採掘量が少ない。
この国で取れるのはアイゼンヴァレーだけで、しかも最高品質というわけにはいかず、年間採掘量は微々たるものである。
隣国フォルヌではより純度が高く、宝石並に紅い紅火石が取れると言われるが、この国ではくすんだ赤褐色の紅火石でさえ火薬の百倍の値がつく。
その爆発力はすさまじく、今までの歴史上シアーズ湾から他国の侵略を受けたことなど一度もないという。
外敵に備えるために設置されているこの砲台には、専門の守備兵がいる。だがこの戦いにおいて重要視はされてはおらず、少数の兵が監視しているに過ぎないだろう。
問題は、常にそこに炎の精霊使いが一人はいることだった。
紅火石は炎の精霊使いと相性がいい。いざとなった時、兵士たちが紅火石に繋がる導火線に火を付けるよりも、炎の精霊使いが紅火石が仕込まれた火薬部分に一斉に火を放った方が早いのである。
革命軍の司令部は、もしシアーズ大門が落ちたら、この大砲を偽王がシアーズの市民に向けると考えていた。
王族、貴族がいなくなったシアーズに、彼らは何の価値も見いださないだろうというのである。価値の無い街にエドワードたちが入ったら、それごと吹き飛ばせばよいと考えるのは当たり前だ。
彼らが街を撃ち払おうとしたら、今いる守備兵たちに命令がいく。その時になって大砲を押さえようとしても遅い。炎の精霊使いがいれば、戦いの最中街に大砲を撃ち込むことが可能なのだ。
必要なのは大砲を革命軍で迅速、かつ秘密裏に押さえることだった。命令する貴族にも、この港湾にひしめく海軍の人々にも気付かれてはいけない。大砲を押さえる戦いが長引けば、それだけ街へと大砲を撃ち込まれる確率が上がってしまう。
つまり革命軍主力の人々の協力を得ることなく、隠密行動でシアーズ派で行う最後の仕事ということになるのだ。
大砲を囲む煉瓦塀の傍までやってくると、そこに見慣れた男が見慣れぬ姿で立っていた。黒髪に糸のように細い目、何を考えているか分からないうっすらとした笑み。
「ファン」
ダグラス隊副長の一人、飛刀使いのファン。普段は街の人々に紛れるような労働者の服装をしている彼が身に纏ってるのは、ユリスラ軍の軍服である。
「おや大将。お早いお着きで。姐さんはあちらで?」
「ああ」
「大将は甥御殿と感動の再会をしなくてよろしいんですか?」
「彼らは、感動してはくれぬだろうよ」
「ははは。エドワードはともかく、リッツも見た目より頑固だからな」
元々リッツの教育係を務めていたというファンが、本当に楽しそうに笑う。
グレイグにとっては戦うことでしか関わりのない二人を、ファンはよく知っているのだ。特にリッツは、グレイグが知る姿と彼が知る姿では全く違っている。
「久しぶりにリッツをからかって酒が飲みたいな。ああ、ダグラス隊の奴らも来てるんだよな?」
「来ているぞ」
短く答えたのはチノだった。チノはずっと彼らと行動を別にしてきたから、ファン以上に彼らとの再会を楽しみにしている。
「では感動の再会前に私に手を貸してくれるかな?ダグラス隊のお二人」
「了解」
頷いた二人の後ろにも、軍服姿の人々がいた。たった十数人の人々。三分の一がチノ部下で、残りはシアーズ派だ。お互いに戦うことの意義が全く違う部隊だが、この戦いにおいては信頼で結ばれている。
グレイグは槍を取り出した。隠密任務が多い為、職人によって三つに分割された槍だ。もうこれを使うようになって数ヶ月、一瞬で一振りの槍にくみ上げて構える。
振り返ると彼らもおのおのの武器を握っていた。
「砲台の交代要員は?」
「ヴェラの眠り玉で眠って貰ったよ」
ファンの言う眠り玉とは、東国タルニエンの丸薬で、火を付けると眠りに落ちる煙を吹き出す一種の睡眠剤である。
「明日の昼頃まで起きてこないさ」
ちなみにヴェラは今、エンという医者と共に施療院にいるらしい。
「それはいい。それまでに革命軍本隊がここを押さえる予定だ」
「了解」
準備は万端だ。グレイグは砲台を見上げた。常に砲台の警備をしている兵士は三門の砲台に対して十五人。砲台を撃つ専門の砲台手は六人。そして炎の精霊使いは一人だ。
「いくぞ」
短く声をかけてグレイグは飛び出した。まさか襲われると思っていなかっただろう兵士がうわずった叫び声を上げる。
「敵襲! 敵襲……」
だが兵士は次の瞬間に言葉を発することは出来なかった。驚いた表情のまま口をぽっかりと空け、ゆっくりと倒れたのだ。
喉に突き立っているのはファンの飛刀だった。
「な、何者だ!」
うわずった声で叫んだ兵士に間髪を入れず、グレイグは敵を貫いた。恐怖の叫びも上げぬまま、平穏な夜を貪っていた兵士が倒れる。
巨大砲は他国の船を追い払うもので、この内戦とは関係がないと高をくくっていたのか、彼らに警戒心はなかった。
たいまつの揺れる薄闇の中、影のように次々と襲いくるシアーズ派に、なすすべもなく兵士たちが倒れていく。
警戒のための鉦をならそうとした男は、瞬時にファンの飛刀が額に突き刺さって絶命する。
普段は情報を専門に扱うチノも、短剣を手に戦場を駆けていた。
暗殺者の如く構えも見せずに、チノは瞬く間に相手を血に沈めていく。
情報専門が聞いて呆れる。
チノは暗殺者も兼ねていたに違いない。
元々暗殺者集団を束ねたグレイグにふさわしい相棒だ。
砲台は見る見る間に血に染まっていく。
グレイグはゆっくりと砲台を見渡した。砲台の裏には焼煉瓦でできた見張り小屋が建っており、そこから光が漏れている。
砲台の指揮官と精霊使いがいるならそこだろう。この騒ぎに反応して出てくる様子もない。呑気なものだ。
シアーズ派の同志たちにこの場を任せ、グレイグは槍をたたむ。室内戦闘ならば、槍よりも暗殺者として用いていた短刀が適している。
見張り小屋の扉を無言で引き開けると、幾人かの視線が一斉にこちらに向く。
四人か。
テーブルの上には、ワインとカードが散らばっていた。
「王国軍が戦っているのに、優雅なものだな」
皮肉を交えて微笑むと、男たちが立ち上がった。その中の一人は軍服にきらびやかな紋章を下げている。
貴族だ。あの騒ぎでほとんどが王城の門内に逃げ込んだと思っていたが、まだ残っていたらしい。
まあ情報を遮断しているのだから当然か。
「何者だ!」
貴族の男は、呂律の回らぬ口調で剣を抜いて叫んだ。
「貴様ら軍人はみな国王陛下と共に門外で戦え! 我ら海軍に口を出すな!」
なるほど、日没前から酔うほどに飲み続けていたから、もう緊張感の欠片もないらしい。
「残念だが、大門は陥落した」
「……は?」
「巨大砲は頂く」
相手の返事を待たぬまま、グレイグは目の前の貴族へ剣を振るった。足下のおぼつかない男に、避ける術などない。
「大門が……」
自分が斬られ倒れていくことより、大門が落ちたことに愕然としたまま、男が床に音を立てて倒れた。
「革命軍シアーズ派か!」
悲鳴のような誰何の声が上がる。
「そうだ」
間髪入れずに、カードを手にしたまま呆然としている男を切り伏せる。
あと二人。
次の瞬間、グレイグの髪を炎の弾がかすめる。
視線を向けるとそこに精霊使いのローブを纏い、杖を構えて震える男がいた。
「精霊使いか」
間髪入れず、次々と炎の弾が繰り出される。これではこちらが火だるまになる。
剣で防ぎ、避けながらじりじりと距離を詰めるも、なかなか縮まらない。砲台を守るだけあって、中位の精霊使いのようだ。
多少の火傷などやむを得ない。このまま切り捨てる。
グレイグは一気に相手との間を縮めた。
「来るなぁぁぁ!」
でたらめに放たれる炎が、目の前に迫るが避けていると取り逃がす。
剣で炎の軌道を逸らして、相手に迫った瞬間、目の前に巨大な火球があった。
とっさに横っ飛びに転がって避けた。さすがにこの大きさだと火傷ではすまされない。
その一瞬の隙を突いて、精霊使いは悲鳴を上げて扉に走った。
逃がしはしない。扉の外にはシアーズ派とダグラス隊がいる。
跳ねるように立ち上がり、折りたたんだままの槍を投げつけようと力を込める。
精霊使いが扉から飛び出そうとしたその時、精霊使いが突然動きを止めた。そしてそのままゆっくりと仰向けに倒れて動かなくなる。
精霊使いの死を確認するより先に、斬りかかってきた最後の一人を沈め、グレイグは立ち上がった。
血で染まった小屋の中に入ってきたのは、ファンだった。
「剣で炎を防ぐとか、そんな神業、うちの大将しかできないんですから、やめてくださいよ」
「さすがだな、ダグラス中将は」
「まあね。あの大剣あってこその荒技ですがね」
倒れた精霊使いの胸には、飛刀が突き立っていた。どうやらファンが倒してくれたようだ。
「助かった。ありがとう」
礼を言うと、ファンは肩をすくめる。
「いやいや。折角エドワードそっくりなその顔の残り半分が焼けただれちゃあ、今後面倒ですからね」
「その時は仮面でもかぶるさ」
「駄目駄目。仮面なんて悪役が付けるもんでしょうよ」
「まあ……そうだな」
「あのねぇ大将、あんたの正体が分かるまでエドワードとリッツはあんたのこと『仮面の男』って呼んでたんですよ? すっかり悪役付いてるでしょう」
「……そうか」
アノニマス以外に呼び名があったとは、全く知らなかった。名無しも仮面もどちらかを選べと言われたなら遠慮したいたぐいの名だが。
「ま、礼より酒を驕ってくださいよ」
「もちろんだ」
笑いながら答えると、ファンも細い目を細めた。
「大将」
いつの間にかやってきていたチノが、グレイグの隣に立った。
「制圧完了です」
「分かった。ご苦労だった」
小屋から出ると、警備兵たちの死体がそのまま転がっていた。
これは王城から確認されるとまずい。夜のうちならば、明かりを数個消せば見えないだろうが、日が開けたら確認されてしまう。
「死体を小屋に隠す。王城に変事を知られる前に急げ」
「了解」
「数人は警備兵のいた場所に待機。砲台がすでに我らの手に落ちていることを悟られるな」
「はっ!」
手際よく死体が運ばれていく。闇に紛れた軍服が、明かりの消えた小屋に、同じ軍服の死体を積み上げられているのだ。
まるで同士討ちだ。
だが内戦はもうすぐ終わる。
グレイグは王城を見上げた。ここへの攻撃指令は、おそらくまだ先だろう。
そういえばあの偽王スチュワートは、今頃どうしているだろう。これだけの大敗北を喫しておきながら、眠りを貪っているのだろうか。
それに王妃を名乗るイーディスは、こんな事になったのを知らずに、王宮でジェイド・グリーンと戯れているのだろうか。
どこからともなく現れ、グレイグの知らぬ間に王宮に入り込んだ、あの異端な者と。
ふとグレイグはイーディスが自分を呼ぶ声を思い出す。甘えるように、自分だけが夢の中にいるような非現実的な声を。
同時にシュヴァリエ公爵の言葉も。
『アノニマス、お前はイーディスにくれた事になっておる。だが忘れるな。お前はシュヴァリエ家の間者。軍内部の……特に改革派の連中を見張り、我々に報告するのだ。勿論イーディスのこともだ』
『イーディス様のことですか?』
『そうだ。娘は少々頭が弱い。身体を奪えば愛されていると思い込む。いいか? 改革派の男を娘に近づけるな』
思えばイーディスも駒だったのだ。
同じシュヴァリエ家に利用される奴隷が、こうして袂を別った。
光と影が入れ替わってしまった。
誰もいない砲台で、黒々とした闇に覆われ、静かにうねる海を見ながら、グレイグは微かな吐息混じりに呟いた。
「哀れな女だ……」
憎しみを感じられるかと問われれば、グレイグの憎しみはイーディスにはなかった。憎むべきはシュヴァリエ公爵である。
グレイグ・バルディアとしての記憶が甦ってから薄まりつつあるシュヴァリエ家の奴隷としての日々だが、それが消えることはない。
薬品で途切れ途切れではあっても、それはグレイグに焼き付いている。真夜中にシュヴァリエ家での虐待の記憶を思い出して、飛び起きることもしばしばあった。
ふと、暗い闇の海越しに、遠く時間と距離を隔てた友に語りかける。
「アル、お前には想像もつかないぐらいに俺は穢れの塊だ」
想像がつくか?
鞭で打たれ、男に嬲り者にされ、老いた女の足下に這いつくばる日々が。
共に大樹の下で過ごした槍術馬鹿だった俺は、もう二度とあの場所に戻ることなどできないだろう。あそこは光に満ちた美しい場所であり、闇に落ちた男が帰っていい場所ではない。
剣を捨てたってな、アル。それはいい選択だったかもしれない。現にエドワードは、アルバートとローレンによってあんなにも素晴らしい男に育った。
「ローレン……」
もう二度と会えない恋人の名を小さく口にする。呼ぶことすらも罪になるかもしれない。彼女を殺したのは自分なのだから。
でも、会いたかった。
静まった砲台に遠く聞こえるのは、冷たい海風に乗ってくる微かな潮騒だけだった。その冴え冴えとした闇は、グレイグの心にそっと染みいってきた。
砲撃命令が、王城からランプを使った光信号で送られてきたのは、その二時間後だった。幾度も幾度も送られるその信号に、砲台は完全に沈黙を持って返した。
それ以外に砲台へと命令を告げる方法が彼らにはなく、王城の門が閉ざされた今、彼らはすでにそのほかの命令系統を持ってはいなかった。
革命軍の気転によって、シアーズの街は壊滅を免れたのであった。




