呑気な冒険者たちシリーズ読者さんのための燎原の烈風エピローグ
「ええーっ? ここで終わりかよ!」
話し終えた瞬間にジョーが不満の声を上げた。
「ここでってお前、もう真夜中だぞ?」
「でも半端じゃんか! もう少し、せめてシアーズ攻略まで話してよ、師匠! お願いします、陛下!」
拝み倒すような勢いで頭を下げたジョーから目をそらし、目の前の親友を眺める。
「どうするよ、エド?」
「どうといわれても今日はここで終わるしかあるまい?」
「ええーっ!」
「この先がまた長いからな。何事にもタイミングがあるだろう? 今日はここまでだ」
もっともらしくエドワードがそう言うと、もう誰もエドワードに意見することなどできない。
リッツ以外は。
だがリッツも今回ばかりはエドワードに賛成だから黙って残っていた蒸留酒を流し込んだ。
「……うう、来週まで持ち越しかぁ……」
がっくりとうなだれて自分の定位置へと戻るジョーに、アンナが笑いかけた。
「じゃあその間に、正式な戦史を読んでみたら? きっと面白いよ」
「……えー……」
「駄目?」
「……フランツじゃあるまいし」
黙ってその戦史を捲っていたフランツが、微かに本から顔を上げた。
「じゃあきらびやかな小説でも読んだら。確かに君の頭ではこれは難しいだろうし」
「……うっ……」
「さぞかし麗しい陛下とリッツが見られるだろうね」
「それはいやだっての!」
「でも戦史は読みたくない。僕にはどうにもしようがない」
「ううっ……」
言葉に詰まったジョーの存在ごと忘れたように、フランツが本から上げた顔をこちらに向けた。
「そして革命軍にウォルター侯は下ったんですね?」
「そうだ」
「……最後は国民を裏切ったのか……」
ぽつりと呟いたフランツに、エドワードが苦笑した。
「そういうことになるかな」
エドワードの口調に苦渋の色はない。
フランツも気がついたのか、眉を顰めた。
「なるかなって……」
「私は元々彼からの忠誠を受けておらんし、ウォルターがあれほどの決意をもってあの戦いに望んでいたとは知らなかった。国は完全に安定し、国民は平和を享受していたから、彼は国民への義理は果たしたと思ったのかもしれないな」
遠くを見るように暗い窓の外を眺めたエドワードに、リッツは小さく息をつく。
今晩話した中の、ウォルターの話の大部分は、彼のリチャード親王回想録による。
世に言うウォルター侯事件以後に押収されたものの中に、あの戦いを記した回想録があったのだ。
それを初めて読んだ時のことを、リッツは忘れることができない。
『私は殿下に全てを捧げる決意をした。何故それまでそうしなかったのか、それは私の弱さゆえだった。私は恐れたのだ。自分が殿下に殺されることではない。自分が殿下に見捨てられることを。
それとなく告げると、殿下は思いの外嬉しそうだった。暴力に彩られた殿下が子供のようにはにかみ、むくれる姿を見たのは、あの時が最初で最後だった。
殿下の暴力全てを我が身を持って受け入れれば、殿下は初めて人に受け入れられることを知るだろう。私の心を、そして身体を全て出し出すことは、殿下を孤独と虚無から救うことになると私は信じた。
虐待の末に狂った価値観と愛しか得られなかった私の主に、私はもはや全てを与えるに躊躇うことなどないと気がついたのだ。
私は最後の戦いに赴くあの時、それまで自らが認めたくない欲望を、素直に受け入れることを決めたのだ。
殿下と共に、欲望の牢獄に繋がれようと。
殿下の執着という鎖に身も心も繋がれたかった。
そしてその鎖を私の手で王座に結びつけたかった。
リチャード殿下に、この王国の王座を与えて差し上げたかった。
私の命に代えても。
だが殿下は戦いの中で命を落とした。
精霊族のリッツ・アルスターの剣によって。
どれほどの絶望と、どれほどの喪失感を味わされたのか、あの男は分かっているのだろうか。
あの男が王城を去った時、私は安堵した。
陛下との誓いを破り、国民が平和になる前に憎しみで自我が壊れてしまうことを避けられると考えたのだ。
だがあの男は戻ってきた。
私の前にあのころと寸分も変わらぬ姿で再び姿を現した。
私は押さえられぬ憎しみについに敗北した。
リッツ・アルスターを殺したい。
陛下の死を見せつけ、絶望に落ち、もだえ苦しみながら死んで欲しい。
アルスター大臣閣下。
もしこれを読んでいるとしたら、私は閣下に再び負けたということになる。
だが閣下、あなたは精霊族だ。
いつか陛下が死にゆく姿を見るのだろう。
その時、私の苦しみを、悲しみを、喪失感をあなたが味わい、絶望に苦しむことを期待している』
「リッツ」
不意に呼ばれて我に返った。目の前に水色の瞳がある。微かに不安そうな色が浮かんでいた。
「あ、悪い。ちょっとぼんやりした」
何とか笑顔を作ってグラスを傾ける。
「なぁエド」
「なんだ?」
「ウォルターは結局最後まで独身だったんだよな?」
「ああ。ウォルター侯爵家はあの事件で滅んだ」
「ウォルターはリチャードを愛してたのかな」
「でなければ四十近くになってまで、鎖で繋がれて男に犯されたいなどと思わんだろうよ」
「……エド、身も蓋もなさ過ぎだ」
「何がだ? 正確無比だろうが」
「う~ん……」
「あの回想録を読むまでウォルターがそんなことを考えていたとは思いも寄らなかったな。あくまでも忠誠心だと思っていたから、よくお前とウォルターを似ていると比べたが……」
そういうとエドワードは大きく息をついて腕を組んだ。
「今にして思うと恐ろしい勘違いだな」
「本当だよ。悪いけど、俺はエドがあんな風に狂っても、貞操は死守するからな」
……たぶん。
でももし傭兵になったり、アンナと恋に落ちたりしないで、ずっとシアーズでエドワードと一緒にいたりしたら、どうなっているか分からない。
あの当時の自分を思えば、ウォルター同様に狂えた自信は多分にある。
そんなリッツの複雑な感情に気付いたのか、エドワードが更に眉を寄せた。
「……あたりまえだ。気色悪いことを考えるな」
その言葉尻から、エドワードも同じように考えたのだと分かる。
戦いが終わり、徐々に情緒に安定を欠いていったリッツのことを、エドワードはちゃんと覚えているのだ。
お互いに何とはなしに言葉を切ると黙り込む。
ウォルター侯爵の死後、回想録と共にリチャードの巨大な肖像画も見つかっている。
ウォルターは結局死したリチャードから、一生逃れることができなかったのだ。
だけど……とリッツは思う。
思い出したのはずっと持ち歩いている自分の鞄のことだった。
相手との関係は全くウォルターと違うけど、きっと俺も、一生エドの肖像画を手放さないだろうな……。
「リーッツ」
唐突に目の前に現れたエメラルドの大きな瞳と、赤い髪にのけぞった。
過去の中に突然鮮やかな現在が入り込んだように錯覚する。
「な、何だよ、アンナ?」
「思い出した?」
「? 何をだ?」
「アンティルの人」
そういえば、この話をする前にエドワードがリッツの知っている人物が来ていたと話していたのだった。
「ジェイムズ……しか心当たり無いな」
「何だ、覚えているじゃないか」
つまらなそうにエドワードがグラスを傾けた。
「……ジェイムズが来てたのかよ?」
「ああ。息子と一緒にな」
「息子って、自治領主の?」
「そうだ。お前の姿を見て懐かしがっていた。大弓があれば射かけてやるのにと言っていたぞ」
「冗談だろ。大弓で射られたらさすがの俺も死ぬ」
言いながらも、懐かしさに胸が痛い。
ジェイムズ・G・タウンゼント。
引退した元自治領主ウィルマ・タウンゼントの夫であり、王国軍総司令部指揮官の一人だった。五十になった時に引退し、アンティル軍指揮官に戻り、現在は顧問を務めているらしい。
ウィルマとの間には、男と女の一子ずつもうけたと傭兵時代に受け取ったエドワードからの手紙に書かれていた。
だがリッツはエドワードの元に戻ってきてから、一度も彼に会っていなかった。
「会いたかったなぁ。元気なんだ」
「ああ」
「わざわざ会ったってことは、親しくしてたのか?」
「当然だろう。軍に残った中で私と一番年が近いのはジェイムズだからな」
「……そうだったな」
あの戦いで絆を失った者、絆を得た者、それぞれの未来はこれほどまでに違っている。
戦い以後、ウォルターもジェイムズも同じように王国軍に復帰し、王国再建に共に働いたというのに。
複雑な思いでグラスを傾けていると、アンナが頬杖を付いて溜息をついた。
「どうした?」
「いいなぁ……エドさん」
思いも寄らぬ呟きに首を傾げると、エドワードもアンナを見ていた。
「何がいいのかね、アンナ?」
「いいですよぉ~。だって子供のリッツを見たんですもん」
一番触れられたくない部分だ。
リッツが言葉に詰まったにも関わらず、アンナはエドワードに詰め寄った。
「リッツどんな子供でした? 可愛かったですか?」
期待に満ちたあのキラキラと輝く瞳に、エドワードが笑みを浮かべつつも微かに身を引いている。
「教えてくださいよ、エドさん!」
アンナとエドワードというある意味リッツにとって無敵の二人がじっと見つめ合う姿は本当に面白い。
しかも間違いなく押されているのはエドワードなのだ。
エドワードはリッツにとって最強だが、どうしてもアンナには勝てない。
対するアンナはリッツにもエドワードにも勝てる最強の女性だ。
やがて諦めたのかエドワードが口を開いた。
「……人間で言えば七、八歳といった年齢だった。背丈は私の腰ほどしかなかったな」
「……わぁ……」
更に目を輝かせてアンナがエドワードを見つめている。
「髪は今よりもずっと長かったな。肩に掛かるぐらいだった。華奢で、声もか細くて、女の子か男の子か分からない可愛い子供だったよ」
あの時、リッツは自分で自分の姿を見ていない。
だからどれほどの年の自分とエドワードが遭遇したのかを知らなかった。
だが聞いていると、それが幾つぐらいの自分かが分かってきた。
まだ精霊族に反撃をし始める前だから、四十歳くらいだろう。
エドワードの人間に置き換えた年は正確だ。
「見たいなぁ、可愛かった頃のリッツ」
うっとりと言ったアンナに、リッツは溜息をついた。
リッツはあの頃の自分にまかり間違っても戻りたくない。
「まあ可愛かったが……可哀相だった。木の上で身体を丸めて、死んだような目をしていたからな」
『リッツ、おいで』
『ここにおいで。話をしよう』
木の下で両手を広げて微笑むエドワードを思い出す。エドワードよりも八十歳以上年上であるリッツの、現実にはあり得ない光景だ。
そしてあのエドワードは王太子として戦いの最中だったというのに、短い髪をしたティルスのエドワード・セロシアだった。
「もし私がいたらな~。思いっきり抱きしめて、大好きだよっていうのに」
アンナの本気で残念そうな言葉に、リッツは嬉しくも何となく複雑な感情を抱く。
「お前さ。今回は大半戦いの話だったのに、そのことは聞かねえんだな。戦史のレポートじゃねえのかよ?」
「だってレポート終わったもん」
「それにしたって……」
「ちゃんと聞いたから大丈夫」
きっぱりとアンナは言い切った。
その言い方が妙に毅然としていた。
「アンナ?」
「戦いのこととか聞かせたくないってリッツが思ってたのを知ってる。人を殺したことを、私にあまり知られたくなかったこともね。だからリッツとエドさんが話してくれただけで私は十分だよ」
「アンナ……」
あの時アンナに手を振り払われて、アンナに這ったまま逃げられて、どれだけリッツが苦しんだのかを知っているから出てきた言葉なのだろう。
「戦争って怖いなって思ったけど受け止めたよ。戦わねばならない時があることも、戦いの中から新たな幸福をつかみ取らないと行けないことも。だから戦いのことは聞かないの」
どことなく大人びた笑顔で言い切ったアンナは、くるりとリッツとエドワードに背を向けた。
「さ、ねようかジョー」
思いがけない言葉にリッツは愕然とする。
「え、あれ? アンナ?」
「お休みなさいエドさん、リッツ、フランツ」
「ああ、お休み、アンナ」
平然とエドワードは笑顔で手を振る。
「ちょ、ちょっと待て!」
だがあっさりとジョーまで立ち上がった。
「お休みなさい!」
声をかける間もなく、アンナがさっさとジョーと共に部屋を出て行ってしまった。
愕然とするリッツの目の前で、フランツも戦史を片手に立ち上がった。
「お休みなさい陛下。リッツ」
「お休み、フランツ」
「お、おう、お休み」
扉が閉ざされ、部屋の中が一気に静まりかえる。
暖炉の火がはぜる音すら聞こえてきそうだ。
「……アンナ……せめてキスくらい……」
呻くと、今度はエドワードが立ち上がった。
「行くぞリッツ」
「へ? どこに?」
「決まっているだろうが。王宮だ」
「は?」
「早く支度をしろ」
「待てエド、もう夜中だぞ?」
時計を見ると、とっくに日付が変わっている。
エドワードはいつもこんな時間に王宮に帰るだろうが、この時間に王宮に出入りするなんてリッツにはなかなか勇気がいる。
意味が分からず防寒着を身に纏うエドワードの後ろで軍服用の防寒コートを身につける。
王宮に普段着で入るよりも、王国軍の支給品を着ていた方が都合がいいのだ。
「もう、何なんだよ。意味分かんねえよ」
ぶつぶつと文句を言いながら着替えると、エドワードが笑った。
「文句を言うな。いい酒を飲ませてやるから」
「いい酒?」
「アンティルの柑橘酒だ」
「……あっ!」
ようやく気がついた。
エドワードがどうして王宮にリッツを連れて行こうとしているのかを。
「ジェイムズがいるんだな?」
「今日はこの会を中止しようと思ったんだが、ジェイムズが話してきて欲しいというのさ」
「何で?」
「リッツの恋人が可愛いから、だそうだ」
「え?」
「ジェイムズはアンナを褒めていたぞ。幼いがしっかりしている。だらしないリッツにこんなに似合いの子はいないとさ」
「どうしてジェイムズがアンナを知ってるんだ?」
「学校の案内をしたのは誰だったか知っているか?」
「……アンナか……」
そういえば軍学校学業上位者であるアンナに案内を頼んだのだった。
実技を除けば軍学校で最も成績がいいのはアンナなのである。
「そうだ。ジェイムズは剣技を教えているお前の背中をうっとりと眺めているアンナと、アンナの視線に気がつき、嬉しそうな笑みを返したお前に気がついたそうだ」
「……一瞬しか見てないつもりだぞ」
「相手はジェイムズだぞ?」
「うっ……」
ジェイムズはリッツが傭兵になる前をよく知っている。
だからこそ知られてしまったのだろう。
「そんで?」
「ジェイムズはアンナと二人になった時に尋ねたそうだ。『私はリッツの古い知り合いだが、君は彼の恋人かい?』とな」
そんなに丸わかりだっただろうか。ジェイムズと会わなくなってもう三十五年以上になるのに。
「んで?」
「最初は慌てて否定したアンナだったが、ジェイムズが『私のことを聞いたことはないかな? 私はジェイムズ・ガヴァン。ベネットと呼ばれていたんだが?』といったら信用して色々話してくれたそうだ。今夜の集まりのこともな」
「……なのに夜中まで王宮で待つんだ?」
「ああ。アンナに知って欲しいそうだ。お前や俺たちのことを。お前はジェイムズにとっても心配な弟分だったからな」
「……余計なお世話だ」
口では言いながらも、内心泣きそうだ。
馬鹿すぎる。
ここにこんなに沢山の人々が自分を待ち、大切に思ってくれていたなんて考えていなかった。
乱暴に扉を開け、わざと大股で歩く。
「行くぞ、エド」
「ああ。勿論だ。王宮は俺の家だしな」
歩き出した夜の冷たい空気がツンと鼻に染みた。
見上げるとヒラヒラと白い欠片が空を舞っていた。
「……雪だ」
降ってくる雪を軽く手に受け止める。
エドワードも白い息を吐き出して呟いた。
「雪だな……」
『俺にとって雪って出会った時のお前そのものなんだ、エド。たったひとりの俺を包み込む雪なんだ』
瞬く間に溶けた雪をリッツは握りしめた。
まだここにある。エドワードという名の雪は。
「ううさぶっ! 行こうぜ」
「ああ」
真夜中の街に降りしきる雪は、静かで美しかった。




