<10>
「なあエド……」
今なら何か聞けそうな気がしてリッツが声を掛けようとしたとき、不意に店の中が静かになった。
ピアノの音色がゆるやかに流れ出す。
舞台に目を向けると、そこには美しい女が立っていた。
年は三十代ぐらいだろうか。
若い女たちとは全く違う、圧倒的な存在感を持った女性だ。
彼女の周りだけ空気がピンと張り詰めたように見える。
女は、胸元の開いた袖のない紅のロングドレスを身にまとっていた。
シャンデリアの揺れる灯りにきらびやかに光を放つドレスはおそらく無数のビーズで覆われているに違いない。
それとも彼女の姿のまばゆさに、リッツの目の方が幻覚を見ているのだろうか。
ロングドレスの裾は中央で割れるようになっていて、ゆっくり舞台前に進む度に白くて作り物のように美しい形の綺麗な足が見え隠れする。
その曲線美にも引きつけられた。
歩く度に緩やかに揺れるウェーブのかかった黒髪に近い濃茶のなめらかな髪は、明かりに艶やかに輝く。
形が良く、ふっくらとした唇はドレスと同じように艶やかに、そして色気に満ちて濡れたように紅く光っている。
夢のように綺麗な女性にうっとりと見とれていると、エドワードが小声で尋ねてきた。
「綺麗だろ?」
女性から目が離せないまま、リッツはこくこくと頷く。
「ローズ。この店のマダムにして、グレイン一の歌姫だ」
「歌姫……」
じっと見つめていると、ローズは艶やかな笑みを浮かべて客を見渡すと艶然と微笑んだ。
「ようこそみなさん、私の店へ。楽しんでる?」
今まで酔って騒いでいた客たちが、まるで子供のようにローズの前ではおとなしくなっている。
それだけローズは圧倒的存在なのだ。
色気のある甘い声は少しハスキーで、微かにかすれるが、それがまた彼女の魅力を甘く引き立てる。
静かにローズを見つめる客たちの中から、ふらふらと客の間を縫うように男が舞台に近寄ると、大きなバラの花束を差し出した。
それもまた深紅のバラ。
艶やかに笑うローズが花束を受け取ったとき、男の腕に軽く触れる。
その手のなめらかな動きに触れられた男だけではなく、見ていたリッツも思わず息をのんだ。
「ありがとう」
ハスキーな声で囁かれた男は、心奪われたようにまた自分の席へと戻っていく。
「いいなぁ……」
思わず呟くと、エドワードが小さく吹き出した。
女なんていらない、今のままでいいとさんざん言っていたくせに、リッツがあっさりローズに引きつけられたのがおかしかったのだろう。
リッツ自身も恥ずかしくなってしまって黙る。
「夜はまだまだこれからよ。みんな楽しんでいってね」
そういうとバラの花束をいつの間にか後ろに控えていた女性に手渡してローズは微笑んだ。ピアノの曲調が甘いメロディを奏でる。
ローズが歌い出した。
高いところは澄んだ伸びのある声、低いところは甘く色気のある声。
幾つもの音域を使いこなしてローズは甘い愛の歌を歌う。
こんなに素晴らしい歌を聴いた事なんて、生まれてこの方一度もない。
歌に合わせて緩やかに動く腕と指の何ともいえない艶やかさにも圧倒される。
なんだか現実じゃないみたいだ。
ぼーっとローズに見とれ、聞き惚れていたリッツは、観客たちの割れるような拍手で我に返った。
拍手に答えさらにローズは愛の歌を歌う。
あっという間に三曲歌い終えたローズは、観客たちに艶やかな笑みを浮かべると、舞台袖に消えてしまった。
姿が見えなくなっても、まだローズの歌の余韻がそこかしこに残っているような気がして、リッツは声もなく舞台を見続けていた。
やがて若い女性たちが露出度の高いドレスで現れ、体をくねらせて踊りだすと、リッツはようやく夢から覚めたように、ため息をつきつつグラスを手にした。
夢中で見ていたせいかのどがからからで、溶けた氷で薄まったウイスキーを一気に流し込んだ。
からになったグラスの中で小さな氷が音を立てる。
「どうだ?」
「すっげー綺麗だった。綺麗な女ってああいう人のことを言うんだな」
しみじみと言うと、エドワードが笑った。
「だからジェラルドが言ってたろう? お前は人生の半分を損してるって」
「ん……確かに……」
ローズの歌を聴いただけで、かなり心が動いた。
リッツにとっての女性は、母親と子供から大人になったのを見守った子たちと、酒場で働く女性たちぐらいだった。
でもこんな女性がいるなんて知らなかった。
「グレイン、すげえな」
「まあな。ローズほどの歌姫はちょっといないだろうよ」
「やっぱし都会は違うなぁ……」
思わず呟く。シーデナの片田舎出身のリッツにとって、グレインはまぶしい街だ。
「サラディオにも歌姫の有名な店があるらしいぞ」
「そうなのか? 行ったことねえや。だけどきっとあんなにすげえ人はいないと思うし」
「すっかりローズが気に入ったようだな」
「うん。すげえな、あんなに綺麗な女がいるんだな」
そういいながらグラスを手にしてウイスキーを飲んだ。
まるで入れ立てのように濃いウイスキーの香りに驚いてグラスを見ると、なみなみとウイスキーがつがれている。
エドワードが注いでくれたのかと見てみたがボトルも氷もエドワードのところにない。
首をかしげていると、白い手がエドワードのグラスをひょいっと取り上げた。
紅く塗られた爪が明かりに柔らかく光る。
驚いて飛び退きながら白い手の主を見ると、そこには先ほどから絶賛していた美女が座っていた。
濃茶の髪に紅い唇、紅いドレス……。
「ロ、ロ、ローズ!」
「ハ~イ、坊や。お褒めにあずかり光栄よ。来てくれてありがとう」
艶やかにウインクされてリッツは弾かれたようにエドワードを見た。
「おい! 本物がいるぞ!」
「良かったな。さんざん褒めて見とれてたじゃないか」
「何でお前、驚かないんだよ!」
「なんでって言われてもな」
パニックに陥るリッツとは真逆に、エドワードは落ち着いている。
小気味いい音を立てて注いだウイスキーを飾り付きのマドラーでしなやかに混ぜると、ローズはエドワードの方へと静かに滑らせた。
受け取ったエドワードはグラスを掲げて軽くローズに微笑む。
何もかも驚くだけのリッツと比べて、エドワードはものすごくスマートだ。
少し見習って落ち着いた大人の男になりたい。
せめてローズの前ぐらいは。
じっとローズの手元とエドワードを見ていたリッツに気がついたのか、ローズは艶やかに笑った。
「ねぇエド、この可愛い坊やの紹介はしてくれないの?」
明らかに親しげな口調に、リッツは思わず大声を上げた。
「知り合い!?」
「ああ」
軽く答えたエドワードは、リッツの肩を叩いた。
「これがリッツ・アルスターだ」
「この子が、話によく出てくる子なのね」
「そうだよ。アリシア、会いたがってただろ?」
「ええ会いたかったわ。ようやく会えたわね、リッツ」
先ほどまで見とれていた綺麗な女性は柔らかく微笑んだ。近くで見ても綺麗な人だ。
どぎまぎしながらローズを見つめる。
「なんで俺をしってんの?」
「ジェラルドに聞いたからよ」
「おっさんに? 何で?」
「だって私、ジェラルドの愛人ですもの」
「ふ~ん、愛人か……って愛人!?」
思わず叫んでしまってから、慌てて口をふさぐ。
だが周りの客たちは思い思いの話題で盛り上がっていてこちらの声など聞こえないようだ。
そもそもこの席は他の客席からは見えないようになっているのだから、多少大声で騒いでも大丈夫だろう。
だがついついリッツは声を潜めてしまった。
「だっておっさん既婚者だろ? 娘がいんじゃん」
「あら、既婚者に愛人がいたらいけない?」
「いけない……んじゃねえの? 人間はいいのか?」
思わずエドワードに突っ込むと、エドワードが吹き出した。
「精霊族にはいないらしいな、そういう奴は」
「俺は見たことないよ。うちの親父がそんなことになってたら、母さんに本気で殺されると思うし……」
リッツの父と母は精霊使いで、母の方が上位の精霊使いだ。
常に仲のいい夫婦だが、何年かに一度喧嘩をするときはすさまじい。
「人間でも普通は同じことになるぞ」
「じゃあおっさんは貴族だから?」
「まあ、それもあるが……」
「でもさあのパティがよく許すな。殴られたりとかしねえの?」
真剣にエドワードに詰め寄るリッツに、ローズは吹き出した。
「聞いてるとおり、可愛いわねぇ」
「可愛いって……」
身長が二メートル近くあるリッツをつかまえて可愛いと言われると、言われている側の方が複雑な気持ちになる。
だがローズはクスクスと笑いながら、リッツに答えを明かしてくれた。
「ジェラルドは既婚者だけど、奥さんと十五年ぐらい前に死別してるの」
「あ……」
そういえばジェラルドに妻を紹介されていなかった。
こういうことだったのかと初めて知る。
「私とあの人の付き合いは、十年ほど前からよ。店が休みの日にはジェラルドの家に行くから、パティは私のことを知っているわ」
あっさりと言われて、リッツは言葉もなく頷く。
「そもそも私がジェラルドの家に行くのは、パティが奨めたからなのよ。休みの日ぐらい普通の恋人同士として過ごした方がいいといってくれたの」
パトリシアはリッツが思うよりもずっと懐が大きい女らしい。
「これでジェラルドの愛人でもいいことになった?」
「あ……うん」
どぎまぎと頷いたものの、何だかとてつもなく自分はものを知らない子供のような気がしてきた。
今まで自分はどんな風に世間を見てきたのだろうと思い出してみたのだが、悲しいほど全く何も思い出せない。
今まで何も見ず、表面だけを見て生きてきたから、こんなところに来て妙なつけを払うことになっているようだ。
「なんかごめん。俺、結構失礼なことを聞いた?」
エドワードとローズを代わる代わる見ながら尋ねると、二人はまた吹き出した。
「やだ、本当に可愛い!」
「お前は面白いな」
「……なんだよ。俺はちっとも面白くないぞ」
楽しげな二人の顔に、何だかからかわれているような気がしてリッツはむくれて、黙ったまま酒を飲んだ。
そんなリッツを無視して二人は乾杯をし直して話し出す。
「今日はどうしたの、エド。珍しいじゃない。あの人と一緒じゃないなんて」
「俺は案内係なんだ。ジェラルドがリッツに人生の楽しみを教えてやれっていうからさ」
「人生の楽しみ?」
首をかしげるローズにエドワードが唇を緩めた。
「早い話が女」
「……ふぅん」
艶やかな色気に包まれたローズにじっくりと眺められて動揺する。
「だからまずアリシアに会わせにきたんだ。たぶんジェラルドも会わせたいと思っているだろうからさ」
「あら嬉しい。いつも話だけしか聞いていなかったから実物が見られて感動よ」
「俺の話?」
「ええ」
自分が知らないところで自分の話を聞いている人は、パトリシアとローズで二人目だ。
一体ジェラルドにどう話されているのだろう。
「なんて言ってた?」
「エドがグレイン街道でちょっと変わったシーデナ出身の男の子を拾った。世間知らずで口数が減らないし、まだ色々分からないことも多いが、剣技に関して言えば素直で太刀筋はいい、ですって」
「本当に?」
「ええ」
ローズは艶やかに笑う。ジェラルドに褒められたことなどなかったから、それが本当なら少し嬉しい。
最初に比べれば使い物になってきたということだろうか。
「他になんか言ってた?」
「ええ。色々ね。ジェラルドはあなたが気に入ってるみたい」
「そっか」
認められているのかも知れないと思うと少し嬉しい。
エドワードを見ると、エドワードはリッツの保護者か何かのような顔をして、楽しげに酒を飲みながらリッツを眺めている。
「体は大きいくせに、子犬みたいな子ね」
ローズが楽しそうに笑った。シーデナやその周辺にいた時とは、リッツはかなり違った印象に見えるらしい。
エドワードに拾われる前にはよく『何を考えているか分からない人』といわれたものだった。
エドワードに声を掛けようとしたとき、ローズが有無を言わせないような声でリッツを呼んだ。
「さあ僕、こっちを向いて」
「僕って……子供扱いしないでくれよ」
「いいじゃないの。ちょっと顔を見せて。私はねぇ、人の顔を見るとその人の性格が読めるのよ」
「え? 嘘だ」
「疑うの? これぐらいの特技がないと、この規模の店のマダムになんてなれやしないわ」
「……そうなの?」
「そうよ。疑う前に私の目をちゃんと見てみなさい」
ローズがリッツの頬に柔らかく手を掛け、じっと瞳をのぞき込んできた。
少し恥ずかしかったが、言われたとおりにローズを見つめ返すと、瞳の色も髪と同じ濃茶だと気がついた。
やっぱり身近で見てもとっても綺麗だ。
うっとりと見とれていると、至極真面目にローズが呟いた。
「聞いていたよりも難しそうな子に見えるわ」
「難しい子?」
聞き返すと、ローズはリッツの頬を両手でパチンと叩いた。
「いてっ!」
「鑑定終わり。ねえエド、よくこの子を見つけたわね。とってもラッキーだわ」
「そうか」
何故だか満足げにエドワードがローズの言葉に頷いた。
「そうよ。この子、たぶんあなたと同じような孤独を抱えてる。きっと理解し合えるわ」
占い師のようにそう言いながらローズは自分のためにもウイスキーを作って口をつけた。
エドワードは肩をすくめて黙ったままグラスを傾ける。
「同じような孤独って?」
リッツがローズに尋ねてみたが、ローズは笑って何も答えてくれない。
子供扱いされたような気がして少しむくれながらグラスを傾けると、エドワードを見た。
エドワードも黙ったまま微笑んでいた。
だがそのほほえみが少し暗いような気がする。
もう少し突っ込んで聞きたいところだったが、エドワードのその表情を見てしまったら黙るしかない。
きっとその孤独は、エドワードがまだ語らない彼の秘密にあるのだろう。
エドワードがいつか詳しく話してくれるのを待つしかない。
そしてその時はそう遠くないような気がしてならない。
リッツはこの穏やかな時間がそんなに長く続かないと直感で感じていた。
ジェラルドがリッツとエドワードが死なないように剣技をたたき込んだのは、道楽でも何でもないだろうし、エドワードがあちこち出かける頻度が増えているのも気にかかっている。
エドワードを見ると、エドワードはリッツの視線に気がついて顔を上げて静かに微笑んだ。
エドワードがいつかリッツに話してくれるのと同じように、リッツもすべてをエドワードに話せるときが来るんだろうか。
生まれた場所のこと、精霊族に迫害されていたこと、生きる意味が分からず死ぬことに抵抗がなかったこと。どれもエドワードにいえそうにない。
ぼんやり考え込んでいると、ローズは明るく笑う。
「まあどっちに転ぶかは、今後次第ね」
占いが終わったのか、ローズはようやくリッツから離れてくれた。
嬉しいような寂しいような気分でローズを見たのだが、ローズはあっさりと次の作業に移っていた。
「はいエド、紹介状。これも目当てなんでしょう?」
ウイスキーのコースターにさらさらと何かを書いたローズはそれをエドワードに渡す。
「ありがとうアリシア」
「いいのよ、これぐらい」
微笑みながらローズはウイスキーを口に運んだ。
ただそれだけの行為なのに、なんでこんなに綺麗なんだろう見とれていると、視線に気がついたローズがリッツに向かって微笑みかけた。
どぎまぎしたものの誤魔化すように話題を変える。
「アリシアって、本名?」
「そうよ。アリシア・ヒューズ。ローズはこの店で歌うときだけの名前」
「へぇ……」
「あなたはジェラルドの弟子で、エドの友達だからアリシアって呼んで構わないわ。次に来たときには、あなたもエドたちと同じく、特別なお客様」
「いいの?」
「ええ。またいらっしゃいな」
「……うん」
少し照れつつ小さく頷くとローズ……アリシアはリッツの頭をその豊満な胸に抱きしめた。
「可愛い!」
大きく胸が空いたドレスだったから、思い切りアリシアの生の胸の谷間に顔を突っ込む形になる。
ふんわりと柔らかく暖かい感触に、一瞬頭が真っ白になったのだが、次の瞬間に甘く香るアリシアの香りと吸い付くような肌の感触を感じて、一気に頭に血が上った。
「ん! ん!」
なんとか逃れようともがいたが、ことのほかアリシアの力は強い。
「ホント、おっきい男の子って感じね!」
「アリシア、リッツが死にそうだ」
苦笑しながらも助ける気がさらさら無いエドワードの言葉に、やはり手を放してくれる気がさらさら無いアリシアが笑う。
「あらごめんなさい。ジェラルドやエドみたいにすれてなくて、新鮮だったからつい」
豊かな胸の谷間からようやくの思いで、少しだけ顔を上げて呼吸してからリッツは怒鳴る。
「やめろよ! 俺はガキじゃねぇ!」
「何言ってるのよ。その行動が可愛いのよ」
「だから、俺のどこが可愛いんだよ! 身長二メートル近くもあるんだぞ!」
「見た目じゃないわよ」
簡単にアリシアにいなされて、また胸に抱きしめられる。
「ん! んんっ!」
し、死ぬ! といいたいのだが、声にならない。
もがいているリッツを丸々無視して、アリシアとエドワードは言葉の応酬を続けている。
「ねえエド、この子貰っていいかしら?」
「駄目」
「あら駄目?」
「アリシアにはジェラルドがいるだろ」
「でも若い子もたまにはいいもの」
リッツをそのまま胸の谷間にめり込ませたままの姿勢で、アリシアがエドワードに笑いかける。
エドワードも暴れるリッツをおもしろがるように言葉を交わしている。
「アリシアにあげたら骨抜きにされるだろ? 初めてがアリシアじゃあ、こいつがこの先困ると思うけどね」
「そうね~。でもくれれば可愛がるわよ?」
「わるいな。とりあえず今は俺のものなんだ」
「やめろ! 俺はものじゃねぇ!」
再び顔を引きはがして叫んだリッツの額に、アリシアは派手な音を立ててキスすると席を立った。
「残念ね。じゃあまたいつでもいらっしゃい、リッツ」
「え……?」
あまりにも突然で拍子抜けし、同時に少し残念な気分でアリシアを見上げた。
「もちろん、今度はあの人も一緒にね」
そういって柔らかく微笑んだアリシアは、とても綺麗で幸せそうだった。
本当にジェラルドを愛しているのだなと納得する。
「もう行っちゃうんだ?」
思わず名残惜しげに口にしてアリシアを見上げると、アリシアは楽しそうに微笑んだ。
「酒の続きは裏のお店で味わってちょうだい」
「裏?」
「じゃあね、エド、リッツ。夜はまだまだよ。若いんだもの、楽しんでらっしゃいな」
意味が分からずに首をかしげるリッツにウインクをして、アリシアは真っ赤なドレスを翻した。
初めて大きく背中も空いたデザインだったことに気づいてまた心臓が高鳴る。
その背中のラインも完璧で、まっすぐに伸びたなめらかな背骨の溝が彫刻のように綺麗だった。
ぼんやりと見送ったリッツを振り向きもせず、アリシアは颯爽と姿を消してしまった。
「エド、この街にはあんな風に綺麗な人がたくさんいるのか?」
アリシアの消えた方を見たまま思わず尋ねると、エドワードが吹き出した。
「アリシアは特別さ。彼女はジェラルドの愛人だ。惚れるなよ」
「惚れてないよ。びっくりして、ちょっと感動した。豊かで大きな街ってすごいんだな」
「まあな。確かにこの近隣では一番この街に美人が多い。アリシアに近いレベルの女も色とりどりだ」
「うわぁ……」
自慢げに言ったエドワードの言葉に鼓動が高鳴る。
男としては、あんな風に綺麗で色っぽくて雰囲気のあるいい女に会える街なんてものすごく魅力的だ。
「じゃあ行くか」
惚けるリッツの肩を叩いて、エドワードがおもむろに立ち上がった。
「へ? どこに?」
「人生の楽しみを教えてやるって言っただろ」
そういってエドワードが見せてくれたのは、先ほどアリシアが何かを書き付けていたコースターだった。
「何それ?」
「娼館の紹介状」
「ええっ! 娼館!」
知識として知ってはいるが、見たことも入ったこともないその場所に、リッツは思わず大声を出してしまった。
サラディオでは娼館の前を通ったことなら何度もある。
その度に父親はため息をついて『女の子はみんな幸せになって欲しいのになぁ』と嘆いていた。
サラディオの娼館には、他の領地から逃れてきた女性たちが生活に困って勤めることが多かったのだ。
だからなのか少々けだるそうな女性が入り口でたばこをくわえ、ゆったりと紫煙をはき出していたのを覚えている。
目が合うと微笑まれて『寄ってく、坊や』とからかわれて、どう接したらいいか全く分からないリッツは逃げ出したりもした。
入ったことはなかったし、きっと一生入ることはないだろうと思っていた場所だ。
でもこの街の娼館はあのサラディオの落ちぶれた雰囲気とは違いそうな気がした。
なにしろ自治領主の愛人が紹介してくれる店なのだから。
「嫌か?」
エドワードに聞かれて我に返る。
「いやっつうか、なんっつうか」
「お前らしくないな。どうするんだ?」
「どうするったって、俺行ったことないもん」
「だったらなおさらだ。アリシアが俺やお前に見合った女を紹介してくれたぞ」
エドワードがひらひらとコースターを振る。
「……本当に行くの?」
おずおずと尋ねると、エドワードは口の端を上げてからかうように笑った。
「怖いのか? お前が怖くて行けないんなら、やめてやってもいいぞ」
エドワードの上からのからかい口調に、思わず言い返す。
「こ、怖いもんか! 行くぞ、行ってやる!」
売り言葉に買い言葉だ。
「よし。じゃ行こうか」
「お、おう」
初めての場所に興味を引かれつつも多少不安感を抱きつつ、リッツは余裕の背中で前を行くエドワードを追いかけた。




