<12>
――リッツ。
ああ、父さんが呼んでる。
リッツは顔を上げた。目の前にあるのは無限に続く大森林だ。足下にはどこまでも青く澄んだ湖が夕日を照り返してキラキラと輝いている。
血塗れの服は湖で洗ったけれど、まだ乾いていないから少し冷たい。
同じように洗い流した視界を遮る伸びすぎた髪からは、未だに水が滴っている。
「寒いなぁ……」
自分で自分を抱きしめてみても、そう簡単にぬくもりなんて得られるはずもない。
父と母の腕の中はとても暖かいけれど、そんな二人の重荷になっていることが心苦しくて、抱きしめて欲しいなんて口にできなかった。
まだ成人していないのに、もう親元から離れた方がいいのではと幾度も考えたが、両親ともそれを許さなかった。
甘えろと二人はいう。でもできない。
二人を苦しめているのはリッツ自身だからだ。リッツが存在しているからだ。
リッツは小さく息を吐く。
今日も追われた。
つぶてを投げられ、倒れれば足蹴にされ、逃げることもできずに、ただ頭を抱えることだけが暴力から身を守る唯一の方法だった。
『一族の裏切り者』
『呪われた子』
『穢れた罪の子』
『死ねばいいのに』
『何故殺してはいけないんだ? 罪の子に生きる資格などないだろうに』
『さっさと死ね、目障りな罪の子め』
『名も持たぬ、汚らわしい闇の子よ』
せめて名前を呼んでくれよ、とリッツは思う。
せめて個人として存在していることを教えてくれれば、それだけでも少しは救いになるのに……。
リッツに名はない。
本来ならば光の一族として生まれてくれば、みな長老から名を授かる。でもリッツは生まれながらにして罪の子であったから名を与えられなかった。
勿論呼び名である『リッツ』の名はある。両親が付けてくれた名だ。
彼らはこれがリッツの本当の名だという。
人間の世界では親が名を付けるのが普通で、人間の習わしで行けばリッツの本名も『リッツ』であるということになる。
でもリッツはこのシーデナでは『穢れた罪の子』と呼ばれる。きっと両親以外はこれがリッツの本名として通っているのだろう。
名を呼ばれない。それは存在を認めないと言うことだ。
生きていることすら認めて貰えない。
どうして? ここにいるのに。生きているのに。
「いっつ……」
体中が痛い。
蔑みと共に与えられる暴力は、常にリッツの気力を奪った。
反撃をしたならば、集落から本当の兵士が出てきて更に手酷く扱われることが分かっているから、ただ目を見開いて暴力を受けるしかなかった。
いつかその暴力と戦う術を身につけられたら、絶対に反撃をしてやろう。そう思っているが、今はまだ小さな子供でしかない。
長年の暴力の経験は、リッツに痛みを受け流す方法を身につけさせた。
蹴りつける相手に蹴られた振りをするすべも、殴られたように見せ掛けることもだ。
それでも全てを防げない。体中の傷はそう簡単になくなるはずはない。
でも血塗れで帰ったりしたら、母親が悲しむのは分かってるから、多少冷たくても仕方ない。
リッツは溜息交じりに立ち上がった。
今いるのは木の上だった。ここに居れば安全だと分かっているからだ。
本当は家の中が一番安全なのかもしれない。でもリッツがいると父と母が一族の人々になじられているのを聞かねばならなくなる。それが辛かった。
生まれなければよかったのに。
死んでしまえばよかったのに。
そうすれば大好きな両親をこんなに傷つけなかったのに。
傷跡だらけの手のひらを見つめると、その小さな手のひらに妙な違和感を感じた。
「ん?」
あれ、大人になったんじゃなかったっけ?
一瞬そんな疑問が頭をよぎった。
でも目の前にあるのは小さな子供の手だ。傷跡が癒える間もなく、また次の傷を負う、小さな手だ。
今まで夢を見ていたんだろうか。
夢? どんな夢を見ていたんだろう?
分からない。
何だかとても幸せな夢で、とっても大切な夢だったような気がするのに。
「リッツ」
木の下から声が聞こえた。金の髪をした男が立っている。
一瞬にして警戒心で身体が強ばる。
怖かった。もうこれ以上の暴力は受けたくなかった。
終わったと安心しきった後の暴力は、身構えている時の暴力よりも数倍痛いことをリッツはよく知っていた。だから黙ったまま身体を小さく丸める。
「……」
「リッツ」
見上げた男の目は光の一族が持つ明るく輝く緑色ではない。綺麗な水色だ。
それをみたとたん、男の後ろに幻影のような景色が浮かんだ。
黄金色の麦畑、抜けるような青い空、そこへと続く一本道。
懐かしい、と思った。
そんな光景、見た事などないはずなのに。
「リッツ」
また男はリッツの名前を呼んだ。
暖かい響きだ。
光の一族は絶対にリッツの名を呼ばないのに。
「おいで」
優しく呼んだその声に、全く偽りがない。
「ここへおいで。話をしよう」
差し伸べられた両手にも、何の作為も感じられない。それに安堵しつつも警戒心は消えない。
知らない人は敵に回る可能性が高いと分かっている。
それなのに何故か見知らぬ声に抗うことができず、戸惑いつつも足下の枝に手をかけていた。
まだ父親のように身軽に降りることはできないから急いで木から下りて男の元に歩み寄る。
見上げるように背の高い男だ。
いや、リッツが小さいのだ。まだ子供だから。
子供だから?
「リッツだよな?」
何故かそう問われた。
「うん」
頷くと男は本当に優しく、嬉しそうに微笑んだ。家族以外からこんな表情を向けられたのは生まれて初めてだ。
「まさか子供の頃のお前を見られるなんてな」
「……子供の頃の俺?」
「ああ。得した気分だ」
意味が分からない。リッツはずっと子供だ。
人間の何倍もの間、ずっと子供でいる。
じっと見上げていると、男がかがみ込んでリッツの頭に手を乗せた。
他人のはずなのに、その手を嫌だとは思えない。
優しく撫でられると、むしろ安心する。
こんなこと、前にもあったような気がした。
「そろそろ起きろよ」
男が言った。
「……起きる?」
意味が分からない。
「そうだ。もう起きて現実を見てもいいだろう?」
「現実……?」
美しい森、美しく残酷な人々、自分を愛してくれる両親の悲しみに満ちた顔、存在するだけで不幸を生んでしまうリッツ。
これが現実だ。生きる価値なんてどこにも無い。
本来ならここから湖に飛び込んで消えてしまうのが一番いいのだろう。
でも父が、母が悲しむから、今よりもずっとずっと悲しむからそれはできない。
逃げ場がない。
こんなに綺麗な光景なのに、どこまで行っても闇の中にいるみたいだ。
綺麗な景色の中に、どうしてこんな闇が隠れているんだろう。
いや、闇は……リッツ自身なのかもしれない。
リッツ自身がこの世界から消えなければ、闇は決して消えないのかもしれない。
「……これが現実だよ」
男を見上げて口にした声が、妙に高かった。
ああ、本当に子供なんだなと思う。
「現実じゃないだろう?」
「現実だよ。俺、ここからどこにも行けない。どこに行ってもみんなを不幸にしちゃう」
だって俺は名も無い穢れた罪の子だから。
父親も、母親も不幸になっている。
リッツの前ではいつも笑顔で優しくて暖かくて、楽しい両親だけど、本当は辛くて苦しんでいることをリッツは知っている。
「お前は誰も不幸にしていない」
何故か確信を持って男はそういった。
「どうして……?」
「俺は幸せだからだ」
「え……?」
思いも寄らない言葉だった。
この見ず知らずの男を、リッツが幸せにした?
そんなわけがない。
家族一人幸せにさせられないちっぽけな自分が、他人にまで手を伸ばせるわけがない。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だよ」
「俺はお前に嘘なんか付かない。絶対だ」
リッツの目の高さにかがみ込んだ男の顔をじっと見つめる。本心か嘘かを見抜くことは得意だ。それが自分の命を守る術だからだ。
男の瞳には全く嘘がなかった。本気で話しているのだと分かった。黙ったまま見つめていると、男は穏やかに微笑んだ。
「パティも、シャスタも、ジェラルドも、ギルも、アルバートも、ローレンもだ。俺たちはお前がいて不幸だと思ったことはない」
リッツはその男をじっと見つめた。さらりと風に揺れる髪は、すっきりと短い。格好だけを見るとよく遊びに行くメリート村の農民みたいだ。
「その人たち、幸せになったの?」
「まだその途中というところかな?」
「……俺は……幸せじゃない」
今もまだこんな風に暴力に怯えている。
それ以上に自分が生きて存在すること自体に、強い自己否定感が募る。
俯いたリッツの目の前で、男は困ったように眉間を揉んだ。
「幸せにしてやりたいと思っているんだがな」
「お兄さんが?」
「まあな。でも俺では力不足らしい」
よく分からなかった。
でもこの男が本気でリッツと向き合おうとしていることだけは分かった。
そのことに心から安堵する。そんな人がこの世界にいたのだと言うことに心が弾んだ。
「お兄さんは人間?」
「そうだ」
「どうしてここにいるの?」
「迎えに来た」
そう言って男はリッツを見つめた。
シーデナへ迎えに? 人間が誰を?
何かがおかしい。
人間がここへ入ってこられるわけがない。
ましてやリッツが存在していることを外部の人間が知るわけがない。
リッツが光の一族だと知るのはメリートの人々だけで外部の人間には堅く秘められているのに。
ではこの男は何者だろう。
怪しいはずなのに、何故だろう、全く警戒心を持てない。
それどころかとても暖かい感情のようなものを感じている。
どこかでそれを手に入れたことがあるような気がする。どこだっただろう。
「リッツ」
「……うん」
「ここはお前のいるところじゃないだろう?」
「え……?」
「お前のいるべき場所はここじゃない」
「俺の……いるべき場所?」
シーデナ?
両親の元?
メリート?
森の木の上?
分からない。
男はリッツに向かって手を差し伸べた。
「お前のいるべき場所は、俺の隣だろう?」
ザアッと風が吹いた。
長めの黒髪が、風を孕んで激しく揺れる。
吹き抜けた風はシーデナの大森林を駆け抜け、木々を一斉にざわめかせる。
そのざわめきはやがて、森を吹き抜ける音ではなく、草原を吹き抜けるようなさざめきに代わったように聞こえた。
まるで心にまで風が吹き抜けたように、体中に鳥肌が立った。
それは恐怖とか寒気ではない。心を攫っていくような感情の波だった。
心が揺れている。
激しく揺さぶられている。
「思い出せ。俺は誰だ?」
目の前の男に見覚えがある。
忘れてはいけない。
絶対に忘れてはいけない人物だ。
「うっ……」
頭が痛い。どろりと何か重たいものが詰まっているみたいだ。
「う、あっ……」
忘れてはいけない。
「戻ってこい、リッツ。闇になんて喰われるな」
誰だ? これは誰だ?
手がもうすぐ届く。届きそうなのに……。
締め付けられるように頭が痛い。
思い出したい、なのに何かが邪魔をする。
『闇は……暖かいだろう?』
冷たい声が聞こえた。聞き覚えがある大人の男の声だ。その声は頭の中に響いてくる。
このまま眠れば、もう現実に苦しまない。
このまま闇に落ちれば、もう苦しまなくてもいい。
もう何も自分を傷つけはしない。
永遠に闇に抱かれて眠れ。
ここには安らかな永遠の眠りがある。
永遠の眠り……死。
それはお前を苦悩から永遠に解放してくれる。
もういいんだ。もう仲間たちの死に怯えなくてもよくなる。
気がついた。
この声は自分だ。大人になった自分の声だ。
締め付けられるような痛みを抱えながら、目の前に立つ男の腕に縋る。
「リッツ」
「嫌だ……」
絞り出すような声が漏れた。
「嫌だっ……まだ死にたくないっ!」
たとえ闇の中で眠ることが安らぎであったとしても。
たとえこのまま目覚めねば、友と出会えた喜びを失わぬまま消え去れたとしても。
そんなのは嫌だ。
まだ道半ばで、消え去るわけにはいかない。
大切な人々に、大切な友に絶望と悲しみを与えることなんてしてはいけない。
だから、まだ死にたくない。
この手を離しては駄目だ。もし離したならば、全てを失う。
自分の命すらも。
「まだ死にたくないっ! 俺はまだお前と一緒に生きたいっ……!」
無我夢中になり小さな手で縋り付くと、力強く抱きしめられた。
生きたい。そう強く思う。
「リッツ、目を覚ませ」
頭の中で稲妻のように光が瞬いた。全ての記憶が瞬時にして甦る。
目の前の男が誰なのかも……。
「エド!」
シーデナの大森林の光景に、ガラスのようひびが走った。音を立てて全てが崩れて行く。
闇の中に、全てが欠片となって散らばり、全てが幻のように細かな砂になって消えていく。
だが目の前の男だけは……エドワードだけは崩れなかった。いつものように笑みを浮かべてリッツの頭を撫でる。
『おかえり、リッツ』
そうか。今は帰るところがあるんだ。
帰れるところがあるんだ。
リッツは目を開けた。
かなり至近距離に目を閉じたエドワードの顔があった。
どうやらリッツの額に額を付けているらしい。
「……エド?」
声をかけると、安堵したように吐息を漏らしてエドワードが目を開く。意味が分からずにリッツは首を傾げる。
「俺、エドとキスするような趣味無いけど?」
口にした瞬間、思い切り頭を殴られた。
「いってーっ! いてぇよエド!」
「俺もそんな趣味はない。人が助けてやったのに、何だその言いざまは!」
「へ?」
リッツは恐る恐る身を起こした。背後では相変わらず戦場が激しい戦いの最中にある。
「あれ? 俺、寝てた?」
「十分ほどな」
「何があったの?」
身を起こすと、ギルバートとジェラルドの姿があった。二人とも安堵と苦笑の混ざった表情をしている。
「闇の精霊に取り憑かれてたんだ」
二人に代わってエドワードが説明してくれた。どうやらスチュワートを逃がしたのはジェイド・グリーンという王国宰相で、彼はゼウムの闇の精霊使いだったらしい。
「で、エドは何を?」
「闇の精霊がまだお前を取り巻いていたからな。ああして一緒に取り込まれてみた。お前を喰っている最中なら、俺には危害が加えられないかもしれないし」
しばらく考えてから、その行為に危険性にリッツは頭を抱えた。
「だーかーら、何で王太子のお前がそんな危険を冒すんだっての」
「決まってるだろう。俺は闇に落ちないからだ」
「んだよ、その根拠のない自信は?」
「分からないが、自信はある」
確かにエドワードには闇ではなく、明らかに光の精霊王の加護がある気がする。
「……ま、俺も無事に帰ってこれたからいいか」
軽く頭を掻きながら口にして気がついた。
まさかあのリッツの過去を見られたのだろうか。
名を与えられず、穢れた罪の子だと死を望まれ続けたあの過去の自分を。
ぞくりと寒気が背筋を這い上がる。
死にたいけど死ねない、どこにも逃げ場がなくて、ひたすら黙って暴力に耐え続けたあの過去を。
誰か手を取って、誰か助けてと、心の底で常に悲鳴を上げていたあの過去を……。
見られてしまったのか……?
指先が震える。じっとエドワードを見つめると不審そうに眉を寄せられた。
「どうした?」
嫌だ。同情されるのは嫌だ。
同情されて優しくされるのは、偽物の繋がりみたいで嫌だ。
リッツはその恐怖を知っている。
シーデナの外で、人間の子供たちに何気なくそれを話したことがある。まだ幼かった頃だ。同情をかい、優しく接してくれたことが嬉しかった。
でもいつの間にか大人にすら虐められる可哀相な子供なのだから、リッツ本人に何かあるのかもしれないと思われるようになった。
可哀相な子だけど、と遠巻きにされたり、精神的に遠ざけられたりするあの恐怖を、リッツは忘れていない。
今まで信用し、仲間だと思っていた子供たちから受けた裏切りにも等しい無邪気な差別を、リッツは忘れることができなかった。
だからこそ、最も信用するエドワードだからこそ、同情を抱いて欲しくなどない。
お互いに支え合い、助け合える関係でなければ、信頼と絆は脆く失いやすい。
可哀相なんて、哀れまれるなんて、それで庇護されるなんて嫌だ。
同情が終わったらあっさり手を離されそうで、それが恐ろしい。
「エド……」
震える声でエドワードを見つめる。
「見た?」
「何をだ?」
「見たの? 俺の……過去」
言葉に詰まったのか、エドワードは眉間を揉む。困った時の癖だ。
「見ていないと言えば見ていないが、見たと言えば見たな」
「……見たんだ……」
どうしよう。どうしたら……。
「正確に言えば、子供のお前を見た。木の上で膝を抱えてじっと座ってた」
「え……?」
「だから俺は記憶のあやふやなお前と話をし、連れて帰ってきた。それだけだ」
「それだけ?」
「不満か?」
不機嫌そうに目を細めたエドワードに、心から安堵した。
それだけならば大丈夫だ。現状を維持できる。
「よかった……」
「お前は本当に俺に過去を隠したがるな」
機嫌を損ねたようで、エドワードはそう吐き捨てると立ち上がった。
「エド?」
「いつになったら話してくれるやら。俺は本当に信用されていないらしい」
「ち、違うって!」
大股でさっさと歩き、馬に飛び乗ったエドワードに追いすがる。
「待ってってば、エド!」
「コネルを援護に行く」
「え?」
「これでリチャードまで取り逃したら、何のための戦いだか分からないからな。お前はどうする」
振り返りもせずにエドワードが聞いてきた。
「行くよ! 行くに決まってるだろ!」
リッツは慌てて自分の馬の方へと駆けだした。
聞かないでいてくれる。
本当は知りたいだろうと思うが、それでも黙って待ってくれるエドワードがありがたかった。
「子供のお前は素直で可愛かったな。今と違って」
「ううっ……」
「お兄さんと呼んでくれてもいいぞ?」
「! くそっ! またエドにからかわれるネタを与えちまった」
軽口を叩きながらも、リッツはエドワードの背に詫びた。
嬉しかったが、それ以上に申し訳なかった。




