<10>
白熱球が炸裂した最初の一撃で、敵本隊は大混乱に陥った。
「何だ! 何が起こったのだ!」
スチュワートが甲高く叫んだ。
今まで整った陣形のまま静かに前進しつつあった王国軍が、今や混乱の渦中にいる。
焦げ臭い臭いと、人が焼ける嫌な臭い、そして密集していた兵士が直径にして二百メートルほど消え去ったという考えがたい現実……。
「何が起こっているのだ! 説明せよ!」
ウォルターは唇を噛んだ。
何故もっと早くに軍を動かさなかったか。
密集している状態で攻撃されてしまえば、多くの兵士を失うではないか。
相手はギルバート・ダグラスとジェラルド・モーガンと、コネル・サウスフォードだ。しかも数が少ない革命軍が奇襲を使わずに来るはずがないではないか。
「殿下! 今すぐ兵を動かしましょう」
ウォルターは目の前に立ち呆然と戦場を見ているリチャードに懇願した。
「何故だ、ジョゼフ」
「敵兵と更に入り交じってしまえば、敵はもう一撃を打ち込めません!」
「確かにな」
軍人としての権威を保っているリチャードは、すぐその意見の重要性に気がつき、頷いた。彼は軍人であり、戦いに関しては決して愚かではない。
この部隊が動けば、まだ何とかなるかもしれない。
「兄上!」
リチャードは兄のスチュワートに大声で呼びかけた。顔色を無くしているスチュワートが必死で平静を保ちながらこちらを見た。
「兄上、今すぐに軍を前進させてもよろしいか!」
堂々たるリチャードの、怯えを全く含まぬ大声に、スチュワートは唇を震わせている。
怯えているな、とウォルターは気がつく。
この攻撃に、そして自分の権威が失墜することに。
「許可をください兄上! 今、敵の本隊を叩かねばならないのです!」
スチュワートとて、戦場においてリチャードにかなわぬことぐらい分かっている。だったらリチャードの言葉を信じるのが得策だ。それぐらい分かるだろう。
「今動かねば更に不利になりまず! 兄上!」
必死なリチャードの声が、混乱と悲鳴の中で響く。燃え上がる炎の音、人々の悲鳴。
混乱した中で唯一の道を指し示している、主の声。
だがそれをスチュワートは認めることができないことも分かっていた。
「待て、リチャード」
「何故だ兄上!」
同じ戦場にあり、同じように王族として立てば、その力量がはっきりと分かってしまう。スチュワートはそれを認められない。
だから返事を聞く前にウォルターはスチュワートの答えを理解した。
案の定、スチュワートはリチャードを押さえた。
自分の力を誇示するために。
「……ならん! 敵が何を考えているか分からぬ以上、無駄に動けば危険だ」
「ですがっ!」
「リチャード、王は余ぞ!」
しんと、その場が凍り付いたように静まりかえった。リチャードは打たれたように棒立ちになり、それからスチュワートの前に跪いた。
「御意にございます……」
ウォルターはきつく拳を握りしめた。何たることか。何という器量の狭さと、視界の狭さか。
跪く自分の主の姿と、愚かで臆病たる君主を前に、ウォルターは立ち尽くすしかない。
このままではおそらく……もう一撃加えられる。このまま動かずにいるとは、愚かの極みだ。
この戦い……負ける。
軍人としての経験が、ウォルターにそれを告げていた。
敵の二倍以上の戦力、短い補給線、地の利、全て戦いに勝つための条件を満たしているはずなのに、なのに負ける。
それは確信だった。
先ほど騎兵が前に出すぎた時、挟撃される危険をいち早く察した。
騎兵を下げるようにと進言したが、その言葉は当のリチャードによって阻まれた。
『一番槍は貴族の誉れだ。止めれば彼らに恨まれる』
そんな馬鹿な話はない。貴族の誉れのために、大局を見失うというのか。
案の定騎兵は混乱し、戦場を駆けていたダグラス、モーガン両名と、王太子と精霊族によってかき回され、それを捕らえようと必死になった貴族によって収拾が付かない事態に陥った。
その上で挟撃されて全滅にいたったのだ。
だが敵が挟撃したあとの細長く伸びた陣形ならば、倍の戦力を持っているのだから右翼と左翼を前進させ、その更に外側から包囲殲滅すれば敵は持ちこたえられずに壊滅したはずだ。
当然ウォルターはそれを進言した。
ところがランディアとルーイビルが勝手に戦端を開き、互いに功を焦って連携することもなく革命軍に噛み付いた。
ただそのまま本隊を前に進めればいいものを、スチュワートは躊躇った。
ルーイビルとランディアの自治領主を気にしてだ。
気がついたリチャードが、本隊を進めれば包囲殲滅戦に持ち込めるとスチュワートに進言しても無駄だった。
ルーイビルのファルコナー公爵は、スチュワートの大叔父である。母が王妃ではなく、側室に過ぎなかった時、尽力して王妃にし、スチュワートを王にした張本人だ。
そしてランディアのバーンスタイン公爵は、毎年夥しい数の宝飾品と、遙か東国タルニエンから仕入れる高価な香水や、薬物を献上してくれ得る人物だった。
彼らが望んで始めたことに、スチュワートは口など出せない。ルーイビルの後ろ盾も、ランディアの貢ぎ物も失いたくないのだ。
そんなことは敵将に読まれていた。それぞれ各個撃破され、あっさりと崩壊していくランディアとルーイビルの有様を、目の前で見ていることしか出来ない愚かさに言葉も出ない。
むざむざと五万五千の戦力を無に帰す……。
なんて無様な……。
そしてこの白熱球……。
この技はあのアーケル草原の戦いでリチャード軍を壊滅に追いやった者と同じではないか。
となればあの灼熱球はアーケルで三回使われた。裏を返せばそれ以上は使われなかった。それはつまり、三度しか使えないことを意味するに違いない。
先ほどランディアを壊滅させたものが一回目で、この本隊に打ち込まれたものが二回目だとしたらもう一度ある。
なのに……動くことすら許されないのか。
敵本隊を全力で追い、両軍入り交じることができたら、敵は白熱球を討てなくなる。そして数の上ではまだこちらが有利だから押せるはずだ。
押せるはずだったのに……。
視界が真っ白に染まった。何も見えずに唇を噛む。
次の瞬間すさまじい爆風が吹き荒れた。
反射的に腕を上げて顔を庇う。
熱い……。
すさまじい熱さだ。
収まった光に目を開けて、ウォルターはその光景に絶句した。
「やはり……」
再び目の前に大量の兵士の焼け焦げた屍体の山が築かれていた。
たった今まで混乱状態の中でも平静を保とうとしていた兵士たちが、今まで生きてそこにいた人間が黒焦げになって転がっている。
なんたる無残な光景か。炎の精霊の圧倒的な破壊力に言葉も無い。
「……だから……」
ウォルターは呻く。
直撃は避けられたが、火だるまになって狂ったように駆け回っている者も多数いる。
「だから前進せよと……」
ギリッとウォルターは奥歯を噛みしめた。
何もせずに兵士を失った。この攻撃だけで一万人近くが戦えなくなった。
残ったのは八万ほどか。
戦う前から、半数になってしまった。
戦場を有利に構成する要素が一つ欠けているというのに。
戦場を有利に構成する最後の一つ。それは士気だ。
だが王国軍の大半は平民であり、指揮官を貴族がつとめる。自らの階級を笠に着て乱暴を働くような上官に、本当の意味で忠誠を誓う者などいない。
八万のうち、三万人は、王国軍であってもいつ寝返るか分からぬ者であるといえるだろう。
信頼できるのは、自らが指揮する三万人の部隊だけだ。
天幕の中で立ち上がって呆然とその光景を見ているスチュワートを見た。手にしていたグラスはすでに手から滑り落ち、王族を意味するローブに酒がまだらなシミを作っていた。
「無様な……」
噛みしめた歯の隙間から、言葉が漏れる。
同時に思い出したのは、あの眩い男の姿だった。
エドワード・バルディア。
『私が勝ち、再び侯と顔を合わせた時、あなたは親王ではなく、自分の幸福のために本当に望む選択をするんだ。それが条件だ』
自分を見下ろした、あの穏やかな水色の瞳。どこまでも深い知性に彩られたあの瞳を、ウォルターは忘れたことはなかった。
あの半分でもいい。
リチャードに人を思いやる理性があったなら。
そしてスチュワートを信仰せず、少しの野心を持ち合わせていたならば。
とっくにスチュワートなど斬り殺し、主であるリチャードを国王にしていたのに。
でもリチャードの狂気を押さえる術をウォルターは持っていなかった。
分かっている。
エドワードが王としての全てを備えていると。
ウォルターの愛する子供たちや、病み疲れた女たちを幸福な生活に導いていけるのもエドワードだと言うことも。
あの時、迷った。
あの瞳を見た瞬間、この人ならばと思った。この人ならば大切な人々を幸せにしてくれると思った。
でも同時に思った。
もしエドワードと共に新たな国家を作ったとしても、いつか自分は……。
……エドワードを裏切るかもしれない。
自分の中には渇望ともいえるリチャードへの親愛がある。それを消すことなど決してできない。
たとえ何があったとしても、例えどれだけエドワードの元で平穏な国家が築かれようと、ふとした瞬間に心に闇が入り込むだろう。
その闇はリチャードと共にいると、静かに満たされる。
結局ウォルターも狂っているのだ。
リチャードという闇なくば生きられぬほどに。
間違っていると分かっていても、ウォルターはリチャードと共にあることを望む。理想からでも忠誠心からでもない。
ウォルターは、あのリチャードというどうしようもない親王を大切な存在として認めている。
どれほど非道な男であっても、どれほど身勝手であっても、ウォルターを疑うことをせず、全ての信頼を与えてくれるリチャードは、ウォルターの全てだった。
忠誠心を捧げるに値する、彼の王だ。
国家の存亡よりも、全てを与えてくれた男を守ることに命を賭けると決めたのだ。
とんだ馬鹿だとコネルはせせら笑うだろうか。身勝手だと怒り狂うだろうか。だがどれほど友に笑われても怒られても、その心だけは変えようがない。
きっとコネルは真っ先にリチャードの命を狙ってくるだろう。リチャードが死ねばウォルターの心は王国軍にないと分かっているからだ。
だが殺させない。
もしリチャードが死ぬならば、ウォルターも共に逝く。
「ジョゼフ!」
ひび割れたような怒りに満ちた大声でリチャードに呼ばれ、ウォルターは振り返った。
降り注ぐ火の粉に右往左往する天幕において、ただ一人傲然と胸を張りリチャードが立っていた。
スチュワートと違い、決して美しくはないが逞しく大きな身体が、圧倒的な存在感でそこにある。
これが我が主の姿だ。
「ここにおります、殿下」
「出るぞ。あの生意気なエドワードと、ちょこまかとうるさいエドワードの犬めを潰してくれるわ」
「……御意に」
大きなその背に従い、ウォルターは戦場へと歩き出す。
指揮官たちが動き出し、今まで混乱していた兵士たちが元の戦列に戻るべく戦場を右往左往していた。
火の粉が降る中での混乱はなかなか収まらない。
隊列が整ったなら出陣だが、しばしかかりそうだ。
恭しく差し出されたひときわ大きな愛馬に跨がったリチャードの隣に愛馬を付けた。
「ジョゼフ」
「はい」
「俺は狂っているか?」
微かに苦笑を含んだ声に戸惑う。いつもの彼らしくない。
「殿下?」
「自分でもそう思うことがある。だが荒れ狂う欲望と狂気を止められない。この戦場が、命をこの手に握る殺し合いがたまらなく楽しい」
黙ったままリチャードを見上げる。
「だがエドワードに会った時、あの目を見て初めて俺は恐怖を感じた。あいつの目をみると、俺は自分がどれほど狂っているかを突きつけられる」
その気持ちは分かる。エドワードのどこまでも静かな水色の瞳には、自分自身を見透かされたように感じさせる何かがある。
「そしてあのエドワードの犬だ。何故やつらの眼差しは俺に俺の狂気を突きつけるんだ」
その上あの場でリチャードは無様に負けた。負けたのは初めてだった。彼はもしかしたら恐れているのかもしれない。
無様に負けること以上に、自分の狂気が自分の上に返ってくることに。
それならばウォルターのできることは、彼の心に小さく触れることだけだ。理性も知性も消し飛ぶ程の暴力と欲望に彩られたリチャードの弱さを知るのは彼だけなのだから。
「狂ってらっしゃいますよ、殿下」
敢えていつも通りきっぱりと告げる。
「ですが私は、戦場で猛り狂う火の精霊王のごとき殿下を狂っているとは思いませぬ。殿下は戦いにこそふさわしい」
「そうであろうな」
「ですが男女年齢関係なく、鎖に繋いで片端から犯すなど、正気の沙汰ではありません。是非おやめいただきたいものですな」
いつも口にしていることをいつものように口にする。途端にリチャードは渋い顔をした。小言が嫌いなのだ。ウォルター以外が口にすればもう命はないだろう。
だがリチャードにとってもまた、ウォルターは特別だった。不機嫌であっても、怒ることはない。
「いつもながらはっきりものを言う男だ」
「当然でしょう殿下。後始末をしているのは私です」
「それはそうだが」
「殿下は狂っている。そんなことは周知の事実です。それを恐れてどうしますか。それを突きつけられたからと言って、殿下が恐れる何者もありません」
普段通りに言い切ると、愉快そうにリチャードが豪快に笑う。
「妙な男だ、お前は。俺の狂気を前に平然としている。怯えて震えることもなく、俺に愛想笑いを浮かべることすらない。俺に説教し、俺の奴隷たちを平気で介抱し、助けている。一度聞きたかった。お前は俺が怖くないのか? 俺を恐れないのか?」
「恐れることなどありません」
初めて出会った時に、その力の圧倒的な恐怖を知った。だが殺されても何も惜しくなかったあの時、恐怖よりもその圧倒的な力に魅了された。
「お前は何故それほどまでに俺に尽くす?」
「それはもう、殿下を愛しておりますゆえ」
敢えて笑みを浮かべながら言い切ると、リチャードには不機嫌というよりも戸惑ったような表情が浮かんだ。
「笑えない冗談だな。お前も鎖に繋いで欲しいのか?」
冗談なのか本気なのか分からない口調で顔をしかめるリチャードに、ウォルターは小さく笑う。
ウォルターはリチャードの狂気の理由を知っていた。だからその狂気を恐れはしない。
知っているからこそ、彼の粗暴で残虐な振る舞いを必死で裏から補佐してきた。
人を殺さぬよう、最後の最後ですくい上げようと努力してきた。
コネルにもいえない。
どうしてウォルターが彼の奴隷たちを助け続けるのか。
どうして彼がそれを行うのを許すのか。
その理由は、リチャードの育った環境にあった。
リチャードは王宮で、イーディスに子供を殺された他の側室に虐待されて育った子供だった。王宮で誰も知らぬ闇の中で鎖に繋がれて暴行されていたのは、他でもないリチャードだった。
『人殺しの息子なのに可愛がってやってるのよ、ありがたがりなさい』と、女たちから執拗に暴行を繰り返され、呪いの言葉と共に性的暴行に遭い、リチャードは歪んだ感情を持った。
愛情とは、暴力であると。暴力の上にしか愛情は築かれないのだと。
そして自分を助けるでもなく、美しい容姿を持った兄を可愛がり『スチュワートを助けなさい。あなたの価値はそれだけです』と母親であるイーディスに洗脳された。
彼の価値はスチュワートを助けるためだけ。
愛情を繋ぎ止めたくて、誰かに愛情をとどめて欲しいと願う思いで、ただ自分を虐待した大人と同じように気に入った者を鎖に繋ぎ虐待する。その上に何かがあるのではないかと、未成熟な心を抱えてただただ期待して。
彼は愛情を与えられることも、与えることも理解できていない。
それなのに愛されたいと熱烈に望み、性的な虐待と残忍な暴力を拠り所にしている。
そうしなければリチャードは、恐怖と孤独で自壊してしまう。
奴隷たちの介抱をするウォルターだけがそれを知っていた。リチャードが零すその悲しい生い立ちを、意識を無くした奴隷たちの身体を清めながら聞いていた。
愛しているはずなのに満たされない。だから次々に様々な者たちを捕らえては同じように鎖に繋ぎ、愛と勘違いした暴力を振るう。
満たされるわけなどない。それは決して愛では無い。だから常に何かに飢えている。
それをウォルターは知っている。リチャードもウォルター以外に話すことはなかった。
どうしたらリチャードが満たされるのか。リチャードすら分からないそれを、ウォルターは理解していた。だが理屈を様々に付けて逃げ回った。ウォルターが逃げ回ったから、犠牲者が増えていった。
コネルはウォルターをリチャードの狂気の犠牲者だと呼ぶ。だが本当は違う。
共犯者なのだ。
この戦いを前に、全てを片付けてきた。
女たちは近隣の街に作った貧窮院に預けた。その子供たちはまた他の街の孤児院を作り預けた。
結婚はしていない。自分の代でウォルター侯爵家は滅びるだろう。
それでいい。もうウォルターには、自身の命以外繋ぎ止める者は何もない。
もう逃げ回る必要はなくなった。
だから賭に出る。
「鎖に繋がせて差し上げますよ、殿下」
「ほう?」
「その代わり一つ要求しますが」
「金か? 名誉か? 地位か?」
「いえ殿下。全ての奴隷を解放してください」
「……なんだと?」
「今後、私以外を鎖に繋がないと決めてくだされば何もいりません」
「……お前は……」
天を仰ぎ目を瞠ったリチャードに、ウォルターは笑う。
「安いものではありませんか?」
「お前一人がずっと、俺の奴隷でいると言うことか?」
「お気に召しませんか?」
「お前は俺を……」
鎖の先に繋がれても、暴力に晒されても、それでも笑って受け入れてくれるのか?
俺を満たしてくれるのか?
この乾きから救ってくれるのか?
……愛してくれるのか?
リチャードが口に出さなくとも、ウォルターはその気持ちなど承知の上だった。
「言いませんでしたか殿下。私は永遠に殿下の僕であると」
リチャードがグッと奥歯を噛みしめたのが分かった。
怒るのか? それとも泣くのだろうか。
賭はどうだ。勝ちか、負けか?
そう思ったが、リチャードはそのまま俯いていた。
幼い頃から与えられた痛みと恐怖、その暴力の連鎖を絶つことは出来ないかもしれない。
それでも人が人を大切に思う気持ちは、育てられるのではないか。
アーケル草原の戦いが終わり、孤児院に戻ったウォルターは、沢山の子供たちから笑顔で出迎えられた。
皆どことなくリチャードの面影を持った子供たちだ。
その子供たちが、とてつもなく愛おしいと思った。
狂った女たちから生まれ出た子供たちは、まっさらなまま綺麗な笑みを持っている。彼らは虐待の末に生まれたが、ウォルターの元で幸福に笑う。
すると狂った女たちも笑うことがある。心を取り戻していくものもいる。現に戦いの間女たちの大半が正気を取り戻していた。
ウォルターがいない間の子供の世話を買って出てくれた彼女たちは、痛みと狂気を抱えつつも、それでも一歩踏み出すことができた。
ウォルターが庇護することではなく、見守ることで歩み出すことができる。
それは希望だった。
狂気は消し去ることができるかもしれない。傍でただ笑いかける者がいれば。
ずっと変わらず寄り添う者がいれば。
ならば今まで共にいた長い時間を信じてみよう。
口に出し、手を伸ばすことに賭けてみよう。
リチャードの狂気を消し去れるかを。
それはウォルターがリチャードの元に来て、二十年近く経ってから得た結論だった。
この戦いに勝ったなら、どんな形でもいいからリチャードの狂気と正面切って戦う。
そう覚悟を決めていた。
この狂気を無くせばリチャードは、王族としてふさわしい男になる。
ウォルターはそれを信じる。
だから……コネル。
負けるわけにはいかない。
この戦いに勝ったなら、無能にして臆病であるスチュワートを廃し、リチャードを王にしてみせる。
王になるのはエドワードではない。
リチャード親王殿下だ。
それが口に出せない、ウォルターの真の望みだった。
「ジョゼフ」
「はい」
「誓え」
「は?」
「さっきのことは本当だと誓え」
見慣れた厳つい顔が、ふてくされた子供のようにこちらを睨んでいる。リチャードがこんな顔をするのを初めて見た。
もしかしたらリチャードを、置き去りにされた子供の頃から育て直さねばならないのかもしれない。
ついつい吹き出した。いつもは笑われると相手がウォルターであっても殴りかかってくるリチャードなのに、むくれたまま睨んでくるだけだった。
「誓いましょう殿下。この戦いに勝ったなら、このジョゼフ・ウォルターは全てを殿下に差し上げましょう。少々くたびれた中年ですが、殿下の博愛主義ならよろしいかと」
笑いながらの言葉に、リチャードは本当に奇妙なものを見るような顔をした。
「お前は本当におかしな奴だ、ジョゼフ。みな逃げ出すのに好んで繋がれようなんて」
「殿下こそ妙なことをおっしゃいますな。私は殿下に出会ったあの時から、すでに殿下に繋がれております。今更ですよ」
『面白い。従順な男ばかりで、二枚舌には退屈していたところだ。お前に俺の後ろを任せよう。付いてこい、ジョゼフ』
ウォルター家を救われた、命を救われた、他の貴族たちの処刑からも救われた。自分の全てを差し出すぐらいでなくては、恩など返せるわけがない。
「今更……なのか?」
「ええ。何をしても構いませんが、殺さない程度でお願いしますよ。私には替えがありません」
「……本当に妙な奴だ」
心底分からないといった顔でリチャードは首を捻っている。この仕草が彼を愚鈍に感じさせるらしい。
スチュワートと比べれば多少頭の回転は遅いが、それでもリチャードは機転の利く男だ。
こと戦場においては。
世間に流布するほど彼は馬鹿ではない。
見る間に混乱していた全軍が整った。リチャードが先陣に立ち、ウォルターが指揮するこの軍のみが、王国軍で最も信頼できる戦力だ。
「全軍、整ったようです、殿下」
今までの口調を改め、いつもの如く語りかけると、リチャードは今までのやりとりなど無かったかのように、戦場を見据えた。
その口元には笑みが浮かんでいる。
「行くぞ、ジョゼフ。戦争だ」
「……御意に」
リチャードは戦いを好む。殺すことを楽しむ。
それは流布している噂ではない。
燦然たる事実だった。
アンティル軍から離れたエドワードは、戦場から大回りにスチュワートのいる天幕を目指していた。馬上にある一団全ての者が、頭からすっぽりとフードで覆われた同じ防寒具を身に纏っている。
敵に服装で個人を悟られぬようにとの考えだ。さすがにエドワードがその金の髪をなびかせて敵陣に飛び込むのは無理があった。
冬の冷たい風が、先ほどまでの戦場で流れた汗を冷やして一気に冷たさを増していく。防寒具があってありがたかった。
隣を駆けていたリッツが、こちらを見た。これだけの速度だから言葉を交わすのは不可能だ。だが浮かんだ笑みから『ここまで順調だな』と言いたいのが分かった。
事前の会議の席でのリッツを思い出す。リッツは真剣に作戦を何度も確認していたのだ。これが大きな戦いで、全ての戦局を左右すると分かっていたからだろう。
「偽王の近くにいる部隊って弱いの?」
スチュワートへ奇襲をかける作戦を説明した時に、会議の場でかけられた言葉だ。
「弱いはずだ」
「どうして?」
「みな大貴族の血縁者だからさ。現職の大臣はファーガス公爵。浪費家でシュヴァリエ公爵に頭が上がらぬ男だ。それから王国軍総司令官を務めるローウェル侯爵だ。この二人の階級は元帥にあたる」
「元帥……って、おっさんと同じ?」
振り返られたジェラルドが苦笑した。
「階級としてはな」
「ふうん。じゃあおっさん同様、戦歴とかある奴らなの?」
当然のようなリッツの疑問に、ジェラルドは小さく溜息をついた。
「ローウェル侯はいままで参謀と名乗り、戦に出ていなかったがアーケルの戦いで初出陣し、初敗北だ。対するファーガス公は戦いに出たこともない」
「……なのに……元帥なの?」
「指揮官と大臣の指名権は国王にある。国王不在の現在、なんでもシュヴァリエ家の思うままだ」
「他の指揮官は?」
「同じく、貴族たちで占められている。大将格が四人いると聞いているが、ほとんどが戦場経験を持たない。唯一戦闘経験を摘んだ貴族たちを集めた部隊は、リチャード率いるウォルター指揮下の部隊だ」
現状の王国軍の腐敗具合に、リッツは呆れた口も塞がらないようだった。だが更にこの軍の不敗具合は続く。
「スチュワートの周りにいる兵士たちのほとんどが貴族だといっていいだろう。特に近衛兵たちは全員が伯爵以上の貴族の子息だ。当然実戦経験は無い。平民を襲うこともあるから、人殺しの経験はあるだろうがな」
「うげ……」
心底嫌そうなリッツに肩をすくめて言葉を続ける。
「伯爵以上になると、それそれ貴族階級として、王国騎士という貴族階級を平民に下賜できる。王国騎士自体にそれほどの恩給はないし、一代限りの名誉職だが、貴族たちによってはその階級をばらまき、軍の中に派閥を作る者もいる」
「……意味分かんないけど?」
戸惑うリッツに、エドワードが分かりやすく説明を加えた。
「つまり、王国軍の中でも貴族に媚びへつらい、階級ほしさに集まってくる者たちを飼い慣らして、貴族の手駒にしているのさ。貴族階級という餌で釣ってな」
「それじゃあ実力は?」
「実力があり、戦いに強い者であっても貴族への憧れを強く抱く者はいる。貴族の中にもそれなりに戦える者もいるよ。だが大半は報われないさ」
「どうして?」
「皆貴族になったら、支配する者がいなくなるだろ?たから一部を除いて、大概が利用されて死ぬんだ」
「悲惨だ……」
ぼそりと呟いてから、リッツは再び疑問顔で尋ねてくる。
「実力ないって分かってるのに、どうしてスチュワートはそういう人たちばっかり回りに置いているの?」
「革命軍シアーズ改革派のおかげだな」
「え?」
「スチュワートはおそらく、改革派が紛れ込んで自分に危害を加えることを恐れてるんだろう」
彼らが活動を始め、貴族への報復行為が繰り返されるようになると、貴族は貴族しか信用しなくなった。
特に疑り深いスチュワートは本来持っていたその傾向を強めた。
おかげでこちらは奇襲をしやすくなった。それを思えば貴族を集めてくれてありがたいと感謝すべきかもしれない。
いや、シアーズ改革派に感謝だ。
いったい誰がシアーズ改革派を作り上げたのか、未だに謎だが。
「じゃあさ、直接スチュワートの傍にいるのは、貴族ばっかりだよね」
「その通りだ」
そう、あくまでもスチュワートの近くにいるのは。
「そういえばシュヴァリエ公爵って? 戦場にはいないの?」
言わずと知れたイーディスの父親の大貴族だ。
「かなり老齢のはずだからいないだろうな」
前日死した前王と同じか、少し上ぐらいの年齢だったはずだ。戦場に出るに適した年齢ではない。
「じゃあどこにいるのさ」
「そりゃあ自宅だろう。軍の人事を好き勝手にしつつも、彼は表だって無位無冠を貫いている」
「つまり面倒は嫌いだけど、好き勝手なことはするよってこと?」
「その通りだ。そしてシュヴァリエ公爵はシアーズにいる。王宮を押さえると同時に、こちらも押さえないとな」
「ふうん」
面倒くさそうに返事をしたリッツは、エドワードを見つめた。
「でもまず勝たないとだな」
そう。絶対に勝たねばならない戦いだ。たとえ少し常識外れで、あちらこちらに無謀な作戦が紛れ込んでいたとしても。
エドワードは考えるのをやめ、現在の戦況に目をやった。離れて展開する戦場は、未だ激しい戦いのただ中にある。
一瞬の隙に命を奪われ、ほんの微かな運が命を繋ぐ戦場だ。
人々はいとも簡単に死んでしまう。
だから上に立つ者が、この戦いを始めたエドワードが、彼らの命の上に平和と安定を作り上げねばならないのだ。
状況だけ見れば数の上では圧倒的に不利な革命軍だが現在の所はそれほど劣勢になっていない。これも全て徹底した各個撃破策が成立したおかげだ。
だが現在もまだ、数万単位でスチュワートの天幕の外には王国軍がいる。
全十万の王国軍本隊のうち、壊滅した騎馬隊は二万ほどいた。王国軍を助けるべく終結していたランディアとルーイビルの合計五万五千はすでに壊滅している。
残り八万のうち約一万ほどはソフィアの灼熱球で死に、五千は怪我を負ったはずだ。
そして現在交戦中だった部隊と、リチャード率いる部隊を足して五万ほど。単純計算をしても、現在スチュワートの周囲に展開する王国軍は二万だ。
この二万をたった二百の小部隊で何とかできるとは思わない。だがそれを突破し、スチュワートたち王国軍中枢部を壊滅させるのは簡単なはずだ。
この混乱状態に乗ずれば。
一気に駆け抜けた先に、シアーズへと向かう街道が見えた。大きな道で、シアーズからアンティルを経由しルーイビルまで伸びる旅人の街道だ。
街道に出てシアーズ方面に馬を向けようと足を止めた瞬間、リッツが声を上げた。
「海だ!」
釣られて見ると、波の高いブルーグレイの海が広がっていた。冬の風に翻弄される波は、白く砕け、荒々しい姿を見せている。
「ここまで来たんだ……」
リッツの声に頷く。
そうだ。ここまで来た。
「もうすぐ王都だ」
「うん」
並んだリッツを見上げると、リッツはじっと海を見つめていた。
何を思っているのだろう。
エドワードにはその瞳が何も映すことなく空虚に見える時、友が何を考えているのか分からない。
「さ、行こうぜ」
エドワードの物思いなど知るよしもなく、リッツは何事もなかったかのように再び馬を走らせていく。エドワードとマルヴィルたちもそれに続いた。
シアーズへと向かう街道は、常に混み合っている。明るい時間の間は大門を通る人々が多いため、通常ならこの街道がこれほど寂れてはいない。
だが現在は戦闘が行われ、しかもシアーズが巨大な牢獄となってしまっているため人通りは全くなかった。
遮る者も敵もいないままに、一気に街道をひた走る。見る見る間に近づいてきたのは、戦場も最も背後、スチュワートの天幕だった。
後ろから攻め入る者がいるなど彼らは夢にも思わないのだろう。天幕後方にはひとりも王国軍の守りがいない状態だった。
少し離れたところには、我先にとシアーズに逃げ込むランディアの敗残兵がいるのだが、こちらを伺う余裕もないようだ。
だが人がいないわけではない。
そこには味方の軍勢が控えている。
「無事だったか、お前ら」
陽気に馬上から手を挙げたのは、ギルバートだった。その姿は血に塗れ、まるで赤黒く塗料を塗られたようだった。
「ここまで問題はないようだな」
その隣にいるのはジェラルドだ。ジェラルドもまた返り血で汚れている。この二人の後方に控える馬上にない人々を見て、リッツが破顔した。
「ラヴィ、ジェイ、ソフィア!」
気安い友人をみつけたように、リッツは馬を降りて駆け寄っていく。穏やかなラヴィが、満面の笑みでそれを迎えた。
「やあリッツ、大丈夫かい?」
「当たり前じゃん。俺がやられるかよ」
「最近修行してなかったが?」
ジェイにからかわれたリッツがむくれている。
「大丈夫だってば! ソフィア、相変わらずすごかったな!」
「褒めても何も出ないよ、リッツ」
グレインの人々といるよりも遙かにリッツは、彼らといた方が馴染む。平和よりも戦場が似合うようになってきてしまったのかもしれない。
それが何となく複雑で、エドワードは苦笑した。自らリッツを戦場に引き込んでいながら、傭兵といた方が馴染む友に不安を感じるなど、馬鹿げている。
「感動の再会はここまでだ」
戦場にありながらのどかな雰囲気に包まれていたその場に、ジェラルドの声がしんと響いた。その目が真っ直ぐにエドワードに向く。
小さく頷き、全員を見回した。
「最終作戦に入る。ダグラス隊、騎馬隊は敵部隊後方より撹乱作戦に入れ。ダグラス隊の指揮はソフィア、騎馬隊の指揮はマルヴィルに一任する」
「はっ!」
「ジェラルド、ギル、リッツは、俺と一緒にスチュワート偽王を倒してくれ」
それでこの戦いが終わる。決意を持って告げると、全員を見渡した。
ここが大詰めだ。スチュワートを倒した後、リチャードも完全に討ち取る。上さえ押さえてしまえば、もう現在の王政は保てなくなる。スチュワートには未だ一人として跡取りはいない。
それに平民や改革派の兵士たちの命を無為に失いたくない。戦いを早く終わらせるには、多少無謀であっても王を押さえるのが一番だ。
あえてそれを言葉にする必要はなかった。もうすでに彼らには伝えてあるからだ。
いつの間にか自分の隣に戻ってきたリッツは、馬に乗らずに隣にいた。エドワードも身軽に馬から下りる。ジェラルドとギルバートも馬から下りて馬を天幕の杭などに適当に繋ぎ止めていた。
「リチャードが我が軍本隊へ進撃したと同時に作戦開始だ」
全員が静まりかえり、間もなく訪れるであろう瞬間に向けてただ押し黙った。




