<7>
――――風が吹いている。
リッツは目を閉じて、自らの髪や頬をなぶる風を全身で感じ取る。
まとわりつくように吹く風の中で、精霊もざわめいている。見ることはできなくても、そんな気配を感じた。
戦いが始まる。それを全ての風が、精霊が、そして大地が感じ取っている。
この身に感じる震えるような緊張感さえも、大地の震えには及ばない。
ゆっくりと瞳を開けると、飛び込んできたのは灰色の世界だった。
空は雲に覆われ、エネノア中央山脈から吹き下ろす凍り付くほど無情な冷たさを孕んだ北風が、微かに灰色がかった牧草地や農地を吹き抜けていく。
そしてその風の吹き抜ける先に、行く手を阻む黒い壁があった。距離にして一キロという所だろうか。
風下にいるからか、そのざわめきは遠く届かないが、時折地を照らす太陽の光に煌めくのは、彼らの手にしている無数の武器だった。
「……二倍か……」
ボソッと呟くと、静かな声がそれに応じた。
「二倍強だ。しかも職業軍人だな」
「こっちは寄せ集めだもんな」
「だがまあ……こちらにはギルがいるし、ジェラルドがいるし、お前もいる」
信頼に満ちた声が耳に心地いい。声の主を振り返ると、途端に世界に色が付く。横に並んだエドワードが微笑んでいた。
「そうだろ?」
「ソフィアも、コネルも、お前もいる」
「ああ、そうだな。十万人強を一人二万人ずつで何とかなるだろう」
「単純計算過ぎるよ、エド」
「俺はそれだけ信頼しているんだ」
緊張感を持ちつつもいつものように穏やかで、でも芯の強い笑みを浮かべながら、エドワードは馬ごと背後を振り返る。
リッツも同じように馬首を巡らせた。そこにはここまでの道のりを共にしてきた仲間たちがいた。
総指揮官ジェラルド・モーガン
遊撃隊長ギルバート・ダグラス
本隊指揮官コネル・サウスフォード
騎兵隊長マシュー・エリクソン
護衛部隊長マディラ・カークランド
そして姿は見えなくとも、仲間がいる。
精霊部隊長代理ソフィア
王国宰相グラント・サウスフォード
宰相秘書官シャスタ
補給部隊長フレイザー・カークランド
アンティルに潜入しているパトリシア
そして居並ぶ彼らの後ろには、この戦いで平穏な国家を取り戻すために立ち上がった、七万の革命軍兵士たちがいる。
元王国軍、農民、商人、学生、女性もいれば、老人も少年もいる。彼らの目の輝きを見ていると分かる。
世界は灰色じゃない。希望に満ちている。
皆が願うことはただ一つだ。
不意に曇り空がナイフで切り取られたかのように微かに開き、そこから明るい日の光が落ちた。その光が肩まで伸びたエドワードの金の髪を輝かせる。
グレイン騎士団の制服を改良し、身軽な防具を身に纏ったその姿は決して華美ではない。だがエドワードはその存在だけで、十分に眩かった。
顔を上げたその瞳は、リッツが幾度も見惚れた叡智を浮かべて水色に煌めく。
「時はきた」
声を張り上げたわけではない。だがエドワードのその声は、鮮烈に人々の耳朶を打った。
ざわめきが、人々の心の全てがエドワードの声に集約されていく。人々を見つめるその横顔を、リッツは黙ったままじっと見つめる。
「我々はこの手に平穏を取り戻す」
握りしめられたエドワードの拳に、人々の視線が集まってゆく。
今、エドワードは何を思っているのだろう。
どんな思いを抱えているのだろう。
人々の期待の眼差し、全ての思いを一人受け止めて、エドワードはここに居た。その重さをリッツは重々承知だ。
でもリッツにも役割があった。ただエドワードを黙って見つめる精霊族という役割だ。隣に立って、エドワードの言葉を受け入れ、そこに居続けること。
それがリッツの役割だ。
エドワードの声が響いている。人々を引きつけるこの声はリッツに取っては、耳に染みいるように心地よく、包み込まれるように暖かな声だった。
リッツに生きることを感じさせてくれる、唯一無二の声だ。
「かつてユリスラ王国は、母なる森林、豊穣たる大地、恵みの大海を持つ幸福な国家であった。人々は共に慈しみ合い、誠の王の下、平和を享受してきた。
だが建国の理念は、長年の歴史の中で踏みにじられ、いつしか貴族と平民という不平等を生むこととなった。
かつて誠の王と呼ばれた国祖は、それを望んだであろうか?
そして共に国を興した精霊族は、この歪んだ不平等な世界を望んだだろうか?
ユリスラは誠の王と精霊族によって、理想の国家としてこの大陸に創立した国家である。
国祖である二人の望む理想国家は、非生産的で、権力のみを振りかざし、人々を迫害する貴族の存在を認めるだろうか?
大多数の民衆が抵抗することも許されずに悲嘆に暮れ、絶望を囲い、涙することしかできぬ現在の王家を許し得るだろうか?
私は否と考える」
ゆっくりとエドワードの目が群衆を見渡す。必要以上に気取りもせず、かといって難解な言葉を使うこともなく、まるで一人一人に語りかけているようだ。
聞いている民衆はみな、エドワードの言葉を我が言葉として受け入れる。これがエドワードの天賦の才だった。
「かつて精霊族は誠の王と民にこう宣言した。
嘆かわしくも再び戦乱の叫びがこの地に蔓延する時、我は再び現れて、我が再び選びし誠の王の下、この地を平穏へと導く、と。
そして今、国祖の建国宣言の通り、ユリスラは混乱を極め、人々は苦しみに喘いでいる。
ユリスラの民よ。今ここに精霊族リッツ・アルスターがおり、私がいる。
僭越なれど、リッツは私を誠の王に選んだ。
今こそ、このユリスラを真の幸福な国家として取り戻す時である。
だが私とリッツの力があれど、対する国家は強大である。平穏を取り戻すために、皆の力が必要だ。
ユリスラを愛する者たちよ。
どうか私たちに力を貸してほしい。共に幸福なユリスラを取り戻そう!」
力強い断言に、人々の歓喜の叫びが上がった。それは渦を巻くように、まるで力を持った何かの生き物のように、この場を支配していく。
風に乗り、この歓声はきっと敵陣にも届くだろう。
どうか届け。そして兵士の大半を占める平民に、自らの運命を選ばせてくれ。
人々の熱狂の中で、エドワードはゆっくりと馬首を正面に巡らせた。リッツも同じように前を見つめる。
民衆の期待の声と、歓声は熱く、そして重い。それを背負いながら、二人で敵陣を眺める。
「いよいよだな」
いつものエドワードの呟きだった。
「うん」
不意にエドワードが黙った。横顔を見ると微かに眉が寄っている。最近よく見る表情だ。新祭月の夜も同じような顔を見た。
少しだけ逡巡した後、エドワードがこちらを見た。
「……後悔してないか?」
いつもの心配そうなエドワードの言葉に、心がざわめく。最近エドワードはこんな顔でよくリッツを見る。
お前は、後悔しているのか、エド?
俺をこの場に立たせたことを。
リッツは否定する代わりに馬をギリギリまで寄せて、その肩を叩いた。
「してない」
「そうか……」
苦悩を抱えている。何を迷っているのか分からないけれど迷っている。
そんなエドワードが歯がゆい。
「エド、たまには俺に甘えてよ」
そんな言葉が口を衝いて出た。
「甘える?」
「うん。エドはもっと俺に甘えてもいいんだ。色々背負い込むなよ。俺は望んで今この場に立ってる。俺はエドの運命に巻き込まれたんじゃない。俺が望んでエドの運命に飛び込んだんだ。だから……」
上手く言葉が出てこない。
そんな苦しい顔をするな。
俺のために悩まないでくれ。
もっともっと苦しい時に吐き出してくれ。
もっとエドワードの心を支えたい。でもずっとかなわなくて、それが少し苦しくて。気がついて欲しかったけど、今までいえなくて。
「リッツ」
「俺はお前の支えになりたい……どうしたらいいかわかんないけど、だけど……」
口ごもると、エドワードが呟いた。
「……リッツ」
「ん?」
「俺は怖いよ。正直、俺はどうなるんだろうって思うこともある……」
「うん」
久しぶりに見たエドワードの本音だった。
エドワードの苦悩を知るよしもない民衆の声が、エドワードを賛美し、勝利を叫ぶ。その声に埋もれそうになりながら、エドワードは呻くように呟いた。
「だからリッツ、傍にいろよ。ちゃんと隣にいろよ。俺が自分を失いそうな時は、俺を止めてくれ。人々の屍体を踏み越えていく強さが途切れそうに成ったら、俺を取り戻してくれ」
顔を上げたエドワードの目が、真っ直ぐにリッツを見つめていた。
「お前は俺の半分なんだから」
一対の英雄。
ギルバートは本当に上手いことを言ったと思う。エドワードとリッツは、お互いの存在なくして、戦うことなんてできなかった。
「うん」
絶対に約束を守る。力強く頷くと、エドワードも頷き帰し、後方を見た。リッツもその視線を追う。
そこに居並ぶのは沢山の信頼する仲間たちだ。
「ジェラルド、ギル!」
「はっ!」
「準備は?」
「できております、殿下」
「いつでも」
頼もしい二人の返事に、エドワードが頷いた。
「では、行こう」
決意に満ちたエドワードの瞳には、もう迷いは無かった。迷いも弱さも、心の奥底に押し込めて前を向く。それがエドワードの強さだ。
だから、絶対に傍らから離れない。
エドワードの手がゆっくりと上がった。そして次の一言が、曇り空を切り裂く。
「出撃!」
一斉に鬨の声が上がった。
「弓兵部隊、前へ!」
コネルの声と同時に、本隊の弓兵部隊が前面に出る。遊撃隊の弓部隊とは当然別の部隊で有り、その数は五千以上に及ぶ。当然彼らは弓を撃ち尽くした後、剣を振るう。
敵も動いた。まるで壁がゆるりと震えたかのように、黒い人の壁が前へと進む。見る間に敵との感覚が狭まり、激しい弓矢の応酬となった。
「始まったな」
ぼそりと呟くと同時に、後ろから肩を叩かれた。
「緊張しているのか?」
「おっさん……」
そこにはジェラルドがいた。その出で立ちは、グレイン騎士団とは異なる。
彼が身に包んでいるのは、使い込まれたユリスラ王国軍の士官用軍服だった。階級は元帥。その腕に捲かれているのは水色の布だ。そこに防具を装備している。
昔ながらの重たい鎧ではないが、今までの軽装でもなかった。頭を守る鉄の甲から、胴巻きまで幾つもの防具があった。
敵の貴族が身につける華美で無駄な装飾の多い物とは違い、純粋に身を守るためだけの防具だ。
「重装備だな」
「お前が軽装過ぎる。本当によかったのか? エドはしっかり装備を固めているぞ?」
「うん。俺はいい」
この戦いの前に、革命軍幹部全員がこの防具を支給されたのだ。当然戦う兵士たちにも最低限の防具が支給されている。
これはカルが率いるアイゼンヴァレーで創られた大量の防具だった。支払は勿論あの金鉱で出た金だ。
でもリッツは敢えてそれを着込まなかった。胸当てと肩当てぐらいはしているが、それ以外はいつもの通りだ。身のこなしを第一に考えるリッツに取って、防具の重さは邪魔以外の何物でもない。
たとえ防具のあるなしが生死を左右するとしても、リッツに取って動けないことの方が大問題なのだ。
それにダグラス隊の面々の大半は、自分なりに必要な物を選んでおり、身につけていない者も多い。
ギルバートは身体に防具を身につけつつも、鉄兜などには目もくれない。自分の顔が与える恐怖が武器になると分かっているのだ。
「ならば死ぬなよ。お前が死ぬような事があれば、エドの精神が持たない」
言葉の後半は、エドワードに聞こえないぐらいの囁き声だった。ジェラルドはエドワードの張り詰めた想いを身に染みて分かっている。
「……うん。分かってる」
何が何でも生き延びる。そして何が何でもエドワードを守る。自分を守ることがエドワードをも守ることだと、前にエドワードに諭された。
また同じ過ちを犯したりはしない。
真っ直ぐに見つめた戦場では、雨の如く降り注いでいた弓矢が収まりつつあった。同時にエリクソンの声が響き渡った。
「騎兵隊、進め!」
騎兵部隊が戦場に飛び出してゆく。栗毛のグレイン馬が、生まれながらにして馬と触れあってきた騎士団を乗せて颯爽と草原を駆け下りてゆく。自身の起こす風にたてがみが激しく揺れる。
その揃いの動きは、戦闘だというのに綺麗だった。
それに続くのはリッツやエドワードの後ろにずらりと並んだ本隊だ。
「お前たちは後ろに下がっていてもいいんだぞ?」
からかうような口調でそういったのはギルバートだった。ギルバートは大剣を抜き、悠々と肩に担いでいる。
「ギルだって」
「馬鹿が。俺を後方に置いておきたいんなら、美女を一個大隊分率いてこい」
「いうね」
リッツも剣を抜く。
「ギル、リッツ、お前たちは楽しそうだな」
溜息交じりに苦笑するジェラルドが、ゆっくりと肩を回す。
「おっさんはどうなのさ?」
「仕方ない。若い者だけに苦労はさせられない」
穏やかに笑いかけたジェラルドも少し楽しげだ。その後ろにはグレイン騎士団の生え抜きで、ジェラルドの護衛が十数騎控えている。
リッツはエドワードを見た。
「エド、そろそろ行ってきてもいい?」
逸る心を抑えきれずに相棒に尋ねると、あっさりとエドワードは頷いた。
「ああ。俺ももう出ようと思っていたところだ。丁度よかったな」
涼しい顔に不敵な笑みを浮かべてエドワードも剣を抜き放つ。
そういえばエドワードはじっとしているのが好きではない。みんなは意外に知らないが、血の気が多いのはリッツよりもむしろエドワードの方だ。
「では我々もお供をつかまつろう」
マルヴィルを含む、元グレイン騎士団第三隊十数名も頷いた。ギルバートの後ろには、十名足らずの新人傭兵たちがいる。
総勢たった三十名程の超小部隊だ。だがこの革命軍では一番の戦闘力を持つ部隊だと言ってもいいだろう。
「よし、いっちょ道を開きに行くか。野郎共、俺に続け!」
その言葉が終わるやいなや、ギルバートの乗る馬は、すさまじい勢いで乱戦状態の中に突入した。
大剣が唸りを上げて風を切り裂く度に、激しい血飛沫が霧のごとく舞い、赤く大地を染め上げる。
後に続く傭兵の戦いっぷりも、平民ばかりの新兵とは実力が違う。ギルバートを中心とした部隊は、騎兵部隊の中を縦横無尽に駆け抜けていく。
「ダグラス中将だ! ダグラス中将がいるぞ!」
叫び声が戦場に谺する。
それに苦笑しながらも、ジェラルドが剣を抜いた。
「作戦を無視して突出するなと言うのに。私も出よう、ギルバートに続け」
ジェラルドも小部隊を率いてギルバートの後を追った。敵の騎兵隊が恐怖に戦くのがここからでも手に取るように分かる。
「モーガン元帥だ!」
「ダグラス中将だけではないのか!」
悲鳴混じりの敵の叫びに、リッツはつい吹き出した。有名どころの頭二人が突然乱入してくるのだから、その恐怖はどれほどだろう。
「リッツ」
呼ばれて頷く。
「行こう」
エドワードと同時に馬の腹を蹴った。馬は風のように駆けだしてゆく。後ろを守るマルヴィルたちも、同じく素早く馬を操る。
グレイン騎士団に勝る騎兵などない。
隣を走るエドワードの呼吸まで感じられそうな程、意識が冴え渡っていた。
この感触、久しぶりだ。
振るった剣が瞬き、宝石の如く赤く鮮血を生む。驚愕したような敵兵の見開いた瞳は、すぐに輝きを失う。
生臭く鉄臭い血の香りに顔をしかめたのはほんの一瞬で、すぐに何も感じなくなる。
「マルヴィル!」
「何だ?」
「おっさんとギルと一緒に行って。俺らは大丈夫だから!」
「承知した」
マルヴィル率いる部隊が、槍を手に戦場を駆ける。戦闘状態のエリクソン率いる騎兵隊とは別に、真っ直ぐに敵本隊を目指す。
騎兵隊の層はそれほど厚くない。向こうの本体までの距離は数百メートルといったところだろう。
後方に目をやると、革命軍の本隊も戦場に突入していた。各部隊の先頭に立つのは、各隊の指揮官たちだった。
「エド!」
本隊の動きを知らせると、エドワードも頷いた。
「もっと中央まで行くぞ」
「了解!」
この作戦において、リッツとエドワード、ギルバートとジェラルドは餌だ。敵にとってはかなり魅力的な餌だろう。現在交戦中の騎兵隊よりも、魅力的なはずだ。
リッツとエドワードは部隊中央で戦場を引っかき回し、ギルバートとジェラルドは、敵の本隊に入り込む直前で戦い、本隊にその存在を気付かせる。
敵騎兵隊は本陣を襲われると焦るだろう。だが焦って彼らを追ってきたところで、反転して戦場を混乱させる。
一見無茶だが、引っかき回すだけ引っかき回して、さっさと引き上げるだけならば問題ないと、ギルバートはいう。
敵本隊と敵騎兵隊の間に、一瞬だけ空白地帯ができる。そこまでたどり着いたら一気に後方へと離脱し、逆に騎兵隊が反転攻勢に出る、というのがギルバートの作戦だ。
当然ながら現在交戦中のエリクソン率いる騎兵隊も、戦いつつ同じ作戦をとっている。エリクソンたちは、敢えて前進しない。抗戦しつつも一定の距離を保ち続けている。
だが敵は徐々に前に出る。しかもその目の前には、革命軍幹部という美味しい餌がばらまかれているのである。彼らが後方に逃げれば、餌に釣られて追うしかないだろう。
作戦は頭に入っている。後は実行するだけだ。
リッツは片手で手綱を握る。
片手で振る剣先は、激しく敵兵を切り裂いてゆく。
目の前で落馬し、踏みしめられた血の海に沈む兵士を乗り越え、更に先へと駆け抜けた。
ほんの一瞬、精霊族の父と、闇の一族の母の顔が浮かんだ。
もう森に帰れないかもな……。
彼らは人殺しを許さないだろう。
その考えを振り払う。
帰ることを拒まれる森に、何の未練があるのか。過去に囚われても、何も先は見えない。
リッツは真っ直ぐに前を見据える。
敵兵を切り捨てながらも、リッツはエドワードの気配から決して離れたりしない。
守ることが一番の役割だ。それを忘れてはならないことぐらい、肝に銘じている。
並んで敵陣を切り裂いてゆく。先を行くギルバートにはかなわないが、その切っ先にかけた敵兵の数は、見る間に増えてゆく。
暖かい返り血は、あっという間に冷たくなり、戦いにほてった身体を冷やした。
「リッツ!」
エドワードの声に振り返り、その視線の先を確認した。
「了解!」
ひときわ守備の厚い場所に一気に斬り込んだ。エドワードの剣がリッツと同じようにその場を開いてゆく。
そそり立つ槍の数は、森のようだ。いったい何十本、いや何百本あるんだろう。
それに対してリッツとエドワードは剣を持っている。圧倒的に不利だ。
だが二人とも槍と戦うことにかなりの執念を燃やしてきた。あの男と戦うために、剣で槍使いと戦う術を研究済みだ。
それだけは、グレイグのおかげといえるかもしれない。
リッツは目の前の光景を見て薄く笑った。
当たりだ。
「さすがに目がいいな」
感心してエドワードを見ると、エドワードは自慢げに頷いた。
「当たり前だ。ティルス育ちなんだから」
軽口をたたき合って、同時に剣を構えてその一団の前に立った。
旧時代の遺物といえそうに古く、重たげな鎧と、派手な装飾の軍服に身を包んだ集団がそこにいた。
「戦場でまとまってるって、命知らずだな。早死にしたいのか?」
ゆっくりと尋ねると、リッツは前髪をわざとらしく掻き上げた。昔よりも返り血を浴びることが少なくはなったが、重い血の香りがする。
「……何者か!」
相手の誰何に、リッツは満面の笑みを浮かべた。
「俺は精霊族のリッツ・アルスター」
「なっ……」
男が怯んだのが分かった。それと同時に男を守るように、幾人もの兵士たちが男の前を固める。
「私が誰かは聞いてくれないのか?」
血塗られた金の髪から覗く物騒な水色の瞳が、スッと細められた。
「……」
答えもなく怯える男に、エドワードが笑う。
「では名乗ってやろう。私はエドワード・バルディア。お前たちの敵将だ」
穏やかな言葉と同時に、エドワードの剣が閃く。声を上げる間もなく、男を守っていた数人の兵士たちが地に倒れ伏す。
武器を持っていても使う間を与えなければ、それが一番手っ取り早い。
「偽王太子……っ!」
うわずった声で男が叫ぶ。
「偽王太子がここに居るぞ! 首を取って名を挙げろ!」
一瞬の驚愕から立ち直った男の声に、兵士たちが声を上げた。あっという間に取り囲まれる。リッツとエドワードは馬上のまま背中合わせに立つ。
「何してんのさ、エド」
溜息交じりに呟くと、エドワードは楽しげに笑う。
「状況に問題でもあるか?」
「ないけどさっ!」
言葉と同時に、リッツは前方の敵に斬りかかる。エドワードも心得たように同時に斬りかかった。
図ったわけでもないのに、エドワードの動きは手に取るように分かる。エドワードも同様にリッツの動きなど見ずとも分かるだろう。
どちらかが避けると、その敵にどちらかの剣がかかる。踏み込めると前に出た敵は、あっけなくどちらかに狩られる。
一人であっても切り抜けられない状況ではないが、二人であれば敵などないに等しい。
呼吸が自然に合い、繰り出す剣が同時に違う敵を討つ。
まるで剣舞のようだ。
昂揚した心が、この感触を楽しんでいる。
生きている。だから共に戦える。
そして共にあれば、何も恐れるものはない。
呑気な会話から一転した激しい動きに、呆気にとられた兵士たちを次々に討ち取る。
彼らの持つ槍は貴族と違い先端以外が木材で、あっけなく武器としての存在意義を失っていく。
見る間に囲む敵が減り、指示を飛ばす敵に肉薄した。
息をつく一瞬も無駄にせず、エドワードの剣が男を捕らえた。
男を守ろうと押し寄せる兵士たちを押しとどめるべく、リッツはエドワードに背を向けて、大人数の敵と向かい合う。
一息で数人の剣を受け止める。さすがに重い手応えだが、それを体術の要領で一気にはじき返すと、目の前で兵士がよろめく。
その隙に届く範囲を切り捨てた。
目の前で壁の如く血飛沫が舞う。
「こいつっ……強い……」
じりじりと兵士たちが後ずさった。油断なく剣を構えるリッツの背で、エドワードの穏やかな声が聞こえた。
「私の相棒の壁は破れない。お前は死ぬんだ。私の手にかかってな」
「やめろっ! 来るな! くるなぁぁぁっ!」
金切り声で男が鉄やりを振り回す。兵士たちよりも高価な槍だが、こんな使い方では威力の発揮しようがない。
「誰かっ! 誰か私を助けよ! 誰かぁぁぁっ……」
絶叫のような男の声が、ぷつりと途切れた。
同時に何かが地面に落ちる音と、馬が激しく嘶く声がする。
男が討ち取られ、周りにいた兵士たちが一斉にエドワードに斬りかかったのだと分かった。
「手助けは?」
正面の敵を相手にしながら尋ねると、エドワードの余裕ある声が返ってきた。
「必要ない」
「だよな」
敵に対しながら、リッツは戦場の状況を伺う。
騎兵隊の戦いは続いてはいる。だがもうすぐ本隊である歩兵部隊が戦場の主役になるだろう。
その前にもう少し派手に暴れて戦場を引っかき回さねばならない。それが作戦の第一歩だ。
「エド」
短く呼ぶと、エドワードも短く答えた。
「ああ」
リッツは大きく息を吸った。同時にエドワードも深呼吸したのが分かった。
だが次の瞬間の行動は、二つに分かれた。
リッツは目の前の騎兵の馬を一気に切り裂いた。痛みに嘶く馬は混乱状態に陥り、騎兵を振り落とした。
すでに血でぬかるんだ中に落ちた兵士たちは、暴れる馬に踏みつけにされて更なる悲鳴を上げる。
更にエドワードの前に回ってその馬たちも疾風の如く早業で斬りつけた。馬に振り落とされた人々が、馬や味方に踏まれて、混乱に陥る。
その瞬間、目の前に大きな空白地帯ができた。
「兵士たちよ聞け!」
間髪を入れず、エドワードの大声が響き渡った。
「私はエドワード・バルディアだ! 兵士たちに尋ねたい。お前たちが望むものは何か!」
剣を構えたまま、だが兵士たちは近くにいる者たちと顔を見交わす。
「お前たちがこの戦いに勝ち、偽王スチュワートが王位に有り続ける限り、王国軍が報いる事などないだろう。貴族が報償を得るための戦いに命をかける意味があるのか?」
静かだが決然としたエドワードの声が、平民中心の兵士たちに浸透していくのが分かった。
戦場の声が少しだけ離れて聞こえる。この場も戦場のはずなのに、何故か風の音が聞こえるぐらいに静かだ。
ある者は剣を下ろしたり、ある者は戸惑ったように回りを伺っている。
「我々は貴族特権を廃止する。貴族も平民も平等に暮らす権利を与えるつもりだ。私は精霊族に選ばれし王として、全ての者が平和に暮らせるユリスラを実現させる」
堂々たる王者の宣言だった。敵と対しながらも、リッツはそんなエドワードの言葉に魅了される。
「志ある者は私と共に来るがいい!」
一点の曇りなき信念の言葉。
自らの立場に揺らぐこともあるけれど、リッツが友として共にいることで立ち続ける、その勇気と気概。
それがエドワードだ。
その後ろから怒鳴り声が響いた。貴族の一団が騎馬で乗り付けてきたのだ。その後ろにも数十人の部隊が続いている。
「何をしているか、平民共! そやつらは陛下に楯突く偽王太子だ! 下賤な平民女から生まれた卑しき偽物だ! 討ち取れ、殺せ!」
戸惑いが不思議な感情を生んでいく。
一人の騎兵が、ゆっくりと貴族に向かって立った。
「何をしている! 偽王太子と、その犬めをたたきつぶせ!」
叫んだ貴族は、何が起こったか分からなかっただろう。何故なら次の瞬間、自分の胸に幾本もの槍が突き立っていたからだ。
「が……」
貫かれた貴族は、馬に乗ったまま絶命した。
「何をするか、愚民共が!」
後ろに付いてきた部隊が、貴族を貫いた男たちを交戦状態に入る。
「我々は、貴族の奴隷ではない!」
「何を?」
「我々も、同じ人間だ!」
兵士の声が貴族を猛らせた。
「ふざけるな、愚民共!」
猛烈な反撃を受けながらも、兵士たちは口々に叫ぶ。
「殿下!」
「王太子殿下!」
たった今まで敵だった兵士たちの訴えは、鋭く耳朶を打った。
「王国は変わりましょうか?」
必死の訴えに、エドワードは迷い無く答える。
「変わる」
「我らはもう、家族を殺されずに済みますか?」
「当然だ」
「王国は……救われましょうか!」
「私が救ってみせる!」
力強い肯定に、幾人かの兵士たちが槍を握り直した。彼らの敵が革命軍から王国軍に変わった瞬間だった。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
兵士たちが声を上げて、今まで味方だった貴族に斬りかかっていく。
リッツは猛然と彼らの先頭に立った。
「エド!」
「了解だ。リッツ、お前に任せる。革命軍と共に戦う者は共に来い!」
言葉と共にエドワードが馬首を返す。向かうのは自軍の領地だ。
「偽王太子を逃がすか! 追え!」
叫ぶ貴族の前に立ちふさがると、リッツはゆっくりと剣を構えた。足で馬の腹を押さえて、両手で構える。
「その剣で届くかっ!」
叫び、鉄やりを繰り出してきた兵士に敢えて無言で突っ込む。槍が頬をかすめたところですれ違いざまに男の首を切り落とした。
高く舞い上がる男の首は、何が起こったのか把握できていないように目を見開いている。
「な……なんで……」
呆然と味方の首の行方を追っていた男に、静かに笑いかけた。
「エドに手を出したら、殺すよ?」
「くっ……」
「俺は俺の王を守る。命に代えてもだ」
相手を見据えたまま笑うと、貴族たちが動きを止める。
「お前たちの王は偽の王だ。誠の王になるのは、王太子エドワードのみ」
前方に睨みを利かせつつ、後方で遠ざかりつつあるエドワードと共に行った兵士たちの物音を確認した。
もうそろそろいい間合いだ。
いつの間にかぐるりと、人垣がリッツを取り囲んでいた。まるで針が中心にと向くように、槍先がこちらを指している。
「いくら精霊族の戦士といっても、この包囲は抜けられぬはずだ。徐々に包囲を狭めて、全員でこの偽王太子の犬めを突き殺すのだ」
「ふうん。できると思うんだ」
相手を挑発しながら、リッツはじりじりと退路を探る。指揮官は貴族であっても、兵士たちも沢山いる。持ち手が木の槍ならば、そこが突破口だ。
だが全員の武器が鉄槍ならば……。
リッツは素早く剣をしまい、軍服の内側に利き手を突っ込んだ。その手を取り出すと同時に、後方の兵士たちに手にしたものを投げつける。
鋭いきらめきを放つそれは、見事に兵士たちの馬に突き刺さった。
いななき暴れる馬たちに動揺する兵士たちの間を、一気に走り抜ける。
「逃げたぞ!」
「追えっ! 殺すんだ!」
「続け! 奴らを生かしてはおけん! 全軍、奴らを殺すまで退却を許さぬ!」
叫び声を聞きながら、リッツは意図的に少しだけ速度を落として逃げる。わざとらしく戦場の中を縦横無尽に逃げ回った。
徐々に敵兵たちがリッツに注目し始める。
「足が遅いぞ! 追いつくんだ!」
「騎兵隊、全軍急げ!」
敵の数が徐々に膨らんでいく。最初に対峙した数の三倍、四倍に増えていく。
上手くいった。
手元に残った数本の飛刀を、再び軍服の内側に隠す。ヴェラと共に二月ほど前からシアーズへ潜入しているファンから数本分けて貰ったものである。
本当に役に立つとは思わなかったが、助かった。
必死で追いかけてくる敵から、追いつかれることなく、しかも離れることなく逃げる。
振り返ると敵の騎兵隊が長い列になってリッツに追いすがっていた。
気がつくと隣にはマルヴィルがいる。その後方には血に塗れた姿でギルバートとジェラルドがいる。彼らも大量の追っ手を従えていた。
無事に役割を終えた証拠だ。
「おっさんたち、モテモテ」
ボソッと呟くとリッツの副官であるマルヴィルが吹き出した。
「あまり嬉しくないだろうな」
「まあそうだね」
あと少しで本隊というところで、一気に追っ手を引き離した。坂道を駆け上がり、リッツは正面を眺める。
そこには自軍の陣地があるはずだった。でも今はそこに自軍はいない。
「やっぱすげぇ、コネル」
ついつい呟いていた。
本隊歩兵部隊は、リッツとエドワード、ギルバートがひっかき回した中央を避けて、敵にも気付かれぬように左右に展開して進軍していたのである。
そしてリッツが向かう先には、逃げ延びたはずのエドワードがのんびりと馬上の人となっていた。
その脇を固めるのは、遊撃隊の弓兵たちと、先ほど敵陣から逃げ延びた兵士たちだった。
リッツがエドワードの元に駆け寄ったとほぼ同時に、同じように敵を引きつけて逃げていたギルバートとジェラルドがその場にたどり着く。
「ギルーっ! おっさんっ!」
「おうリッツ。上手くやったか?」
「勿論」
頷きながら少し先に展開する歩兵部隊を眺めた。それは見事な眺めだった。
「理路整然って感じだ」
「見事なもんだろ? 戦わせても強いが、あいつの実力はここにある」
自慢げにギルバードが頬を緩めた。
本隊の動きを統べるのはコネルである。コネルの下、本隊の指揮官が五人いる。その下の大隊長は十人だ。その指揮官それぞれが各部隊を思い思いに動かしているのだ。
その全てを統括し、指示を出すのがコネルで有り、副官で、リッツも旧知のチャックである。
そして歩兵部隊の参謀のドノヴァンがいる。中肉中背で白髪交じりのたたき上げ軍人であり、この気むずかしそうで無口な参謀長とリッツはあまり話したことはない。
それからマディラとは違い、女性らしさを置き忘れた筋骨逞しい女性参謀ヘザーがいる。
本隊はこれらの人々により運営されていて、リッツが介入したら職権乱用だ。
ジェラルドやエドワードの作戦案をコネルが持ち帰り、それを指揮官と参謀長とコネルで実現させる。五万人もいる本隊を、己の手足のように操る彼らの手腕はすごいと思う。
リッツにはできそうにない。ダグラス隊と、遊撃部隊の指揮だけでいっぱいいっぱいだ。
「エド」
「上手に逃げられたじゃないか」
「当たり前じゃん。俺だってやる時はちゃんとやるし」
エドワードの後ろを見ると、先ほどまでの敵が、水色の布を結びつけていた。そこにずらりと並んだその姿は、さながらエドワードの護衛のようだ。
「来るぞ」
短いギルバートの言葉に、リッツは正面を見た。雪崩を打つように敵騎兵が突っ込んでくる。
「ニール」
遊撃隊弓兵部隊長代理を呼ぶと、ニールが立ち上がった。その手にはアーケル草原の戦いで使われたタルニエン製のクロスボウがある。部隊のほぼ全員がクロスボウを構えていた。
彼らは指示通りに数歩前に出て、眼下を見下ろしながら狙いを定める。
「第一班、放て!」
ニールの声に、クロスボウが風を切った。本隊の弓とは違い、その音は真っ直ぐに空気を切り裂く。坂の上から放たれる弓矢は、ほとんど的を外すことがない。
次々に馬に当たり、騎兵が倒れていく。
「第二班、放て!」
容赦なく、そして間断なくクロスボウが一斉掃射され続ける。
「敵は少数だ! 何を恐れるか!」
叫びながら騎兵はこちらへと駆け上り、射殺されていく。
「すごい威力だな」
呟いたエドワードに、ギルバートが肩をすくめる。
「当たり前だ。遙か昔から戦争し続けているタルニエン製の武器だぞ? ユリスラなんかよりも武器の精度は高いさ」
だが遊撃隊の弓兵は少ない。騎兵部隊はみるみるこちらに迫る。
作戦を何も知らない、先ほどこちらに投降したばかりの兵士たちに不安の色が出始める頃、戦場が再び動き出した。
左右に分かれて展開していた本隊が、一斉に間を縮め始めたのだ。
長く伸びた敵騎兵隊と、ギルバートとジェラルドの姿をみつけて慌てて追っていた敵歩兵部隊が、革命軍本隊に挟まれる形になる。
突出した敵軍が、巨大な壁に挟まれて潰されていくようにみるみる消滅していく。
細長く伸びた陣形になってしまい、歩兵に挟まれて退路を断たれた敵騎兵隊には、なすすべがなかった。
敵騎兵隊がそうして姿を消していくのに、革命軍の騎兵部隊は、敵本隊に猛然と襲いかかった。
「さすがはコネル。機を読み誤らねえな」
ギルバートの呟きに、リッツは頷いた。
「じゃあ、俺たちも動く?」
「そうしよう」
ふたたびギルバートが眼下を見下ろした。




