<6>
新祭月一日、太陽が中空にあり短い影が地にある時刻に、その演説は始まった。
闘技場を埋め尽くす民衆の前で、姿だけなら神々しいが、中身が醜悪な偽王スチュワートが口を開く。
「我が国民よ! 今日という日は、これから始まる栄光の日々のための大いなる記念日となるであろう……」
延々と続きそうな気配に、早くもうんざりしつつも、グレイグは小さな吐息を一つ付くだけでやめておいた。偵察のためにといいだしてここへの侵入を提案したのはグレイグだからだ。
「記念すべき日……なのかしらね」
冷ややかな呟きが聞こえた。視線を向けると、質素な平服を着て、いかにも街の平民といった格好のグレタがいる。目だけは口調と同じように何処までも冷たい。
「少なくとも本人はそう思っているだろうな」
「貴族たちもでしょう?」
「だろうな」
溜息交じりに向けた視線の先には、沢山の貴族たちが座っていた。闘技場のほぼ全てを埋め尽くすように、貴族たちが余裕を持って座っている。ほとんどの者が手にしているのは、新年の祝い酒だろう。
その貴族たちの席の後方に、彼らの使用人たちが半ば腰を浮かせながら座っている。
貴族に命じられ怒鳴られれば、詰め込まれた席からあたふたと貴族の元に駆けつけ、その指示を受けている。中には酔った貴族にその場で暴行を受ける者もいる。
そんな光景もここシアーズでは日常で、誰もそれを咎めたり止めたりするものはいない。
闘技場の中央にはきらびやかな鎧を身につけた貴族たちと、それに率いられる哀れな軍人たちがいる。それでもここに居る軍人たちは、ユリスラ王国軍の士官クラスである。
グレイグは、闘技場の客席にグレタと共に、貴族の召使いたちに紛れるように座っていた。火傷は長い前髪と卓越したグレタの化粧で隠されていて、人目に付くこともない。
グレイグの隣には、中年の男が座っていて、小さく息を吐く。
「やれやれ。民衆の心などもう一つもないのに、よく王を名乗っていられるものだ。厚顔無恥とはまさに我が国王陛下のことを意味する言葉らしい」
「チノ」
「おっと失礼、大将。俺は正直者でね」
おどけたように軽く肩をすくめたチノは、更に声を潜めた。
「いよいよ動きますな」
「そうだな。準備はどうだ?」
「着実に。後はあなたが指揮を執ればいい」
「指揮を執るか……柄じゃないな、元暗殺者には」
口元に自嘲の笑みが浮かんだ。だがチノは微かに肩をすくめると、苦笑交じりにグレイグを見上げてくる。
「大将の立場にはふさわしいですがね」
「そうだな」
エドワード・バルディアの叔父という立場には。
再び口を噤んで熱弁を振るうスチュワートに目を向けた。おそらくスチュワート自身も自らに酔い、何を言っているか理解していないだろう。
この馬鹿げた茶番を本気で信じている者など、いるのだろうか。
貴族と名の付く者たちの大半が北部から一掃され、逃げ延びてこの地に来たというのに、未だに平民を支配できると信じるその自信は、いったいどこから来るというのだろう。
視線を向けたグレイグの目に映ったのは、熱に浮かされたように新祭月に酔う男の姿だった。
「よって余は王太子を僭称するエドワードなる思い上がった下賤の者を、この手で討ち滅ぼし、口惜しさに泣き叫ぶその首を城門に晒すことを誓う。それは再び我々選ばれし高貴な者たちの世に、平穏をもたらすことになるであろう」
貴族たちの歓声が沸き上がった。それが徐々にスチュワートを賞賛する声に変わっていく。うねるように高くなっていくスチュワートへの賛美に、ぽつりとグレタが呟いた。
「……馬鹿な男」
その吐き捨てるような言葉は、グレタの本心だろう。熱狂的に叫ぶ貴族たちの後ろに控える召使いたちが一様に目を伏せている姿も異様と言えば異様だった。気がついた貴族たちは殴りつけてスチュワートへの賛美を叫ばせる。
「だが余は寛容である。逆賊たちにも新祭月を楽しむ時間をやろう。これは余から逆賊への最後の慈悲である。新祭月が終わった翌日、それが逆賊エドワード・バルディアの死すべき日になるだろう」
再び高まるスチュワートへの賞賛の歓声に、グレイグは物音を立てず、静かに背を向ける。
こう演説しておいて、新祭月の間に戦いに出ることはまずないだろう。彼は意表を突いた奇襲を展開できるほどの頭もない。
彼らを侮っているわけではない。戦力だけならば、おそらくスチュワートの兵力はエドワードの倍である。だが一枚岩になどなれるわけのない王国軍は、エドワードの敵ではないだろう。
ただ一つ、脅威は残っている。それをこれから無力化するのがスチュワートたちの仕事だ。
用を言いつかった召使いだと思われるのか誰にも咎められることなく闘技場を出た三人は、そのまま新祭月のシアーズを歩く。
年が変わるころに降った雪は、もう微かに残るだけになっていた。山の方ならともかく、シアーズの街中ともなると、海風が吹くせいかそれほど大雪になることは無い。
新祭月の妙に浮き足立った街を、真っ直ぐに歩いて行く。闘技場を出て中央大通りを通り、三人が向かうのは港だった。そこかしこで喧嘩の声が上がったり、客を引く高い女の声が上がっている。
みな安酒を飲み、暴れるぐらいしかうさの晴らしようがないのだろう。
グレイグとチノの後ろを、グレタが歩く。その後ろに、一人、また一人と人が増えていく気配を感じる。
予定通りだ。
グレイグを含め、彼らは団体というわけではない。だが少しずつ人の数は増えていき、彼らは自然と隊列を組み始めた。
黙々とではなく、新祭月で賑わうシアーズの中にあって、ごく自然に彼らは楽しげな会話を繰り返す。
それはグレイグたちであっても同じだ。深刻な顔でこの先へ向かえば、怪しまれること請け合いだ。
ひときわ賑やかな後ろの人々は、商人や荷運びの男たちだ。車輪の付いた荷車を何台も引いている。その上に乗っているのは、食べ物や、宝石箱、そして大量の酒樽だった。
それらの荷には、沢山の花飾りが付けられている。新祭月に荷を運ぶ者は大抵が新祭月の貢ぎ物を運んでいると相場が決まっている。そのための飾りだ。
グレイグたちを先頭にした一行は、中央大通りを真っ直ぐに抜け海に出た。冷たく湿った潮の香りが遮る物がなくなった隊列に一気に吹き付ける。
この作戦の始まりは、三月ほど前にさかのぼる。
「海軍は動くだろうな」
市街図を見ながら、グレイグが呟いた。十月に入り、街の治安が為政者とは全く違う意図で収まってきていた時期だった。革命軍シアーズ派による、権力者への報復行為が浸透し、貴族たちの無法行為が減ったのである。
「海軍ねぇ……」
同じように市街図を見ていたチノが呟いた。
「海軍がどうやって戦いに参加するんです、大将?」
するするとチノの指が図面の外に伸びる。何もない机を軽く叩いて見上げてきたチノは、やはり傭兵だ。戦闘を有利に勝つということを一番に考えている。貴族に飼われていたグレイグの方が貴族の考えが読める。
「確かに会戦には参加できそうにないな。だが指揮官は貴族だ。戦闘に負けて逃げ帰ったら?」
「門を挟んで籠城戦でしょう」
「でも我々がそれを許さない」
籠城戦になった場合、門の内側からシアーズ派が王国軍に策を仕掛ける予定だ。当然ながらジェラルドとギルバートとは呼応できるようにしてある。
「考えておきたいのはその先だが?」
微かに笑みを浮かべて問うと、チノは肩をすくめて笑った。
「なるほど。奴らは王宮に逃げ込み第二の籠城戦に持ち込むか……そして」
「革命軍に溢れた市街地を、民衆ごと砲撃するってとこね」
チノの言葉を澄んだ女性の声が引き取った。顔を上げると、偵察に出ていたグレタがいた。その姿は花売りの町娘だった。
「街の様子は?」
「変わらないわね。貴族もいつ襲われるかと戦々恐々よ。何もしなければ襲われないと分かっているのだから、怯える必要なんてないのに」
「王宮の様子は?」
「リチャードは強靱ね。たった三ヶ月前に頸椎をねんざして動けなくなっていたというのに、もう女の調教に夢中よ」
興味もないというように冷徹に言い捨てたグレタの言葉で理解する。きっとリチャードが楽しんでいる女は、平民ではなく貴族だろう。しかも貴族でも下位の子爵以下の子女だろうことが容易に想像が付いた。
平民を攫うとシアーズ派に襲われるから、取り巻きの貴族たちは調達できる女性を身近な者で済ませたのだろう。
今頃、下級貴族たちは平民たちに与えられていた苦しみに気がついただろうか。それとも王族に弄ばれることを今も出世に関わる希望だと思っているだろうか。
「それは喜ぶべきことですかねぇ?」
「私はそう思うわ。ねえグレイグ?」
「そうだな。元気になって戦闘に出てきてくれなければ、エドワードに面倒を背負わせる」
「王宮に籠もられたら手間ですものね」
「ああ」
自分を見据えた、ルイーズによく似た水色の瞳を思い出す。憎しみに顔を強ばらせ、射るように自分を見たあの瞳を忘れることはないだろう。
『自分だけ楽になるのかよ……死んで逃れる気なのかよ』
低く呻くようなエドワードの声を、忘れることなどできるわけがない。そして妹と最愛の人を救うどころか殺したも同然の自分の罪も。
そしてそれと同時に、エドワードを想う故に厳しく言葉を投げてきたリッツの泣き顔を思い出す。
『自分が何者か分からない不安は俺だって分かる。だけど暗殺者の道を選び取ったのはこの人だ。同情なんてするもんか』
ああそうだ。同情されたいわけではない。彼らに許されたいと望んでいるわけではない。
ただできる限りのことをして、愛する人たちに償いたい。アルバートに、死んでしまったルイーズとローレンに。
そして本来は自分の子として生まれてくるはずだったシャスタの名を持つ子供に。
グレイグの想いはそれだけだ。
「大将?」
目を上げるとチノが不審そうにこちらを見つめていた。
「お加減でも?」
「いや。少し考え事だ。海軍に話を戻そう。海軍の軍艦を足止めしたい」
再び市街地図に目を落とす。思い出や感情に浸るのは、まだまだ先でいい。今は戦いに勝つことを考えねばならない。
「海軍本部だけですか?」
「いや。ランディア所属部隊の船もだ」
「……沈めますかい?」
「沈めるまで行かなくてもいい。ランディアの兵には逃げ帰って貰わねばならないからな」
「確かに」
ランディアは船なくしては帰れない土地だ。陸路を行けばシアーズから、ファルディナとオフェリルを経由せねばならない。
「革命軍が市街地を完全に制圧し、海軍を押さえるまで動きを封じたい」
「……それならうってつけの人物がおりますなぁ」
「うってつけの人物?」
「ええ。あいつも暇を持て余しているでしょう」
チノはそう言って、意味ありげに笑った。
「一月待っていただきましょう」
そして派遣されてきたのは、毒のスペシャリスト、ダグラス隊のヴェラと、護衛のファンの二人だったのである。
ヴェラに初めて会った時、じっと見つめられてから言われた言葉を思い出す。
『本当に見た目はエドワードにそっくりね。まあ、中身はリッツっぽいかもしれないけど』
意味が分からなかったが、ヴェラは小さく息をついた。暗殺者をけしかけたことは、水に流してくれるようだった。
それから二月。
大量の酒樽には、軍の機能を二週間ほど停止させる薬物が混入されている。調合したのは当然ヴェラだ。
その薬物の仕組みは分からないが『二週間ぐらい、生きているか死んでいるか分からないぐらい身体がだるくて動けなくなるの。まあいうなれば、二日酔いの状態がずっと続く感じ?』ということだった。
『まあ、ぱっと見、疫病よね』
あっさりと言い切ったヴェラに、グレタが感心したように溜息をついたのが印象的だった。
ヴェラと共にやってきたファンは、偵察と称して毎晩のようにどこかに出かけてしまう。何をしているかは掴めていないが、本人曰く精力的に活動しているらしかった。おそらく何かしらの密命を、ギルバート・ダグラスに命じられているのだろう。
グレイグは改めて自分たちが率いてきた行列にたんまりと乗せられた酒樽を眺めた。
この酒を一杯飲んでも何の効果もない。ただの酒だ。ただ量を重ねると徐々に毒が蓄積されていき、多く飲んだものほど意識を失う代物だという。
試しにグレイグが一杯飲んでみたが、他の酒と何ら変わりはなかった。
「寒いわね」
呟きつつ襟元を寄せたグレタが、小さく息を吐く。その息も白く色づく。顔を上げたグレイグは、その白い息の先に広がる空を眺めた。
蒼空。
冬の澄んだ青空は何処までも深い青を湛え、まるでそこのない湖を眺めているようだ。
「ああ。でもいい天気だ」
「そうね。ランディアの岬が見えそうなぐらいだわ」
眩く輝く海に目を細めたグレタの横顔は、冬と同じように冷たく冴えているが美しい。
「本当にそうだな」
シアーズの冬は、ユリスラ北部と違って晴れることが多い。潮風が強く吹けば晴れ、エネノア中央山脈から吹く風が強ければ雪になる。
「ヴェラはどうしているかしらね?」
「さあな。ファンと遊んでいるんじゃないか?」
何をして遊んでいるのかと問われると想像が付かないのだが。
「ほらほら大将。のんびりしてる場合じゃないでしょうよ。うちの二大変人に心を馳せている場合じゃない」
二大変人……。つい吹き出してしまう。
「すまない」
「笑って言われてもねぇ……」
呆れるチノに促されて、海風を受けながら港を東側に向かって進む。
波が打ち付ける港だが、ほぼ全てが煉瓦で大きな船が接岸できるように人工的に創られている。昔は岩場だったというが、今はその面影はない。
新祭月だというのに、そこには沢山の商業船が横付けされて荷を下ろしている。そのほとんどがこれから始まる戦いに備えた貴族たちの武器や食物である。つまりランディアやルーイビルからの船だろう。
いくら貴族たちが新祭月の狂乱に身を投じていても、平民である彼らは貴族の命ずるままに働かざるを得ない。
人々を眺めつつしばらく進むと王城の建つ崖を背にした巨大な軍港があった。煉瓦造りではなく立派な石造りの港だ。
そこにはユリスラ海軍が誇る巨大な艦船が、大きなマストを立てて留まっていた。巨大な帆船だ。停泊中のためか、帆は全てたたまれている。同じ大きさの船はたった五隻だが、小さな船は十隻程あるだろうか。
色の違う派手な帆船も三艘ある。見事な彫刻を施された帆船は、ランディアのものだ。
ここが王国海軍の本部だ。
「果たして受け取ってくれるかな?」
グレイグの呟きにチノは肩をすくめた。
「受け取ってくれるに決まってるでしょうよ、大将」
何度も説明しただろうと、呆れたのだろう。微かに視線を大量の荷物へと向ける。荷物の中で最も多いのは酒樽である。荷物の大半が酒樽であると言っていいだろう。
現在内戦を抱えている王国軍は、海軍に基地待機を命じている。そのため新祭月の祝いを各艦で行うのだという。
当然ながら待機中の彼らにも偽王スチュワートから祝いの品が下賜される。新祭月の為の大量の祝いの食事と、酒である。
今回はそれに便乗させて貰うことにした。偽王からという名目で商品を集めていた商人を、シアーズ派で買収したのである。
その酒の中に混ぜたのが、ヴェラの調合した毒薬だ。今日、この酒を口にしてから二週間、海軍の動きが止まる。二週間あれば、この戦いに方が付くはずだ。
しばらく歩いてたどり着いたのは、兵士が警備をしている巨大な青銅の門だった。格子状に創られたその門の向こうに、王城と王宮のある崖の下にへばりつくように創られた沢山の建物が見える。それが王国海軍の本部である。
グレイグたちに気がついたのか、警備の男が声を上げた。
「ここは王国海軍本部だ。用もなく近づくな」
厳しいと言うよりも、不機嫌そうに兵士はこちらをねめ付けた。新祭月だというのに働かされている我が身を哀れんでいるのだろう。
「スチュワート王より、下賜の品をお持ち致しました。お受け取りいただきたい」
「ほう?」
「お務め、ご苦労様です」
代表者として頭を下げたグレイグは、素早く兵士の手に金貨を握らせた。顔を上げると警備兵の締まりのない笑みが映った。下級貴族の門番は金に弱い。暗殺者として生きてきたグレイグにとって、彼らを丸め込むことはたやすい。
元々新祭月に王家から酒が振る舞われることを知っているのだろう。妙に上機嫌に男は門を開くように命じる。門を開くのは平民の兵士のようだった。
「ご苦労だった。中まで運んでくれ。まず本部によって各艦に乗せる数を確認しろ。分かるな?」
「はい」
素直に頷くと荷物を曳いてきた面々を振り返る。みな革命軍シアーズ派の面々だ。これからすることがいかに重要かを全員心得ている。
「では失礼致します」
警戒心のなくなった兵士に笑顔を向けつつ、一行は門を通り抜ける。堅い石畳でできた入口から、警備の男に言われた方へと足を伸ばす。
街中と比べて、海軍本部は静まりかえっていた。待機中であるのだから仕方ないかもしれない。
だが更に先へ進み、船の元へとやってくると全く違った。船からは全て足場がかけられ、人々が往来していたのだ。
よく日に焼け、髪も潮風で傷んでいるのか癖のある者が多い。彼らは一様に酒樽を見ると興奮の声を上げた。彼らに愛想よく笑いながら、海軍本部へと足を踏み入れた。
ひんやりとした石造りの建物は、やはり静かだった。事務的に手続きをして、船に積み込む樽の数を書かれた紙を渡される。
「本当に簡単だな」
「恒例行事には、ついつい気が緩んじまうってもんでしょう?」
「今は戦時だぞ?」
「でもまだ王都まで敵は来ていないでしょうよ」
肩をすくめつつ言い捨てたチノに、グレイグは頷いた。
「それはそうだ」
軍人たちはきっと、王都は絶対に安全だと信じているのだろう。絶対などこの世には存在しないというのに。
船の前に来ると、手慣れた商人のようにチノが声を張り上げる。
「海軍の軍人様! 国王陛下より賜りました新祭月の祝いを運んで参りました!」
「おうっ!」
兵士たちは簡単に返事をすると、待ちかねていたように甲板から降りてきた。グレイグたちがやることといえば、あとは船にそれぞれの物資を下ろすだけだった。
中身が酒だと知っているから、船の近くに荷を下ろすだけで兵士たちが喜んで運び入れるため、中に入る必要すらもなかったのである。
だがランディアはさすがに警戒心をもって彼らに接した。彼らにとって新祭月をシアーズで過ごすことなどなかったからだ。
ランディア自治領主バーンスタイン公爵の私兵海軍の指揮官らしき男がグレイグの元に降りてきた。
「酒だと?」
「国王陛下より賜りました品でございます」
「何か入っていたりせんだろうな?」
疑う男の前で、樽を開けていっぱい酒を注ぎ込む。ここにあるのはワインと蒸留酒である。グレイグがたまたま開けたのは蒸留酒の方だった。
「この通りです」
「……飲んでみろ」
警戒心の強い男の前で、グレイグは蒸留酒を一気にあおった。前に飲んだのは数日前だから不調が現れることはないだろう。
「いかがです? これでもお疑いでしょうか?」
杯を飲み干したグレイグの視界で、男が喉を鳴らすのが見えた。待機中でさぞ酒に飢えていたのだろう。新祭月の無礼講は、すでに貴族たちの常識で待機中であってもそれは変わらない。
現に男の目はすでに酒以外の何者も見てはいなかった。
「分かった。運び込め」
「全ての樽を確認しないので?」
「必要ない」
言い切った男が合図をすると、船から続々と人が下りてきた。本部で確認しただけの樽を下ろすと、嘘のように静まりかえる。おそらく中で酒を飲む相談でもしているのだろう。
全ての樽を届け終えた頃には、最初に運び入れた船から歓声が上がり始めていた。新祭月の酒盛りが始まったのだろう。
「酒樽が運び込まれる所は、火薬庫の上だな?」
「そうですよ」
「この酒を飲み終わり、前後不覚と成って動けなくなった頃に……」
「ええ、仕掛けが発動して大騒ぎですな」
楽しげなチノに、グレイグも笑う。
「不謹慎だがな、チノ。俺は少し愉快な気分だ」
「へへ。大将も少しは傭兵の世界に毒されてきましたな」
「それは困った。俺はあくまでもグレイン騎士団員のつもりだが」
「またまた。大将、ダグラス隊はいつも新入り大歓迎ですぜ」
「考えておこう」
笑顔で頷きながらも、その日は来ないことをグレイグは知っている。もしこの戦いを生き抜いたとしても、グレイグのいる場所はジェラルド・モーガンの元である。
そして生き抜いたならばアルバート・セロシアにこの罪の身を差し出すつもりだからだ。
「さあ、第一段階は済んだ。帰ろうか」
「了解」
来る決戦に向けて、戦力を集結させる。それが第二段階だ。現在のシアーズ派は、未だ二千人にも満たない。その中には、若者や女性もいる。それでも皆がこのシアーズを自分たちの手に取り戻したいと願う人々だ。
革命軍が押し寄せてきた時、抑圧されたどれだけの人々が、彼らの呼びかけに答えて共に戦ってくれるのか。それは未知数だ。
だがそれに賭け、地道に活動を広げていくことが、彼らにとってできることの全てだった。
空の荷台を曳く仲間たちと共に、グレイグは海軍本部を後にした。




