<4>
王国歴一五三五年の最後の夜は、誰の上にも同じようにやってくる。それはアンティルで過ごすパトリシアでも同じことだ。
エドワードとリッツが、フィルキンスと世間話に講じていた頃、パトリシアは一人、屋上のテラスに立ち空を眺めていた。
この街に来て、自治領主の賓客となってからもう二月が経とうとしている。ずいぶん長い時間が経ったなという気と、もうそんなに経ったかという気が同時にしてしまい、パトリシアは苦笑する。
吐き出した息が白く曇った。冷たい空気に首をすくめ、マフラーに顔を埋める。手には温かな手袋をしているから寒くはない。
パトリシアは欄干にもたれかかって、海に目をやった。夜の海は澱んだ闇のように全てを飲み込みそうに暗い。空に星の一つも瞬いていないからだろう。
「寒い……」
ぽつりと呟く。
年の終わりに一人にされてしまった、というわけではない。ささやかながらも最後の夜を送るパーティが開かれたのだが、パトリシアはそれほど酒を飲まないために、早々と引き上げてきたのである。
かといって自室に一人籠もっているのも味気なくて、気がつくとタウンゼント邸で最も見晴らしのいいテラスに来ていた。
このテラスは元々ウィルマが時間を過ごす場所だったらしく、鉢に入った沢山の植物があり、いくつかのベンチが置かれているくつろげる場所だ。パトリシアはウィルマのいない時、頻繁にテラスを訪れている。
吐息を吐き出しながら再び空を見上げると、どんよりと重たげな曇り空だ。雨か雪でも降るのだろうか。
空を見上げたままぼんやりとしていると、後ろに気配を感じた。細身の剣に手をかけて振り返ると、意外にもパーティの中心にいた、自治領主のウィルマだった。
頬が赤く色づき、上気したように目の縁まで赤くしているのは、酒を飲んでいるからだろう。先ほどパトリシアが見た時、彼女は誰よりも豪快に酒をあおっていた。
酒豪なのだなと感心したが、やはり普通に酒に酔うらしい。
「ここにいたのか?」
酔っ払い特有の妙に陽気な口調でウィルマに尋ねられ、戸惑いながらも頷く。
「はい。すみません。お先に抜けさせていただいて」
小さく頭を下げると、ウィルマは気にするなと言うように軽く手を振った。
「構わないさ。社交界のような堅苦しいパーティではない。好きな時に楽しみ、好きな時に抜ければいい」
多少よろめきつつも近くに来たウィルマは、パトリシアの横に立ち、大きく酒臭い息を吐き、欄干にもたれかかって海を眺めている。
「酔っていらっしゃいます?」
「ああ。勿論」
「お部屋までお送り致しましょうか?」
「いや。ここで酔いを覚ましたい」
「お邪魔じゃありませんか?」
ここはウィルマの場所だ。立ち入ることを許されている場所であるとはいえ、主がいるなら立ち去るのが流儀だろう。
だがウィルマは小さく首を振った。
「いてくれた方がありがたい」
いつもの男性としての話し方なのに、とても女性的に響いた。妙に舌っ足らずなのは、酒が回っているからだろう。
「ではここにいます」
宣言したパトリシアは黙ったままウィルマと同じ海を見る。彼女を一人にして、この寒空の下で眠ってしまったりしたら大変だ。
昔、エドワードとリッツが冬の路地裏で酔いつぶれているのを発見した事がある。あの時リッツは軽い風邪を引いただけで済んだが、初めてそんな状況に陥ったエドワードが寝込んだ。
男性でさえもその状態だ。こんな所にウィルマ一人を放っておけるわけがない。パトリシアは自分が結構心配性であることを自覚している。
黙ったままいると、時に微かな囁きのように、波の音がここまで聞こえてくる。天気が崩れそうだから、海も荒れているのかもしれない。
「パトリシア」
「はい」
「昔話をしよう」
本当に唐突な言葉に、パトリシアは戸惑いつつも聞き返す。
「……昔話……ですか?」
「ああ。もうすぐ君は殿下の元に帰るからな。少し君と世間話がしたかった」
「何故私なのです?」
「君は女性で、グレイン自治領主の娘だからだ。私は過去に自分と同じ立場で生きた人間を他に見た事がなかった」
その声には背負った荷物を感じさせる重みがあった。見るとウィルマの目は酒のせいで潤んでいるのに、妙に真剣だった。
もしかしたらパトリシアに昔話をするために酒を飲んできたのかもしれない。彼女はきっとそんなところが不器用な女性なのだ。
ウィルマと話をすることはたびたびあった。でもこうして二人きりで、戦闘の話や、今後の想定を抜きにした話をするのは初めてだった。
顔を見ると欄干にもたれかかっているウィルマの視線は海を見ていてこちらを見たりしない。酒を飲んでいても、パトリシアを見ながら話せないことなのかもしれない。
だからパトリシアも海を見つめて頷いた。
「私でよかったら」
「ありがとう」
海を見つめたままウィルマは、しばらく黙り込み、少々呂律は回らないまま、今までとは違った静かな声で話し始めた。
男性的に作られていない、素の声だった。
「あれはもう十年ほど前になる」
ウィルマの微かに低い声が、波の囁きと共に、パトリシアの耳に染みこんでくる。
「貴族の娘がほぼ二十歳で嫁ぐというのに、私は二十二歳になっていた。父は私の夫に自治領主を継がせるつもりでいたから焦ったのだろう。伯爵家、侯爵家、子爵家を回り、私の婿をみつけようと必死だった」
風が短いウィルマの前髪を揺らしている。パトリシアも自分の髪を押さえた。風が強くなってきた。
「次期領主とはいえ、アンティルは元々貴族に見捨てられた地だ。シアーズとルーイビルに搾取され、貧しい自治領区であることも知られていたし、ここよりも隣のシアーズで暮らした方がいい。しかももう二十歳を過ぎた行き遅れの女を嫁にするのだ、気も向かないだろう。そんな時、父が男を連れてきた。母親譲りの美貌をもったランディアの伯爵家の次男だった」
顔を上げてウィルマの表情を伺ったが、変化は見られなかった。酒にほてったウィルマの頬を、潮風がなぞっている。
彼女が口にしたランディアの伯爵家の次男とは、間違いなくジェイムズのことだろう。
パトリシアの視線をあえて無視しているのか、視線を動かすことすらなくウィルマは言葉を続ける。
「彼はまだ十七歳で、私よりも五つも年下だった。軍の士官学校に在学中で、成績も優秀だったらしい。私との結婚という話で休学をしていたが」
初耳だった。今までジェイムズが傭兵であることは知っていたが、士官学校にいたなんて夢にも思わなかった。
ウィルマは言葉を続ける。
「家柄も、学業も、軍人としての素養も間違いなく最高で、さぞや自信に満ちているのだろうと思ったが、予想外だった。彼はいつも妙な薄ら笑いを浮かべていて、気持ちが悪いと思った覚えがある」
ウィルマの声は、静かな夜に染み渡っていく。
初めて会った時のジェイムズ・ガヴァンはとにかく妙な少年だったそうだ。妙な薄ら笑いを浮かべて、ウィルマの姿を常に目で追う彼を、ウィルマは何を考えているのか分からないと敬遠した。
「正直、気持ちが悪かった」
だがウィルマの父は、ようやくみつけた後継者を決して手放す気はなかったようだった。
だからジェイムズを嫌うウィルマに、彼を夫として迎えるようにと命じたのだ。
その頃は今のように雄々しい格好をしていたわけではなく、ただ気の強いだけの侯爵令嬢であったウィルマに他に選択肢のあろうはずがない。
貴族の娘としてどう振る舞うべきかは、幼いことからたたき込まれていたからだ。
その上、ガヴァン家はランディア自治領区の中でもとりわけ名の知れた裕福な貴族であった。それに対しアンティル自治領区は、ルーイビルとセクアナからの搾取で常に苦しい状況にある。
もしランディアで名の知れた貴族と縁続きになれば、ルーイビルも簡単にこの自治領区に無理を言えなくなる。
ルーイビルの自治領主ファルコナー公爵と、ランディアの自治領主バーンスタイン公爵は犬猿の仲である。
確かに父親から見れば、願ってもない良縁だっただろう。実際に貴族であるウィルマから見てもいい話であった。
でも理屈と感情は別で、どうしても好きになれないジェイムズと添い遂げるなど、できるはずもないとウィルマは感じていた。
だがそれはある日変わる。
他ならぬ、ウィルマの一言によってだ。
「ジェイムズ、あなたは何故いつも、薄気味悪い笑顔を無理矢理作るのですか?」
部屋までご機嫌伺いに来ていたジェイムズにウィルマが放った一言で、彼が固まったように身動きしなくなったのだ。
「薄気味悪い……?」
「ええ。笑いたくないのに笑っているような、人を小馬鹿にしているような、その笑みのことです」
きっぱりと言い切ったウィルマの目の前で、ジェイムズの表情が抜け落ちるように消えた。よくできた陶器人形のように平坦な表情で、だが戸惑ったようにウィルマを見上げてきたのだ。
「僕はあなたに好かれたくて……」
「何のためです?」
「え……?」
「何のために私に好かれたいのです?」
「……」
黙りこくったジェイムズに、ウィルマはこう告げた。
「私に好かれたいのなら、その気味の悪い笑いをやめて。仮面のようにずっと偽物の顔を見せられるのは苦痛よ」
しばらく考えてからジェイムズは小さく頷いた。それからジェイムズはしばらく無表情で過ごしていたのだという。
突然の婿候補の変わりように父親は驚いたようだが、ウィルマはこの方がまだましだと思っていたそうだ。
そして更に数ヶ月が経ったある時、このパトリシアが今立っているテラスで、ようやくジェイムズは、自分が何故ウィルマに好かれようとしているのかを話してくれたのだという。
「ジェイムズはな、私ではなく自分の実の父親に認められたかったのさ。彼は次男で伯爵家を継ぐ資格を持たない。その彼に父親は一欠片も興味を示さなかったそうだ。兄もそうだったようだな。ジェイムズは父親に認められたかったんだ。そのために私を欲した」
ふっとウィルマは自嘲の笑みを浮かべた。
「私はジェイムズから見れば都合のいい立場を持っていただけだった。私と結婚し、タウンゼント侯を名乗れれば、父親に認められるのではないか、と考えていたそうだ。彼には更に下に弟がいるそうだが、病弱で長くは生きられないと聞いた。彼は親に存在すらも抹殺されかけた弟のためにも、地位が欲しかった」
夜風になびく短い髪と化粧っ気のない顔が、夜の闇の中でとても美しく見えた。パトリシアは欄干に両肘を付き、海を見つめ続ける。
「でもな、パトリシア。私はそれを聞いて納得はしたが空しかった。自分でもどうしていいか分からないぐらいに空しいと思ったんだ。今思えばその時に彼への思いを自覚しかけていたのかもしれない」
ウィルマとジェイムズはそれを機に親しくなっていく。五つ年下のジェイムズは、ウィルマを姉のように慕い、ウィルマも弟のように可愛がった。
やがてジェイムズはウィルマを信頼するようになり、ようやくくつろいだ笑みを見せるようになっていった。
それまで半年が経っている。
ウィルマもそんなジェイムズが愛おしいと思うようになっていく。ジェイムズはウィルマの夫になる男だった。五つ年下の、まだ十代で、ともすればその美貌故に若く見られがちな彼は、ウィルマにとって眩しい存在になっていった。
「気がつけば私は、五つも年下の美貌の少年に惹かれてしまったんだ。惹かれたというよりも彼を欲した。自分の物にしてしまいたかった」
普通に接しながらも、心の中では胸が痛いぐらいに欲する。その感情はよく知っている。パトリシアの中にある、エドワードへの感情と、それはよく似ている。
気がつくともたれた欄干にウィルマは顎を乗せていた。酔いが回ってきたのだろうか。でも口調だけははっきりとしている。
「だが彼の脳裏にあったのは、ガヴァン家のことだけだった。私はあくまでも、彼の地位を高めるためのおまけに過ぎなかった」
お互いに信頼を寄せつつも、どうしてもそれ以上は手を取り合えなかった二人だった。そんな二人の危うくか細い関係を引き裂くようなことが起きた。
「その頃だった。ジェイムズの弟が死んだんだ」
パトリシアは息を呑んだ。
「全ての事後処理が済んだ後、アンティルに知らせられただけで、ジェイムズの弟はひっそりと何事もなかったように世界から消えてしまった」
ぞくりと背中が震えた。大切な人を亡くしてしまったあと、人がどうなるのか。それをパトリシアはティルスの戦いで初めて知った。
ローレンを失った直後のリッツを思い出したのだ。あの生きているけれど死んでいるような状態は、見ている方が辛かった。
ウィルマはそれを見たのだ。しかもそれは愛する人だった。
「自分を理解してくれるたったひとりの弟を失ったことと、その死を知らされずガヴァン家の内で処理してしまったことに、ジェイムズは深い憎しみを抱いた。もう自分がガヴァン家の人間として扱われていないことに気がついたんだ」
そしてジェイムズは少しずつおかしくなっていった。黙っていたと思ったら、急に笑い出したり、優しい時もあれば、妙に投げやりなこともある。
穏やかに微笑みあうこともあれば、とてつもなく冷酷にウィルマを見つめることもあった。
募った憎しみに自らの手で心を壊しているようで、最初のうちは見ているウィルマは苦しくてどうすることもできなかった。
父親に認められたいのに憎むことしかできなくて、その心と感情がかけ離れていくせいで心が引き裂かれていく。
もうそんなことを考えるな。もう全て捨ててアンティルで過ごせばいい。
ずっと同じようなことを繰り返し言い聞かせても、ジェイムズは耳を貸さずにいた。聞こえていなかったのかもしれない。
次第にウィルマの中にも苛立ちが募っていく。何故分からないのか、何故理解できないのか。
お互いに顔を合わせると喧嘩をするようになってしまった。その喧嘩の終わりが全く見えなかったから、ウィルマは疲れ果てた。
それでもジェイムズは、ウィルマの父から後継者候補として見捨てられることはなかった。やはり他にはウィルマの夫として適当な男が見つからなかったのだ。
そんなことが三ヶ月ほど続いた後、破綻は唐突に訪れた。
「あの晩は、こじれた関係を何とか二人で修復しようと、私がジェイムズを自室に呼び出した。私たちが対立していることは誰もが知っていて、心配をかけたくなかったからな」
最初は、いつものように話し合いで終わるはずだった。だが会話はやがて苛立ちの中で興奮状態になっていく。
その時、ウィルマは苛立ちのあまりジェイムズに言葉を投げつけた。
「そんなにガヴァン家を憎むのなら、早く我がタウンゼント家に入ればいいでしょうに!」
とたんにジェイムズの顔色が変わった。
「あなたが僕を拒絶しているんだろう!」
「拒絶なんて……」
「僕がガヴァン家の次男で、持参金を大量に持ってきたと知っているから、あなたは僕を馬鹿にしてる。ずっと僕を蔑んでいたんだ!」
「蔑んでなんていない!」
「嘘だ。誇り高いあなたは、金付きでないと価値の無い僕みたいな男を夫になどしたいわけがない。アンティルの為に、そうやって偽善を口にする」
「偽善ですって……?」
「ああそうさ。僕を夫にするつもりは元々ないんだろう? それはそうだよな。持参金であなたの夫になれば、あなたを金で買ったも同然だ。あなたがそれを許すわけがない」
まるで自らをあざ笑うかのようにジェイムズはあの妙な笑顔を作った。
「僕はいつまでタウンゼント家に飼われるの? ガヴァン家と同じように、一生飼い殺しにするの?」
「ジェイムズ!」
「弟と同じように、死んだらみっともないからって黙って葬るんだろう? 貴方たちにとっても父上にとっても、僕は所詮代えの効く予備に他ならないんだ。僕じゃなくともいいのに、何故僕を飼い殺そうとするんだよ!」
気がつくとウィルマはジェイムズの頬を、思い切り叩いていた。
乾いた夜の中で、その音だけが妙に大きく響く。
「飼い殺しですって……? あなたそんなことを思っていたの?」
「違う? 侯爵家から見れば伯爵家の次男坊にすぎない僕など、金を運ぶ飼い犬に他ならないだろう?」
言いながらもジェイムズの唇が震えていた。それをウィルマは腹立たしい思いで見つめた。何故分からないのか、何故分かってくれないのか。
出会いはそうかもしれない。でもウィルマはずっと、もうずっと、ジェイムズ・ガヴァン本人を愛しているのに。
もうガヴァン家も、その持参金も関係なく、ただ彼を欲しているのに。
「持参金付きで、あなたは私の夫になりに来たんでしょう!」
言いながら苛立ちを再びジェイムズに向けてしまった。もう一度平手で叩いていたのだ。
「だった夫になりなさいよ! タウンゼント侯爵になればあなたの望むものが手に入るなら、手に入れて見せなさいよ!」
「そんなのできるわけがない!」
「やろうとしていないじゃない! 上目遣いに物欲しそうに、あなたはじっと見つめているだけよ。飼い犬になっているのはあなたの心だわ。それがみっともないのよ!」
半ば叫んだウィルマの声に、ジェイムズの表情が消えた。
言ってはいけないことを言ってしまった。
そう思った次の瞬間、ウィルマは乱暴にジェイムズに突き飛ばされた。倒れ込んだ先はウィルマのベットだった。
次の瞬間には、もう逃れようもないぐらいに、ジェイムズにベッドに押しつけられている。
恐怖で声が出なかった。ウィルマは二十二歳の今まで男性と関係を持ったことなどなかったのだ。
「じゃあ持参金を差し出すから抱かせてよ」
「ジェイムズ!」
「実力行使していいんでしょ? お望み通りにしてやるよ。だからウィルマ、爵位をくれよ」
長身のジェイムズは、最初にこの館に来た時のようなあの薄ら笑いを浮かべて、ウィルマを乱暴に犯した。
「ねえ、これで僕に侯爵の地位をくれるの? 君は僕に買われたんだ。対価をくれるよね?」
声も出せないウィルマの耳に、延々とウィルマを娼婦扱いしながら、ジェイムズはウィルマを責め立て続けた。
「知ってる? 僕に付けられた持参金ってアンティル軍の三年分の資金と同じなんだって。君の身体一つで一万人を三年間も生かせるんだよ?」
身体を蹂躙されているのか、心を蹂躙されているのか、徐々に分からなくなっていった。
愛する男に抱かれているはずなのに、ただただ空しく悲しく、怒りと憎しみがこみ上げてくる。
「ウィルマ、君は綺麗だね。でもね君は僕に穢されるんだ。身体も、その胸に秘めた誇りも全て。もう君の口から偽善なんて語れなくしてあげるよ」
「……最低よ、あなたは!」
「最低でいい。僕はもう何にもなれない。自らの望みを自分で壊すことしか……」
いつ果てるともしれない、責め苦の中でウィルマは全てが終わったことを知った。
きっと正気に戻ったジェイムズは、自分を許せないだろう。本当のジェイムズは、心優しく臆病な男だ。自分の罪に向き合うことなどできやしない。
そしてウィルマも、ずっと温かな交流を築いてきたはずの男に強姦されるという恐ろしさを忘れることはないだろう。
結婚なんてしなくてもいい。こんな目に遭うのならば、もう夫などいらない。私が自治領主になる。
男になれと言われればそうなってみせる。
それでも……ウィルマには後悔が残った。
ずっとずっと、心に疼き続ける痛みが。
冷たい風に、パトリシアは身を縮めた。ウィルマは先ほどからじっと海を見つめて動かない。
このまま黙っていようかと思ったが、口にしないと先に進めない気がして、パトリシアは静かに口を開く。
「後悔って……何ですか?」
「愛しているといわなかったことさ」
さらりとウィルマが答えた。
「愛してる……?」
「ああ。何であの時あんなことをいったのか、今でも時々後悔に胸をかきむしりたくなる。あんなにも愛されたいと願っていたジェイムズに、何故一言素直に愛を告げなかったんだろうとな」
こちらを振り返ったウィルマは、ただ穏やかに笑う。壮絶な二人の過去を聞いたはずなのに、何故かウィルマは、大切な記憶を語ったような笑顔をしたのだ。
「私が言うべき言葉は『飼ってなどいない。私はあなたを愛している』だった。思い出せば今でも胸が痛む。私が平凡な容姿で五つも年上で、美貌の彼が十七だったから、私は恐れていたのかもしれない。『僕は愛していない』といわれることを」
ぐんにゃりとウィルマは欄干にもたれて額をその腕に乗せた。
「あの時に戻れたら、あの瞬間に戻れたら私は絶対にあんな風にジェイムズを追い詰めたりしない」
腕に顔を付けたまま、ゆっくりとウィルマがこちらを向いた。その目はただ静かだった。
「不思議だがなパトリシア。ジェイムズに犯されたはずの記憶すらも、今では私の中で甘美な記憶として残っているんだ」
「え……?」
「おかしいか?」
「……私には分かりません……」
「そうか。うん、そうだな。でも私は彼が消えて何年も経ってから、ようやく気がつけた。ずっと彼を憎んできたはずだった。でも違うんだ。私が彼を思い出すのは憎いからじゃなく、後悔しているからなんだ。私の方が年上だったのに、どうして最も大切な人を亡くして苦しんでいる人を抱きしめてあげられなかったのだろうって」
「タウンゼント侯……」
「彼の弟が死んだ時、どうして辛いねって。苦しいねって言ってあげられなかったんだろう。私があなたを愛しているから大丈夫だと言ってあげられなかったんだろう。時が過ぎてしまえば思い出すのはいいことばかりだ」
ジェイムズと再会した時のウィルマの目を思い出した。涙で潤んだ顔を見られないようにと背けたその仕草は、何よりも雄弁にジェイムズ・ガヴァンを愛しているのだと語っていた。
「最初は侯爵として一人で立ってみせると男の格好を始めた。予測通り、二度と婿入りの話はなくなったし、父も諦めてくれた。でも誰にもいえなかった。本当はもう誰も、男をこの館に入れたくなかったんだ。この館に住んでもいい男は、ジェイムズ・ガヴァンただ一人だから……」
それからウィルマは黙りこくってしまった。またさざ波のように波の音だけが聞こえてくる。しばらく待っていると、ウィルマがこちらを見た。
「パトリシア」
「はい」
「聞いてくれてありがとう」
闇の中で、ウィルマが穏やかに微笑んだ。綺麗な微笑みだった。
「ウィルマ様」
あえて名前で呼んでみた。否定もされずウィルマが返事をする。
「なんだ」
「ジェイムズはボロボロになってシアーズにいたそうです。そしてそのままギルバート・ダグラスと共に傭兵になったと聞きました」
『私ねぇ、貴族の次男なんかやってたじゃない? もうさ、それなくなったら何もないわけ。で、シアーズでこの美貌を生かして男娼やってたのよ。私ったら見ての通りの美貌でしょ? 当時は美少年だったから女も男も千客万来だったわ。そしたら憲兵に掴まっちゃったの。助けてくれたのがギルよ。匿って貰ってたわ』
どうして貴族から傭兵になったのとパトリシアが聞いた時、ベネットが語ってくれた。ジェイムズではなく、ベネットの身の上話だ。
『その後ギルの王族斬りつけ事件が起きて、ギル、傭兵になったでしょ? だから私、連れて行ってって頼んだの。お金はないから身体で払うわって言ったけど、断られたわ。ギルは筋金入りの女好きだからね。でも正解だった。男娼よりも傭兵の方が、よっぽど面白かったわ』
ジェイムズとして人を傷つけ、自分を傷つけ、傭兵としてのベネットとしての人生が始まったのだ。
「そうか……」
「どうなさるのですか?」
聞いてしまってから焦る。それは当事者同士の問題で、パトリシアが口を挟むことではない。慌てて否定する。
「すみません、差し出がましことを……」
「どうしようかなぁ……」
「え?」
「私も大人になった。ジェイムズもそうだろう。あの頃のように互いに傷つけ合って分かれたくない」
「ウィルマ様……」
「結局私の心を占める男は、ジェイムズだけだ。こうなっては仕方ないだろう?」
ウィルマが欄干に付いた腕の上に額を押しつけた。
「うん。仕方ない……」
「ウィルマ様?」
「……仕方ない……なぁ……」
再びウィルマが黙り込む。ずいぶん長く黙っているなと思ったら、規則的な寝息が聞こえてきた。欄干にもたれて、立ったまま寝ている。
器用すぎるにも程がある。
「酔っ払ったあげくに管捲いて寝ちゃうとか……、あなたはリッツですか……?」
ついついパトリシアは文句を言う。
「いえてる。もしかしたらリッツに似てるかもしれないわ」
後ろから声がかけられた。
「いたの、ベネット?」
「は~い、パトリシア」
短い髪に、男らしい服装。まったくベネットの面影なんてないのに、しっかりとベネットで答えつつ、ジェイムズが笑う。
「……だからよねぇ。リッツが可愛くて仕方なかったわ。弱いくせに、愛して欲しいくせに、妙に強がって肝心なところは誰にも見せない。そんな人が好みなのよ、私」
「……リッツが好み?」
「馬鹿ねぇ~、ウィルマがよ」
ベネットの口調で笑いながら、ジェイムズはウィルマに歩み寄り、酒臭いウィルマをその腕にしっかりと抱き上げた。あの大弓を軽々と扱うジェイムズは、男の格好をしていると逞しさがよく分かる。
「可愛いわぁ~、抱いちゃおうかしら」
「……ベネット……」
「冗談よ。だってあんな話聞いちゃったら、ジェイムズではいられないじゃない」
どうやらジェイムズはウィルマが心配でずっと付いてきていったらしかった。確かにあれほど酔っていると気にするなという方が無理だ。
「ウィルマの本心を初めて聞いちゃったから?」
「……ええ。しばらくベネットでいさせてよ。じゃないと私、甘えちゃうわ。ジェイムズには、まだ彼女を愛する資格がないの」
「自分に厳しいのね」
「今は半分女だもの。今ならあの時ジェイムズに犯されたウィルマの気持ちを察することができるわ。だからまだ許されちゃ駄目なの。許されるのならば、彼女のために私が本当に役に立たないとね」
「そうね。それがいいかもね」
そうすれば二人の間のわだかまりが少しは薄れるかもしれない。
きっとウィルマは全てが片付いたらジェイムズに言えなかった言葉をきちんと口にするだろう。ジェイムズは傭兵ベネットとして積み上げてきた柔らかな物腰と、優しい眼差しがある。
素敵な二人になるのだろうなと思うと、頬が緩んできてしまう。きっと二人はわかり合えるのだろう。そう信じたい。
そういえばエドワードとリッツはどうしているだろう。いったい何処でどうしているのだろう。
もうそろそろ、一日が終わる頃だろうか?
エディ、リッツ、どうしてる?




