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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
燎原の烈風
109/179

<3>

 直轄区の街は、シアーズ街道を中心として順調に攻略されていた。一つ、また一つと街を傘下に収めるごとに、革命軍に参加する民衆の数は日に日に増してゆく。

 ただそれだけ戦闘経験のない者が増えていく現状では、準備はいくらしてもしたりないほどだ。

 革命軍幹部は日々の計画立案に追われ、実務部隊は戦闘訓練に明け暮れた。搾取してきた貴族側と戦うからと行って、貴族への略奪、殺戮行為を禁じると教えることも必要だ。

 ようやく平定した街が安定を取り戻し、後方からの不安を抱えることのない状況にまで収めたのは、結局十二月も終わり頃だった。

 実際問題として、敵が陣営を整える前に攻め入るのが最も効果的だったのだろうが、それをするには圧倒的にこちらの戦力が少なすぎた。

 革命というものは勢いが大切だといわれるが、戦いの後国王となってこの国を治めるエドワードにとって、勢いを殺しても今後混乱のない体勢を作ることが最も重要だ。

 その代わり、後方の憂いが全くない状態で戦えるというのは一つの利点だろう。アイゼンヴァレーの金鉱脈、サラディオの支援、農場の復活。

 どれをとっても革命軍にとっては重要かつ、必要なのだ。

 実効支配した地域には、グラントによって今後の王政で必要だと思われる体制が敷かれている。王となってからまとめて体制を組み直すと混乱を生じるため、一つづつの自治領区を順繰りに実効支配し、エドワード王政をしいていくことが、民衆の心を掴む早道なのだという。

 気がつくと革命軍の手に落ちた街は、王都シアーズから数十キロの所まで来ている。最も南の街に行けば、冬の澄んだ空気の中で王都の光景が見えるほどだ。

 北に多大な広さの支配地を持つ革命軍は、もはや街道を完全に支配下に置いたといっていいだろう。それ故、敵を革命軍に気付かれず接近させることは不可能である。

 その上今年は天候にも恵まれて、農産物が豊富だったため、革命軍の物資の不足はない。

 計画通り淡々と王位への道が進んでいく。

 当初から国民に負担をかけることなく、効率よく王位を目指すのが目標であるから、この結果は満足すべきだろう。

 だが現王国軍の支配地域は、苦しい状況にある。王国で一番の農耕地域であったグレインがその物資をシアーズに売ることを拒絶しているからだ。その物資を横流しさせようとしても、グレインと接するサラディオ、オフェリル、ファルディナの三自治領区が拒否してしまえばおしまいだ。

 シアーズと同じく農耕よりも芸術と宝飾で運営されていた自治領区ランディアも、食糧不足が報じられている。隣国との取引は続けているようだが、隣国フォルヌ王国は元々農作物の石高が低く、そのためにユリスラ王国に攻め込むことがしばしある国家である。それほどの輸入増加は期待できない。

 唯一の例外は、隣国リュシアナ連合王国と境を接するルーイビル自治領区だろう。この自治領区を治めるファルコナー公爵は、この状況を見越して、隣国より大量の小麦を買い受けている。

 その上いまだ昨年まで奪い取っていたセクアナの潤沢な物資も保管しており、体勢としては盤石だといえる。

 ただリュシアナ王国連合もこの状況を好機と捉えており、月単位で食料の値段は高くなりつつあるという。来年一年ならば持つかもしれないが、再来年となれば間違いなく自治領区が揺らぐ事態になりかねない。

 最も苦しいのが王都シアーズだ。シアーズは現在ほぼ全ての穀物を仕入れられない状況だ。

 元々シアーズ直轄区は貴族が多く、それほどの石高を持たない。よってグレインから南下するシアーズ街道を押さえてしまえば、約八割の穀物流入ができなくなる。

 当然今まで王家として大量に保管してきた食料はあるだろう。だがそれは王族と貴族たちの空腹を満たすのに精一杯で、王都の兵士たちが戦う力にはならない。元々貴族の子息が権力を持つ組織で有り兵士の士気は低いが、食料がなければ更に指揮は低くなる。

 このまま行けばシアーズ市民の暴動が起きるのも時間の問題だと思われた。食料を得ることができなくなった民は脆い。

 だが王都シアーズにかなり接近しているというのに、王都からの脱走者は、このところほとんど街道を歩いてはいない。

 ハウエルの報告に寄れば、シアーズの街は、現在貴族と民衆の目立った対立はないものの内心は一触即発であるという。

 ハウエル曰く、現在のシアーズは床に零れた菜種油のようなもので、一本のマッチさえあれば巨大な炎を燃え上がらせるのだという。

 それに逃亡兵は苛烈な制裁を受ける状況では、どれだけシアーズを逃げ出したくとも逃げ出せる状況ではないだろう。

 貴族は民衆に怯え、民衆は貴族に憎しみを募らせている。民衆も、貴族も、いつ起こるかしれない王都滅亡の不安に戦いている状況だ。

 その貴族たちも王国軍に取り込まれ、直轄地で得られなかった戦力とされつつある。民衆が集められなくなった分、敗残の貴族は戦力として丁度よかったのだろう。

 その一方で敵の軍は王都に徐々に終結しつつある。先日、王国の西に位置するルーイビルの軍勢が革命軍との遭遇を避け、アンティルからセクアナ南部を抜けシアーズに入ったとの報告があった。その数は三万に及ぶ。

 小さな戦力しか持たないアンティルは領地を通るルーイビルを見送った。正しい判断だ。

 アンティルとの密約はすでにできており、パトリシアとベネットがあちらの軍の陣営にいる。その情報はいち早く革命軍にもたらされた。一つの懸念が安堵に変わり、ようやく胸をなで下ろすことができた。

 そしてランディアからの軍勢は船を使ってシアーズにやってきている。元々ランディアは広大な港町であり、ユリスラ海軍の本拠地でもある。港の広さはシアーズの何倍もある。

 ランディアは、シアーズとは海路で最も近く、陸路で最も遠い自治領区だ。そのため一般的に船で行き来をする。

 彼らもルーイビルと同じ場所に陣取っている。海岸沿いに見ることができれば、そこにランディ案船が多数浮かんでいるのが見えるはずだ。

 シアーズに着き、貴族はみなシアーズの街に入ったようだが、入りきれなかった軍勢はシアーズの西門の外側に天幕を立てている。

 二つの自治領主軍が持ち込んだ大量の天幕は、まるで一つの街のようだという。偵察に出かけた部隊からの報告では、まるで祭りのように賑やかだそうだ。

 シアーズの街は、北を海に接しており、東を山に接している。シアーズの街の最も高台にあり、山側からも侵入することができない場所にあるのが、ユリスラ王国の王城で有り、王宮である。

 シアーズは東側に軍を置くことで逃げ場を無くす危険な土地だ。そのことぐらい指揮官は皆分かっている。だからあえて戦闘状態になった場合に柔軟な対応を取りやすい西に陣を張るしかない。ランディアとルーイビルの指揮官も、それを承知しているだろう。

 同じことは革命軍にもいえる。大軍をシアーズの東側から進めることができないため、正面から戦うほかない。勿論少人数の奇襲ならば可能であるが、その後本隊に合流できる可能性は低い。

 ただ人数が圧倒的に少ない革命軍側からすれば、成功さえすれば大きく戦局を動かす鍵となるだろう。その方向の作戦も現在進行中である。

「他に何かあるか?」

「ございません殿下」

 ジェラルドの淀みない答えに、エドワードは頷いた。

 軍の物資状況、現在の情報をまとめた会議が終わり、エドワードは小さく息をついた。舞台は整った。あとは攻め落とすのみだ。問題はそれをいつにするのかということだ。

 会議の席上に居並ぶ人々の顔を順繰りに眺めてから、隣でぼんやりとしている相棒を見てエドワードは口を開いた。

「明日で今年も終わるな」

「ん? ああ、そうだな」

 会議の内容がまたよく理解できていなかったのか、それともうとうとしていたのか、ぼんやりとリッツは頷いた。一生懸命に理解しようとしているようだが、やはり実務に興味を抱くことはできないようだ。

 目が覚めるまで待っているのも面倒だから、エドワードは再び全員に向き直った。

「今年の新祭月は六日間だそうだ。丁度一週間だな。作戦決行の予定は、新祭月が過ぎた一月一日にしようと思っているが、他の意見があったら聞きたい。ハウエル」

 静かな口調で呼びかけたエドワードにハウエルが見本のように様になる礼を返してきた。

「はい、殿下」

「シアーズの王族の情報はあるか?」

「ございます。新祭月の間、軍を動かすようなことはないでしょう」

「根拠は?」

「新祭月にはいつも通り闘技場での様々な催し物が開催されるようですな。今年は大々的な観閲式を行う予定らしいですよ。それはそれは盛大らしくて、運び込まれる飾りがとんでもなく高価な様子で」

「それが陽動の可能性は?」

「これが陽動ならば、スチュワートは賢王となれましょう。ですが残念ながら賢王にあらず。全軍の指揮を未だ役立たずの貴族に執らせているものが、陽動などを行えるはずもありませんな」

「ほう……ウォルター侯爵はどうした? 父の死で得た爵位で指揮官に上り詰めたと聞いたが?」

 一瞬視界の中で、居心地悪そうにコネルが身動きした。

 コネルがウォルターを逃がしてしまったことは全員が知るところである。エドワード自身が許可したのだからそれほど恐縮しなくともと思うのだが、コネルにはコネルなりの想いがあるのだろう。

「ウォルター侯は、リチャード親王の軍三万を率いておられるようですな」

「……たったの三万か……」

 コネルの呟きが重苦しい、結局彼は大きな戦力を持たせて貰うことすらできなかったのだ。

 これは彼の生命の危機を意味する。コネルはどうしてもウォルターを革命軍に引き入れるつもりでいる。そのためには生きて捕まえねばならないのだ。

 だが寄せ集めの兵力しかない革命軍からすれば、実戦に適した軍の数が少ないことは、ありがたいことかもしれない。

 不意に重くなる会議の空気を払拭するかのように、豪快な笑い声が上がった。ギルバートだった。

「スチュワートの軍が五万、ルーイビル自治領区軍が三万、ランディア自治領区軍が二万五千に軍艦。アンティル自治領区軍一万五千が加わって十五万。これが敵の総数か。面白いじゃないか。遊び甲斐があるというものだな」

 その声に、コネルもかすかに微笑みを浮かべる。上官に気を遣わせたと思ったのだろう。

「遊び甲斐……」

 リッツがギルバートを見て小さく溜息をつく。

「よくいうよ。戦場に立ったら『遊ぶかいもねぇ』とかって死体量産するだろうにさ」

 リッツの文句は全員から丁重に無視された。

「我が王太子殿下。スチュワート偽王は、より多くの人を跪かせるのが大層お気に入りだ。新祭月が戦火に包まれることなく終わるのは間違いございません」

 いつもながら仕草だけは丁寧に胸に手を当てエドワードに薄い笑みを浮かべて見せての報告に、リッツが明らかにむっとしているのが分かる。エドワードを馬鹿にしていると思ってしまうらしい。

「我が麗しの精霊族リッツにもご理解いただけましたかな?」

「……麗しとかいうな、気持ち悪い」

「心外な。これほど美しきあなたを崇拝申し上げている者もいないでしょうに」

「だから気持ち悪い」

 嫌悪感むき出してリッツは吐き捨てる。

 それでもオストの事件以来リッツはハウエルに面と向かって突っかかることがなくなった。一応は諜報の重要性を理解したらしい。

「ギルも同意見か?」

 もう一人、王都に情報網を持っているギルバートにも尋ねると、ギルバートも頷いた。

「新祭月に動く気配なし。こっちも同じ結論だ。おもそも新祭月の馬鹿騒ぎを奴らがやめるつもりはないだろうしな。今年は特に酷くなるだろうよ」

「そうか……」

 新祭月、貴族はみな無礼講だといいきり、民衆を狩る。若い娘など、ひとたまりもない。

 シアーズの住民はそれに怯えつつ、自分が犠牲にならずにすんだことに安堵し、更なる狂乱に身を投じる。その先に希望はなく、暗い恐怖だけが満ちている。

 新祭月を本当に楽しめる時代が来るかは、この戦いにかかっている。

「では進軍開始を一週間後の一月一日とする。とりあえず我々も新祭月を楽しもう。兵士たちにも交代制で新祭月の振る舞い酒をだそう。偵察隊は偵察を怠らないように頼む」

「御意にございます」

 堅苦しい表情でエリクソンが頷く。現在偵察隊はほとんどが騎兵で、騎兵隊が中心となって斥候を務めてくれる。

「では会議はこれで終わる。ご苦労だった」

 いいながらエドワードは立ち上がる。

「はっ!」

 全員の礼に微かに頷くと、エドワードは出て行く部下たちから手元の資料に目を落とした。

 新祭月に急襲をかけ、シアーズを落とすという考えもある。軍が出てこないのならば好都合だろう。だがそれにも問題があった。向こうが打って出てくれないとつけ込む隙がなく、シアーズの籠城戦になってしまうのだ。

 シアーズは城壁に囲まれた堅牢な街だ。最初から戦力を保ったまま籠城されてしまうと、崩すのが困難だし、内部に軍が十万もいれば、普通の民衆が脅威にさらされかねない。

 それに敵は貴族たちだ。もし王都が陥落するようなことがあれば、民衆ごと焼き尽くさぬとも限らない。それを避けるためには、まず彼らが出てくるのを待って、兵士の数を減らす必要があった。

 その上、王国軍は食料にしても城壁の内側に軍港があるため、他国からの買い付けすら可能である。元々シアーズは長期間籠城を可能にするべく建設された街なのだ。

 地下組織と協力してシアーズの城門をくぐり、城壁を突破するためには、あちらが布陣するのを待つのが手っ取り早かった。向こうが敗走した混乱に乗じ、その城門の中と外で扉を超えるのが一番いい。

 迂遠な作戦かもしれないが、必要な作戦だ。勝つことにも意味はあるが、民衆の犠牲を最小限に抑えるということに最大の意味がある。

 戦って勝つだけならば卑怯でも、こそくでも手を打つことができる。だが王太子として偽王と戦うエドワードにそれはできなかった。

 この戦いが大きな最後の戦いになると分かっているからなおさらだ。

「ジェラルド」

 ギルバートと出て行こうとした背中に声をかけると、穏やかにジェラルドが振り返った。

「何だ?」

「……本営を留守にしてもいいか?」

 前々から考えていたことを口にする。案の定ジェラルドは軽く顔をしかめる。

「この時期にか?」

「新祭月だし」

 冗談めかして軽く言うと、ジェラルドは溜息をついた。

「困った王太子だな。もう何処に行くかも決めてあるんだろう?」

「ああ」

「一緒に行く相手もな」

「勿論」

 頷きながら、座ったまま隣で大あくびした相棒の頭に手を乗せる。立っていると見下ろしてくる目が、きょとんとエドワードを見上げてくる。

「へ? 何?」

「遠乗りに行こう、リッツ」

「え? 遠乗り?」

「ちゃんと着替えてこいよ。制服禁止だからな」

「わけわかんねえぞ、エド」

「俺は分かっているから大丈夫だ」

「んだよ、それ? エド最近、横暴だ」

 子供のように頬を膨らませながら、リッツがむくれる。子供扱いされているとでもいうのだろう。

「いつ戻るつもりだ?」

 苦笑しながら尋ねてきたジェラルドに、笑顔で答える。

「新祭月一日の夜にはここに居るよ。そうしないと兵士たちに新年の祝賀を言えないだろ?」

 エドワードには王族としての役割がある。それはこれから戦う兵士たちの前で自らの正当性、そしてこの戦いの正しさを主張するために必要な絶対条件なのだ。

「分かっていればいい」

 肩をすくめたジェラルドの肩を、ギルバートが叩いた。

「全くお前の育て方がよすぎて、収まるところに収まりゃしねぇな」

「それは褒めているのかギル?」

「馬鹿いえ。お前を褒めても何もでんだろう、ジェリー」

「そうだな。そもそも堅物に育てすぎたエドをここまで脳天気にした奴が責任を取るのだから気にすることもなかろう。我々も新祭月を楽しもう。五年物のワインがあるぞ?」

「それはいいな。頂くぜ、元帥閣下」

「酒のためなら友を敬えるか、まったくお前は」

 いいながら二人が楽しげに見たのは、リッツの顔だった。更にむくれてリッツがそっぽを向く。

「エドがこうなったの、俺の責任かよ」

「ああそうだ。だから責任を取って、この自由な王太子を守れ」

「大人は大人同士楽しむことにしよう」

「へーい」

 不真面目な返事をしたリッツに、笑いながらジェラルドとギルバートはこの場を後にした。そんな二人に、エドワードはそっと頭を下げる。

 本来ならば王太子を名乗った以上この場に居続けなければならないのだろう。でも自分で状況を見たいと望むことを彼らは否定しない。自分の目で見、感じることの尊さを彼らは分かってくれる。

 戦いに勝ち王都に入れば、王都を出て行くことができなくなるだろうエドワードの気持ちもだ。

 この戦いに勝ったなら、もうエドワードはグレインの地を踏むことは無いかもしれないのだ。

 その上で、エドワードが不在の間に何かが起きたとしたら、それを背負ってくれる覚悟が垣間見えている。

 黙ってしまったエドワードから何かを感じ取ったのか、リッツが立ち上がって後ろから肩にのしかかってきた。利き手で軽く首に腕を回される。

 重たい、苦しいと文句を言う前に、リッツが口を開いた。

「いつ行くの、エド?」

 エドワードの重い沈黙を感じているくせに、その声はいつも通りの明るさを帯びていた。人の心の変化に敏感なリッツに気を遣わせている。それはよくない傾向だ。

 リッツに気を遣わせる、リッツに正論を言われる。そんな時は自分が疲れている時か、感情的になっている時だと分かっている。

 小さく息をつくと、いつものように顔を上げた。重苦しいと思ってはいけない。自ら決めて背負ったのだから。

「決まってるだろ。今行くのさ」

 きっぱりと言い切ると、リッツをふりほどき、さっさと自分の天幕に歩き出す。

「今?」

「そうさ。今なら本営もざわついてるし、俺たちが出て行っても見とがめられなそうだろ?」

「う~ん、そういうもんかなぁ……」

 同じ天幕で生活しているリッツも首を傾げつつだが当然のように着いてきた。

「無理だと思うけどなぁ……」

 ぶつぶつというリッツの言葉通り、結局旅仕度を調えて本営を出たのは翌日の早朝だった。

 エドワードには投げ出すことのできない仕事が山とあるし、リッツにもダグラス隊との打ち合わせがあるのだ。

 戦いが近くなるにしたがって自由に身動きが取れなくなる。当たり前のことだが、窮屈この上ない。

 荷物をくくりつけて愛馬に乗り込み向かうのは、まだ王国軍の陣地内にある最東の村である。王国軍が街道沿いに斥候を配置している可能性があるため、いつもの如く農民の格好に厚手の防寒具を纏う。 シアーズ街道から大きく東にそれ、王城にまで到達する大きな山脈を右に見ながら道を南に辿る。

 ユリスラ王国を東西に隔てるその山脈は、突端をシアーズの街に接することからシアーズ山脈と呼ばれている。このシアーズ山脈があるから、ランディアからの軍勢が直接シアーズを支援することができないのだ。

 いつものようにふざけあいながらも、馬鹿みたいに自由を楽しむ。一年の最後を街道で過ごすような酔狂な人々などいるはずもなく、リッツと二人だけの旅は、未だかつてないほど楽しかった。

 もしかしたらお互いに分かっていたのだろう。シアーズ攻めが始まったら、この時間を持つことがとても難儀になると。

 エドワードはそれをひしひしと感じていたし、楽しいことが辛くも感じていた。

 昼食に立ち止まり、のんびりと持ってきた携帯食を食べたり、気になる光景があれば見に行ったりと、本当に物見遊山な旅路だ。

 楽しい時間はあっという間に去り、冬の短い太陽が西へと傾き、雲に反射したオレンジがかった光に変わるころ、単調だった道が切れ、不意に目の前が拓けた。

 巨大な崖の上に出たのだ。

 馬を止めて眼下を見下ろす。隣に来ていたリッツも、同じように眼下を見下ろしている。

 夕焼けに染まるように、はっきりと、手の届きそうな距離に王都がよく見えた。

 まだ遠いはずなのに、いくつかの集落がある草原のその先に、まるで幻のような巨大な街が横たわっている。

 くすんだ暗さを満たした灰色の海には、光が筋となって降り注ぎ、海面を輝かせている。

「シアーズ……」

 リッツの呟きが耳に届いた。リッツも昨年滞在していた場所だ。そういえば去年の今頃、エドワードは戦場に立ち、リッツはシアーズでお互いの不在を噛みしめていた。

 今年は逆だ。二人きりでこんな所にいる。

「あそこが俺たちの目的地だ」

「うん。こんなに近くまで来ていたんだな」

 感慨深げに呟くリッツの横顔には、張り詰めた緊張感のようなものがあった。きっと自分も同じような顔をしているのだろう。

「ああ。近くまで来た」

 ここまで来るのにエドワードに与えられていた時間は、長かったのか短かったのか。今はどちらともいえない。

 初めて国王の血を引いていると聞かされたのは十二歳の時。今エドワードは二十七歳になった。

 乱れていくこの国を歯がみしながら見つめ続けて、もう十六年。リッツと出会ってからは四年経っていた。

 長かったのだろうか、短かったのだろうか。

 エドワードは真っ直ぐにシアーズを指し示した。

「シアーズの門があの辺りだ。街道のどん詰まりだからな。あの外側一キロの範囲内に民家や農家が混在している」

「こう見ると結構あるな」

「ああ。それから更に外側一キロは、牧草地帯が広がっている。大体の人々は逃げ去ったけど、ここには今も避難していない民衆が少人数、住んでいる」

「……そっか」

 否が応でも、この人々を戦乱に巻き込む。分かっているが他にどうする手段もない。未だ王国軍の監視下にある彼らには、革命軍から避難を呼びかけることも困難だった。

 だからこそのこの遠乗りだった。

「王国軍の奴らはそれを知ってるの?」

「当然だ。奴らは農民たちを俺たちに対する盾のように使う気さ」

「……やな奴らだ」

「ああ。だから俺はここに来たって訳だ」

「え?」

 未だここに来た理由を分かっていないリッツに、エドワードは笑いかける。

「お誂え向きに日没だ。行こう」

「え?」

「ジュートの村は、酪農の村だ。耳篭、忘れずにつけとけよ」

「え、あ、うん」

「どっちが先に着くか、競争だ。先に行くぞ!」

 一言残して馬の腹を蹴る。案の定背中でリッツの焦った声が響く。

「え、うそっ!」

「負けた方が五年物のワイン一本驕るんだぞ」

「エド、ずりぃ! 卑怯だ!」

 喚くリッツに笑いながらエドワードは馬を駆った。

 勿論勝負は圧倒的大差を付けてエドワードが勝ったのだが、リッツが文句を言ったので結論は後日に回されることになった。

 そうしてたどり着いたジュートの村に、エドワードはゆっくりと足を踏み入れた。

 村の中にはごく普通の光景があった。

 母親が呼ぶ声にはしゃぐ子供たちと、寒そうに手をこすりながら早足で家に帰る人々。そして男たちは集まって酒を飲みつつ煙草を吹かしている。

 牧草地帯に牛は出ていなかったから、もうとっくにしまったのだろう。

 こんな時間に馬で村に入ってきたエドワードたちに一斉に視線が注がれる。戸惑いを隠せないリッツの前で、平然とエドワードは馬を下りた。

「何するの?」

 不審そうなリッツを無視して、エドワードははにかんだような笑顔を作って村人を見渡す。

「すみません。シアーズから来たのですが、もう日が暮れるから難儀していまして……食事ができるところはありませんか? あと、できましたら宿があると助かります」

 丁寧にそう尋ねると、パイプで煙を吹き出した年配の男が歩み寄ってきた。

「シアーズからだと?」

「はい」

「では貴族か?」

「とんでもありません。農民ですよ」

 照れくさそうに笑ってみせると、男の目がエドワードの剣に向いた。

「その剣は?」

「剣術を習っていまして。ほら、物騒じゃないですか。もうすぐ新祭月だし」

「……確かにな。本当に貴族じゃないな?」

「はい。ですから食事ができるところを探してます。シアーズではろくな食事を取れませんから」

 シアーズの現状では、貴族以外は困窮している。それを口にすると、老人はようやく小さく息をついた。

「分かった。そっちの連れは?」

「あいつも俺と同じ農民です」

「どこへ行く気なんだ?」

 老人の誰何に、エドワードはいつでも剣を抜けるように神経を研ぎ澄ませながら微笑む。

「シアーズ街道を北上したいと思っています」

「何故?」

「王国軍に付く気にならないからです」

 これで目の前の男が貴族だったなら、王国軍の斥候であったなら何らかの表情を示すだろう。剣に意識を集中しつつ、男の顔を笑顔で見つめ続ける。

 だが男は微かに眉を寄せただけで何も言葉を発しなかった。

「お教え頂けませんか?」

 沈黙を破るように穏やかに尋ねると、男は小さく息を吐いた。

「この村に宿はない。食事をするところもな」

「そうですか……」

 それは想定済みだ。だがこの村には中心となっている人物がいて、この人物が宿を提供していると聞いている。案の定男は溜息交じりに頷いた。

「わしの家に来るといい。食事を出そう。変わりに今シアーズがどうなっているか、今後どうなりそうかを教えてくれ」

「村長!」

「貴族ではない保証はないぞ!」

「そうだ、あいつらだったらどうするんだ!」

「王国軍かもしれないだろう!」

 周りにいた男たちの挙げた抗議の声に、パイプの男は悠然と煙を吐き出す。

「この村は辺境だ。だが戦火が及ばないとは限らない。ならば生きた情報が必要だ」

 男の視線がじっとエドワードに注がれる。

「例えこの男が貴族や王国軍だったとしても、少なくともこの男は我々に高圧的な態度を取らなかった。我々を下々の者と、蔑んだ表情を一瞬たりとも見せなかった」

 その視線を逸らすことなく見返すと、老人が表情を緩めた。

「この目をして我らを害する存在ならば、人を判断することなどできなくなる」

 男の目つきで気がついた。おそらく彼は生粋の農民でも畜産家でもない。何かを背負っている。

「行こうか。馬も曳いてくるといい」

 リッツを伺うと、どうする? というように軽く首を傾げてくる。それに小さく頷くとエドワードは男に声をかけた。

「ありがとうございます」

「こちらも打算がある。礼など言うな」

 そのまま背を向けた老人に、促されるままにエドワードとリッツはついて行く。これでこの村人たちと関わりができた。この老人が理解してくれたならば、街道沿いに残った数少ない酪農家たちを逃がせる。

 振り返って確認しなくとも、リッツが馬を飛び降りてあとに続いたのが分かった。いつものような軽口を叩かぬようにしてくれればいいのだが。

 案内されたのは大きな建物だった。といっても貴族の館とはまるで違い、大きな建物の半分以上が巨大な牛舎になっている。

 エドワードたちの馬は、その片隅にあった馬の厩舎に繋がせて貰う。

 沢山の牛たちが繋がれた状態になっている牛舎を男は迷い無く抜けていく。時折面倒くさげに見つめる牛の目と、間の延びたような鳴き声の中を緊張感を持って進む。

 そうしてたどり着いた男の住まいは、まるで牛舎に間借りしているように質素だった。華美なものなど何もなく、置かれているものといえば生活に必要な物ばかりだ。

 だが不思議な事もある。食器棚、箪笥、靴箱など、あちらこちらに家族がいる気配が残ってはいるのに、何処にも家族の姿がない。

 無言でエドワードとリッツに椅子を勧めて、老人は戸棚から一抱えもありそうな大きくて丸いチーズを取り出した。その中心をナイフで削っていく。

 釜にかけられた鍋が沸く頃には、大量のチーズが削り取られて目の前に置かれていた。その湧いた鍋には、乾燥パスタが投げ込まれた。手際のよい手つきだ。

 ほんの一時間足らずで、目の前にトマトソースで味付けされたチーズパスタが並ぶ。

「……旨そう……」

 リッツが皿を眺めて唾を飲み込む。精霊族のくせに食い意地の汚い男だ。

「まずは食べるといい。話はそれからだ」

 進められるままにチーズパスタを口にする。濃厚なチーズの旨味が口いっぱいに広がるも、トマトがそれをあっさりした後味に代えてくれた。

「旨い……」

 つい呟くと、男はようやく口元に笑みを浮かべた。

「自家製だ。この村の自慢はチーズだからな」

「すっげぇ。こんなに美味しいチーズができるんだな。あんたはすごい職人なんだな」

 食べ物のせいで口の軽くなっているリッツが本気でそう男を讃える。男は意外な顔をしてリッツを見たが、やがて最後まで残っていた猜疑心を捨てる。

「光栄だ」

 リッツには相手の猜疑心をなくさせる、妙な力がある。ダグラス隊に言わせれば、どうしようもなく子供っぽいせいだというが、エドワードにはそれが好ましい。それは決してエドワードが持ち合わせない能力だからだ。

 食事が終わる頃には、リッツは警戒心をどこかに手放してしまったかのように男に馴染んでいた。かといって昔のように無防備にもならないのは、セクアナでの体験で成長したからだろう。

「さて、本題に入ろう。私はフィルキンス。この村の世話人だ」

「俺はアルバート、こいつはカールです」

 もし名が必要な場合、お互いに父親の名を名乗ることに決めてあったから、あっさりとその偽名を口にする。

 エドワードはアルバート・セロシアの名で、リッツは父親カール・アルスター。人間と精霊族の交渉役だ。さすがにこの時期にこの場所で本名を名乗るような迂闊な真似はできない。

「シアーズの様子が聞きたい」

 深刻な一言に、頷きながら答える。

「……死んだ方がましな場所かもしれないです」

 じっと手元を見ながら、エドワードはハウエルとギルバートの二人から受け取った報告書を思い出しつつ現在のシアーズを語る。

「貴族の横暴と殺戮は減っています。革命軍シアーズ部隊が民衆に乱暴した貴族を制裁しているので。でも現在は食べ物が手に入りづらい。こればかりは革命軍でもどうにもならないようです」

 食糧の不足は、ルーイビルとランディアの兵士が入ってきたことにより、更に加速しているようだった。一部の特権階級以外、元値の二十倍にもなった食料を買う余力はなく、飢えに苦しみ死に至る者や、路上で凍死する者まで出始めている。

 一国の王都であるというのにもかかわらずだ。

「王国軍はどうしている?」

「王国軍のほとんどが平民だけど、そちらに特権はありません。飢えていると思いますよ? だが従軍すれば少なくとも食事は出る。生きるために王国軍に身を投じる者もいるようです」

「お前さんはそうしなかった」

「ええ。王国軍は嫌だと言ったでしょう」

 嫌悪感を浮かべてそういうとフィルキンスは苦笑した。

「それはそうだ。だが敢えて忠誠を尽くす人もいる」

「王に?」

「国家にだ」

 フィルキンスの口調が重みを増す。顔を上げてじっと見つめる。

「それはあなたの気持ちですか?」

「……違う」

「では……?」

「これは息子と嫁と孫の話だ。国が妙な方向に向かい、治安が崩れ初めても、息子は軍を見捨てなかった。何かできることがあるはずだと言い続けていた。虐げられる人々のために、何か一つでもとな。息子は海軍で今もシアーズにいる。当然嫁と孫もだ」

 隣でリッツが息を呑んだ。エドワードも言葉を無くす。海軍に対する作戦が裏で進行中だったからだ。

 シアーズを革命軍が占拠した場合、スチュワートやその母シュヴァリエならば、海軍で街を焼き尽くす可能性がある。国外脱出を図られる可能性もあった。それに対応するため、海軍を無力化する作戦がとられているのだ。

「まだ無事でいるのですか?」

「わしに分かるわけがない。だから息子に言ったんだ。軍なんぞよりも牛飼いがいいと」

 悔しさに軋むような声でフィルキンスが呻いた。慰めや同情をすることもできない声だった。

「脱出した者はいないのか? 残っていた平民の軍人が逃げ出したという情報は?」

「今はありませんね。逃げるとしても一族郎党皆逃げないと殺されるし、逃げ道が少なすぎる」

「それでもお前はシアーズを逃げてきた。その男と一緒に」

 真っ直ぐな言葉に、エドワードは黙る。

「どうやって逃げてきた? 教えてくれないか?」

 隣のリッツが落ち着きをなくしているのがわかった。リッツは嘘をつくことになれていない。むしろ騙される方だ。彼に期待はできないし、する気も無い。

 このまま黙っているわけにも行かず、エドワードは重い口を開く。

「それはいえません」

「何故……?」

「すみません。どうしてもです」

「何故だ! お前さんだけ逃げ出せて、どうして教えてくれない? 息子たちを見殺しにする気か!」

 その剣幕にエドワードは小さく息をつく。こんな事になると、分かっていたのだろうか。いや、分かっていたのだろう、ハウエルという男は。

 それでもエドワードがジュートの村に行きたいというなら、自分で何とかしろということだろう。 

 それに国軍同士で戦うと言うことは、このように戦った相手の、殺した相手の家族から憎まれることもある。これが今後当たり前にエドワードが背負うであろう荷物だ。

 居心地が悪そうに唇を噛むリッツに、エドワードは何も言ってやれない。その代わりに黙ったまま軽くテーブルの下の足を蹴った。

 顔を上げたリッツもエドワードに小さく頷く。分かったと言いたいのだろう。 

「頼む。せめて孫だけでも助かる方法を……」

 縋り付くような言葉に、エドワードは応える言葉を持たない。そもそもエドワードはシアーズを抜けてきたのではなく、ファルディナ方面から来たのだから。

 それならばできることはただ一つだった。

 シアーズを追い詰め閉鎖させたのは、他ならぬエドワードである。攻め上る上でこのような作戦をとったのは間違いなく自分なのだ。

「お力になれず、申し訳ありません」

 深々と頭を下げると、フィルキンスはしばらく呻いていたが、やがて諦めたのか大きく溜息をついた。

「そうだな。話せないこともあるな。申し訳ない。そもそもそれを聞いたとて、息子に知らせる方法もない」

 顔を上げたフィルキンスは一気に老け込んでしまったようだった。エドワードも溜息をつく。隣でリッツも言葉も無く、大きな身体を縮めていた。

 重苦しい沈黙が支配していたが、エドワードは自らの目的のために重苦しい口を開いた。

「新祭月に大々的な出陣式が行われるようなので、おそらくもうすぐこの戦いが終わると思います」

「……本当にそう思うかね?」

「はい」

「つまり新祭月以降に、この地区で大々的な戦闘が起きそうだと言うことか?」

「はい」

「……そうか……」

 考え込むようにフィルキンスは呻く。黙ったままエドワードは見つめ続けるしかない。やがて顔を上げたフィルキンスは、一人の父親ではなく、畜産家の顔をしていた。

「情報をありがとう。この周辺に急ぎ情報を伝えよう。お前さんに聞いても仕方なかろうが、こちらまで戦火は及ぶと思うかね?」

「……思いません。ここからシアーズには大きな崖があって、戦闘に向きません」

「ほう……。理由は?」

 言うべきか、それとも何となくで誤魔化すべきか少し迷ったが、結局自らの考える策を話すことにした。もしこれが敵の耳に入っても革命軍の作戦は全く揺るがないからだ。

「革命軍からすれば、有利に上から精霊魔法、もしくは弓で攻撃できても、進軍するためにはこの崖を迂回し、シアーズ街道付近まで戻らねばシアーズを目指せない」

 それは大きな危険を孕んでいる。ここに部隊がいると分かってしまえば、平地を先に進み崖の上の部隊を打つ事は可能だ。

「王国軍から見れば、崖の上に陣取った革命軍から奇襲で精霊魔法を仕掛けられたらやっかいです。かといってこの崖に登る途中で、シアーズ街道を通れば接近遭遇線になる。それでは意味が無い」

「だからこの場所は安全と?」

「……俺はそう考えてます」

 ここに戦火は及ばないからこそ、エドワードはここに来た。残っている畜産家が、農家がみなこの村に一時的に避難してくれれば、彼らの被害がなくなる。

 その間、農地は滅茶苦茶になるだろう。牧草地だって血に染まってしまう。でも生きていれば、いかようにでも復活させることができるだろう。

 農家の子として育ってきたエドワードは、農民の強さ、たくましさを知っている。焼き尽くされたティルスを新たな土地へと再生させたその力を知っている。

 生きていさえすれば、取り戻せるものは大きい。だから生き抜いて貰いたい。

 たとえシアーズ直轄地であっても同じ立場の人々を守りたかった。一般の人々が戦闘に巻き込まれるのは避けたかった。

 戦闘前に先触れが行く。その時には必ず逃げられるだろう。でも家畜は逃がすことができないし、その時に実っていた作物も収穫できない。

 でも今ならば。これから一週間あるならば、農民たちは飢えずに家財も最低限残して生きていける。

「ではここに、この村に全員を避難させるべきだな」

「はい」

 きっぱりと告げると、フィルキンスは苦笑した。

「農民の割に、よく戦場を知っているな。確かに戦場となればこの村は意味の無い場所だ」

「……ご存じでしたか」

「ああ、話さなかったが……わしも昔軍人だった。息子が海軍に入る前にやめたがね。やはりお前さんも軍人だな? 王国軍か? 革命軍か?」

 否定も肯定もせず、エドワードは黙ったまま微笑む。

「農民出身の軍人でなくては、農家を逃そうと思わないだろう。しかも最も安全な地を選んで」

「俺は軍人だったことはないです」

「何?」

「残念ながら今も、軍人ではありません」

 嘘ではない。騎士団は軍人ではなくあくまでジェラルドの私的な部隊だった。そして今は革命軍の人間だが、軍人ではなく王太子だ。

「……訳ありか?」

「ええ」

「そちらのカールとやらもかね? 彼はとても軍人には見えないが」

「はい。彼も軍人ではありません。俺の友達です」

 誤魔化さず、ただそう告げた。じっとエドワードを見つめていたその視線が、ふっと逸らされる。

「分かった。詮索はしない。あんたたちを信用しよう。助かったありがとう」

「こちらこそ。美味しいパスタをありがとうございました」

 ふと目を向けると、日の名残はすっかり消え去り、すっぽりと深い夜の帳に包まれていた。窓には結露が滴っている。外はかなり冷えているようだ。そういえばここは少し標高が高い。

「すっかり遅くなってしまいましたね」

「そうだな。これからどうするんだね? 今年最後の日だというのに、こんな所にいても仕方ないだろう?」

「……そうですね……」

 このまま街道を下って大きめの街まで行ってみようかと思っていたが、この時間では朝から歩いてきた馬が可哀相だ。相当な寒さだろうし、これから街にたどり着く頃には何時になるか分からない。

 できることならばここに一泊させて貰いたい。華美なものはいらない。ただティルスのあの自分の小屋のような場所にいることができたなら、それが一番なのだ。

 ふとティルスの冬の夜を思い出す。

 狭い小屋の中にあったのは、大きめの薪ストーブが一つ。その上にかけられたケトルから、穏やかに湯気が立っている。近くの卓にはお茶を入れるための器が使いかけのまま置かれている。

 小さな手元用のランプに照らされた机の上にあるのは積み上げられた沢山の政治と経済に関する書物、兵学に関する書物。

 目の前の壁に誇らしげに貼られた『リッツ・アルスター』と『エドワード』と書かれた覚えたてのリッツの文字。

 部屋の中央に吊された大きめのランプに照らされて、質素な木製のベットにうつぶせに寝転がって、肘を突きながら今日の出来事を一生懸命に順序立てて話そうとする友の姿。

『あのな、今日さ、初めて買い物に行ったんだ。肉屋に行ったら、すっごく買い方が難しくってさ。何グラム欲しいか聞かれてわかんなくって、こんぐらいって言ったら呆れられた』

『それは……お前の手をはかりに乗せて図るわけにいかないからな』

『そりゃあそうだけどさぁ……』

 あれはリッツが来た年の冬だった。

 当時のリッツはエドワードの友人であり、未だ正体が不明なため騎士団に監視される立場であり、エドワードが彼の身元引受人だった。

 リッツが正式に騎士団に入団するまで、エドワードがずっとリッツの身元引受人で、生殺与奪の権利を有していたことを本人だけが知らない。

 でもあれから三年経ち、リッツはかけがえのない友としてここに居る。

 リッツの顔を見ると、リッツもこのまま外に出るのが面倒らしく、同意見であると分かった。エドワードはフィルキンスに向き合う。 

「あなたにご予定はおありですか?」

「いや。見ての通り独り者だ」

「では泊めて頂くことは可能ですか? この時間からでは街道まで出るのに一苦労だ。勿論、ただとは言いません。俺とこいつでよければ労働力を発揮しましょう」

 冗談めかして自分とリッツを指し示すと、フィルキンスが口元をほころばせた。

「牛飼いに休みなしだ。では明日の朝、牛の藁敷きを手伝って貰おう。新祭月だから人手がなくて困っていたところだ」

「喜んで。お前も大丈夫だよな?」

 リッツを促すとリッツが大きく溜息をついた。

「何で新祭月から藁敷きさ……」

「文句を言うな。ローレンがよく言ってただろう?」

 一呼吸置いて、エドワードはローレンをまねた。

「『働かざる者、喰うべからず』」

 重なるようにぴったりとリッツと声が揃う。どうやらローレンにたたき込まれた言葉は今も身体の中にぴったりとはまっているようだ。

 だがリッツは未だぐだぐだと文句を言っている。

「めんどくせーよ、エド~」

 ついには本名を呼ばれた。しまったと思ったが、訂正すると余計に被害が甚大になる。

「……エド……?」

 眉を寄せて小さくフィルキンスが呟き、リッツが思い切り青ざめた。

「あ……ええっと……アルバート」

「……馬鹿」

 ボソッと呟きながら立ち上がり、エドワードは満面の笑顔を作ってフィルキンスを見つめた。

「こいつの寝言、意味が分からないんです」

「いま、エドと……まさか……」

「もう疲れてるんでしょうね。夜も更けてきましたし」

 きっぱりと笑顔で言い切ると、事情があると察してくれたのかフィルキンスが頷いた。

「……そうか」

 不審そうな顔をしていたフィルキンスも、やがてそれを忘れたかのように、軍人時代の話や、酪農の現場のことなどを話し出した。

 彼の現役時代は、まだ隣国フォルヌと戦っていた時期で、前国王の姿を遠目に見たことがあるらしかった。

 エドワードはティルスでの農作業の話をする。勿論地名は伏せてだ。

 家族でもなんでもない三人で、一年の最後の一日を過ごす。それは何だか不思議な時間だった。

 一人で過ごすつもりだったらしいフィルキンスは、客がいるからといって何かをすることもなかったし、エドワードたちもそれを求めなかった。

 ただ温かな風呂と、暖かな寝床、それから気の合う友がいれば、エドワードに特に文句はない。

 相棒がどう考えているかは分からないが。

 食事は終えていたから、ワインを飲みつつ、軽く話をし、普通に時間を過ごした。

 フィルキンスはリッツが呼んでしまったエドの名について深く聞いては来なかった。それだけがありがたかった。 

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