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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
燎原の烈風
107/179

<1>

燎原の覇者第7巻「燎原の烈風」スタートです。遂にシアーズで王国軍と革命軍が正面決戦です。

その前に色々な人間関係の謎があかされていきます。戦いメインの巻ですが、お楽しみ頂けると嬉しいです。

 エネノア中央山脈から吹き下ろす風が頬を刺すような冷たさを孕み始めた十一月中旬。

 セクアナから逃れゆく貴族たちが、国人の街道を亡霊の如く青ざめた顔色のまま辿っていた。

 荷物を満載した馬車もあれば、着の身着のまま逃げてきたのか、何も持たずに薄汚れた姿で黙々と歩き続ける者もいる。無傷の者など誰もいない。彼らの道中の苦難を物語るように皆何かしらの傷を負っている。

 どんな姿をしていたとしても、その表情は一様だった。瞳はまるで底のない沼のように暗く澱み、虚無に支配されたように何の感情も伺うことができない。ごく希に言葉を発する者もいたが、それは意味を成さない恨み言でしかなかった。

 きっと彼らの心の声を聞くことができたならば、そこに溢れているのは、王太子エドワードに対する怨嗟の言葉であっただろう。

 彼らはみな、自らの支配地を奪い取られた敗残者だった。

 ハーマン、メイソンの引き起こしたあの事件までは、街の支配者として君臨し、平民からいいだけ利益を吸い上げることができた貴族であった。

 だがセクアナ中心部から始まったガルシアの改革により、ハーマンに荷担しようと画策した者たちは皆、故郷を追われることになった。

 ハーマンは言葉巧みに彼ら貴族たちを従わせていた。裏切り者が出ぬように彼ら皆に署名をさせていたのだ。

 おそらくそれも命を落としたメイソンが画策したことなのだろう。命に代えて貴族勢力の大掃除をしたのだとエドワードは言っていた。

 それがガルシアの手に渡ったことから、署名した貴族たちへの制裁措置が始まった。

 それに耐えきれず、貴族たちは故郷から逃げ出してゆく。逃げる過程で今まで支配していた人々に冷たく蔑まれ、石を投げられ、彼らは初めて自分たちが平民に如何に疎ましがられていたかを知り、愕然とする。

 平民風情がと強がったところで、食料一つ自らの才覚で手に入れることはできず、平民に要求したところでその答えは石礫であった。

 だが彼らの中にある貴族の誇りが邪魔をし、平民に頭を垂れることをよしとしなかった。そのため食料が底を突けばただ空腹を抱えて歩き続けるのみである。

 今までの生活と、食べ物一つ、寝る場所一つ保障されない現在の状況はまさに雲泥の差であろう。中には屈辱に耐え、農民に庇護を求める者もいたがほとんどの場合それは無駄に終わった。

 ほぼ絶望といえる旅路の先には、唯一の希望があった。それは南へと向かい、王都でスチュワート国王に会うことだ。

 まだ自らの処遇を自らで決められない貴族たちは、スチュワートに縋ることだけを考えて、ただ黙々と進んでゆく。

 そんな敗残者の列の中に、古ぼけた馬車が一台混じっていた。所々傷つき、老朽化したようなこの馬車には、貴族たちの馬車の中では格段に貧しかったが、それでも二人の人物が乗っている。

 二人とも女で言葉少なに、スカーフで顔を半分隠していた。大柄な女と、小柄な女だ。身を隠しているかのように装っているが、見る人が見たならばこの馬車の内部は、貴族たちの馬車とは違っていることに気がついただろう。

 質素な車内はどう見ても平民のものだった。だが一見すると見えない場所に沢山の物資が詰め込まれており、武器も巧みに隠されている。

 大柄な女の足下には、小型ながら殺傷能力の高い短弓クロスボウと、折りたたみ式の大弓が隠されており、小柄な女の足下には精霊使いの杖が隠されていた。

「暇ねぇ……」

 大柄な女が妙に低い声で呟く。それを聞いて亜麻色の髪を掻き上げつつ、アメジストの瞳を持つ小柄な女……パトリシアが苦笑した。

「仕方ないわよベネット。目立てないんだもの」

「そうよねぇ……敗残のセクアナ貴族ですものね」

 再び押し黙ったまま二人で外の景色を眺めると、頭にふんわりと巻き付けたベネットのスカーフが風にふわりとなびき、その端正な横顔を覆い隠す。

 化粧をしたベネットは本当に綺麗だ。

 パトリシアは自らの頬をそっと両手で挟んでみる。

 化粧っ気のない肌。このところの寒さで少し荒れ気味だ。きっと女のパトリシアよりも、ベネットの方が数段綺麗だろう。

 こんな風に綺麗だったら、もっと勇気が出せるのかな。

 ふとそんなことが頭をよぎって、パトリシアは自分の頬を強く叩いた。その音にベネットが目を丸くする。

「何してるの。肌荒れの季節に顔に乱暴しない」

「……わかってるけど……」

 溜息交じりにパトリシアは変わりゆく車外の光景に目を細めた。秋が深まりつつある。

 エールの村にいた頃は、秋も始まったばかりで小麦が風に揺れていた。あれからたった十日ほどしか経っていないというのに、パトリシアはこんなに遠くにいる。

 エドワードもリッツもいない場所に。

『俺さ、一人じゃなくてよかったと思うんだ』

 ふとエールからオストに向かう途中に、リッツに耳元で囁かれた言葉が甦った。同時に甦ってくるのはあの堅くて広い胸と暖かな体温だった。

 剣を振るう時は恐ろしく強く見えるくせに普段は子供っぽくて、でもきっと誰よりもパトリシアを理解してくれるだろう人だと、あの二週間で気がついた。

 恋愛感情を持てたら、どんなによかっただろう。きっと幸せだろう。でもやはりパトリシアが愛しているのはエドワードだった。

 リッツとパトリシアは似ている。きっと似すぎている。だからリッツと恋愛なんてできない。それでも今、傍らにあの拗ねたような顔でむくれるリッツがいないことが不安だった。

 エドワードとは違う、でも一緒にいてくれると心強くて、自分が本当の自分として遠慮なく言葉をぶつけ合うことができる。

 一緒にいた二週間は今までで一番リッツを身近に感じられたし、自らが部隊を率いるという緊張を和らげてくれていた。

 でも今は、その緊張を自分で抱えていくしか無い。

 自ら志願したことだ。自分にしかできないから、彼ら二人にとっても必要なことをすべきだと決断した。

 だから弱音は吐きたくない。

 でも目的地が近づくほど不安が増した。オストの貴族たちと平民の間に立ち、堂々と信念を語り人々の心を掴んだリッツのような真似が、自分にできるのだろうか。

 人の心をこちらへと向かい合わせることが。

「……一緒にいなさいよ」

 小さく口の中で呟いてみる。

『俺はここにいるパトリシアが大好きだ』

 そういえばまたそんなことを言われてしまった。面と向かっては絶対に言わないくせに、パトリシアが絶対に何も言い返せないタイミングでだけリッツはそう宣言する。

 でもいつも返事を言わせて貰えない。

「仕方ないわよ、お子様だもの」

「そうよね……え?」

 顔を上げると、ベネットと目が合った。外を見ているとばっかり思っていたのに、楽しげな笑みを浮かべながらいつの間にかパトリシアに向き合っていたのだ。

「ベネット……」

「殿下からリッツに乗り換えることにしたの?」

「違いますっ! そんなんじゃありません!」

 力一杯否定すると、ベネットが吹き出した。

「冗談よぉ~、ムキになっちゃって可愛い」

 綺麗な微笑みでからかわれて、頬が火を噴いたように熱い。真に受けなくてもいいと分かっているのに流せない自分が子供っぽくって恥ずかしい。

 ベネットやソフィア、ヴェラはいつもその話で勝手に盛り上がっている。賭け事のネタになっているそうだ。

 ソフィアとヴェラの姉妹はパトリシアは絶対に心変わりしないと賭け、ベネットだけがリッツに心変わりをする方に賭けているらしい。

 そのくせベネットはパトリシアと一緒にいるのに、リッツへの心変わりを進めてくることはない。

 子供の反応をしてしまうから面白がられているのだと分かっているが、どうしても大人の反応ができない。

 傭兵たちのふざけた会話には正直ついて行けない。リッツもエドワードも意外とそれが楽しそうなのが不思議だ。

 パトリシアは溜息交じりに窓の外へ視線を向けた。車窓から見える平坦で広大な土地には、見慣れぬ収穫風景が広がっていた。この辺りは水田地帯で、小麦ではなく稲が栽培されている。米が主要な農産物なのだ。

 米を見た事は勿論あったし、王都での生活では米料理を口にすることもあったが、こうして栽培しているところを見るのは初めてだった。

 セクアナとこれから行くアンティルでは、小麦や大麦はそれほどさかんに作られておらず、豊富な水を利用した稲作が行われている。

 まだ刈り残しは少々存在するも、すでに刈り取りを終え、脱穀を終えた藁が一面に捲かれていた。

 その中に沢山の人々がいて、刈り取り作業をしていた。小さな小屋のように畑の中に幾つもの山を作っている。ああして干すのだろう。

 貴族がどんな状況になろうと、農民たちは関係なく淡々と日常を営んでいるのだ。

 その長閑な景色の中に、貴族たちの陰鬱な行列が続いていく。次の十字路で行列は東へと曲がっていた。黄金色の刈り取った稲とあまりに不釣り合いの光景だ。

 でもその光景は、パトリシアの心を少し軽くした。この分かれ道を越えれば、貴族たちはいなくなる。ここはアンティルに向かう道と、王都シアーズに向かう道の分かれ道だ。

 馬車は何事もなく直進していき、貴族たちが歩く道が遙か後方に消えていく。アンティルへと向かう馬車はこの馬車以外にはない。

 これでようやく一息付ける。

 大きく息をついた時、外から小さく扉を叩く音が聞こえた。

 窓から顔を覗かせると、古ぼけた貴族の服に身を包んだ元グレイン第二騎士団長で、今は騎兵隊副長のオドネルがいた。彼の表情も心なしか明るい。

「もう大丈夫?」

 尋ねたパトリシアに、オドネルは柔らかな微笑みを浮かべた。

「大丈夫でしょう」

 その言葉に、パトリシアは顔を隠すように捲いていたスカーフを取った。秋風が肩まで伸びた亜麻色の髪を揺らす。

「気持ちいい! やっぱりスカーフは苦手だわ」

「お嬢様、あまりはしゃがれませんよう」

 苦笑しつつのオドネルに、肩をすくめる。パトリシアが生まれた頃からすでに家にいたオドネルは、幼き日のパトリシアの剣の指南役だった。

 騎士団第一隊はジェラルドのために共にグレイン各地を巡り、第三隊のマルヴィルはエドワードを守りティルスに常駐していたから、モーガン邸を守る第二隊がパトリシアと最も親しい。

 当時はまだ若手として、面倒な子供の相手を命じられていたオドネルにパトリシアは騎士団の中では一番懐いていた。オドネルもそんなパトリシアを可愛がってくれた。

 アンティルへの行程が決まった時、護衛として真っ先に申し出てくれたのがオドネルだった。

 無事に生きて戻れる保証があるとはいえない、この任務に。

 前を向いたオドネルの頭髪に白いものが混じり始めているのを見て、ついパトリシアは声をかけた。

「オドネル」

「何でしょうか?」

「本当によかったの?」

「よかったとは?」

「……帰れない可能性があるのに、私と来て」

 申し訳ない気持ちで言ったというのに、何故かオドネルは吹き出した。

「なんで笑うのよ!」

「お嬢様らしくありませんな」

「え?」

「いつものお嬢様なら、絶対に帰れると思っておいででしょう?」

「だけど……」

 パトリシアは口ごもった。

 アンティルに行く。それは王都シアーズに隣接する未だ王政側だと思われる自治領区に、革命軍への助力を求めに行くためであった。

 元々アンティルは、ルーイビルと王国直轄地に挟まれた自治領区で、辛酸をなめてきた歴史がある。

 そのためか幾度も送った書状には、どちらにつくべきかを逡巡しているかのような箇所が見受けられたのだ。

 この先、大規模な戦闘が起こり、戦いに勝利した者が王座を取る。そのためには少しでも多くの援軍が必要だった。

 現在革命軍と共闘関係にある自治領区は、グレイン、サラディオ、セクアナ、オフェリル、アイゼンヴァレーの五つだ。

 王政側はシアーズ直轄区、ランディア、ルーイビル、アンティルの四つである。

 自治領区の数だけを見れば革命軍が圧倒的な優位に見えるが、革命軍が支配する地域は、いずれも領民の数がそれほど多くない。

 片や王政側が支配する地域は、このユリスラ王国の三大自治領区であり、ランディアとルーイビルは大規模な自治領区軍を抱えている。それに国境警備のための王国軍の二つの巨大組織を抱える強大な自治領区である。

 当然ながら国王のいるシアーズには、巨大なユリスラ王国軍がいる。

 対する革命軍は寄せ集めの軍隊だ。軍備や人口だけを考えたならば互角であっても、戦力的には圧倒的に不利だ。

 平民の犠牲を最低限に抑えたいエドワードは、ここで策を用いることにした。この王政側自治領区の不和を煽って、アンティルを革命軍側の戦力とすることだ。

 そのためにはアンティルの自治領主を陰から革命軍へ参加させる必要があった。だからパトリシアがここに来たのだ。

 エドワード、リッツ、ジェラルド、ギルバート、カークランドなどの名だたる人々や、コネル、グラントなどの元王政側の人間は察知されやすい。だがこの状況で使者を立てるのならば、アンティルにとって、人質とするにも重要な人物でなくてはならない。

 その条件を満たすのが、パトリシアだった。

 それにもう一つ、選ばれた理由があった。

 アンティルの自治領主は女性なのである。前自治領主には女性しか跡取りがおらず、前国王に懇願して条件付きで自治領主の地位に就いたのは、たったひとりの娘だったのだ。

 どんな女性なのかは、社交界にも出てこないためにあまり知られていない。分かっていることと言えば男嫌いで、未婚であるということだけだ。

 過去に何らかの事情があって男嫌いになったのだという話もあるが、それを知るものはアンティルの外にはいない。

 そのため使者は女性に限られる。

 男であるベネットがついてきたのには他に理由があるらしいのだが、まだパトリシアには何も話してくれていない。

 不安を抱えたパトリシアに気がついたのか、オドネルが笑顔で胸を張った。

「安心なさい。このオドネル、命に代えてもお嬢様をモーガン閣下の元へと送り返して見せますよ」

「だけどそれでは、エディの策が成らないわ」

 ついつい落ち込んだ口調になった。

 せっかく使者になったのだから、それはどうしても避けたい。共に戦うために、この交渉という戦場に命を賭けに来たのであって、人質になりに来たのではない。

「大丈夫よ。いざとなったら、私が助けてあげる」

 今まで聞いていただけだったベネットがそう言って片目を瞑った。それがとても綺麗だけれど、でもいつもと違った。

 何だか少し男らしい。

「ベネット……?」

「なあに?」

 先ほどの雰囲気は一瞬で、もうすぐに元のベネットに戻ってしまった。ベネットの様子がいつもと少し違うのは、あの時からだ。

 パトリシアはここに来ることに決まった、あの会議を思い出していた。

 あれは十一月五日の夕暮れのことだった。急ごしらえの本部天幕の隙間から、かなり傾いた柔らかな午後の光が注いでいた。

 リッツとパトリシアが派遣されたオストの街の件が思いの外早くに片付き、他の地区に派遣された人々よりも一足早く本部に戻ってきた日に、会議がもたれた。

 それがアンティルの話だった。

 当初現在のパトリシアの役割を担っていたのは、カークランド伯爵夫人マディラだった。適任者を考えた時、女性で地位がある彼女以上の適任者はいなかった。

 だがそれに異を唱えたのは、ハウエルであった。

 平民出身のマディラでは、自治領主自身はともかく、周りの人々が面会を許さないだろうというのだ。それは単に平民貴族の差別の意味ではない。間もなく全面的な戦闘状態に突入する状況での説得には弱すぎるというのだ。

 そしてその場には、リッツ命名『みんなでお客さん作戦』中のはずだったパトリシアがいた。

 コネル、グラント、マディラ、エドワード、リッツは、パトリシアが人質に取られ、シアーズのリチャードに売られることを懸念し、反対の立ち場を取り、ギルバートはヴェラやソフィアにパトリシアの肩代わりをさせる案を出した。

 ジェラルドは黙り込み、ハウエルはその有用性を説いてリッツと正面から激突した。喧々囂々と議論される解決策のどれもが上策とは言いがたかった。

 そんな中でパトリシアは決意した。

「私が行きます。私は名将ジェラルド・モーガン元帥の娘。簡単に殺されたりは致しません。誰が訪れたとて命の危険は皆同じ。でしたら交渉し、相手に誠意を示せるのはこの私しかおりません」

 会議の場は静まりかえり、次の瞬間リッツが立ち上がって手を挙げた。

「じゃあ俺が行く! 一緒に!」

 目立ちすぎるから駄目だと言われたのを忘れたリッツに、全員が呆れて溜息をついた。

「リッツ」

 苦笑しながらジェラルドが座るように促した。

「いいだろ、おっさん!」

「確かにお前が行けば安全かもしれない」

「だろ! じゃあ……」

「では誰が王太子殿下の隣に立つのかね?」

「……へ?」

 リッツが目を丸くした。ジェラルドは全く何も考えていなかったリッツに、まるで子供に話すように話をかみ砕いて優しく諭すように説明をする。

「この使者に立つ者が戻ってこられるのは、王国軍、革命軍双方が正面からぶつかった後だ。王太子が戦場の先頭に立つ時、精霊族の戦士がいなかったら不自然だろう?」

「……あ……」

「その長身と、特殊な剣技。お前の身代わりになりそうな者はいない。そもそもエドワードと完全に同調して戦える者がお前以外にいると思うのか?」

「う……」

「お前は精霊族の戦士で、エドの護衛だろう? 王太子を置いて何処に行こうとしているんだ?」

 リッツとエドワードの二人の剣技は、個人的にもすごい。特に二人が組んだ時、お互いに何も口にしなくとも動きやすいように心得て動く姿は妙技といえる。

 まるで互いの呼吸が完全に一つになったような、あの動きについて行ける者はいない。

 ようやく納得したのかリッツは恐る恐るといった顔で、座ったまま微動だにせず腕を組んでいるエドワードを見おろす。

「エド……あの……」

 エドワードは苦虫を噛みつぶしたような顔で、不本意そうにリッツを見上げた。

「だから俺もパティをアンティルに行かせたくないんだ。パティを守るためにお前を付けたい。でも俺の置かれた状況では、お前がいないと困る」

「……ごめん。また考えてなくて……」

 落ち込むリッツにエドワードは笑みすら浮かべず、あっさりと頷いた。

「いい。お前に頭脳を期待していない」

「ひでぇよ、エド」

「ひどいのはどっちだ、馬鹿リッツ。必要な時にいなければ、いつ役に立つんだ?」

「ううっ、ごめんってば……」

「そのでかい図体が、戦場でどれだけ役に立つか、まだ知らないようだな」

「エド、容赦なすぎだ!」

 いつもの容赦ないやりとりに、リッツが頬を膨らませてむくれている。だがエドワードは未だ難しげな顔で腕を組んだままだ。 

「いいか? 戦場にお前やジェラルド、ギルバート、コネルがいないとなると、敵は奇襲を警戒するだろう? 現にお前は前回奇襲をし、リチャードを直接撤退させたんだから、お前への警戒心は強いはずだ。それからギルバートの陽動作戦があった。敵も馬鹿じゃないから、俺たちの作戦を読むために警戒してくるだろう」

「そうか……」

「そうだ。俺たちが全員前戦に揃っていてこそ、パティがアンティルに行く作戦が、大きな転換点になる」

 エドワードの手が、机上に広げられた地図をなぞる。その指し示す先には、アンティルがあった。エドワードの指が、無意識なのかコツコツとアンティルを叩いている。

 剣だこがあるが、昔から変わらない長くて綺麗で力強い指先だ。うっかりするとパトリシアは見とれてしまう。

「分かったか?」

「……うん」

「となれば護衛に付けられる人間は、敵に顔が知られていない人物だ。最低限に、隠密に事を進められる人々に限られてくる」

「じゃあ遊撃隊とか?」

「遊撃隊は別口に動く予定があるだろ。お前の頭はどれだけ不良品だ」

 最近の会議におけるエドワードは、リッツに容赦がない。

 普段二人でふざけている時は今まで通りお互いに遠慮なくやりとりしているのだが、会議では少し違ってきているのだ。

 だが言葉の端々に、出来の悪い弟を叱るような愛情が垣間見える。リッツもちゃんとそれが分かっているのか、拗ねるも反抗はしない。

「つまり相手に警戒を抱かせない護衛に限られる。下手をすればアンティル行きは片道の旅程なんだ」

「そんな……」

「護衛隊を付けることはできるし、それは男性でも構わない。でも使者は女性に限られる。その無理に俺は頭を悩ませてるんだ」

 エドワードの呻きにマディラが頷いた。

「ですから殿下。私の命をお使いください。パトリシアに犠牲を強いる必要はございません。私はカークランドの妻。革命軍に参加した時から覚悟は決まっております」

 マディラは胸に手を当てて王族への拝礼をした。彼女に迷いはないようだった。でもパトリシアはマディラを失うことが、大きく戦力を損ねることを知っていた。

「それは駄目よ」

 立ち上がってパトリシアはマディラを見つめた。

「いいえ。最初は私がお受けしたお役目。私が拝命するのがふさわしいでしょう?」

「違うわ。私が言いたいのは、覚悟の話じゃないの。実務の話よ」

「実務?」

「ええ。護衛部隊を指揮するのはあなたじゃないと駄目よ。私は部隊の指揮を執れないわマディラ。だって彼らのほとんどは、オフェリルの民じゃない。みすみす貴重な兵力を無駄にしろというの?」

「パトリシア……」

「護衛部隊は今回が初めての前戦じゃない。自治領区駐留部隊に後方を任せて全員進軍してるのに、指揮官がいないなんて大問題だわ」

 グラントにより、北部同盟の安定化したことで、後方護衛部隊は役割のほとんどを終えていた。現在各自治領区は何百人単位で残る駐留部隊によって守られているのだ。

 戦力の不足を補うため、今まで後方勤務に当たっていた護衛部隊が初めて前線に出てきている。そのほとんどが、今まで後方にいたオフェリル護衛部隊だ。もしここに指揮官が居なければ余計な混乱を招きかねない。

 表情を曇らせるマディラに笑顔を見せてから、席の中央にいるエドワードとリッツに視線を向けた。

「エディ、リッツ」

「……ああ」

「うん……」

 苦悩で覇気のない二人を見つめる。いつまでもこの二人に守られているわけにはいかない。守りたいのはパトリシアの方なのだから。

「私を見くびらないで。女だからと甘く見ているの?」

 静かに口にすると、二人は息を呑んだ。じっと言葉を失う二人を見つめつつ、パトリシアは言葉を続けた。

「私も一緒に戦ってる。同じ戦場にいることだけが共に戦うことじゃないことを、私は知ってるわ」

 子供に言い聞かせるように、一言ずつ決意を込めて言葉を綴る。

「貴方たちのためにできることがある。それが私の幸福よ。だから危険は承知で行くの。エディとリッツ、それからお父様、おじさま。みんながみんなきっとこの国の幸福のために命を賭けて戦ってる。私も戦いたいの」

 言葉を切ると、その場が静まりかえった。でも何を言われようと、パトリシアは気持ちを変える気は無かった。自分にできる最大限のことをしたいのだ。

 しばらくしてから手が上がった。

「私が補佐官として一緒に行くわ。私なら男に見えないでしょう?」

 そう言い出したのがベネットだった。

「お前がか?」

 不思議そうなギルバートに、ベネットは微笑む。

「ええ。私に護衛を任せてくれないかしら。アンティルには浅からぬ縁があるのよ」

 いつものような笑みを浮かべながらだったが、この声はどことなく沈んでいた。

「縁?」

 ジェラルドの質問に、ベネットは微かに笑う。

「ええ。私、ベネットではなく、ジェイムズ・ガヴァンにね」

 その時の何ともいえない表情をパトリシアは忘れることができない。その直後にオドネルがこれもまた静かに立ち上がり、護衛を申し出た。

 これに元グレイン騎士団の騎兵を四人加えて、最終的に総勢たったの七人の小さな使節団ができあがった。

 そして使節団の結成も、その出発すらも外に漏れる前にと、その日の夜の内に一行は本営を出ることになった。

 月も細くなった暗い夜だった。

 いつもの騎士団の制服を身につけ、防寒用の外套を身につけたパトリシアの旅立ちを見送ってくれたのは、パトリシアの大切な二人の男だった。

 いつもは凜として立つエドワードと、自信に満ちた顔でいるリッツの、王太子と戦士には間違っても見えないような何とも不安そうな顔が印象に残っている。

 ジェラルドたちとは別れを済ませていたから、まさか護衛も付けずに、しかも昔から着慣れた普段着で二人がいるとは思わずに驚いた。

「本当に行くのか?」

 仲間として接しているいつもとは違い、明らかに兄としての心配そうな口調でエドワードに問われた。何だか昔と変わらない。

「ええ」

「止めても無駄か?」

「止められないって分かっているでしょう? そもそもエディの作戦じゃない」

「……すまない」

「リッツも顔を上げなさいよ。そんなに泣きそうな目で見ない」

「な、泣きそうになってるわけないじゃん!」

 怒鳴りつつもリッツが微かに鼻をすすったことに、ここに居た全員が気がついた。だが誰もそれを言わない。

「ちゃんと無事に帰ってくるから、泣かないの」

「泣いてねえし!」

 何故かパトリシア以上に不安そうな二人を、パトリシアはまとめてぎゅっと抱きしめた。身体の大きな二人だから、抱きしめたと言うよりも、二人にまとめてしがみついたが正しいのかもしれない。

 二人の胸の間に挟まるように顔を埋める。

「パティ?」

「なにを……」

「帰ってくるわ」

 決意を込めて言うと、エドワードがパトリシアの身体に腕を回して抱きしめてくれた。

「ああ。帰ってこい」

 その腕は力強く温かい。対照的に棒立ちになってしまったリッツに語りかける。

「リッツ」

「何だよ」

「私がいない間、ちゃんとエディを守るのよ?」

「当たり前じゃねえか! エドも、パティも大好きだしっ!」

 パトリシアを抱きしめたエドワードごと抱きしめたリッツが鼻をすする。

「お前また俺に鼻水を付ける気か?」

「は、鼻水なんて出てねえよ!」

「ちょっと汚いじゃない! やめてよ!」

 ふと、もしもアンティルで殺されたりしたら、この二人とはもう会えないことに気がついた。

 これが二人の体温を感じられる、最後の時かもしれない。堪えたのに、つんと鼻の奥が痛くなる。駄目だ、このままでは泣いてしまう。

 俯いたまま力尽くで二人をほどくと、パトリシアはオドネルが曳いていた馬に飛び乗った。

「パティ?」

「帰ってくるから大丈夫。絶対に絶対に帰ってくるから。だからいい報告期待して、それまで絶対に負けたりしないでよね!」

 泣いてたまるか。

 泣いたら本当に、永遠の別れみたいになってしまう。そんなのは絶対に嫌だ。

「じゃあね」

 あえて素っ気なくいうと、パトリシアは馬の腹を蹴った。大好きな人たちがみるみる遠ざかっていく。

 憧れも恋も、全てを捧げたいと思う人が。

 共に理解し合える友でありたい人が。

 夜風が冷たく頬を撫でていく。その冷たさが涙だということにもとっくに気がついている。でも、それでもまだ振り返れば二人が立ってみていることが分かるところで止まりたくなかった。

 甘えてしまう。戻りたくなってしまう。格好付けて志願したけれど、本当は不安でいっぱいなのだと知られてしまう。それだけは知られたくない。

 大切な人たちのために戦うのに、躊躇い、怯えていたくはない。

 だから、絶対に振り返らない。次に二人を見る時は、戦場を挟んで正面から駆けつける。

 暗闇の中で後方が見えなくなったところで、ようやく涙をぬぐうことができた。残念なことにベネットに見られてしまったが、ベネットは微笑んで『愛されて幸せね』と言っただけだった。

 それからあまり使われていない細い道を通じて、騎馬で夜通し駆け、セクアナの小さな村で馬車を買い、持ち込んだ古びた貴族の服で街道を辿ったのである。

 そして現在、この道を辿っている。

「あとどれぐらいでアンティルの街?」

 オドネルに問いかけたはずなのに、ベネットが当たり前のように答えた。

「一日って所ね」

「そう……」

 アンティルへと至る街道はシアーズと違い、街へ近づくほどに上り坂になっていた。海へと向かうはずなのに、何故登るのかそれがパトリシアには分からない。

 翌日の昼には街に近づき高台に向かうにつれ稲作地は消え、広大は牧場が広がっていた。

 本当にこれで街に着くのかと不安に思っていたパトリシアの目にもちらほらと増え始めた農家や民家が映る。

 やがて馬車は最も高い場所に出た。そこに広がる光景に、パトリシアは言葉を失った。

「……素敵……」

 そこには見た事のない街並みが広がっていたのだ。パトリシアの目に飛び込んできたのは、急な斜面に張り付くように軒を連ねる家々の白さと、空と海の青さの二色でできた絵画のような光景だった。

「綺麗ね。こんな綺麗な街、見た事ないわ」

 つい呟くと、ベネットが馬車から顔を出して長い髪を掻き上げた。

「綺麗でしょう?」

「ええ、とっても!」

 その美しさは、同じ海に面しているシアーズとはまるで違う。シアーズは歴史的な建造物が多く、堅牢な作りの建物が多いが、この街は白く、ただただ美しかった。

「これも自治領主の手腕が確かだから出来ることよ。こんなに美しい街並みになったのは、領主のおかげね。この家の白さは、何で作っていると思う?」

 そう聞かれても、パトリシアは家の壁が何でできているかなど考えたことはない。

「……分からないわ」

「そうよね。これはね、貝殻でできてるの」

「貝殻?」

「そう。この自治領区には巨大な中州があって、貝類が沢山取れるし、海岸沿いのこの高い山々はほとんどが石灰岩。海岸にほとんどの土地が面しているアンティルでは、家を作るのに必要不可欠よ」

 馬車はよく踏み固められた道路をゆっくりと走っていく。その間にも白い家ばかりが目についた。

「いったいどうやって作ったんだろう」

 独り言のように小さく呟いたが、ベネットはその呟きすらも拾って説明してくれた。

「貝殻を焼いて砕いた粉と石灰岩を砕いた粉を水で混ぜてあるの。それを煉瓦の上に塗ると、海岸の塩にも負けないんですって。乾くと白くなるのよ」

「ペンキみたいに?」

「どちらかと言えば漆喰ね。それが結構手間がかかる作業じゃない? だから今の自治領主がね、それを自治領区経営の工場を作って運営することにしたの。おかげでみんなが安価で家を作れるようになったってわけ」

 まるで我がことのように流暢に話すと、ベネットは満足げに口を閉じた。

「すごい方なのね」

「ええ」

「おいくつぐらいの方?」

「そうねぇ、もうすぐ三十五歳に成られるかしら」

「……若いんだ……」

「そうよ。私よりもちょっと年上だけど」

 そう言って微笑んだベネットの正確な年齢は顔を見ても分からない。尋ねても教えてくれずはぐらかされるから、いつまでもベネットは年齢不詳だ。

 街の中に差し掛かると、街を通る道は今までとは違い、整備された石畳へと変わった。白い建物と、同じように白っぽい石畳は、晩秋の日差しを驚くほどに輝かせる。

 海が近いためだろう、しっとりと湿り気を帯びた潮風が鼻腔をくすぐる。山育ちのパトリシアにとって、この香りは王都シアーズ以来の懐かしい香りだ。

 石畳の規則正しい揺れに身を任せてながら、街を観察する。

 アンティル自治領区アンティル。

 自治領主が直接統治する街だ。大通りを通る馬車から見る光景は、見るところとても平穏そうで、住みよさそうに見える。広場に設けられた市場にも売り声が響いている。

 だが馬車が人混みを避けるように裏通りを走るようになると、街の雰囲気は一変する。裏通りは驚くほど人が多いのだ。

 その数は尋常ではない。まるでこちらがこの街の繁華街でもあるようだ。

 くわえて市場のような雰囲気の場所は、地面に座り込んで商売をする人々が多い。その人々の大半が、おそらく自分の財産であろうものを、生活のために売りさばいているように見えた。

 中には膝を抱え込んで座り込み、微塵も動かない者、地面に転がり、寝ているのか死んでいるのかも分からない者もいた。

「シアーズから逃げてきた人たち……か」

 呟くとベネットが頷いた。

「そうね。ここは一番近い自治領区だし、海もシアーズから逃げるのには絶好の場所だわ」

「もっと先の北部同盟都市まで逃げないのかな?」

 あちらに行けばここよりも遙かにまともな生活を送れるだろう。だがパトリシアの疑問に、ベネットは笑う。

「ここに残っているほとんどがシアーズ難民なのよ。彼らに農業の経験はほぼ無いし、シアーズほどの大都市から完全に離れて生きる勇気もない」

「だって北部同盟に行けば、自力で生きていけるのよ?」

「そうね。勇気ある者や、気力のある者はそうするでしょうね。でもそうじゃない人もいるの」

「……そうじゃない人……?」

「こうして何とか日々の暮らしをしながら、王太子殿下が平和を取り戻すのを待ってるの。そしてまた今まで通りにシアーズの生活を続けたいと考えているのよ」

「そんな……」

「全員が全員、王太子が現れたから一緒に戦おうと思うわけではないわ。北部同盟に行き苦労するのと、戦場に自ら参加して戦うこと、ここでただ待って元の場所に戻るのはどれが楽かしら?」

「何もしないで待っていること……」

「その通りよ。特にシアーズの住民はね」

 当たり前のように笑みすら浮かべて答えるベネットに、パトリシアは釈然としない。

「じゃあ、シアーズでは私たち革命軍が苦労するんじゃない?」

「それはないわ。自分の街を取り戻すためなら動くでしょうね。遠くの戦より我が街の平和よ。それが人間ってものだわ」

「……そうなのね」

 自ら動くのではない人々もいるのだ。今まで圧政と戦う人々ばかりを見てきたけれど、そうでない人もいる。

 戦うことよりも、危険を避けることを第一とする人だっているだと初めて知った。

 街の中心を通り抜け、しばらく進んだところで馬車が止まった。

 見上げると海岸に面した崖の中腹に立つ、大きめの宿があった。貴族が避暑に使うことが多いという、少々名の知れた宿だ。

 ここに泊まり、事前に交渉しているハウエルたちの密偵を通して、自治領主に面会をする事になっているのだ。

 もうこちらには密書が届いているだろう。

 当初から申し合わせていた通り、パトリシアとベネットが馬車を降り、オドネルが馬を部下に任せてその二人の前に立つ。

 下ろしたのは大きなスーツケースが三つと、急ごしらえで包んだような大きな荷物だ。逃げ出してきた貴族という設定上、大がかりに物を運べない。

「ここが白亜亭……」

 見上げた宿のエントランスは他の家々と同じように真っ白に輝き、宿の敷地内はその同じ白で作ったような石畳が敷かれていて、馬車を付けるのに申し分ない広さがあった。

 そして大きく開かれたままのガラスの扉の奥に見えるのは、落ち着いた雰囲気の家具だった。

「さあ行きましょう。ここでのんびりとしてもおれません」

 オドネルに優しく促されて頷く、いつもは後ろに控えているオドネルが、二人の前に立ち宿の受付へと歩いて行く。

「本日から部屋を所望したい。私と娘二人、それから従者が四人だ。私と娘は上の部屋に、従者は狭い部屋で構わん」

 淡々とだが貴族的に少々高飛車に受付にそう告げるオドネルに、笑いを堪える。いつものオドネルからすれば、正反対の物言いだからだ。敗残貴族の一家になると決めた時から、この街に滞在する間はパトリシアはオドネルの娘となる。

 隣にいたベネットも可笑しそうに笑いをかみ殺す。

「私、娘でいいのかしら?」

「その格好で息子なんて言えないじゃない」

「そうだけど、娘の教育係とかでもいいじゃないのねぇ?」

 確かにオドネルと同じかそれ以上に背の高い娘では怪しすぎる。だがオドネルはあまり気にしていないらしい。

 宿の人々も何も言わなかった。きっと貴族を詮索すると面倒なことになると心得ているのだろう。

 しばらくして馬車と馬を止め終えた騎兵隊の四人が戻り、彼らに荷物を運ばせながら案内された部屋に落ち着くと、ようやく人心地ついた。

 いい部屋だった。大きな窓からは海と街が眼下に見下ろせた。まだ街を半分ほど降りた所だろう。

 未だ海は青く輝いている。冬に差し掛かっていても、空が澄んでいればユリスラの海は美しい。

 だがいつまでも景色に見とれている場合ではなかった。

 溜息をつきながら部屋の中央に置かれた大きいテーブルへとつく。全員がそれに倣うように席に着いた。

「オドネル、タウンゼント侯から返答はあった?」

 ウィルマ・タウンゼント侯爵。

 それがこのアンティル自治領区の領主の名だ。女性で有りながら侯爵を名乗るのは、おそらくこの国でただ一人だろう。

 特例として前国王ハロルドに認められたということだが、何故それが認められたのかは誰も知らず、社交界では『陛下から身体で爵位を買った女』とせせら笑われているそうだ。

 貴族の娘が三十五になっても嫁いでいないというのが、その社交界の噂を更に盛り上げている。『爵位を身体で買ったせいで、よい入り婿が見つからない』というのである。

 過去にいくつかの縁談はあったらしいが、そのほとんどが成就していない。

 それ故彼女は、男嫌いの偏屈な自治領主だと見られている。護衛は男性でも構わなくとも、使者は女性しか受け入れないとは筋金入りだ。

 この辺りの情報の出所は、主にハウエルからだ。彼は情報収集と人脈確保のために、社交界を悠々と渡り歩いていたのである。

 ちなみにヴェラとハウエルは顔見知りだったらしい。社交界で幾度かお互いを見かけていたようだ。

 それに対して社交界に疎いパトリシアはそんな噂など知らなかったが、それ故に人付き合いを好まずアンティルに引きこもっているというなら、納得がいく。

 誰だって意に染まない噂話を立てられるのは、嫌なものだ。

 アンティルの街を見る前は、何となく気の毒な人だと思っていたが、街を見てベネットの話を聞くと印象が変わった。

 おそらく彼女は社交界で意味の無い笑いを浮かべ続けるよりも、この街の発展に寄与する道を取ったのだろう。

 そんな女性ならば、もしかしたらわかり合えるのではないかと、少しだけ期待をしている。

「事前の話だと、ここに届けられると言うことだったけれど?」

 偽名でこのホテルを取れ。会見に日時はそこに連絡する。それがタウンゼントと会う条件だった。

「こちらに」

 オドネルは封書を取り出した。封書を受け取り宛名を見て微笑む。

「パトリシア・オドネル子爵令嬢様……本当にオドネルの娘になったみたい。娘さんに申し訳ないわ」

 オドネルは既婚者である。息子が三人に娘が一人の父親でもあるのだ。勿論名はパトリシアではない。息子三人の内二人は、革命軍として従軍している。

「本当ですな。お嬢様が娘では心が安まりません」

「まあオドネル。どういうこと?」

「馬だ、剣だと、じゃじゃ馬が過ぎますゆえ」

「酷いわ。もっと困らせてやろうかしら」

「おやめくださいませ」

 冗談交じりにむくれながら蜜蝋の封印を割り、中から手紙を取りだした。微かに香ったのは、香水の香りだろうか。

 タウンゼント家の紋章が入った立派な便せんが、丁寧にたたまれて二枚入っていた。そこに流暢な文字が綴られている。

 女性らしからぬ、力強い文字だ。

 季節の挨拶、丁寧な謝辞、そして本文。

 パトリシア・オドネルに向けて書かれたそれは、必要以上に回りくどくて、その上暖かみなどない。

「……歓迎はされてないみたいだけど、会ってはくれるみたい」

 丁寧な文章を要約すると、そんな意味だった。

「拒絶されたわけじゃないだけましよ」

 のんびりとそういって、ベネットが手を出した。その手に便せんを渡す。

「相変わらずの香りに、無駄のない文章」

 呟きに微かな溜息が混じる。その後でまた少し頬を緩めた。その表情は懐かしさを漂わせている。

 そういえばベネットは志願して、ここアンティルに来たのだ。少し様子がおかしいのも、アンティルに詳しいのも何らかの理由があるのだろう。

「ベネットは面識があるの?」

「……あるわ。でもこれ以上は今はいえないわ。明日、行くんでしょう? 侯爵邸に」

「ええ」

 頷くとパトリシアは身につけてきた小さな鞄から封書を取り出した。

 封書は三つある。一つはパトリシアが訪問の日付を入れて送ればいい物で、あらかじめタウンゼント側と示し合わせた文書が書かれている。

 もう一つは王太子エドワードからの親書である。同盟への参加を呼びかけると共に、その後に約束できる権利などが書き込まれたものだ。

 そしてもう一つはタウンゼントとの密約が成った場合の戦いにおける作戦行動が書かれたものである。

 もしタウンゼントとの講和が成らなかった場合、命に代えても始末せねばならないだろう。

 テーブルに置かれたインクとペンを使って日付を書き入れ、パトリシアはオドネルに封書を手渡す。

「オドネル、返事をタウンゼント侯爵へ渡してくれるかしら。これを届けてくれたあちらの使いの方に渡せるの?」

「勿論です」

「では明日の昼まで、休むことにしましょう」

 オドネルを含む全員を見渡すと、彼らは全員一様に頭を下げる。ここに居る中でパトリシアが一番の責任者なのだと、改めて実感する。

 騎兵隊員が出て行き、オドネルが封書を片手に出て行くと、部屋の中はパトリシアとベネットの二人きりになった。

 何気なく目をやると、ベネットは懐かしそうに便せんを眺めていた。その瞳は微かに潤み、まるで泣き出しそうだ。

 そんなベネットを見た事など一度もない。いつも陽気なベネットなのに、この様子はただ事ではない。

「ベネット?」

 問いかけると、ベネットはいつもらしからぬ曖昧な微笑みを浮かべた。

「ごめんなさい。ぼんやりしちゃった」

「どうかしたの? アンティルに来ることになってからずっと様子が変だわ。何か辛いこととか、苦しいことがあるの?」

「……パティ」

「私、ダグラス隊の人みたいに察することとか苦手だし、気持ちを伝えるのも苦手だけど……聞くことならできるんじゃないかなって……。私の方がうんと年下で世慣れたベネットから見ればとっても頼りないでしょうけど……」

 何を言いたいのか分からなくなってきた。

 パトリシアにとってダグラス隊の中で一番関わりやすいのがベネットだった。

 ソフィアのように謎めいているわけでも、ヴェラのように瞳の奥の闇が透けて見える微笑みも持っていない。ファンに至っては得体が知れない存在だ。エンとジェイはよく分からないし、ラヴィとは話が続かない。

 そんな中にいて、ベネットはいつも明るく、毒のない冗談ばかりを飛ばしている。そのくせ決して人を悪く行ったり貶めたりしない。彼女の冗談やからかいは、悪意を決して秘めていない。

 聞いているとつい笑ってしまう。からかわれて過剰に騒ぐリッツだって、ベネットの明るさには救われているはずだ。

 それに彼女は元々ユリスラ貴族の子息であり、パトリシアと何か共通するようなところがある。

「ああ、もう! リッツがいればよかったのに! あの馬鹿ならベネットの気晴らしになったわよね。もう、私、どうしてこういう時に微笑んでいられないのかしら」

 溜息をつくと、不意にベネットに抱きしめられてしまった。ベネットはリッツよりも小さくとも、エドワードに匹敵するほどの長身だ。丁度ベネットの胸に顔を埋めるような形になった。

 当然だが、そこには女性特有の柔らかさはない。

「ベネット?」

「ありがとうパティ。心配してくれて」

「……お礼を言わないで。自分が情けなくて仕方なくなるわ」

「私が言いたいんだからいいのよ」

 いいながらベネットはパトリシアの髪を優しく撫でてくれた。

「髪、伸びたわね。明日、とびきり可愛く仕上げてあげるからね」

 ベネットの声は妙に嬉しそうだった。

「ベネット?」

 しばらくパトリシアの髪を撫でていたベネットが、小さく呟いた。

「ねえ、後悔ってどうしてこんなに苦いのかしら」

「え?」

「あなたを見てるとたまらない時があるわ。侯爵の娘、殿下の幼なじみ、リッツの喧嘩友達。それのどれもがあなたの本当に望んだ物ではないでしょうに。本当に望んでいるものは遠いのね」

 胸を抉られるような言葉だった。

 本当に望んでいるもの、本当に欲しいもの……。

 それは何だっただろう。私の気持ちはいったいどこにあるんだろう。

 エドワードの、リッツの役に立ちたい、共に戦いたい。これも真実だ。

 でも本当の望みって、何だったろう。それは遙か時の向こうに置き忘れた見えない忘れ物を見るように、遠く霞んでいた。

「貴族の子だからと、自分には立場があるからと後悔しないで、自分の心に正直に生きて欲しいわ。あなたには」

 まるで別の人と比べられているようだ。いや、これは……自分と比べているのだろうか。

 どう答えたらいいのか分からずに、呆然と立ち尽くすパトリシアを残して、ベネットはいつものように楽しげな笑みを浮かべてその場を離れた。   

「ごめんなさい、もう休んでいいかしら?」

「……ええ」

「明日は支度が大変なんだから、早く起きてちょうだいね」

「分かったわ」

 静かに閉じられたベネットの部屋の扉を、パトリシアは見守ることしかできなかった。

 今のベネットはまるで、手を差し伸べても透き通ってしまう虚像みたいだ。

 心の中に漂う何故か不吉な予感に、パトリシアは小さく溜息をついた。 

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