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シアーズの旧市街地、貴族たちの多く住む高台の高級住宅地の北に、巨大な円形劇場がある。古代からあるという石造りの円形劇場は、何千人を収容でき、新年の催し他、闘技場として使われることもあり、王室御用達の曲芸団の興業も行われる場所である。
平和な時代なら、賑やかな笑い声に溢れているこの場所だが、今は異様な雰囲気に包まれている。満員の円形劇場だというのに、聞こえるのは人々が声を潜める、小さな空気のさざめきだけだ。
グレイグの策は功を奏し、現在シアーズの一般市民は確実に数を減らしている。軍に仕えつつも、家族を持つ者を中心に、シアーズから直轄区を逃れて、ファルディナまで逃げたのである。
それはあのピーター・ハウエルの力が大きかった。グレイグは当初自分の名を伏せたのだが、あっさりとハウエルはグレイグに気がついた。そしてあの男は、偵察活動をしていたグレイグの元へやってきて、あの癖のある優雅な仕草で胸に手を当ててお辞儀をしてきたのである。
『お初にお目にかかります、グレイグ・バルディア様。以後お見知りおきを』
あの時に、彼と共に行くシアーズからの脱出者が助かることをほぼ確信したと言っていい。現にジェラルドからは、大量の人々が逃れてきて、軍が三倍に補強されそうだとの便りが届いている。
それだけで脱出は止まなかった。それ以降は、商人に、あるいは旅行者に化けた人々が、シアーズ最北部にあり、ファルディナ街道に直接繋がる大門と、西門からシアーズを脱出していった。
護衛も守護もない彼らが無事に目的地へとたどり着いたかは分からぬが、このシアーズにいるよりも遙かにましであったろう。
人々が減り、更にシアーズの荒廃は進んだ。そしてそのことは、人々が大量にこの街から逃げ出したことを、貴族たちに気付かせることとなってしまったのである。
そのため、九月も半ばである現在、シアーズは巨大な檻へと変わっていた。それは逃げ出した者たちの上司が家族諸共、全員公開処刑に処されたことから始まった。
大門の前にずらりと並べられた丸太全てに老若男女問わず人々が張り付けられ、招集したばかりの新兵たちに泣きながら刺し貫かれる光景は、シアーズの民の血を凍り付かせた。
そこで貴族の指揮官によって、国王の意向が朗々と読み上げられたのである。
『今後、許可証無き者は大門、及び西門を通さぬ。無理に通る者は警備兵によって反乱者とみなされ処刑される』
それから闇の海上ルートができたものの、これはすぐに王国海軍によって封鎖された。巨大な帆船を幾つも所有し、船足を速める風使いまで所属するシアーズ海軍に、小さな船など、ひとたまりも無い。
通告以後シアーズは、流入は認められるも、出ること叶わない街へと変貌していたのだ。だが流入しているのは、革命軍に追われた貴族たちだけで、入ってくる平民は皆無だ。
何故なら現在のシアーズは、怯えて暮らす数万の民衆を、数がふくれあがった貴族たちが、好きに支配している恐怖の街だからだ。
客席の後方に立ち、グレイグは円形劇場中央に置かれた、巨大な檻を見ていた。中には沢山の人々の閉じ込められている。人々は粗末な格好で、金網越しに泣き叫ぶこともせず、死んだような目で自分たちを覗き込む群衆を見つめていた。
誰も、どうすることもできないことを知っていて、だがこの場から逃げ出すこともできずに、檻の中の人も、外の群衆もみな、息を詰めている。
唯一楽しげな笑い声と、賑やかな音楽が鳴り響いているのは、この円形劇場中央にある、王族のための特別席と、その周辺にある貴族の席だけだった。
周りを見渡したグレイグは、隣に立つチノから軽くつつかれた。目立つようなことはするなと言うことだろう。そんなことは承知の上であるから、了解の印に肩をすくめる。
やがてこの場の支配者であるスチュワートが、隣に弟リチャードを従えて、堂々たる姿で立ち上がった。
美しい美女を好んだ前王の子であり、かつては舞踏会の薔薇と囁かれたイーディスの子なだけあって、その佇まいは美しかった。祖父のシュヴァリエ公爵に似て、無骨な軍人タイプである弟とはその姿はかけ離れていた。
白皙の頬は整った石膏像を思わせ、身につけた王族の正装であるローブもよく似合っている。
国王の証として長く伸ばされた金の髪は輝くばかりの光を放ち、母親譲りのブルーグレイの瞳は、端正な顔に彩りを添えている。薄く形のいい唇に浮かぶのは、魅力的な笑みだ。
だがスチュワートの唇を綻ばせる、その笑みの先にあるのは、檻の中の人々の絶望の表情だった。スチュワートが影で民衆に、姿だけなら完璧な王だが、それ以外は全て最低な王と呼ばれてている事を、グレイグは思い出す。
確かにその通りだろう。この円形劇場のこれから始まる出し物を思えば。
立ち上がったスチュワートは、満面の笑みを浮かべ、大きく手を上げた。その姿に貴族たちが割れんばかりの拍手をする。その姿に民衆が慌てて手を叩いた。恐怖に言葉も無い民衆が、表情を強ばらせて手を叩く姿はやはり異様だ。
だがスチュワートはそんな異様な雰囲気に気がつくこともなく、満足げにこの劇場に集まった沢山のシアーズ民を見渡した。
「みな、よく集まってくれた。我の呼びかけに答えて集まった諸君を、私は嬉しく思う」
至極当たり前のように始まったスチュワートの言葉だった。だがこの場で始まるのが何かを知っている人々は、声を殺し、じっとスチュワートを見つめているしかない。
「諸君のように我が呼びかけに忠実に答える者は、余の愛するところである。だが諸君らの目の前にいる、この囚われし者たちは、愚かにも余の意に反し、余の要求を拒んだ者たちである」
「何が愛ですかねぇ」
小さくチノが呟いた。
「声を出すと目立つのではなかったか?」
「今は大丈夫でさ、大将。みなが奴を畏れてこちらになど気を配りません」
「確かにな」
すぐ近くに立っている者も、食い入るように偽王スチュワートを見つめている。この言葉を聞き逃し、そのせいで自分の寿命を縮めないようにと、全身で注意を払っているのだ。
グレイグも視線をスチュワートへと戻した。暗殺者として王宮に出入りしていた頃には幾度も見かけたその顔だが、この立場になった今は近くで見ることもできない。
もちろん近くから殺すこともだ。
グレイグは左目の前にかかる長い髪を、軽く掻き上げた。目立たぬように最もありふれた茶色に染めた髪を梳かして、自信に満ちたスチュワートの顔が両目で見るとよく見える。
「今やこのユリスラは、偽王太子と精霊族を名乗る犬めの反乱で、乱れておる。それを知りつつ、この者たちは、シアーズより、偽王太子のいるファルディナへと逃げようとしたのだ。これは余に対しての、ひいてはこのユリスラ王家に対しての裏切りと同じである」
言葉を切ったスチュワートは、しばし人々を威圧するようにぐるりと見渡した後、満面の笑みを浮かべて両手を広げた。
「そこで余は、忠実なるシアーズの民に心躍る余興を、ユリスラ唯一の王として与えよう。賊軍によって皆も、気分が塞ぎ、物事を楽しめぬ心になっていることだろう。今日は余と共に、裏切り者の末路を、じっくりと見て楽しもうではないか」
円形劇場にある最も大きい入り口の扉が開いた。そこから現れたのは、ユリスラ北部に住むという、銀毛狼たちだった。その美しさと気品漂う佇まいから、貴族が珍重し、狩猟の際に手に入れたがる最高級毛皮の持ち主だ。
だが、ここに居る銀毛狼は、みな毛皮などではなく、生きた個体だった。しかも相当な数の群れらしい。
「銀毛狼ですなぁ……」
「そうだな」
「生きてますなぁ……」
「生きてるな」
チノと二人、間抜けな会話をしつつ、呆然としている人々の間を、目立たぬようにじわじわと前に進んでいく。
「近くで見たいもんですな」
「下に下りてみるかい?」
「ご冗談を」
人混みの中を緩やかに、目立たぬように通り抜け、円形劇場の最前席の影に陣取る。ここから劇場の下に下りるには、二メートルほどの高さを飛び降りなくてはなくてはならない。
王族や貴族からは完全に死角となっている、この場所があることを、暗殺者として活動していたグレタから聞いた。
「格好良く行ってくださいよ、大将」
「格好良くか……」
苦笑すると、チノは口の端をつり上げた。
「あの馬鹿犬もできたことだ。あんたにできないわけないでしょう大将」
馬鹿犬とは、リッツのことだ。遠慮の無いチノは、スチュワートよりも、リッツを酷くこき下ろしている。
「それはそうだ。それに俺は名乗るわけではないし」
「そうそう。ほんのちょいっと『ここに参上』ってなサインを残すだけでさ」
「了解だ」
頷くと、グレイグは手の中にあるものを、じっと見つめた。それは頂点にこよりが付いた小さな小瓶だった。小瓶の中にはよく燃える油が入っており、その中を紅火石と呼ばれる小さな赤い石がコロコロと動いている。
隣国フォルヌ王国の特別自治区ロシューズでしか採掘されないと言われる、希少な石だ。炎の中に放り込めば激しく破裂して炎を巨大な火柱へと変える。そして共に入った油は、炎を上げつつも、思いも寄らないほどの激しい煙を吹き出す特殊な加工がされていた。
本来門外不出だが、傭兵たちはこれを闇のルートで手に入れ、暖を取るためであったり、敵に対する奇襲のためであったりと用途は違うも持つ者も多いのだという。
この小瓶の頂点にある、太めのこよりは火を付けるための物だった。これを持った同志が、他にも数名、円形劇場に集う群衆の中に身を潜めている。
同志たちは皆、これに火を付けるべく、隣国フォルヌ製の小型ライターを持っている。合図の後一斉に火を付けて、これを投げ込むのである。
「逃走の手はずは?」
「ぬかりありませんや。打ち合わせ通りに」
「了解だ」
過去、闘技場として、珍しい生き物を港から直接運び込む際に使っていたという地下通路だ。シアーズは地下に巨大な空間を持っているのである。
古代に作られたそれは、シアーズの街の地下を縦横無尽に走る迷宮のようだった。元々この地下通路は、地下水路の付属物として作られたのだという。
川から少し離れた所にあるシアーズは、近くの川から水を引いている。川は街の地下水路を通り、あちこちの水汲み場を経由して海に注いでいるのだ。
貴族が多く住む高台では、各家庭に井戸を備えていることも多いが、平民が数多く住む新市街地は、未だこの水を活用していた。
だがユリスラ建国当初からあったと言われるその水路は、市街地が拡大するにつれて幾度も延長されたり、埋まったりしており、今ではあまりに危険すぎて、今は誰も入らない場所となっている。
そんな忘れられた地下通路には、闘技場から湾岸方面に続く道があった。幾度も間借り道があり、万が一追っ手がかかったときも、時間を稼げる通路だ。
予定通りに通れるかどうかは、事前にこの作戦に関わる同志たちと確認済みだった。
「では大将」
「ああ」
短くチノと言葉を交わし、グレイグは再び円形劇場に目をこらした。飢えているらしく銀毛狼がよだれを垂らして人々を見つめている。
檻の中の人々は、絶望だけに支配された表情で、銀毛狼の姿を見つめている。この決定的な危機に、もはや立ち向かう気力も無いのだ。
檻の上には、二人の男が乗り、今にも檻を開こうとし、檻を縛り上げた鎖を切るために、斧を振り上げた。
これが合図と決めた瞬間だった。
グレイグは、視線を同志たちが潜む場所へと素早く配った。大丈夫、全員準備ができている。
扉が開き、銀毛狼が人に食らいつこうとしたその時、客席の中から火の付いた数本の小瓶が投げ込まれた。グレイグも間髪入れずにそれを投げ込み、同時に観客席から飛び降りた。
円形劇場内に、悲鳴と怒号が飛び交った。立ちこめる煙の中から、スチュワートの叫びが耳に付いた。
「何事だ! これでは何も見えぬではないか!」
この期に及んで、まだ残虐な処刑を見たいらしい。呆れたものだ。グレイグは小瓶をもう一つ、貴族と王族が座る席に投げ込む。一瞬の後、貴族席が炎に包まれた。
振り返ると、すぐ傍を銀毛狼が怯えて逃げていった。野生の獣らしく火を恐れる銀毛狼は、出てきた通路に戻るのだろう。これで少しは安心だ。
幾度か繰り返される激しい爆発から腕で目を守り、人々が混乱している間に、同志たちと共に開かれた檻の前に走る。
炎は見る間に白く濃い煙へと姿を消し、檻の中の人々と観客の間を、ミルクのような霧の壁になり立ちふさがる。これでしばしこの空間は客席から見えなくなる。
「皆いるか!」
グレイグが声を掛けると、作戦遂行者である六人の同志が短く返事をし、霧の中から中央に集まってきた。全員無事なようだ。確認してからグレイグは檻の中の人々を振り返る。
「皆さん、ご安心を。我々と共においでください」
「……貴方たちはいったい……?」
怯えたように未だひとかたまりになっている人々に、グレイグは笑みを浮かべた。
「我々はエドワード王太子の革命軍です」
「! 本当に?」
「はい。皆様を安全な地へと逃がします。ご安心ください」
丁寧にお辞儀をすると、人々の緊張がようやくほどけていく。グレイグは周りを見渡した。この煙、派手ではあるが、消えるのも早いのだ。
「この者たちはみな、革命軍の同志です。彼らが安全な場所へお連れします。さ、急いで」
促すと、彼らは我に返ったように頷き、同志たちに続いた。彼らは煙の中を、真っ直ぐに目的の方向へと駆けていく。
この煙の中で見えるように、赤く塗ったランプを持ったチノが、地下通路の入口へと続く扉の前で掲げているのである。
薄れていく煙の中に立ったグレイグは、真っ正面に貴族と王族を捕らえた。まだお互いの姿は見えないが、ここに誰かが立っていることだけは分かるだろう。
「そこにいるのは誰だ!」
まだ怪我から完全に復帰していないが、根っからの軍人であるリチャードがこちらに訊ねてきた。大きく息を吸い、グレイグは煙の中から答える。
「我々はエドワード王太子殿下率いる革命軍である」
「な、何!?」
「民衆を虐待し、恐怖によって治めるなど、愚かなりスチュワート偽王」
煙の向こうで人々がいきり立っている。だがもうグレイグには恐れるべきものは、何も存在しない。
「真の王者とは、人を惹き付け、自然に敬愛されるべき存在である。我ら革命軍、シアーズ改革派は、ここにスチュワート偽王への反乱と、エドワード王太子殿下への絶対の忠誠を宣言する。今後、貴族であろうとも、このシアーズで命の保証はないことを思い知るがいい。庶民を弑する者は、その命を持ってあがなうがいい」
グレイグは、もう一つの小瓶に悠々と火を付け、
身長よりも遙かに上にある貴族たちの席に投げ込んだ。貴族たちの悲鳴と共に一瞬激しく燃えさかった炎は、すぐに濃厚な白い壁へ変わる。
「消せ! この煙を何とかせよ! あの無礼者を斬り殺せ!」
叫ぶスチュワートの声が聞こえた。スチュワートは策略家ではあるが、自らは何一つできない臆病者だった。それを知るグレイグは、躊躇いもなく王族席の下にある古びた通路に駆け込んだ。
港湾部へと抜ける通路は、王族と貴族の席の真下にある通路からしか繋がっていない。そのためグレイグがこうしてスチュワートたちを引きつけ、どこへ逃げたか分からぬようにせねばならなかったのである。
地下通路へ駆け込み、そのままの速度で、止まることなく走る。するといつの間にか横を誰かが走っている気配がした。見るとそれはチノだった。
「先に逃げているのだろう?」
「いやいや、馬鹿犬と大将、どっちの器がでかいかを見られることはねえんで」
「見物されたか」
軽口を叩くチノだが、グレイグには分かっていた。未だこのような場には不慣れなグレイグを気に掛け、ベテランのチノが見守ってくれていたことを。
だがそれを口に出しても、チノは決して認めないことは分かっている。だから言葉を冗談に乗せる。
「で、どうだった?」
「そりゃあもう、大将の方が格上でしょうよ」
「そいつはよかった」
暗い地下通路をチノの持つ赤いランプだけを頼りに駆ける。暗く湿った空気が、よどんだ埃をたっぷりと孕んで、かび臭い匂いを放つ。
しばらく行くと先を行っていた同志たちと、逃げていく人々に追いついた。同志たちの手には、明かりの灯されたランプがあった。
「全員無事か?」
確認すると、同志たちは自信に満ちた笑顔を作った。全員が元々は軍人だ。度胸はかなり据わっている。
「では撤収を急ごう。追いつかれては元も子もない」
助け出した人々を安心させようと笑顔を作ると、人々の止まった足が再び動き出す。グレイグも彼らに混じった。
薄暗がりの中で、グレイグは彼らの中に幼い子供たちをみつけた。子供たちは裸足で、足の裏は裂けて血が滲んでいた。
「運んでやるよ」
口をついて出た言葉は、まだティルスにいた頃の自分の口調だった。自分でそれに驚く間もなく、子供たちの一人が震えだした。
幼い女の子だった。女の子よりも少し大きな男の子が、グレイグの前に立ちはだかり、グレイグに向かって両手を広げ、少女を守るように立った。
「どうした?」
「あんたは本当にいい人?」
男の子が薄汚れた頬に、緊張感を漂わせて訊ねてきた。
「俺がいい人か、俺には分からないが、君たちが逃げるのならば助ける人だ」
「もう、檻に入れないのか? もう動物に食べさせない?」
「当たり前だろ」
「妹もか?」
少年が庇っている女の子は、妹らしかった。この小さな少年が身体を張って妹を守る様に、グレイグは唇を噛んだ。
守りたかったのに、ルイーズ。
「おじさん?」
零れそうになる涙を誤魔化すように、グレイグは小脇に、その子供二人を抱えた。
「おじさん!」
驚いた子供たちに、グレイグは笑顔を作った。きっと引きつっているだろうとは思うが、そんな顔しかできなかった。
「俺にも妹がいた。君が妹を守る偉い兄なら、俺は手を貸す」
「守るさ、妹だもん!」
少年の宣言に、グレイグは唇を噛みしめた。きっとこの子たちは、平和な時代の子供たちが経験し得ないような、恐ろしいことをされてきたのだろう。
それなのに、強い。
「大将! 扉を閉ざしますぜ!」
チノの声に、グレイグは顔を上げた。
「今行く」
子供を小脇に抱えたまま、グレイグは地下水路に向かって足を速めた。




