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燎原の覇者  作者: さかもと希夢
背徳の功罪
100/179

<10>

 残されたリッツとスザンナは、お互いに困って顔を見合わせた。エドワードがいてこそ成り立つ会話だったのに、二人ではいかんともしがたい。

「……カール」

「なに?」

 ぶっきらぼうに答えると、微かにスザンナは顔をしかめた。だが先ほどのこともあるから小声のまま訊ねてくる。

「貴族は憎まれていますの?」

 あまりに世間を知らなすぎる言葉に、リッツは呆れた。じっとスザンナを見つめてしまう。

「何ですの?」

「あんたはめでたい頭の持ち主だな」

「な……何ですって?」

「だって貴族が平民を迫害して、それに耐えられなくなった平民から望まれて王太子エドワードが立ち上がったんだよ?」

 今までの経緯を一言で言うと、スザンナは困惑した顔をした。今の今まで貴族の大人たちにどう今の状況を知らされてきたのだろう。

「どういうことですの? だって貴族は国が平和であるように、平民を管理していたのでしょう? それなのに偽王太子が国を滅茶苦茶にしていると……」

 案の定、貴族的な発想が口から零れてきた。しかもその言葉に全く悪気がない。

 きっと彼女は大人の言うことを鵜呑みにして、疑うことを知らなかったのだろう。本当の本当に深窓の令嬢だったのだろう。

 館の奥の奥地に押し込まれ、愛玩動物の如く何も知らずに育つ一輪の花。

「同じ人間なのに管理するの?」

「貴族と平民では、立場が違いますわ」

「立場かぁ。地位が高い貴族なら、平民を殺してもいいわけだ」

「治安を乱すのでしたら仕方ありませんわ」

 毅然として言いきったスザンナの前で、リッツは気になって仕方ない付けひげをいじった。

「ふうん。治安を乱すなら、幼子を抱いた母親でも、

まだ少年という年の子供でも、惨殺して道に捨て置いてもいいんだ」

「え……?」

 スザンナの顔が強ばった。その顔を見ていると、やはり何も知らずに生きてきたのだと分かる。

 今までの時代だったらそれも幸せだったかもしれないが、きっとこれからは生きづらいに違いない。リッツはたたみ掛けるように、小さく言葉を続ける。

「ファルディナでは、さっきみたいに貴族が憎まれてる。今この街の治安を守っているのは平民だよ。つまり貴族と平民の立場が逆になったんだ」

「貴族がいないのに、治安が守られてますの?」

「うん。ということは、スザンナの理屈で行けば、治安を守っている側から見てこの街の治安を乱す貴族なら、問答無用で老若男女問わず、斬り殺しても文句ないよね?」

「いいわけないわ。私たちは貴族なのよ?」

「その貴族はもうこのファルディナでは通用しないってこと。だって貴族はこの街で散々なことしてきたんだよ? 治安を乱したって言う名目で、なにもしてないのに陵辱されて斬り殺された女性だっていっぱいいたんだ。俺はそんな死体を結構見たよ」

「……うそ……」

「本当。ファルディナの夜は出歩くな。お偉い貴族に女性は犯され、男性は斬られる。どのみち翌朝男女とも死体ってのが最近までの庶民の常識だったんだ」

「そんなの……それが出任せでなければ、そんな街、最悪ですわ……」

「うん。最悪だ。だからファルディナの人たちは貴族を憎んでる。あんまり王太子を声高に批判したら、貴族に今までされたように平民たちに殺されちゃうかもよ」

 淡々と語ると、スザンナの顔が歪んでいく。本当に全く知らなかったのだろう。

「でも私は私たちがいるから平穏は守られているって教わってきたわ。わたくしの思う平和はそんなところにはないはずです。だからそんなのは出任せよ。貴族に対する名誉毀損だわ」

 蕩々と語るも、彼女の声に力は無くなってきていた。やがて微かにうなだれながら呟いた。

「感謝されても憎まれるわけ無い」

「認めたくないのは分かるよ。でもさっきの憎しみをどう捕らえる? 意味無く貴族を憎むと思う?」

「……でも……」

「想像したらいいよ。立場は逆転しているこの街では、平民が正義だ。君は治安を乱す。想像してご覧よ。スザンナがリッツ・アルスターを暗殺しようとしたら、治安を乱したスザンナは、平民に陵辱されて斬り殺される」

「……」

「きっとスザンナが助けを求めても、誰も助けない。だって貴族に助けを求めて助かった人なんていなかったもん。君たち貴族は『平民風情が何を言うか』って残虐行為を楽しんでいたんだし」

「知らないわ……私、そんなこと……知らない」

「『貴族風情が何を言うか』って辱められて斬り殺される。どう、そんな街? どんな気分になる?」

 青ざめたスザンナの前に、ワインのグラスが置かれた。顔を上げると店主が表情もなく立っていた。微かに怯えたように店主を見上げたスザンナに、店主は静かに告げた。

「知らないことが罪になることもあるんだ」

「……」

 言葉の出ないスザンナから視線を逸らして、店主はリッツの前に蒸留酒と水のボトルを置いていく。ふと思い出してリッツは店主を見上げた。

「前にボトルを入れてあったんだけど、あれ、まだあるかな?」

「以前この店をご利用で?」

「うん。ジェイムズの勝手に飲んでいいって」

 そういった所で店主の顔色が変わった。目を見開いてリッツを見つめたのだ。じっくりと顔を眺めた店主に驚きの表情が広がっていく。

「あ、あ、あっ……」

「ジェイムズ、もう来ないだろ? 残しておいたら勿体ないし」

「アル……」

「ああ。うん。アルバートまだかなぁ」

 名前を呼ばれかけて誤魔化すと、微かにスザンナを見てから店主に目配せする。それで店主は何かを察してくれたようで、静かに一礼して下がった。

 微かによろけたのは気のせいではないだろう。

 やがてエドワードが戻らぬまま、料理が運ばれてきた。冷めても困るから先に食べることにする。

 何しろリッツに驕ってくれるぐらいだから、自分で食べたかったら追加するだろう。

「ここお料理は美味しいんだ。食べなよ」

 進めると、スザンナは首を横に振った。

「……食べたことないものばかりだわ」

「そうなの?」

「ええ。想像は付くけれど。でも……これは何? 何だか煮えたぎってるわ」

 スザンヌが指さしたのは、ベーコンとジャガイモのグラタンだった。たっぷりとかかったチーズにはこんがりと焼き色が付き、ホワイトソースが美味しそうに煮えている。

「グラタン。知らないの?」

「ポタージュとは違うのね?」

「全然違うよ。ほら、取ってあげるから」

 スザンナの前の小皿を取り上げて、リッツは料理を取り分けた。クリームの中から、丁度いい焼き色のベーコンとポテトが現れる。

「はいっ!」

 差し出すとスザンナは不思議な物を見るように恐る恐る皿を受け取った。ふわふわと漂う湯気に、ぽつりと呟く。

「いい香りね」

「だろ?」

「美味しそう……」

「美味しいって」

 リッツは自分の分を猛然と取り分けると、大きなスプーンに載せた熱々を吹いて、口の中に入れた。「あっつっつっ」

 あまりの熱さに声を上げたが、それと同時に口の中には至福の味が広がる。

「ん~おいひい……」

 そういえば昼食からずいぶんと時間が経っていた。お腹が空いているから、なお美味い。

 再び軽く吹いて口の中に入れると、スザンナを見た。まだグラタンと見つめ合っている。

「おいひいってば」

 口に入れたままそう言うと、スザンナはようやくスプーンを手に取った。それから恐る恐る一口だけ口に含んだ。

「あついっ……」

 一瞬そういって顔をしかめたが、次の瞬間には彼女の顔が輝いた。

「美味しい……」

「だろ?」

「ええ。こんな美味しいものがあるなんて……」

 こんもりとグラタンを持ったスプーンを目の高さまで上げて、スザンナはじっとそれを見つめた。

「なっ? 平民の料理は安くてそんでもって美味いんだ。マナーとか形式とかもないから、どんどん食べろよ」

「……頂くわ」

 リッツが頬張る横で、スザンナは黙々と料理を片付ける。もしかしたら、かなり空腹だったのかもしれない。

 見た事のない料理が出てくる度に、関心したように声を上げる。リッツにはありふれた料理でも、貴族の令嬢……しかも伯爵令嬢には珍しいのだろう。

 二人であらかた食べ終わってもエドワードは戻ってこない。仕方なくリッツは店主を呼んだ。

「奥に行ったきり帰ってこないんだけど?」

「ええ、何か話が立て込んでいるようで」

「そっか」

 いったいリックと何を話し込んでいるのか、リッツには見当が付かない。だがここで周りの目を気にしながらずっとエドワードを待っているのも何となく気が重い。

 先ほどスザンナが平民を敵に回すようなことを言ってしまったから、ちらちらとこちらを伺う視線が痛いほどだ。

「スザンナ」

「何です?」

「平民ツアーしよう」

 リッツは戸惑うスザンナを促して席を立った。

「マスター、ここのお会計、あいつ任せでいい?」

 呼ぶと店主は慌てて飛んできた。

「とんでもない! お代なんて……」

「何言ってるのさ。商売しないと。でね、本当に申し訳ないんだけど、ちょっとだけお金を貸して欲しいんだ」

 何しろリッツは一文無しだ。ここを出たらスザンナと共に途方に暮れてしまう。

「ええ、もちろんお貸しします」

 恐縮する店主に、紙とペンを借りた。そこにスザンナには見られぬよう文字を書き入れる。

 お金を借りた理由、泊まっているホテルの名前、そして払えないリッツに変わって建て替える人物。ジェラルド・モーガンの名だ。

「ありがとう。これ、借用書ね」

 手渡すと、呼んだ店主が目を丸くした。

「! これは……」

「後で集金に行ってよ」

「そ、そんな……っ!」

「その人なら俺が借りた分綺麗に返してくれるから。俺もその人に借金するのは苦じゃないんだ。だってその人から給料貰ってるんだもん」

 だから借金は、給料からきっかり天引きされるだけだ。

「しかし……」

「俺が帰る方が早かったら、大急ぎで返しに来るね」

 呆然としている店主を残してリッツは店を出ようと扉に手をかけた。するとスザンナに向かって客の誰かが声をかけてきた。

「貴族様の口に合うようなもんがあったのか?」

 嫌みな声に一瞬スザンナはぎゅっと拳を握ったが、やがて気丈な表情で男をにらみ返す。

 また言い合いが始まるのかと思ったが、スザンナは不器用ながらも堅い笑みを作ったのだ。

「グラタン、美味しかったわ。生まれて初めて食べたの」

「……グラタン、貴族は食べないのかい?」

「私は初めてだったの。とても暖かいお料理ね」

 ぎこちなく微笑んだスザンナは、そのままリッツの横を抜けて店を出て行く。リッツはその後を追いかけた。

 人よりいい耳が、店の男たちの声を拾った。

「世間知らずだけど、この店のグラタンが美味いのなら、悪い奴じゃないんだな。貴族がみんな悪いわけじゃないんだから」

 そんな声に小さく反論してみる。

「……そりゃそうだ。おっさんもパティもギルもフレイもコネルも、貴族だもん」

 扉の向こうで、スザンナが暗くなった空を見上げて立ち尽くしていた。

「どうしたの?」

「……カール。私は無知なの? 平民と貴族に本当は違いなんて無いの?」

 リッツはスザンナの手を取った。とっても綺麗な手だ。白くてほっそりしている。平民の女性たちのような洗濯だこも、あかぎれも、何もない綺麗な手だ。

 だから何も知らず、滅びていく手だ。

 でもスザンヌという人を知ってしまったから、それも嫌だなと思う。自分を殺しに来たのかもしれないけれど、もっと今の現実を知って欲しいと思った。

 人に階級はないのだと、教えたくなったのだ。

「ねえ、カール……」

「俺はさ、貴族とか平民とか分ける必要ないと思うよ。だって同じ人間じゃん?」

 あっさりと表して振り向く。スザンナが目を見開いてこちらを見ていた。

「同じ人間……」

「違うの? 貴族は何らかの種族なの?」

「……違うわ。この国で、種族が違うのは……」

「うん。君が殺そうとしてる、リッツ・アルスターだけだよね」

 悲しいけれど、そうなのだ。本当はリッツだけが種族という違いを考えた時、異質なのだ。

 同じ人間のつもりだった。ずっと一緒にいられるとそう信じていた。

 でも確実に時の流れが違う。

「カール?」

 スザンナの呼びかけで我に返った。こんなところで呆然としている場合じゃない。

「ごめん、考え事。ね、平民ツアーしようって言ったじゃん。行こうスザンナ。今夜だけは君も平民のスザンナだ」

「……平民……」

「そう。それを知ればきっと、スザンナがちょっとだけ幸せになる気がするんだ。復讐なんて、人を幸せにしないんだから」

 リッツは手に取っていたスザンナの手をぎゅっと握りしめて笑いかけた。

「さ、行こう!」

「ま、待ってカール、こ、転ぶわよ!」

 リッツとスザンナは、夜の街へと駆けだした。


 スザンナを連れて、リッツは思いつく限りの遊び場を回った。

 もちろん女性が嫌悪感を抱きそうな、娼館やいかがわしい酒場などは抜きだ。行くとパトリシアに思い切り顔をしかめられるところに行かなければいいのだから、考えるまでもない。

 庶民のダンスホールでは、少し洒落ただけのドレスでもない人々の踊りに戸惑っていたが、リッツはお構いなしにその手を取った。

 格式張った曲ではなく、身体を揺すりながら陽気に奏でるバイオリニストと、飛び跳ねたくなるような明るいピアノで踊った。

 一対一で確実なステップを踏むのではなく、思い思いに身体を動かし、思うままに共にダンスを楽しむ。それが一般庶民のダンスホールの楽しみ方だった。

 踊り疲れれば店の片隅にあるちょっと高いバーで、色とりどりのカクテルを手に取ればいい。それだけでこの場の雰囲気を楽しむこともできる。

 あまりダンスが得意ではないリッツに振り回されて最初は『礼儀知らず』と怒っていたスザンナだったが、滅茶苦茶に身体を動かすことで最後は笑うようになった。

 つんけんした表情では分からなかったが、笑った彼女は大輪の花のように華やかに人目を引く。

 そんな彼女を人々は楽しげにダンスに誘う。

 スザンナはとてつもなくダンスが上手だった。世間知らずな分、貴族として親に仕込まれたことは完璧にこなしたのだ。

 そんな彼女が、貴族の社交界と違って、階級や家柄など関係なく、誰とでも楽しければ踊っていいことに、スザンナは驚き、その自由に戸惑っていた。

 でもリッツから見れば、最後はダンスホールを完全に楽しんでいたと思う。ホールを出る時、少々名残惜しい顔をしたからだ。

 それから歌手が歌い、ダンサーの踊りが見られる店にも行った。明るく華やかでありながらも、古めかしい格式など無いその世界に、スザンナは驚き、感心していたようだ。

 そういえば平民と呼ばれる人々の中にも歌手やダンサーがいる事に驚いたようだった。オペラ以外の舞台があることを彼女は知らなかったのだ。

 そこにいる人々がみな、貴族ではないことはあり得ない世界で彼女は生きてきた。

 彼女の世界の住民は皆貴族であり、家に仕える者たちはみな、格下の平民だった。でもこうして一緒にいると、平民と貴族には差は無いと実感できたようだった。

 遊び疲れた二人は、街の中央広場のベンチに腰を下ろして、夏の終わりの暖かさを含んだ夜風に吹かれていた。

 近くのカフェで買ってきた絞りたての果実ジュースが、疲れた喉を癒してくれる。夜の暗闇と、人の織りなす明かりを前に、リッツはぼんやりとほお杖をつく。

「カール」

「何?」

「不安にならないの?」

 不意に聞かれてぎくりと身を竦ませる。リッツの抱えたいっぱいの不安を、見越したような言葉だったからだ。

「何がさ」

「縛られない事よ。出かけるところも、食べる場所も、踊る人も全部自分で選べて、遊ぶ時間も帰宅時間も全部自分で決められて、不安じゃないの?」

 ゆっくりと隣のスザンナを見ると、スザンナは微かに俯き、膝の上の手のひらを見つめていた。

「私はとても不安だわ。まるで手探りで歩いているようよ」

 今まではずっと道が決まっていたのだろうか。正式な貴族の生活をリッツは知らない。

「なんないよ。俺は自由でいたいし、何かに押し込められて生きるのは嫌だ。自分で決めた事になら従うし、自分で決めたなら窮屈でも従うけど、誰かに無理矢理決められた格式に放り込まれるのは、絶対にごめんだ」

「そう……」

 小さく返事をして、スザンナは黙り込んだ。しばらくスザンナはそのまま沈黙した。リッツも隣で口を閉ざす。

 街の中央広場は、昼間は馬車が回りを巡る賑やかな場所だ。でも今は数点の露天の酒場やカフェがあるだけで、馬車の通りはほとんど無い。

 リッツたちが座っているベンチの回りにも人はもう、ほとんどいないような状態だ。

 こっそりとエドワードに貰った懐中時計で時間を確認して納得する。もう真夜中だった。

「カール」

「ん?」

「私……本当は、お父様があまり好きじゃなかった」

 突然の、そして思いがけない告白だった。戸惑いつつもリッツは堅く暗いスザンナを見つめ返した。

「……でも君はお父さんの仇を討つんだろ?」

 そのために、あのナイフをスカートの中に忍ばせ、リッツとエドワードが泊まっていた宿へ、決死の覚悟で行ったはずだ。

 だがスザンナは微かに首を振る。

「父の敵を取るのは、きっと私の中のいいわけだわ。きっと私が彼を殺そうとしているのは、自分の毎日が急に何もなくなってしまったから」

「毎日が……?」

「ええ。明日も明後日も、この先ずっと私はファルディナとブルガンの街で暮らしていくと思ってた。舞踏会のダンスを習い、麗しい物語を読み、レースに薔薇を刺繍するの。年頃になったらお父様が選んだ同格の貴族の青年と結婚して、子供を儲けて、貴族として永遠に生きていくんだって」

 彼女の貴族の令嬢として過ごした毎日が、垣間見えた気がした。それはきっと物静かで穏やかで、でも決して平民が得ることができない平和の上に築かれた、砂の楼閣だったのだろう。

 それでもその世界が、彼女の全てだった。

「それが当然でそれ以外何もなかったのよ」

 リッツは普通の貴族の生活を知らない。スザンナが言う通りならば、なんとつまらない人生なのだろう。同じ貴族の娘でも、自分の道を自分で歩んでいるパトリシアとはずいぶんと違う。

「満足してた?」

 小さく聞くと、スザンナは微かに目を細めて息をついた。

「何も知らなかったから満足してた」

「そっか」

「私にはそういう生き方しかなかったから。でもそれを、リッツ・アルスターが奪った。私の当たり前の日常を、彼は奪ったんだわ」

 リッツの目には、あの日の光景が甦った。

 ブルガンに着いた途端に目にしたジョエル伯の死体。自らの罪を逃れるために他の貴族たちが虐殺した哀れな死体を。

 きっとスザンナはそれを知らない。知っていれば彼女の憎しみはきっと貴族に向いた。

 でも貴族に憎しみが向いてしまったら、貴族の彼女はどうするのだろう。

「明日が突然打ち切られた家族は、みんなちりぢりに王都へ逃れたけれど、私はファルディナに残った。私を匿ってくれる人の元で、リッツ・アルスターを殺すためにじっと機会を待ったの。あの男を殺すためだけに、それだけを目標に生きてきたの」

 小さな彼女の手が、ぎゅっと握られる。

「そして今、女神が私に絶好の機会をくださった。ファルディナに王太子といる今だけしか、あの男を殺す機会はない」

 口では殺すといいながらも、彼女はどこか空虚だった。リッツを憎んでいるのは事実なのだろう。自分の日常を破壊したのだから。でもそれだけではない思いが彼女にあるような気がする。

「スザンナ。リッツ・アルスターが憎い?」

「私は彼を知らないけれど、父を殺したのは憎い」

 いいながらもスザンナの目は迷いを含んでいた。

「でも私たち貴族は沢山の平民を殺してきた。それだけは身に染みて分かったわ。みんな当たり前みたいにそれを話してくれたから」

 飲みに行っても、踊りに行っても、彼らは今の暮らしを訊ねると、殺された家族や仲間の話をする。そして今の自由なファルディナを褒め称える。

 それはどの店でも変わらない事実だった。

 事実は、何も知らなかったスザンナを打ちのめした。そして平民たちの明るさにも、彼女は胸をつかれた。

 彼らは近しい人を殺されたけれど、この先の未来を思って、ただひたすらに前を向こうとしていたのだ。

「話してみたら平民も貴族も差は無いし、同じように話し、同じように笑い、同じように悲しむのよ」

「うん」

 余計な口を挟まず、リッツは頷く。スザンナもリッツの意見を聞きたいわけではないだろう。

「今日一緒に踊った人も、歌を聴かせてくれた人も、綺麗なカクテルを作ってくれた人も……もしかしたら私たち貴族に家族を殺されているかもしれないのね。もしあの場で私がジョエル伯の娘だと知られたら、殺されてたかもしれない」

 それは杞憂でもなんでも無い。現実だった。彼女がリッツを憎むのと同じかそれ以上に、彼らは街を恐怖で支配した貴族を憎んでいる。

「私だけが後ろを向いている。とうに逃げ出した貴族の憎しみだけを背負って、前を向けず、彼らの思いを一人で踏みにじろうとしているんだわ」

「スザンナ……」 

「だとしたら私が王太子の右腕を手に掛けたら……彼らの希望を無くすことになる。私が彼を殺すなら、私は今日という日を楽しく過ごしたあの人たちに殺されると言うことだわ」

 スザンナは両手で顔を覆った。

「憎んでも憎んでも、憎しみ徐々に私の中から消えていきそう。でも私は憎まずにはいられない。そうしたないと、貴族として生きてきた自分を保てないわ」

 彼女は迷っているのだろう。初めて触れた広い世界に。スザンナは昔のリッツと同じように、世界に出たばかりの迷子なのだ。

「私はどうしたらいい? 憎んだ男を殺せばそれで気が済むの?それで私は満足するの?」

「スザンナ……」

「でも私には背負った憎しみがある。果たせなければきっと私はその憎しみに飲まれてしまう。だから仇を討つことを辞めるなんてできない」

 絞り出すような声だった。だからリッツはただ彼女の名を呼び、優しく肩を抱いてやることしかできない。

「あなたのせいよカール。あなたが連れて行ってくれたところが……平民だって蔑んできた人たちが楽しかったせいよ。みんなが優しくしてくれたせいよ」

「……スザンナ」

「冷たくあしらってよ。貴族の馬鹿娘って、何にも知らずにただ笑っているだけでいい世間知らずって笑ってよ。また私に、仇を憎ませてよ。生きる目標を返してよ……」

 苦痛に呻くようなスザンナに、リッツは言葉が出なかった。憎んだら憎まれることを知った。それでもきっと、スザンナはリッツを憎むのを辞められないのだろう。

「もしスザンナが仇を討ったら、スザンナはどうなるの? 殺した憎しみだけを背負って、生きる目標を無くして、それで死んじゃうの?」

「分からないわ。でも……それでも私は……父の仇を取らねばならないの……」

「どうして……?」

「私がジョエル伯の娘、スザンナ・ジョエルだから」

 スザンナの頬から、一筋の涙が伝った。

 彼女はもう、気づき始めている。平民と貴族が同じ人間で、エドワードが王になった以後の世界は、この街のように貴族の立場が必要なくなっていくことに。

 それでも彼女は貴族だ。六百年もの間、この国の支配層だった貴族だった。だから彼女は彼女の絶対的な価値観の元、父親の復讐をせねばならない。

 例え自分が間違えていると分かっていても。

 もし彼女が本当にリッツを手に掛けた時、彼女は憎しみの連鎖を後悔するのだろうか。後悔して、でも取り戻せない時、彼女はどうするんだろう。

 そもそも目標を達してしまったら、彼女は生きていけるのだろうか。

 気がつくとスザンナを腕の中に包み込むように抱きしめていた。

「カール……」

「俺はやだ。スザンナが憎しみの連鎖に絡め取られるのやだよ」

 正直な気持ちを告げると、スザンナが身体を硬くした。気付かないふりをして言葉を続ける。

「憎んで殺して、また殺した相手を大事に思う人に憎まれる。ずっとずっとそれを続けてたら、ずっと苦しいじゃん。一緒に笑った方が楽しいよ」

「カール……」

「憎むなとは言わないけど、殺したら憎しみが連鎖するだけだ。俺はスザンナが憎しみに囚われて悲しいのは違うと思う」

 顔を上げたスザンナと目が合った。微かに潤み、夕闇を照らすオイル灯の明かりで揺らめくその輝きに、リッツは言葉も無い。

 街はとうに深夜を回り、静寂の中にある。お互いの腕の中の鼓動が、妙にハッキリ聞こえた。

 自然と見つめ合ったまま、どちらと無く唇が近づいた。微かに目を閉じようとしたスザンナのまつげは意外に長くて綺麗だった。

 互いの吐息が触れるほどに近づき、唇の温度を感じ取れそうだったその時、我に返ったように、スザンナに突き飛ばされていた。

「……ごめん」

 自分のあまりにデリカシーのない行為に謝ったが、スザンナは身動きをしなかった。リッツのことなど、もはや目に入っていないようだ。

 スザンナの視線を追うと、彼女は真っ直ぐにある人物を、まるで凍り付いたかのような表情で凝視していた。

「スザンナ?」

 オイル灯に浮かび上がったのは、二人の男の影だった。その姿はグレイン騎士団の制服とよく似ている。

 いや、似ているんじゃない。グレイン騎士団の制服だ。しかも並んで歩いているのは、背の高い金の髪の男と黒髪の男である。

 リッツは眉をしかめる。

 グレイン騎士団に金の髪と黒髪のコンビと言えば、エドワードとリッツしかいない。

 ならばあの二人はいったい誰だ?

 何故グレイン騎士団の制服を着ている?

 二人に向かって目をこらすと、リッツは更に妙なことに気がついた。

 金の髪の男と並んでいる黒髪の男の耳は、自分と同じように特徴的に尖っている。

 リッツは反射的に自分の耳篭に触れた。ここに隠されている耳も、あの耳と全く同じ形をしている。

 じゃあ、あの男は誰だ?

 精霊族がもう一人、この街にいたのか?

 戸惑っている内に、二人はどんどん近づいてきた。訳が分からぬままに、リッツはその二人を見ているしかない。

 見る間に距離がほんの数メートルまで近づく。

 ふと何かに気がついたように、金の髪の男がこちらを向いた。ほのかに薄暗い街の明かりに浮かび上がったのは端正な顔つきだった。

 肩まで届く中途半端に長い髪、そして見覚えのあるあの表情。

 間違いなく、エドワードだった。

「エド……?」

 小さく呟いたのと、スザンナが走り出すのが一緒だった。

「スザンナ!」

 一瞬リッツは出遅れた。スザンナはその一瞬に、胸の谷間からナイフを取り出している。

「エドっ!」

 反射的に叫んだが、スザンナの目標は特徴的な耳をした黒髪の青年の方だった。

「やめろっ! スザンナ!」

 リッツの叫びは彼女に届かない。彼女は両手で胸の前にナイフを構え、迷い無く男へと突っ込んでいく。

「お父様の……ブルガン貴族の恨み、思い知れ!」

 闇を引き裂かんばかりに、スザンナの呪詛の声が響き渡る。

 驚いたように黒髪の男が振り向きかけた瞬間、スザンナのナイフはその男の背中に突き立っていた。

「スザンナ!」

「何をする!」

 叫んだリッツの声と同時に、エドワードが叫んだ。力を失ったように、黒髪の男がゆっくりと前のめりにくずおれた。

 間髪入れずに、スザンナは飛びかかるように男の上に馬乗りになった。そして突き立ったナイフを力を込めて何度も抜き、再び突き立てる。

「お父様の仇! お父様の仇よ!」

 泣きながら男にナイフを突き立てるスザンナを、リッツは後ろから羽交い締めにした。

「スザンナ!」

「放しなさいカール! 放してっ!」

「嫌だ! 憎しみの連鎖に放り込みたくないって言ったじゃんか!」

「私にはこれしかない。これしかないんだもの!」

「辞めろスザンナ!」

「何故止めるの!」

「もう死んでる!」

 急にスザンナから力が抜けた。手からナイフが転がり落ちる。

「死んで……殺したの……私が……」

「こんなに刺して死なない奴はいないよ」

 乾いた音を立てて転がり落ちたナイフは、夜の闇に鈍い輝きを放った。

「……満足……した?」

 無意識にその言葉はリッツの唇から零れていた。スザンナが体中を振るわせた。その間も混乱は続いている。

 リッツは何が起こっているのか分からず、スザンナを押さえながら呆然とエドワードを見た。

 エドワードはリッツではなく、足下に倒れ伏した黒髪の男の元に駆け寄り、その身体を揺すったのだ。

「おい、しっかりしろ、大丈夫か! おいっ!」

 男の隣に跪き、悲痛な声で男を揺すり続けるエドワードに、リッツは言葉も無い。

「しっかりしろ、リッツ!」

 エドワードが間違いなくそういった。

「え……」

 スザンナを腕に包んだまま、リッツは呆然とエドワードを見た。どう考えてもそこに倒れているのは自分ではない。

 そしてエドワードがそんなことを分からないわけがない。でも冗談でやっているのようには見えない。

 エドワードはどう見ても大まじめなのだ。

 でもエドワードは、間違いなく本物のエドワードだ。リッツがエドワードを何があっても見間違えることなんて無い。

「リッツ、目を覚ませ、おい、リッツ!」

 必死の形相のエドワードの目の前で、うつぶせに突っ伏した男の下から、じわじわとしみ出した液体が、石畳を染め始めた。

 それは大量の血だった。

「リッツ、こんなところで死んでどうする! まだ道半ばじゃないか」

 必死のエドワードに、リッツの胸が痛む。

 そうか、もし自分が死にかけたりしたら、エドワードはこんな風に悲しむのだなと、人ごとのように思ったのだ。

 エドワードを目の前で守れずに失うのも嫌だが、こうして道半ばでエドワードを絶望させるのも、途方に暮れさせるのも嫌だなと思う。

 せめてエドワードがリッツを必要としている間は死なないように心がけよう。

 そんなことを考えたが、でもやはり目の前の光景に妙に落ち着かない。エドワードが自分ではない男をリッツだと思っているのはおかしい。

 誰かも分からない男が一人死にかけている。そしてそれをエドワードは自分だという。

 何か考えがあるんだろうか。でも何が何だか分からない。

 セクアナでもう秘密を作らないとか言ったくせに、そのそばからこうか。

 それとも……何らかの罠で、エドワードにはあの男がリッツに見えている、もしくはリッツに違う男がエドワードに見えているとか……。

 そう考えたが一瞬にして否定に回る。リッツはともかくそんなに簡単に騙されるエドワードではない。

 エドワードがこんな事をするのはきっと何か考えがあるのだろう。

 リッツには、また分からないけれど。

 やがてエドワードが顔を上げ、スザンナを見た。

「お前は何者だ! 何の権利があって私の片腕に手をかけたか!」

 腕の中のスザンナが、エドワードの問いかけに、ギリっと奥歯を噛みしめた。彼女の身体が震えている。抱き留めているリッツにはそれが分かる。

 でもスザンナはくずおれそうで、くずおれたりしなかった。全身で震えながらもエドワードをにらみ返したのだ。

「ジョエル伯の娘、スザンナ。リッツ・アルスターは、わたくしの父の仇」

「リッツがジョエル伯の仇だと? 何を寝ぼけたことを言うか!」

 エドワードの怒声が響いた。まるでこの場の空気までも支配してしまうような怒りに、リッツですらも驚いた。

「ジョエル伯は、リッツがブルガンに着いた時、すでに死んでいた。リッツは殺してなどいない!」

「嘘よ!」

「嘘などつかん。ジョエル伯は自分の身の安全を買いたい貴族たちに、人身御供として我々革命軍の前に差し出されたのだ。死体としてな」

「嘘っ! 嘘っ! 嘘よ!」

「嘘ではない。それが真実だ」

「ではわたくしの仇は……」

「お前が憎むべきなのは、リッツではない。ジョエル伯を殺し、我々に助命嘆願を願い出た、部下の貴族たちだ!」

 スザンナの身体が、激しく震えている。歯の根も合わないほどに震える彼女が哀れだった。

「では……ではその貴族たちは……」

「生きてはいない」

「何故……?」

「その卑怯な振る舞いに憤ったリッツによって、みな仕留められたからだ」

「そんな……」

 か細くスザンナが呻く。

「では……わたくしは……」

「そうだ。お前が殺したのは、お前の父の仇を取った男だ!」

 リッツと呼んだ正体不明の男の前に跪き、彼に手をかけながらエドワードはスザンナを断罪した。

 途端、彼女を支えた糸が切れたように、息を切らせたスザンナが、地面に座り込んだ。

「……それでも……革命軍が来なければ……父は死なずに済んだ」

 それは微かな抵抗だった。自らの犯した罪を、自らに言い訳するようにその声は小さい。

「我々が来なくとも、街の人々の限界はあっただろう。そうなれば倒される運命にあった」

「ならば……」

 スザンナは顔を上げ、エドワードをにらみ据えた。

「ならば我ら貴族には、死ぬことしか選択しか無かったと申されますか!」

「貴族であろうとなかろうと、民のために尽くしていれば、我々は認めた。欲のために自らの地位を守ることしかできぬ男が、自ら作り続けた人々の恨みの鎖から逃れる手立てなどない!」

「貴族であろうと……無かろうと……?」

「そうだ。階級など関係ない。人として守らねばならぬものを失った人間など救えない。お前が父と同じ事をしたように」

「同じ事……」

「父の仇を取ったことで、満足するのはお前一人だ。お前は人々よりも己の欲を取った。それは民を虐げたジョエル伯のしてきたことと何が違うか!」 

 スザンナは言葉も無く顔を覆った。だがエドワードは断罪の言葉を緩めたりしない。

「お前がしたことに大義はない。民の憎しみを再び貴族に向けただけのことだ!」

「では私がしたことは……」

「ファルディナの民の恨みを、再び貴族たちに向かわせただけだ。この街の貴族は、貴族であるだけで人々に憎まれるだろう。お前が街の民と共に過ごしたというのに、皆の思いを裏切ったのだから」

 力が抜けたように、スザンナは地面に手をついた。完全にエドワードの貫禄勝ちだった。

 スザンナは自らの中にあったほんの些細な暗殺へのいいわけを封じられ、自らの罪を突きつけられてしまった。

 もう彼女に、失う物はないだろう。

 リッツはその時初めて、すぐ近くに彼女の取り落としたナイフがある事に気がついた。

 リッツがそれをスザンナの手の届かぬ所に蹴るよりも、スザンナが拾う方が早かった。

 スザンナは拾ったナイフを自分の首に突き立てようと逆さに構える。

「スザンナ!」

「ごめんなさいカール。あなたの好意を無駄にして」

 止められないと思ったその時だった。

 突然ナイフが、何者かによってスザンナの手からはたき落とされたのだ。

 呆然とスザンナが、はたき落とした人を見つめる。リッツもその人物を見つめた。

 ナイフをはたき落としたのは、今まで目の前で倒れ伏し、出血に塗れていた黒髪の男だった。

「……駄目だよ、死んだら」

 少し痛そうに背中をさすりながら、ナイフを拾って男が笑う。

「! あなた……生きていましたの?」

「僕はまだ、簡単に死ねないんだ。死んだら殿下との誓いを破ることになる」

 リッツは目を見開いた。見た事がある男だったのである。

「お前……」

 そこにいたのは、まだ少年の域を出ない年齢の男……ファルディナ解放の記念パーティの時、エドワードを刺したリックだった。

 驚きで言葉も出ないリッツの目の前で、刺されたはずのリックが、何事もなかったようにゆっくりと起き上がった。

「……リック……なんで……」

 リッツの問いかけには答えず、リックは真っ直ぐにスザンナを見つめた。

「自分の思い込みだけで人を殺しちゃ駄目だ。周りを見て。絶対に後悔するよ」

「……後悔……」

 微かなスザンナの呟きが聞こえた。リックもスザンナの声に頷く。

「うん。僕は後悔して後悔して、死にたくて、罰して欲しくて、いっそ処刑して欲しくてもがいて、苦しんだ」

「あなたも……こんな事を……?」

「うん。僕も同じだ。アルスター様を殺そうとした。自治領主の手の者だと誤解して。なのに僕は殿下を刺してしまったんだ」

「!」

「だからかな。アルスター様を演じてくれて言われた時、お二方の役に立てるかもって嬉しかった」

 そういいながら、リックは自分の耳を掴んだ。呆然と見つめる前で、あの特徴的な部分を手でむしり取る。

「あなたは……リッツ・アルスターではないの?」

「僕がアルスター様だったら、君は今頃生きてないよ。今のアルスター様に、隙は無いって殿下がおっしゃっていたし」

 あっさりとそう言ったリックに、スザンナは力が抜けたように肩を落とした。安堵なのか、失意なのか、リッツにはまだ分からない。

 リックは手にしていた作り物の耳を手の中で転がすと、ようやくリッツの顔を見た。

「これ、パスタです。殿下に突然作れるかって聞かれて……」

 照れくさそうに笑いながら、リックはそれをポケットに入れた。

「僕は手先が器用らしいです。パスタ作りは得意なんですよ」

 そういいながらもリックはリッツを正面から見ず、微かに目を伏せている。リッツも過去にエドワードを目の前で刺された苦い経験を思い出し、微かに目をそらした。

「刺されたところはどうしたんだ?」

「僕、細身で、それに更に最近痩せてて。だから豚肉をぐるりと一週巻き付けてました。それが守ってくれたんです」

「刺されるのは織り込み済みと?」

「はい。殿下に『刺される準備をしとけ』といわれてましたから」

「身長はどうした? 何か大きくなってるよな?」「ジャムの瓶底に綿を張り付けて、靴の下に取り付けて伸ばしてました。ズボンの裾がかなり長かったから隠れてしまいますし」

「そうか」

 複雑な思いでエドワードを見ると、エドワードは軽く片目を瞑った。言葉にするなら、悪い悪い、後でちゃんと話すから、といったところだろう。

「では……あなたも偽物ですか……?」

 途方に暮れたように問いかけたスザンナに、エドワードは首を振る。

「私は本物だ」

「では本物のリッツ・アルスターはどこに……?」

 生気のない声で呟くように呻いたスザンナの目の前で、リックは身につけていたもの全てを取り去った。

「ここにおられるじゃないか」

「え……?」

 身軽になったリックは、リッツの前に膝を付いた。スザンナの目がみるみる見開かれていく。

「お久しぶりです、アルスター様」

「……うん。久しぶり」

 他に何と言ったらいいのか分からず、しかもスザンナの視線が痛くて、リッツは付けひげをとり、眼鏡を外して素顔に戻ってからエドワードを見た。

「カールが……リッツ・アルスター……」

 愕然としたスザンナの表情に耐えきれず、リッツは目をそらし、エドワードへ向けた。

「エド、どっから仕込んでたの、この話」

 多少恨みがましい言い方になったかもしれない。エドワードもそれを察したのか、立ち上がりリッツの横に並んだ。

「さっきだ。彼女がジョエル伯の娘だと知り、リックが立ち直っているのを知って思いついた」

「……また俺に内緒で?」

「話している暇が無かったんだ。ごめん」

「でもどうして……?」

 疑問をぶつけると、エドワードはリックを見てから再びリッツを見つめ返してきた。

「行くところまで行けば、後悔する事は分かってた。スザンナは世間知らずだが、聡明な女性に見える。思い込みを修正していくことは十分に可能だろう」

「……うん」

 彼女は自分の無知を恥じ、平民たちを知った。だから最初は迷っていた。でも目の前に仇を来た瞬間、全ての理性よりも父親を殺された感情を優先した。

 感情が収まれば、理性で世界を正しく見られる女性だろう。

「スザンナの知る事実は明らかに間違いだが、それを普通に諭して聞くとは思えない。でも後悔に心痛めている時ならば、こちらの声が聞こえると思った」

「だからわざとリックを刺させた?」

「……最初は俺が刺されようと思ったんだ。脂身と黒髪にするための炭とで工夫して……」

「! 馬鹿だろエド!」

 ついつい怒鳴ると、エドワードは軽く肩をすくめた。

「俺が失敗することがあると思うか?」

「そういう問題じゃない! お前を守るって言ってんのに、なんで俺の身代わりをするんだよ!」

「身代わりじゃない。俺ならやり遂げられると信じている」

「どんだけ自意識過剰だよ、馬鹿エド!」

「超自虐趣味者に言われたくないな、馬鹿リッツ!」

 いつものように言い合いをすると、リックが苦笑しながらスザンナを見た。口を出さずにリックを見守る。

「アルスター様が無事で良かったって思ったでしょ」

「……」

「取り返しが付かないことになった後、自分の中の事実と、真実が違ってた時、後悔する事しかできないんだ。その苦しさを僕はよく知っている」

 リッツの脳裏に、エドワードを刺してしまった時の、命を狙っていたフェイが実はリッツだった時の絶望的な叫び声を上げるリックがよぎった。

 彼はずっとそれに苦しんできた。

「ねえ君、少し憎しみは減っていない?」

 リックがスザンナに微笑みかけた。

「え……?」

「後悔して、それから取り戻せた時、憎しみよりも安堵が勝つだろう? 自分の恨みを許せたりしないかい?」

「分からないわ」 

「人を刺す怖さを知り、その後悔を超えたところに、きっと自分の真実はあるよ」

「私の……真実?」

「そうだよ。君は今も、アルスター様を殺したい?」

 まるで凪いだ湖の如く静かにリックが問いかけた。未だ驚きから立ち直れないスザンナは、ゆっくりと自分の手を見て、それからリッツを見上げてきた。

 視線を逸らさず、スザンナの視線を受け止める。

 やがてスザンナは小さく呟いた。

「私が彼を憎めるわけ無いわ。彼がリッツ・アルスターであってもカールであっても、同じだもの。彼は私に新しい世界を見せてくれた人だから……」

「よかった。僕と同じだ」

 笑顔のリックがエドワードを見上げた。エドワードがどこかへ手を上げて合図を送ると、男たちの一団が近くにやってきた。

 それはファルディナ駐留部隊の面々だった。

「……逮捕されるのね?」

 スザンナは小さく呟いた。エドワードに対しての言葉だった。エドワードは穏やかに微笑み、軽く膝を折っておどけたようにスザンナに手を出した。

「そうですよ、レディ」

 あまりに明るくとぼけた言葉に、スザンナは目を見開く。

「! あなた……アルバートね!」

「ええ、レディ。お忍び故、名乗ることができませんでしたが、私はエドワード・バルディアというんです」

 笑顔で手を差し出されたスザンナは、エドワードの顔を凝視してから、やがて小さく溜息をついて笑った。

「初めから私の負けでしたのね。あなたは最初から私がおかしいと思っていたのでしょう?」

「もちろんですよ、レディ。リッツ・アルスターは私の片腕。私の半身です。あなたの身分と目的を知った時から、私は彼を守る作戦を立てたのです」

「この街で、公衆の面前で人を殺させること?」

「いいえレディ。あなたの行いを、この街の人間は誰も知りません。駐留部隊の人々を除いたならね」

 エドワードの合図で、ベンチに座っていた人々皆が立ち上がり、王族への最敬礼をした。

「では……」

「そう。私がリックにリッツの身代わりを頼んだ時から、駐留部隊に話を通し、この広場を最後の大舞台にすると決めていた。全員を駐留部隊で固めたのも、一般人が誤解し、君や貴族の肩書きを持つ者を先々殺されるのを防ぐためだった」

 リッツは溜息をついた。リッツがここに来ることすら、計算されていたと言うことか。

 それとも自分がいなくても、リッツがスザンナの信頼を勝ち取ると信じていたのだろうか。

「用意周到な人だわ。もう一つ聞いてもいい?」

「何なりと、レディ」

「もし私が本当にリッツ・アルスターを殺していたら、あなたはどうしたの?」

 リッツは目を見開きエドワードを見た。

 エドワードは水色の瞳を微かに細め、射貫くような目で彼女を見ながら淀みなくそれに答える。

「あなたがリッツを殺したならば、あなたは今、生きてはいない」

「……あなたも人間なのね」

「貴族でも平民でもなく、一人の人間だ。無二の友を殺されたならば、普通でなどいられない」

 エドワードの言葉に打たれるように俯いたスザンナをファルディナ駐留部隊が両脇から固めた。これからスザンナはどうなるのだろう。

「スザンナ……」

 両側から束縛されたスザンナは、静かにリッツを見た。リッツも静かに見つめ返す。だがお互いに何の言葉も出てこなかった。

 言葉も無く見守ることしかできないリッツの横で、リックが立ち上がった。リックは迷い無く、スザンナの背中越しに声を掛けた。

「スザンナさん。うちのグラタンを褒めてくれてありがとう」

「……」

「自信作なんです。ご馳走しますからまた来てください。僕も、父も二人で待ってますから」

 迷いがなくなったリックの言葉に、しばらくしてから消え入りそうにスザンナが応えた。

「機会があったらね……」

 遠ざかっていくスザンナの背を見ていると、目の前にリックが立った。

「アルスター様」

「何だよ、リック」

「その節は申し訳ありませんでした。僕が愚かで、浅慮でした」

 深々と頭を下げたリックに、リッツは小さく溜息をついた。

「反省してますって、延々と紙に書いた?」

「ええ。殿下が来られるまでずっと書きました」

「そっか。エドはなんて言ったんだ?」

「……人一人の人生を左右する時は、苦しみ抜くぐらいに考えろと。自らの感情が刃となり他人に向く時、それは同時に自分にも向けられているのだと理解せよと」

「……エドらしいや」

「僕はその言葉を考えて考えて考えて、ずっと考えながらパスタを練っていました。そのおかげでこの耳も美味く作れました。無駄なことは何もないと、殿下も褒めてくださいました」

「そっか」

 あれから四ヶ月。リックはずっと自分を見つめ続けてきたのだ。それはどれだけ辛いことであっただろう。リッツは今でも自分の内面に目を向けることを恐れているのに。

「では僕はこれで失礼します。生ハム用の豚肉、父さんから借りてきたから、返さなくちゃ」

 リッツとエドワードの顔を交互に見て、リックは深々と目の前に跪いた。

「殿下、アルスター様。どうぞこの国の行く末に希望お与えください。咎人である僕は、戦場において何もお手伝いすることはできませんが、ファルディナからずっとご武運をお祈りいたしております」

「ありがとう。助かった」

「勿体ないお言葉です、殿下」

 リックは顔を上げ、本当に満足げに微笑んでこの場を去った。

 駐留部隊が消え、リックが消え、真夜中の街にエドワードと二人きりで取り残された。

「エド」

「……やはり怒っているか、リッツ?」

「ううん。怒ってない」

 リッツは空を見上げた。明かりがほんのりと暗くなる中、天に瞬く降るような星は一層蒼く冴え冴えとそこにあった。

「なんかさ……ごめん、エド」

「何故お前が謝る?」

「俺、やっぱエドが好きだよ。ちゃんと信じてるよ」

 リックが言った言葉が胸に染みた。

『人一人の人生を左右する時は、苦しみ抜くぐらいに考えろ。自らの感情が刃となり他人に向く時、それは同時に自分にも向けられているのだと理解せよ』

 理解した上でも、エドワードは自分の力を振るう。刃が返ってこようと彼は迷わない。

 そのエドワードをあのセクアナの地で迷わせたのは、リッツの子供じみた疎外感だ。年の差のことは仕方ない。根付いてしまったからには忘れることなんてできない。

 でもエドワードが変わらないことを信じるしかリッツにはできない。リッツは悩み続け、苦しみ続けるが、きっとエドワードはずっと今のままでいてくれるのだろう。

 役に立たない、みんなの邪魔になっているだけじゃないかなどと、何をふてくされているのだ。エドワードが行く道を助けるために、支えるために共にいるのに、あまりに自分は子供じみている。

 それは年齢のことではなく、努力の問題だ。努力をしてエドワードの本当の意味で片腕になりたい。

 隣にいることに、ふさわしい男になりたい。

「だからさエド、作戦資料、会議に上げる前に俺にも見せてよ。俺も一生懸命考えるから」

 真剣にエドワードを見ると、エドワードが不審そうにリッツを見上げた。

「さっきからお前は何を言ってるんだ? 熱でもあるのか? それとも悪いもんでも喰ったのか?」

 からかい混じりの言葉に口を尖らせてむくれる。

「喰ってねえよ! それに元気だし!」

「そうか。では食事をし直そう。腹が減って仕方が無い」

 エドワードの手が、ポンとリッツの頭に乗った。多少エドワードの方が背が低いが、その手はいつも極々自然にリッツの頭を優しく叩いてくれる。

「子供扱いするなよな!」

「悪い悪い。たまにお前が本当の弟みたいに可愛くて仕方なくなることがあるんだ」

「……弟はいいけど、可愛くて仕方ないのは気持ち悪い……」

「人の好意を、ゲテモノのように言うなよな」

 笑いながらエドワードがリッツの肩を抱いた。

「さあ今度こそ飲んで踊って遊ぼうか」

「賛成!」

 リッツもエドワードの肩を、がっしりと抱き返した。

「ごちそうさまっす!」

「ちゃっかりしてるよな、お前は」 

 こうしてこの事件は幕を閉じた。

 リッツとエドワードはそれから二日後にファルディナを出て本営に戻り、それから会議三昧の日々にまた舞い戻った。

 落ち着いてからエドワードと話し合うようになったのは、貴族の無知の罪。価値観の違いをどう植えたらいいのかということだった。

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