序章
いよいよ燎原の覇者シリーズ、連載開始です。
この序章は同人誌版の1巻に収録されていましたが、全10巻全ての序章と言うことで別にしました。
来週より本編開始です。
お楽しみに!
五日か、と口に出さず頭の中で考えながら目の前で揺れる草を見つめていた。
旅人の街道とは違い人の通りが少ないこの街道も整備されてはいるが、多少寂れているため雑草があちらこちらに伸びている。
その雑草が街道と森の境目の僅かな空間を埋め尽くすかのように勢いよく生い茂り、街道を通る馬車の轍から離れると徐々に草丈を伸ばしていく。
草深い森側の草むらに倒れていると、目の前で風に揺れる緑の草が優しく触れてくる。その感触が煩わしくて最初は腹立たしげに振り払っていたものの、今はもう触れるに任せていた。
体が熱っぽく、ひたすらにだるい。
このだるさは足の骨折と、全身の打撲、それに空腹と乾きからきていることなど分かっている。だが分かっていてもどうすることもできない。手当の道具も、目下の金子すら持ってはいないのだ。
それだけではない。旅に出る上で必要不可欠な武器や地図、命綱といえる水でさえ手にしてはいない。雇い主だった商人たちによって、不意をつかれて猛スピードで走る馬車から突き落とされたため、荷物は全て馬車に残されたままだ。
とっさに持ち前の運動神経で何とか受け身をとったものの、高速で走る馬車から落ちてただですむはずもなく、足首と体を嫌と言うほど地面に叩き付けてしまったのである。
馬車から突き落とされた後の二日は少しでも這って移動しようという気もあったし、ごくたまに通りかかる旅人に助けを求める気力もあったが、旅人たちは皆見て見ぬふりで目の前を通り過ぎていく。
今、この国はすさんでおり、人々は自らの暮らしで手一杯になっている。行き倒れた他人の世話を焼こうという物好きはいないだろう。
三日目になると飲まず食わずの状況では起きあがる気力も無くなり、四日目には全てを諦めてその場から動くのをやめた。
もう生きようが死のうが、どうでもいい。
深まった秋が目の前の景色を黄色く染めていく。これが最後に見る光景かもしれない。
そう思いながら静かに目を閉じる。もう起きていることにも疲れてしまった。このまま目覚めなければそれはそれで構わない。
孤独と差別に彩られてきた今までの人生など、惜しむほどのものでもない。騙されてのたれ死ぬのなら、やはりそれまでの人生だったのだろう。
この世には名残など、何もない。
……何もない、のかな……
心のどこかで妙な痛みを感じた。
そんな痛みを吹き飛ばすかのように強い風が吹き、草が一斉に激しくなびいた。風は草と共に長めの黒髪をなぶり隠していた耳をかすめる。
空はまだ明るいのに、風は冷たくしめっている。もうすぐ天気が変わるに違いない。
雨にでもなれば明日ここにあるのは自分ではなく変わり果てた自分の骸だろう。
自嘲気味にそう思っていると、道に付いたまま土にまみれた頬に微かな振動が伝わってきた。
規則正しくリズミカルなこの音は、馬の足音だ。一頭ではなく二頭いるようだ。馬車だろうか。だが馬車にしろ普通の馬にしろ、通るのは疲れ果てた旅人だろう。
もう期待することに疲れた。
期待はいつも失望に繋がる。旅に出る時もそうだった。
ただこの場所ではなく、どこか遠くに行くことができれば世界が広がるかもしれないと思っていた。
だから薬草の買い付けに行くという商人たちの馬車に、喧嘩の強さを見込まれて雇われた時は純粋に嬉しかった。どこか遠くに行くための足がかりができたからだ。
それなのに走り出してから数日後、何も言われぬまま荷物を取り上げ荷台から蹴り落とされた。薬草の仕入れは思った通りには行かず、積み込めたのは予定していた量の半分だったためこうなったのだろう。
勿論それは直接聞いた話ではない。人よりも格段にいい耳に微かに届いた彼らの言葉から推測したのだ。
彼らにとって一番の新参者で、一番払いの大きな警護は邪魔だった。
それだけのことだ。
ついウトウトしていたから、どうすることもできなかったのが悔やまれるが、どうすることもできなかった。人というのはこういうものなのだろう。今までの経験上そう思えば、特に彼ら個人を恨むこともない。
目を閉じているとグルグルと世界が回った。空腹と熱と目眩で世界は妙に幻想的だ。
もしかしたら今聞こえている馬の足音も幻なのかもしれない。
だが馬の足音はどんどん近づいてくる。
踏みつぶされたら痛いだろうな、同じ死ぬのであっても踏むのは勘弁して欲しい。
そんなことを思っていると、馬は不意に目の前で歩を止めた。
「生きているのか?」
誰かがそう問うた。
「行き倒れるにはまだ若くないか?」
声の主は男性で、若いが低く落ち着いた声だった。それ以上に興味を引かれたのは、最近聞くことのない気力に満ちた声だったことだ。
男の声には生命力が満ちていた。
開けるのも億劫なぐらい重たくなった目をやっとの思いで開けると、馬から下りたのか目の前に男が立っていた。
見た目だけなら自分とそう大差ない年齢に見える。とはいえ自分の年齢を基準にしては人間の年齢ははかれない。自分の見た目の年齢はどうやら二十歳前後に見えるようだから、目の前に立っている男は二十歳を幾つか越えているだろうか。
遠乗りをしていたのか風に乱れた金の髪は、日の光を反射して金の粉をまぶしたように眩く輝いていた。その下に見える日に焼けた肌は、元は陶器のように美しい白だったのだろう。
背の高さは自分よりも少し小さいようだが、細身ながらも鍛えられた体をしていることが見て取れる。
自前の馬を持って旅をできるのだから、軍人かそれに属する貴族などの富裕層に違いない。
そんな男が何故道に倒れる自分に興味を持つ?
ぼんやりと男を見つめていると、男は馬を共にいた壮年の男に任せて歩み寄ってくる。
もしかしたらあちらこちらで傍若無人に振る舞う貴族のように、死にかけた自分をいたぶるのだろうか。
もしそうなら運が悪かった。いくら喧嘩に自信があるとはいえ反撃のしようもない。斬り殺すか蹴り殺すか知らないが、そんなことのために馬を下りず放っておいてほしいものだ。
このまま死なせてくれればいいのに。
「起きられるか」
投げやりな気持ちでいたのだが、男は静かに、だが優しげに問いかけた。
どうやらこの男には自分をいたぶる気はないようだ。他人の悪意に敏感に育ってきたから、男の口調に偽りがないことぐらい分かる。だがそうだとしたらこの男は珍しい。
貴族というのはそういうものだと思い込んでいたから、本当に意外だ。
そんなこの男に少々興味を持ち、気力を振り絞って座ろうと腕に力を込める。
動かない体を起こそうとすると目眩がした。幾度か力を込めて見るも、一人で座ることすらできそうにない。身軽なのが取り柄だと思っていたのに、情けないものだ。
すると今まで見ていた男は、黙って体を起こすのを手伝ってくれた。
親切? それとも裏がある? 目が回る。考えられない。
ほとんど助け起こされながら座ったがそれだけで呼吸が乱れる。これほどに自分が弱っていたのだと思うと、なんだか不思議だった。
今まで生きたいと思ったことはなかったが、こんなにあっさり死ぬと思うと奇妙な気分だ。
呼吸を整えつつ助け起こしてくれた男を見つめると、男の目が気遣うようにこちらを真っ直ぐに見つめていた。
吸い込まれそうに美しい水色の瞳だった。
気力に満ち、高貴さを秘めながらも決して屈しない信念の瞳だった。
目があった瞬間に魅入られていた。この男は常人とは違う。何かがある。
故郷を飛び出してから、諦めと妙な高揚感に支配された絶望の瞳を至る所で見てきた。国が乱れているから、人々はみな同じ目をして全てを受け流そうとしていたのだ。
だがこの男は決して絶望していたりはしなかった。何かを見つめ、自ら見いだした光を信じていた。
「俺の目に何か付いてるか?」
男に問われて我に返る。
「……っ」
礼を言おうとしたが、口を開いた瞬間にむせ返った。水も飲めなくなってから五日がすぎているから、喉が張り付いたように言葉が出てこない。
そんな状況に気が付いてくれたのか、男が腰に結んであった革袋の水筒を取り出して差し出してくれた。一口と思ったが、むさぼるように一気に飲み干して再びむせた。
男は落ち着いたところを見計らって、荷物から果物を取り出した。差し出されたそれを受け取って夢中で頬張る。口の中に甘酸っぱい風味と果汁が広がり、気が付くと一瞬にして平らげていた。
それだけで多少落ち着いた。
そんな状況を黙って見ていた男が静かに訊ねてきた。
「何日ここにいる?」
見上げると再びあの力に満ちた水色の瞳に目がいった。まるで操られるかのようにその瞳を見つめながら答える。
「……五日」
「その間、飲まず食わずか?」
「うん」
「どうしてここにいるんだ?」
そう聞かれて一瞬迷う。知らない人間と話して何になるんだろうと思ったのだ。だが男の瞳を見つめたままなぜか素直に答えていた。
「薬草を守る用心棒に雇われたけど、馬車から落とされた」
「馬車から……?」
「うん。よく分からない」
「契約書はあるのか?」
「……契約書?」
「商人から貰ったろう?」
訊ねられて服のポケットを探る。そう言えば何かを取り決めたような気がする。カサリという感触を確かめてから紙を引き出すと、それを広げた。
「これ」
何が書いてあるのか字が読めないからさっぱり分からない。その紙を慣れた手つきでスッと男が抜き取る。
しばらく眺めていた男がこちらを見つめた。
「薬草が手に入らなかったんだな」
「うん」
「それで薬草を積み込んでしばらくしてからお前は落とされたと?」
「そう。よく分かるな、お前」
心底感心してそう言ったのだが、男は微かに眉をひそめた。
「……字が読めないのか?」
「読めない」
「ではこの辺りの出ではないな」
「シーデナだ」
「! シーデナ!? あの特別自治区の?」
「そう。物知りだな」
「……それぐらい誰でも知っている。妖精の迷い森だろ?」
「うん」
故郷はどこまでも続く大森林の結界に守られた中にある。その結界ゆえその大森林はこの国の人々にそう呼ばれているのだ。
「だからさ、読み書きは駄目なんだ」
男の視線がじっと耳に注がれるのが分かった。一族の疎まれ者といえども一族の特徴である少々人間と大きさ、形が異なる耳は、無造作に切った黒髪にも隠しきれるものではない。
何かを思案していたらしい男はしばらくしてから顔を上げた。
「お前、行く当てはあるのか?」
「ない」
即答すると男は微かに笑う。何故かその表情の中に、男も同じような孤独感を持っていることを感じたのだが、その気配は一瞬で消え静かな笑みだけが残った。
「では生きる気はあるのか?」
生きる気……?
生きる意味が分からない。生きていると言うことの重要性が分からない。
生きていて欲しいと願っているのは両親だけで、世界は彼に死を求めているのだから。
首をかしげると、男はゆっくりと腕を組んで噛み含めるように再び訊ねる。
「ここでのたれ死ぬつもりかと聞いている。そうしたいのならもう俺がお前にしてやれることはない」
自分はどうしたいのだろう。生きたいのだろうか、このまま死にたいのだろうか。
「……分からない。だけど死んでも特に困らない」
「困らない?」
「俺は結局、そう言う命だから」
淡々とそう告げると男はしばし黙り、やがて水色の瞳に静かな輝きを浮かべてこちらを真っ直ぐに見つめて笑った。
「お前、名前は?」
答える必要はないと思っているのに、自らの意志に反して唇が動く。
「リッツ、リッツ・アルスター。あんたは?」
「エドワード・バルディアだ」
「エドワード……」
抗うことができない力ある瞳から目をそらして、小さくその名を口に出してみる。
凛として高貴で信念を持って生きているように見える彼に相応しい、貫禄のある名だ。
「死んでも特に困らないと言ったな」
「ああ」
「ならば命尽きるその時まで、生きてみないか?」
「え……?」
「俺と共に」
思いも寄らぬ言葉に、リッツは弾かれたように顔を上げて再び真っ直ぐにエドワードを見つめていた。
死ねと、消えろと言われたことは今まで嫌というほどあった。
でも共に生きろと言われたのは生まれて初めてだった。
「あんたといっしょに?」
「そうだ。俺が生きる場所を与えてやる」
信念に満ちたその顔に自信という名の笑みを浮かべて、エドワードはリッツに向かって手を差し出した。
「俺と一緒に来い、リッツ・アルスター」
リッツの中で何かが弾けたような気がした。
生きる場所を与えてくれる。それは絶対に嘘ではない。
本当にそこにリッツの必要とされる場所が……生きる場所がある。
エドワードというこの男の言葉ならば信じることができる。
それは一瞬にして確信に変わり、リッツはエドワードの手を握った。
「……俺の命、貸してやるよ」
ぶっきらぼうにそう言うと、エドワードは初めて楽しげに笑った。
「借りておこう」
ユリスラ王国暦一五三二年秋。
そこから伝説が始まったのだが、この時の二人はそんなことを知る由もなかった。