このユリの咲く丘に
「クソッタレ」
傷ついた身体で岩肌に寄りかかり、女は荒々しく舌打ちをした。透き通るような白い肌にはうっすらとウロコが生えているが、ところどころ剥がれて右足や左肩には血が滲んでいる。月の光をうけると、それはうっすらと金色に輝き女の身体を発光しているように見せた。
その薄いウロコより鮮やかな、金糸のように明るい金色の髪もドロや赤黒い血で汚れてボロボロだ。
蛇の大半は、周囲に仲間がいることを好まない。
彼女はたまたま同種の雄と鉢合わせしてしまい、襲い掛かられてしまった。繁殖期でもないうえに、彼はちょうど狩りの途中で気が立っていたらしい。結局争いに負けてすごすごと森の中を逃げ回るハメになってしまった。しかし、行動範囲を広げたのは雄のほうだ。
「私のっ……寝床だったんだぞ……ちくしょう……」
さんざん痛めつけられた彼女は、お気に入りの寝床を見知らずの雄に奪われることになった。それが嫌で抵抗したらこのザマだから、潔く諦めていればよかったのかもしれない。今ごろあのいけ好かない雄は、狩りの途中で良い寝床を見つけたとでも思って鼻歌交じりだろう。自分にもっと力があれば憎たらしい喉笛を噛み切ってやれたのに。
引きずるように歩いた後に、点々と血の跡がついている。これを捕食者にみつけられたら最期だ。女はまた舌打ちをして、樹の根元にズルズルと座り込んでしまう。
「あーもうっ! ここまでか」
もう足の感覚がない。血は止まらないし目は霞んできた。血が自分の後を追ってくる限り、安全な場所なんて見つかるはずもない。潔く全てを放棄した彼女の頭上で、ククッ、と低い笑い声がした。
「ずいぶんイイ格好だな、ヘビ女」
勢いよく顔をあげると、男が木の枝に腰掛けている。黒髪に、同じ毛色のピンと立った耳。やたらとガタイが良く、ふさふさと柔らかそうな尻尾がゆるやかに左右に振れていた。笑顔からも解るが随分機嫌が良いようだ。餌を見つけたからだろうか。周囲に男の仲間と思しき気配は見あたらない。
「ずいぶんご機嫌だねオオカミ野郎。1人でも狩れる獲物が見つかって、飢え死にの心配がなくなったから?」
女が息も絶え絶えに軽口を返すと、男はなにを思ったか、軽やかに樹から飛び降りた。口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。
「ナメんなよ、さっきもたらふく食ったばっかりだ。傷だらけのヘビなんざ見ても食う気なんか起きねぇさ」
「だったら早くどっかいけよ。群れ抜けたんだか追い出されたんだか知らないけど、私は今機嫌が悪いんだ。そのうえどうせ死ぬからね。いけ好かないオオカミ野郎の喉笛食いちぎってから死ぬのも悪くないかなって、今思いかけてるところだよ」
シューッ、とヘビ特有の威嚇音が鳴り響く。
女がエメラルドの瞳で睨んでも、オオカミは機嫌が良さそうに尻尾を振ってクク、と笑うだけだった。
「なあ、手当てしてやろうか」
ヘビが、3回パチパチと瞬きを繰り返す。オオカミは、その種族にしては珍しい、コバルトグリーンの瞳を細めて、試すように女を眺めていた。
「助けてやってもいいぜ。安全な寝床が近くにある。そこまで連れ帰って手当てしてやるよ。餌も上等のやつをくれてやる。一週間もすれば元通りの身体になるだろうぜ」
「なにが目的?」
女が間髪いれずに問うと、オオカミがひどく嬉しげに尻尾を振った。
「話が早い女は好きだ。助けてやるから俺に従え。テメェのその毒牙を、今後俺の為だけに使うと誓え」
「断ったら?」
オオカミが片膝をついて、女に顔を寄せてくる。柔らかい尾がヘビの顎を撫で、ゆっくりと持ち上げた。
「今ここで食ってやる。その綺麗な顔ごと毒の牙を残してな。それだけ綺麗な顔なら、インテリアにゃあ丁度いいだろ」
「趣味が悪い」
「俺だって本当はそんなことしたくねぇんだぜ」
ふかふかとした尻尾が、顎から喉へ降りていき、心臓のあたりをなで上げる。くすぐったくて身を捩ると、男がまたひどく嬉しそうに顔を歪めた。
「決断しろ。このまま死ぬか傅いて生きるか、どっちがいい」
歌うように言う男の目線にやたらと熱が籠っていたので、ヘビは思わず身を震わせた。
「……なんで?」
女が問うと、狼が不思議そうに首を傾げる。
「なんでそんなことするの。あんたのメリットはなに?」
「つい最近群を抜けてな。自分の群れを作るのに、力はあったほうがいい」
狼の尾が女の身体をなで上げた。不審に思ったヘビが鼻を動かした後、二股の舌をニュルリと出す。その舌に狼が顔を近づけてきたので、彼女は慌てて舌を引っ込めた。
「あー、わかった。お前今発情期なんだ。女ならなんでもいいんだ」
狼の発情期特有の匂いがする。
ヘビの嗅覚は非常に敏感だ。鼻と舌で匂いの粒子をかき集める。
図星を指されたらしい狼は、それでも余裕の笑みを浮かべて女に近寄った。
「傅いて生きるなら、名誉も栄光も上等のものをくれてやるぜ?」
「私が傷治った途端裏切って逃げ出すって可能性は考えないわけ?」
女が言うと、狼がフン、と鼻で笑った。
「ヘビは執念深いと聞く。裏を返せば情が深いってこった。1度した約束をヘビが違えるとは思ってねぇよ」
目眩がして、女が1度目を瞑る。狼の尾がふわりと女の頬を撫でた。
「そろそろ限界なんじゃねぇのか。意地張ってねぇで、可愛く『助けて下さい』って言ってみな」
「もっとスマートに誘ってくれれば即決だった」
クラクラする頭を押さえてなおも女が軽口を叩くと、男の目が楽しそうに歪む。出血がひどい。
そろそろ本当に限界だ。
「……条件を、のむ」
ヘビが消え入りそうな声で言うと同時に、身体が突然持ち上げられた。
「交渉成立だな」
オオカミ男に横抱きにされ、そのまま森の中を走り抜ける。ガサガサと葉のこすれる騒がしい音と、乱暴な振動がヘビの身体にひどく応えた。
「ところでお前、名前は?」
「普通最初に聞くよね、そういうこと」
「答えねぇなら勝手につけるぞ」
「狼さんはアレなの、自己中なの? 前の群れで嫌われなかった?」
「決めた」
「聞けよ」
あっという間に小高い丘を乗り越えて、静かな湖のほとりに辿り着く。月明かりに白い花が照らされてひどく幻想的だった。
狼男まで月光に照らされて、ひどく美しく見える。
女はここで初めて、自分を拾った狼男の容姿がひどく洗練されていることに気づいた。
黄金比に祝福されたような体躯と顔立ちは自信に満ち溢れて、星を砕いたようなコバルトグリーンの瞳がキラキラと輝いている。
「今日からお前は、リリアンだ」
それがこの場一体に咲き誇る花から取ったものだと想像するのはひどく容易い。
女――リリアンは派手なため息をついたあと、結局この名前を受け入れる事にした。
「どーせ、私の命はアンタのもんです。好きにしたら」
「ああ、いいなソレ」
「アンタ今発情期だからね。賢者タイムに突入したら大いに後悔すればいいよ」
リリアンの身体が木陰にそっと下ろされた。花の香りが思ったより強くて咽せそうになる。傷口を湖の水で丁寧に現れながら、彼女はふと口を開いた。
「そういえばアンタの名前聞いてない」
「好きに呼べよ。ご主人様とか」
「はったおすよ」
リリアンがシュー、と威嚇音を出すと、狼男が肩を竦めた。傷口を丁寧に処置する指が、そっと傷のない肌に触れる。
「隆弘」
「似合わねぇ名前」
「はったおすぞ」
隆弘が笑ったのでリリアンも笑った。
このユリの咲く丘に、やがて狼ともヘビともつかない獣人たちの集落ができあがるのは、もう少し先のお話。