一 依頼者
―朝はいつも寝覚めが悪い。
何度か寝返りを打つが洋介は起き上がる気配がない。
十分程前に目覚まし時計が鳴り響いたが、既に止められている。
今日の仕事は午前十時から。現在九時を少し過ぎた頃だ。
そろそろ起きなければ仕事に間に合わない…そう考えると洋介は仕方なく、重い身体を起き上がらせた。
「痛っ」
不意に腰元まである長髪を何者かに引っ張られた―否、何か重たい物に髪が下敷きになっているようだ。
完全に起き上がれぬまま、不自然な状態で枕元に目をやった。
途端、洋介は愕然とした。
見知らぬ少年がスヤスヤと寝息をたてて眠っているではないか。
洋介はぐっすりと眠る少年の顔を覗き込んだ。十歳くらいだろうか、少し癖のある髪とほっそりとした華奢な体をしている。しかし、やはり少年に覚えがない…
(いや、待てよ。確かきのう…)
まだ充分に機能し切らない脳を必死に働かせ記憶を探る。
昨日は…
雨が降っていて…
そして―
「…思い出したっ」
全て思い出した。彼は、この少年は自分の大切なお客様だ。
ぶつぶつと一点を見つめたまま考え込んでいると、少年がムクリと起き上がってきた。
そして不機嫌そうな声で今朝の第一声を発する。
「うる…せぇ…何してんだよ」
少年はジロリと洋介を睨みつける。どうやら彼も寝起きが悪いようだ。
「ええと、拓也君だったよね。今、朝食の準備するから待っててくれるかな?」
洋介は引きつった笑顔を向けると、ベッドから降り、そそくさとキッチンへと向かった。
*
昨日は冷たい雨が降り続ける一日だった。
数々の高層ビルが建ち並ぶ街の外れの一角に、今にも崩れそうな古びたビルがある。
正面には小さな入り口が一つ。そして入口の上には大きく
“何でも屋―どんな依頼でも引き受けます―”と記されている。
洋介は十二年前に、この何でも屋を開業した。
複雑な依頼、非日常的な毎日を期待していたが、現実は日曜大工・子守等々の仕事ばかり、映画や小説のようにはいかないのだ。
(ま、良いんだけどね)
余分な物が何もない殺風景な部屋で、コーヒーを片手にスマホを操る。
「予約の依頼は無しか…」
そのままソファーに腰を下ろすとテレビのスイッチを入れた。
テレビからはニュースを報せるアナウンサーの声が流れて来る。何か事件があったようだ。
聞き覚えのある物の名前が何度か報じられる。最近流行りのドラッグ『B』だ。
どうやら母親とその息子が一度に大量の『B』を服用し中毒死したらしい。
初めて『B』の犠牲者が出てから一月が経とうとしている今、三人の死亡が確認された。
「またか…」
小さく呻くように呟くと、洋介は少し冷めたコーヒーを一気に飲み干しテレビを消した。
ニュースにはまだ続きがあったが、ソファーに横になりごろ寝を始めている洋介には知る由もなかった。
日が暮れて随分と時間が経った。結局今日は、一件も仕事が入らなかった。
夜も深まり、シャワーを浴びようと一回の仕事部屋を後にし、二階への階段に足を踏み入れようとした時だった。
ドンッドンッ
ドンッドンッ
激しく入口の扉を叩く音がする。
こんな時間に誰が?
不思議に思いながらも足早に扉の前へと急ぐ。未だ扉は激しく叩かれている。
「はいはい、どちら様…」
気だるそうに扉を開けると、小さな影が勢いよく飛び込んで来た。
次の瞬間には服の両袖を思い切り掴まれていた。
「あんたっ何でも屋なんだろっ。俺の母さんと兄さんを殺した奴を探してくれっ」
悲痛な叫びを上げるのは小さな少年。雨に打たれて来たのだろうか、身体はぐっしょりと濡れている。
「母さんと兄さんは殺されたんだっ復讐してやるっだから犯人を捜してくれよっ」
復讐とは穏やかではない…。必死に洋介にしがみ付き、少年は尚も叫び続ける。
「きっ君、落ち着いて」
少年の身体は小刻みに震えている。
洋介は困惑したが、このままでは近所迷惑になると思い、とまどいながらも少年を部屋の中にと促した。
季節は春を迎えようとしているが、夜はまだまだ冷たい空気に包まれる。
「体が随分と冷たいね、シャワーを浴びると良い。ゆっくり、落ち着いてから何があったのか話してごらん。ちゃんと聞くから」
「本当に…話を…聞いてくれるのか…?」
寒さのためか少年の声は細かく震えている。縋る様に洋介を見つめる瞳には涙が溜まっている。
「とにかくシャワーだ!ささっ行った行った!」
明るく、半ば強制的に洋介は少年をシャワールームへ押し込んだ。
数分後、幾分落ち着いた様子で少年はリビングのソファーに座っていた。温まった体は洋介のブカブカノのシャツに包まれている。
洋介は奥のキッチンでミルクを温めている。
ミルクを持って部屋に戻ると、少年は勢いよく立ち上がった。
「話を聞いてくれる約束だっ」
「まあまあ、ミルクでも飲んで、ゆっくり話を聞こうじゃないか」
洋介は少年にカップを差し出すと、向かいのソファーに腰を下ろした。
「君の名前は?歳は?」
「北見拓也…9歳…4年生…」
少年はボソリと答える。
「僕は南洋介。よろしくね。」
「…」
「拓也君、君のお母さんとお兄さんが殺されたと言っていたね、どういう事だい?お父さんは?」
その問いに少年の瞳が鋭く光る。
「父さんは5年前に死んだ。…これを見てくれ」
少年は小さなカプセルを洋介に渡した。
「これは…!」
「母さんと兄さんが倒れてる傍に落ちてたんだ」
洋介は思わず目を見張った。拓也が手渡した物…それは紛れもなく『B』だった。
洋介は暫くの間カプセルを見つめたまま考え込んでいたが、ふと探る様に拓也に問いかけた。
「今朝、麻薬中毒で死亡した親子のニュースをやっていたけど…もしかして君のお母さんと兄弟かい?」
その問いに拓也の肩がビクッと震える。
「母さん達はドラッグなんてするような人間じゃない。それは俺が一番よく知ってるっ」
少年の瞳に激しい怒りが宿る。
「母さん達は殺されたんだ、誰かに無理矢理薬を飲まされたんだ!警察は俺が何を言っても聞いちゃくれない。当てにならない。だから母さんと兄さんを殺した奴を捜すのを手伝ってくれ」
少年は真っ直ぐに洋介を見つめる。固く逸らされる事のない双つの瞳を、洋介は冷めた瞳で見つめ返す。
「僕もこの薬には興味がある…引き受けよう。ただし、仮に捜し出す事が出来たとしても、君は大人しくしているという条件付きで…だ。」
「な…にっ!?」
「君は子供だ。復讐なんてする前に返り討ちに遭うのが関の山だ」
少年―拓也は言葉を詰まらせた。何か言いたそうだが声が出ない。両拳は固く握りしめられ、悔しそうに唇を噛み締めている。
「………分かった…」
消え入るような声で拓也が呟いた。
「良い子だね」
洋介は優しく微笑んだ。
「ただし条件がある!俺をここに置いてくれ!」
「は!?」
「親父もいない。親戚は迷惑がって誰も俺を引き取ろうとしない!このままじゃ施設に入れられるって聞いて逃げて来たんだ」
突然の申し出に頭が混乱する。
「俺は今、行方不明で手配されてるんだ!置いてくんなきゃ誘拐されたって騒いでやるぞっ」
「な…」
何だとーーーーー!!!
今日はこのまま泊めて、明日しかるべき場所に帰そうと思っていたのに…まさか脅されるとは思わなかった。なんて子供だ。
「分かったよ、置いてやるよ」
脅しに屈した訳じゃない。拓也の必死さに折れたのだ。
不意に拓也がガクンとソファーに倒れこんだ。
驚いて拓也に駆け寄ると、拓也は熟睡していた。
よっぽど疲れていたのだろう。無理もない。
眠っている拓也の華奢な身体を軽く抱き上げ、洋介は寝室へと向かった。
いきなり突風の様に舞い込んだ仕事依頼と同居人に、緊張と困惑が交差する。
拓也をベッドに寝かせると、洋介にも睡魔が襲ってきたため、そのまま深い眠りへと堕ちていった。
*
やっと正常に機能しだした脳のお陰で、昨夜の事を全て思い出した。
まだ眠そうな拓也がモソモソとトーストをかじっている。
今日はこれから仕事の予約が入っているので、身なりを整えるため洗面所からその様子を覗う。
「拓也くん学校は?」
「学校なんかに行ったら施設に連れてかれるだろっバカじゃねーの」
さすが大人を脅す子供だ。口も悪い。
眉間の血管をピクピクさせながら髭を剃り、長い髪を器用に頭の後ろで編みこむと、仕事へ行くため玄関代わりの裏口へと急いだ。
「拓也くん、絶対に外に出るんじゃないよ」
念を押し、裏口の扉を開けようとしたが、何かがドアの前にあり上手く開かない。仕方なく事務所の玄関から出て、裏口の扉を確認しに行くと、扉の前には痩せ細った少女がうずくまる様にして倒れていた。
慌てて少女の元へ駆け寄ると、その少女はゆっくりと目を開け一言呟いた。
小さな声で「殺して―」と…。