春の章・9 お仕事開始は今日からだった
修正版9話です。
ちょっと短めですが、やっと新しい展開にさしかかってきました。
二人が研究室を後しててから、事務室へ(というよりは篠原にだが)報告の電話を入れた。
『へえ、よかったじゃん』
受話器の向こうから、篠原の眠たそうな声が届く。
「ああ。書類の提出は明日でも構わないだろうか」
受話器を肩と顎で支え、受信メールに目を通しながら訊ねる。
『うん構わないよ。もうそろそろ定時だから今日持ってきてもらっても、処理するのはどうして明日だし』
「そうか」
もっと仕事をしたらどうかと思うが、無用な残業を進めるのは問題だ。喉まで出かかった不要な言葉を飲み込む。
『よかったじゃん先生。で、どうなの?』
「どう、とは?」
質問の意味がわからず、誉は眉をひそめる。
『山田さんだよ、山田さん。どんな感じの子なの?』
下世話な好奇心いっぱいの声が鬱陶しい。誉はわざとらしくため息を吐く。
「履歴書に写真が貼ってあっただろう」
『だって証明写真だと雰囲気変わるし。で、誉くんから見てどんな印象な子?』
いつの間にか「飛沢先生」から「誉くん」になっている。職場ではやめろと言っても……まあ無駄であろう。
さて、山田ひなたの印象か。
「そうだな……」
まず大人しそうというのが第一印象だ。必要以上に人の顔色を伺うところも少々気になる。しかしお互い馴れれば平気であろう、多分。
あと第二に幼い。まだ高校を卒業したばかりだから大学生らしく見えないのも無理はないが、高校生にしても幼い。
幼く見えるのは外見だけなのか、内面から滲み出るものなのか。どちらかわからないが、容姿についてあれこれ言うのは失礼であろう。
「少々内向的のように感じる、かな」
敢えて容姿についてのコメントは控えておく。
『……ふうん、そうですか』
あまりにも誉のコメントが素っ気ないせいだろう。篠原は気のない返事を返してきた。
『ちゃんと上手くやりなよね。何でも小原くんに任せたりしないように』
「何度も釘を刺さなくてもわかっている」
『だったらいいけど』
受話器の向こうで、篠原が苦笑する。
「では明日の早いうちに書類を持参する」
『はいはい。よろしくお願いします』
これで用件は済んだ。通話を終了させようとした時、受話器から篠原の制止の声がする。
『あ! 待った! まだ話があったんだ』
「……なんだ」
上げ掛けた腰を再び椅子に落ち着けると、頬杖を付いて耳を傾ける。
『今週末、合コンがあるんだけど』
「頭数合わせなら断る」
『え、ちょっと待っ』
最後まで聞く必要はないと判断した誉は、即座に受話器を置いた。
* * * * *
基本的には週二回、月金の十六時から二十時までの四時間。
相談した結果、山田ひなたの四月のシフトはこのようになった。
篠原の説明によると、月ごとに希望のシフトを提出し、後は調整して毎月スケジュールを決めていくことになるらしい。
正直のところ、毎月いちいち予定を調整しなければならないのは非常に面倒くさい。しかし自分の業務のために働かせるのだから、他人にスケジュール調整をやらせるわけにはいかない。
こんなことなら、メシでも奢って学生に手伝わせた方が楽だったかもしれないと改めて思ったものの、兎にも角にも今月は腹を括ってやってみるしかない。
本の山と段ボール箱に囲まれながら、誉は諦めに似た決意を固める。
その時だった。ドアを叩く音が本に埋もれた研究室に響く。
「失礼します」
控えめな声。ひなたの声だとすぐにわかった。
「どうぞ」
誉が答えると、ドアが軽い軋みを上げてゆっくりと開く。誉が本の山の中で顔を上げると、ちょうど室内に踏み出したひなたと目が合った。
「……こんにちは」
目を逸らしては失礼だと思っているのだろうか。誉からけして目を逸らそうとせず、その割には怯えた様子だから不思議なものだ。
「こんにちは」
――ああ、そう言えば今日からだった。
今更のように思い出す。腕時計を見ると、針は十六時十分前を指していた。