夏休みの章・最終話 バカみたいだけど、わたし
もしかして、わたし、もしかして…………?
ダメだ。これ以上考えるのが怖い。
わかっている。多分そうなんだろうって、ずっと前からわかっていたのかもしれない。
万が一でも、叶うはずがない気持ちは、どこへ持って行けばいいのだろう?
これは気が付いちゃ駄目な気持ちなんだ。
だって、この気持ちを認めてしまったら、この後きっと苦しくなる。先生に笑って「おめでとうございます」って言えなくなってしまう。
「だだいまー」
家に戻ると、意外な人が訪れていた。
「おじいちゃん?」
「おお、ひなた」
リビングのソファに、我が物顔で座っているのは、母方の祖父だった。
老人ホームに入所している祖父だが、年に一、二度我が家に訪れることがある。
詳しいことはよくわからないが、住居型と呼ばれる老人ホームは認知症でなければ外出も許可されているらしい。
「おじいちゃん、今日はお泊まりの日だっけ?」
お盆休みも来たばかりだったから、それは違うだろうと思いつつも訊ねてしまう。すると母親には苦笑しながら首を振る。
「ううん、紋付袴探しに来たんだって」
「紋付袴?」
どうしてそんなものが必要なのだろう。そもそも、我が家にそんなものがあったのだろうか?
「ホームの職員さんの結婚式があるんだって。おじいちゃん、代表で出席することになったらしいんだけど」
ホームの職員さんの結婚式。
さっきまで一緒だった飛沢の顔が浮かぶ。そして。
「この間おじいちゃんが話していたでしょ。覚えてる?」
覚えているもなにも。
「ああ……うん。廣瀬さんだっけ」
「そうそう廣瀬さん、よく名前覚えていたわね」
覚えているもなにも、あの日から、ずっと頭の中から消えてくれない。
「お母さんは背広がいいんじゃないのって言ったんだけど、おじいちゃんってばどうしても紋付って言い張るのよね」
弟の祥太郎と野球中継を観ながら盛り上がっている祖父の姿に目をやると、母は軽く首を竦める。
「親族じゃないんだから、紋付袴姿は仰々しすぎる気がするし、紋付だって何年もしまいっ放しだし。もしかして虫にやられて穴が開いているかもしれないし……」
まだ話でしかなかった結婚式が、やけに現実味を帯びてきた。
聞きたくない。耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。でも、耳を塞いで知ることを拒絶したところで、何も変わりはしない。
ちゃんと聞かなくちゃ。
でも諦めに似た乾いた気持ちが、胸の中に広がっていくのは何故だろう?
母はエプロンを外すと、ひなたの手の中に押し付けた。
「ちょっと探してくるから、ご飯の仕度の続きをお願い」
「うん、わかった」
「今お鍋に豚汁を作っているから、お味噌を入れといて」
「はあい」
「先におばあちゃんから貰ったお味噌から使ってね」
ちなみに、おばあちゃんとは父方の祖母だ。父方の祖父母は健在である。
「はーい」
言いたいことを言い終えると、母は慌しく二階へ上がっていった。
言われたとおりに冷蔵庫から祖母が作った味噌を出すと、ガスコンロの上に乗った鍋の蓋を開けてみると、わっと熱い湯気が立ち込めた。
山田家では、暑い時期に熱いものがよく食卓に上る。夏場の方が身体が冷えるから、と母は言っているが、単に自分が好きなメニューだからであることを、家族はみんな知っている。
額に汗を滲ませながら味噌を溶いていると、ソファに腰を掛けていた祖父がくるりと振り返った。
「おおい、ひなた」
「なあに、おじいちゃん?」
「ひなたも行かないかい?」
唐突な誘いに首を傾げる。
「どこに?」
「結婚式だよ、廣瀬さんの」
「……え?」
廣瀬さんの、結婚式?
頭が理解するまで、数秒の時間が必要だった。
「え、あの、おじいちゃん?」
廣瀬さんの結婚式ということは……飛沢先生の…………。
ひなたの混乱に気が付くことなく、祖父は話を続ける。
「一緒に行くはずの職員さんが、急な用事で行けなくなってしまってな」
「で、でも、どうしてわたしと?」
「花嫁のブーケを貰うと、次に結婚できるだろう?」
「え、ああ……うん、そう言うね」
祖父はブーケトスの話をしているのだろう。
「ひなたの花嫁姿を早く見たくてな」
器用に片目を瞑ってみせる。つまりウインクだ。
すると、隣で黙って話を聞いていた祥太郎は呆れたように笑い出した。
「じーちゃん、気が早すぎ。まだ二十歳にもなってないのに」
「いやなに、おじいちゃんの時代は、二十歳になる前に結婚するなど当たり前だったぞ」
「時代が違うし。それに、ひなは結婚の前に彼氏作らないと」
「うるさいな。大きなお世話!」
「なんだ。まだ彼氏もおらんのか。早く作りなさい、そしておじいちゃんに早く花嫁姿を……だが先に孫は駄目だぞ」
「お、おじいちゃん?!」
一体何を言い出すのだろう。うっかり飛沢の顔を思い浮かべてしまい、頬を赤らめてしまう。
「ちゃんと廣瀬さんから、ブーケを受け取るんだぞ」
「う、うん」
勢いに押されて、つい頷いてしまった。これでは結婚式に行くことを承諾してしまったと同じこと。
「まって、おじいちゃん。結婚式だけど」
わたし、行かないよ!
「再来週の土曜日だ。始まるのは十一時からだから、十時にホームに迎えに来てくれ。そうだ。ひなたの服も用意しないとな。ひなたはピンク色が似合うかな。来週おじいちゃんとデパートへ買いに行こう」
祖父の頭の中では、もうすでにひなたと一緒に結婚式へ参加するつもりらしい。嬉しそうに計画を立てる祖父の様子を見ていたら、行かないなどと言えなくなってしまう。
「おじいちゃん、わたし」
行きたくない。
そう告げようとした。でも、でも。
このままじゃ、きっと吹っ切れない。
だったら、ちゃんと気持ちが固まる前に、現実を納得させないといけない。
わたしはあんまり頭も良くないし、どちらかというと鈍い方だから、きちんと理解できる方法じゃないと、いつまで経ってもずるずる引きずってしまう。
「おじいちゃん、わたし……」
一瞬言葉が詰まる。でも吐き出すように、一気に息と一緒に吐き出した。
「一緒に行く。行きたい」
言った。言ってしまった。
「おお、そうか。よし、ひなたが一番可愛く見える服を選ばないとな」
「じーちゃん、結婚式の主役は花嫁さんだからさ」
孫馬鹿の祖父に、見かねた祥太郎が突っ込みを入れる。しかし祖父も負けてはいない。子供っぽく背っぽを向くと、拗ねたように言った。
「いいんだ。おじいちゃんはひなたが一番可愛いのがいいんだ」
そう。主役は花嫁だ。きっとドレスでも白無垢でも綺麗に違いない。
でも。
「おじいちゃん、可愛く見えるようによろしくね」
可愛いって。綺麗って思ってくれるかな?
あの人は、少しでもそう思ってくれるだろうか?
でも、こんなことを思うなんて、やっぱりいけないことなのかな?