夏の章・15 認められない思い
「ここが先生のお家ですか?」
誉が住まいとする借家を目にして、ひなたは意外だと言わんばかりの声を上げた。
築三十年のこじんまりした家ではあるが、管理が良かったせいか驚かれるほど年期が入っているわけでもない。ごく一般的な平屋建てである。何に驚かれたのかわからないが、恐らく彼女にとっては何かが意外だったのだろう。
だがその疑問は、ひなたがすぐに解いてくれた。
「西洋文化の先生だから、洋風なところが好きなのかと思っていました」
なるほど。そういうわけか。
しかし、この借家とて、取り立てて和を感じる代物ではない。
「なんだか……昭和を感じます」
「ああ……」
時代を感じると言いたかったわけか。誉は妙に納得すると「これが建ったのは昭和だからな」と独り言のように呟く。すると。
「え!昭和ですか!」
と、さらに驚きの様子である。
平成生まれのひなたにとっては、昭和はひとつ前の年代だ。誉の感覚に置き換えれば、大正時代からの建造物と言われたようなものだろう。
「……」
今更ではあるが、ひなたとの年齢差を改めて実感してしまった。
彼女は今年大学へ入学……ということは、十九歳になるはずだ。誉は今年誕生日を迎えれば三十三歳になる。
ということは……十四歳差か。
今更ではあるが、ひと回り以上も年が離れていることを自覚する。
「……内装は近年リフォームしたらしい」
弁解めいた台詞をこぼすと、ひなたは「しまった」という顔になる。
「す、すみません……さっきから失礼なことを」
慌てふためいた様子で頭を下げる。
「いや、本当のことだ」
「すみません……」
しょげた様子で俯いてしまう。
その様子が可愛いな、などと思ってしまう自分は、きっとどうかしている。もちろん口に出したりはしないが。
不味い、非常に不味いな。
これ以上、彼女と一緒にいない方がいいかもしれない。しかし、この夜道を一人で帰すわけにもいかない。
……やはり、彼女を送っていこう。
自分を送ってくれた相手を、また送るなんて少々滑稽だが、最近世の中は物騒だ。この帰り道に痴漢や引ったくりに遭う可能性は十分にある。
そうだ。これは年長者として、教育者として当然な行為だ。学生の安全を守るだけで、けして邪まな考えで彼女を送っていこうと考えているわけではない。
数秒の葛藤の後、誉は手を差し出した。
「山田さん、荷物をありがとう」
「いいえ……」
手にしていた誉のバッグを手渡した。ずしりとしたバッグを受け取ると、すかさずひなたに釘を刺した。
「あと、少し待っていてくれ」
「? ……はい」
きょとんと目を瞬くが、ひなたは素直に頷いた。
誉はバッグを足元に置くと、ポケットから自宅の鍵を取り出す。慌てているつもりはないが、何故か焦って鍵を取り落としてしまう。
「先生、大丈夫ですか?」
背後から、ひなたの声が掛かる。
「ああ、大丈夫だ」
微かにではあるが、指先が震えている。どうやら緊張しているようだ。
緊張?
おいおい、冗談だろう。十代じゃあるまいし。
自らツッコミを入れるものの、笑えない事実である。そっと鍵を手に取ると、こっそりとため息をついた。
「先生?」
家の中に入っていったと思った誉が、わざわざ玄関に鍵を掛けて出てきたのを不思議に思ったのだろう。ひなたは少し戸惑った様子で誉を見つめる。
「送っていく」
「え?」
案の定、驚いたように大きく目を見開いた。
「行こうか」
「で、でも。先生は怪我をされて……」
「肩以外は健康そのものだ。それに……」
暗い夜道を一人で帰らせるのが心配だから……なんて言えるわけもない。
軽い咳払いをすると、誉はぼそりと呟く。
「夕飯を買いに、コンビニにも寄りたいから」
我ながらもっともらしい言い訳だ。
「あ……あの!」
これで折れると思ったが、ひなたは何かを決意したかのように、表情を引き締める。
「先生、これ……!」
いつの間にか手にしていた紙のバッグを、目の前に差し出した。
「あの、これ、うちのカレーです。わたし、今はカレーとシチューしか作れませんけど、我が家では好評なんです。よかったらお夕飯にしてください。これならレンジで温めれば簡単に食べられますから……あ、ごはんもラップに包んで入っていますっ!」
顔を真っ赤に染めながら、ひなたは一気に言い放つ。
もしかすると、彼女が一旦自宅へ立ち寄ったのは、このカレーを取って来るためだったのだろうか。
予想外の展開に戸惑いつつも、ひなたから紙バッグを受け取る。中には大きなタッパーウェアに詰められたカレーと、ふわりと丸められた白いご飯の塊が二つ入っていた。
ほんのり漂うカレーの匂いに、思わず目を細める。
山田家の夕食を分けて貰うのは非常に心苦しいが、おもち帰り仕様されたカレーを突き返すわけにもいかない。それよりも何より、率直に嬉しかった。
「ありがとう」
誉が礼を述べると、ひなたは嬉しそうに頬を緩めた。
「だからコンビニへ行かなくても大丈夫です」
それはそうなのだが……。
確かにそうではあるが、コンビニへ行くのが本来の目的ではない。
「いや、その…………」
「?」
困り果てた誉は、眉間に刻まれた皺を擦りながら、どう言えばいいかと頭を悩ませる。
「この辺りは外灯が少ないから」
「大丈夫です。いつも一人で帰っていますから」
「いや、うちの周囲は特に暗いから」
「そうですか?」
道に並ぶ外灯を確認するかのように、辺りをきょろきょろと見渡すと。
「うちの近所と、そんなに変わらないような気もしますけど……」
誉がどうにか捻り出した言い訳は、ひなたには通用しないらしい。
心配だからと、ひと言いえばいいのだろうが、余計なお世話だと思われてしまうかもしれない。それに、自分に心配などされても迷惑かもしれないと。
「……夕飯以外にも、買いたいものがあるんだ」
我ながら苦しい言い訳だ。しかし。
「あ……そうですよね。すみません、余計なことを言ってしまって……」
一旦赤味が引いた頬を、再び赤く染めながら、ぺこりと頭を下げる。
少々複雑な気分ではあるが、取り敢えず彼女が納得してくれたのだから、いいということにしておこう。
「では、行こうか」
「はい」
う……。
はにかむような笑顔を目の当たりにし、心臓の鼓動が速くなるのを自覚する。
不味い。不味いぞ。
意思に背いて、ひなたの一挙一動に反応している自分に動揺してしまう。
そうだ。今は怪我をしていて、少々人恋しいだけなのだ。弱っている時にこんな気遣いを受けたら、誰だって嬉しいに決まっている。
これは……違う。この気持ちはそういった類のものじゃない。
自分に言い聞かせるように、誉は何度も何度も同じ言葉を心の中でくり返した。
久し振りの更新になってしまいました。
よろしかったら、これからもお付き合い頂けると嬉しいです。