夏の章・8 不本意な彼女
その後は色々と大変だった。
ひなたの汚れた服は、洗ったところで着て帰れる状態ではなかった。仕方がなく、順也が来てきたTシャツを借り、汚れた服はレジ袋に入れてもらった。しかし、当の本人はますます具合が悪くなってしまい、結局事務室の一角を借りて、そこで休ませてもらっていた。
「山田さん、大丈夫ですかね……」
仕事の合間なのか、休憩に入ったのか。事務所を訪れた順也は、心配そうにひなたの顔を覗き込む。
ベッドなど当然ないので、折りたたみ式の椅子を並べて、無理やり寝かせていた。
「さっきより顔色が良くなってきたから、平気だろう」
さっきまで紙のように白かった顔色も、ほんの少しだが唇に赤みがさしてきた。掛布の代わりに、誉のジャケットに包まれたひなたの胸元が、規則正しく上下している。
「先生、ホントにすみません」
自分が集めた合コンだからだろう。自分が悪いわけではないのに、順也は申し訳なさそうに頭を下げた。
「いや、私は結局何もしていないのだから」
「でも、彼女の面倒、全部先生に押し付けてしまって……」
「気にするな、ぼちぼち帰ろうと思っていたんだ」
まったく、あいつらは! と順也は舌打ちをする。
合コンメンバーであるスポーツマン青年は、誉がひなたの知人だと知った途端、後始末を押し付けて立ち去ってしまった。青年の無情さに怒りを覚えつつも、誉自身もどう対応すればいいのかわからなかった。
右往左往していると、すぐに騒ぎを聞きつけた順也が駆けつけてくれたから助かった。あとは女性店員が着替えを手伝ってくれたりしたが、誉自身は結局何もせずに立ち尽くすばかりだった。
付き添っていただけで、結局何もしなかったのだから、あの青年を責められるような立場ではない。順也の文句を聞きていると、居たたまれたい気分になる。
「あ、そうだ。篠原さんは?」
「あいつは合コンメンバーに説教してやるそうだ」
未成年を酔い潰すとは何事かと、一喝してやらないとね……などと篠原はほざいいたが、本当のところは単純に合コンに加わりたかっただけなのだろう。
そうですか、と順也は相槌を打つものの、その表情はどこか複雑そうだ。
「さっき覗いてみたら、どう見ても楽しそうにしているようにしか見えなかったんですけど……」
「そうか」
あのお調子者め、と誉は苦笑する。
何はともあれ、合コンに参加しなくて済んだのは非常に助かった。ある意味、ひなたのお陰でもあるのだから、彼女に感謝しなければならないだろう。
「そうだ。先生、これ」
思い出したように、手にしていたミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「山田さんに」
「ああ」
「俺そろそろ戻らないといけないんで、すみません。山田さんをお願いします」
「わかった」
部屋から出て行こうとした順也が、ふと足を止める。
「先生」
くるりと振り返って、にやりと笑う。
「送り狼になっちゃダメですよ」
「……っ!」
咄嗟に返す言葉が出てこない。順也にからかわれていることくらいわかっている。だが、順也の台詞はあまりにも予想外だった。
「うわ先生。マジで固まらないでくださいよ。冗談だって冗談!」
順也は人をからかって楽しむ癖があるのは知っていた。だが、まさか自分にその手の冗談を言うとは、夢にを思っていなかった。
誉の反応に満足したかのように、順也は楽しげに手を振る。
「じゃ、先生。よろしくお願いしまーす」
軽い音を立てて、ドアが閉まった。
冗談? そんなことくらいわかっている。
「………………大人をからかうな。莫迦者」
すでにドアの外へ消えた順也に、ぼそりと文句を漏らす。
子供の冗談くらい、軽く交わせないでどうする。
不甲斐ない、と己自身に叱咤する。
誉がこの手の冗談に慣れていないというのも一因だが、まさにこの状況は男が送り狼になってもおかしくないと気づいていたというのも一因だった。
少なくとも、あの合コンメンバーの誰かに送られるよりも、はるかにマシであろう。
「……」
いや待てよ。
欠員補充のためとは言えども、彼女は出会いを求めていたからこそ、合コンへの参加を承諾したわけであろう。……ということは、だ。あのスポーツマン風青年が言う「おっさん」に付き添われるのは、彼女にとって不本意なのではなかろうか?
「…………」
もしかして俺のしたことは、余計なお世話だったのだろうか。
いや、しかしだ。教え子の貞操の危機(?)を守ったのだから、これでよかったのだという考え方もある。
「………………」
まだ眠っているひなたを、じっと見つめる。
今誉が抱えている疑問は、彼女が答えを知っている。だか、こうして眺めていても彼女の本意などわかりやしない。
順也の話によると、ひなたじゃ順也が主催したという合コンに参加していたという。元々彼女は参加メンバーではなかったのだが、急遽ピンチヒッターとして順也が声を掛けた……というわけだったらしい。
ひなたが合コンに参加していると聞いた時は驚いた。誉の勝手なイメージだが、何となくそのようなものには関心がないと思っていた。
このくらいの歳で、興味が無いわけがないか……。
色恋沙汰に浮かた大学生活は送っていないが、初めて彼女というものができたのは、大学に入ってからだった。
酒だって、かなり無理な飲み方をしたものだ。よく急性アルコール中毒にならなかったと思うが、もう今は絶対にしたくない飲み方だってよくしていた。
「……………………はあ」
疲れを感じ、誉は適当な椅子を引っ張り出した。座り込んで、軽いため息を付く。
「せん、せい?」
突然、まだ覚醒しきっていない便り気な声が耳に届いた。当然、声の主は一人しかいない。
「山田さん……?」
顔を上げると、椅子の上で横たわっていたひなた双眸が、ぼんやりと誉を見つめる。
「具合は?」
慌てて腰を上げると、ひなたの元へと近寄った。
「……さっきより、平気です」
「小原くんが水を持ってきてくれたが、飲むか?」
「いただきます」
そう答えると、ひなたはのろのろと身体を起こした。
顔色はまるで紙のように白く、表情も疲れきったように気怠い。ようやく起き上がったものの、姿勢を保つのも難しいようだ。ぐったりと椅子の背もたれに身体を預ける。
「ほら」
誉がタイミングを見計らって、冷えたペットボトルを手渡した。
「ありがとうございます」
こんな時でも律儀に頭を下げると、ようやく水を口にした。
「これからは、気を付けて飲みなさい」
「はい…………ごめんなさい。汚くて……」
ひなたは項垂れると、すん、と鼻を啜る。
まあ、人前で吐いてしまったのは、本人としても不本意だよな……。
誉とて、相手がひなたではなければ逃げ出していたかもしれない。
「大丈夫だ。気にするな」
何か気の利いた言葉を掛けてやれればと思ったが、結局うまい言葉が見つからず、月並みな台詞を口にしていた。それだけだと間が持たなくて、小さな子供にするように、屈んで視線を合わせると、ひなたの頭を軽く撫でる。
「……っ」
すると、急にひなたの瞳が潤んで、今にも泣き出しそうな顔になってしまった。しかし、泣くものかと必死に堪えているのだろう。両の目をあらんばかりに大きく見開いて、涙が溢れないように耐えている。
うわ。
咄嗟に、ポケットからハンカチを出していた。多少皺だらけだが、汚くはない。無言で手に握らせると、ひなたはハンカチを受け取り、最初のひと雫をぽたりと落とした。
「先生、わたし……」
誉のハンカチを堅く握り締め、二粒目の涙を膝の上に落とした。