春の章・3 雨の中、空色の傘の少女と
修正版、第3話です。
正門を出て、並木通りを過ぎれば大通りだ。大学と駅を挟むように横たわる二車線の通りは、主要道路と連絡していることもあり交通量は多い。だからタクシーも簡単に捕まるだろう。そうタカを括っていたが、必要な時に限ってなかなか現れない。
道で待つこと約十五分。寒空の下、いつ現れるかわからないタクシーを待ち続けるのは少々辛い。
やっとタクシーが現れたと思っても、すでに客を乗せているので、誉の目の前を素通りしていく。走り去るタクシーを見送る度に、なんとも物悲しい気分が押し寄せる。
「……参ったな」
胸に詰まったもやもやをため息と共に吐き出すと、たちまち眼鏡のレンズは真っ白に曇る。
タクシーはまったくつかまらない。荷物は重たい。一度大学に戻ろうかと思った矢先だった。
ぽつん。額に冷たいものが当たる。何だろうと思い、空を仰ぐと今度は眼鏡の上に落ちてきた。
「雨……?」
気が付くと鉛色の分厚い雲が、頭上を覆うように広がっている。
天気予報をチェックしていなかったと思い出すが、どこからともなく冷たい風が吹き抜け、ぱたぱたと雨粒が落ちてきた。
急な雨に驚きながら、折り畳み傘を出そうとバッグの中を探るが……無い。今日に限って折り畳み傘を忘れてしまったのだと気付いたのと同時に、足元に置いたままの本の存在を思い出す。
反射的に本が詰まった紙手提げ袋を両腕に抱え上げる。ただ「本が濡れてしまう」という思いだけで動いた時だった。
それは突然だった。ふと目線を上げると、空色の傘が眼前に迫っていた。
ぶつかる。身構えるが遅かった。
「!」
「きゃあ!」
身体に強烈な衝撃と黄色い悲鳴。ぬかるんだアスファルトの上に転倒した途端、身体に圧し掛かる重量と、顔に押し付けられた熱い物体。痛みと熱さと驚きがごちゃ混ぜになって声も出ない。
「いたたぁ……」
耳の傍で声がする。痛いのはこっちだと思いつつ、痛みと重みを堪え、きつく閉じていた瞼を開く。
視界が悪い。掛けていたはずの眼鏡が無いらしい。ぶつかった時に吹っ飛んだのだろう。
そのぼやけた視界に最初に入ってきたのは、重たげな黒い髪だった。濡れて白い頬に張り付いた髪を払い退けもせず、黒髪の主はのろのろと身体を起こす。
第に強くなる雨に塗れそぼる黒髪。白い頬に張り付いた様子は、ちょっとしたホラーである。
いくら視力が低くても、これだけの至近距離だ。相手は妖怪変化やホラー映画に出てくるような幽霊でもなく、この近辺にある高校に通う学生だとわかる。
しかし女子高生という生き物は、ある意味妖怪や幽霊よりも得体が知れない。
「ご、ごめんなさい!」
誉が声を掛けるよりも早く、我に返った少女は弾かれたように跳ね起きた。慌てて誉の上から降りると、今度は悲壮な声を上げる。
「ああ! わたしのコロッケが!」
コロッケ?
誉が身じろいだ途端、胸元から茶色い物体がが転げ落ち、濡れたアスファルトの上に「ぼたっ」と落ちた。
もしや、さっきの熱い物体はこれであろうか?
どうやら彼女はコロッケを買い食いし、前方不注意で激突してきたのだろう。身体を起こし、鼻先に触れてみると、ぬるりざらりとした感触が。コロッケの油とパン粉がべったりと付着していた。
彼女はまだコロッケが駄目になったことがショックなようだ。しかしこちらはコロッケどころではない。
「申し訳ないが……どいてもらえるかな」
「え、あ! す、すみませんっ!」
顔に張り付いた髪を払い除けもせず、誉の上から飛び退いた。ようやく重石が無くなった。続いて誉も必死に起き上がろうとするが、腰に力を入れたに途端、再び激痛が襲い掛かる。
「あの、大丈夫ですか?」
少女は、恐る恐る手を差し伸べる。
小さな手。細い腕。普段なら自分の力で何とかしようとするが、今は誰かの手助けはありがたかった。少女は両手で誉の手をしっかり掴むと、渾身の力で誉の身体を引き起こした。
どうにかこうにか、やっと誉が立ち上がった頃には雨は本降りになっていた。
そうだ。本は?
いつの間にか手にしていた紙手提げ袋が消えている。不明瞭な視界を見渡す。案の定、本は紙袋から無残に四方八方に散らばっていた。冷たい雨の洗礼を受けているではないか。
途端、食い意地の張った女子高生のことなど頭の中から消し飛んだ。
本が……濡れてしまう!
眼鏡を探している暇など無い。0.1以下の視力の目を凝らし、腰の痛みに耐え、早春の冷たい雨に身震いしながら、本を必死に回収する。
腰を屈めるたびに激痛が走る。心頭滅却すれば火もまた涼し、の精神でどうにかなると思ったが。
「くっ……!」
やはり痛い。滅却しても痛いものは痛い。しかしこのままでは本は通行人に踏みつけられ、容赦ない突き刺さるような冷たい雨が追い討ちを掛ける。
「あの、本が……」
気弱そうな声。誉はのろのろと顔を上げて驚いた。
意外だった。もうとっくに立ち去ったと思っていた。さっきの女子高生が、濡れた本を抱えていた。
「結構濡れてしまいました……ごめんなさい」
本以上に、少女の身体もずぶ濡れだった。濡れた黒髪を頬に張り付けたまま、怯えたように俯いている。
少女にも非があるとは思うが、誉自身にも無かったわけではない。しかも彼女はこうして深く詫びているのだから丸く収めるのが大人の対応だと思う。
しかし今の誉は理性的に対応するにはあまりにも余裕がなかった。苛立ち交じりに顔を上げると、少女の怯えた視線とぶつかる。
駄目だ。今は感謝の気持ちなど欠片も沸いてこない。
「……どうも」
少女の手から本を奪うように受け取ると、投げやりな気分で転がっていた手提げ紙袋に手を伸ばす。転んだ拍子に取っ手は千切れてしまっているが、防水加工されているから一応はまだ使い物になる。
「あの」
黙々と本を詰めていると、頭上から声が掛かる。
まだいたのか。
少女の存在には気付きながらも、そのうち立ち去るだろうと知らん振りして作業を続ける。
「ホントに、ごめんなさい」
頭上から少女の声が落ちてくるのと同時に、ふわりと開いた傘が被せられた。
急に動こうとした途端、またもや痛みが邪魔をする。ようやく誉が立ち上がった頃には、雨は本格的に降り出していた。突然の雨に慌てふためく人々の間に少女の姿を探す。だが雨はますます雨脚は強まり、アスファルトを容赦なく叩きつける。
こんな雨の中を、傘も差さずに……。
今更になってどうかと思う。相手は高校生。未成年相手に大人げがない対応をしてしまった己自身に罪悪感が疼き出す。
降りしきる雨は誉の視界を覆うように、さらに激しく振り続けた。