夏の章・1 この疑問、しばらく保留
同じ敷地にいるのだから、顔を合わせることくらいあるだろう。
しかも彼女は、ここの学生だ。どこであってもおかしいことなど、何ひとつ無い。
何度自分に言い聞かせたことだろうか。
「あ、山田さんだ」
唐突にこの名前が出てくると、いまだに緊張してしまうのは何故だろう。
「誉くん、ほらあそこ」
カレーうどんを突いていた箸で、入口付近を指し示す。
「やめろ。カレーが飛ぶ」
あからさまに顔を顰めながらも、篠原が指し示した方向を盗み見る。
いるな、確かに。
人混みの中で、山田ひなたの姿を見つけた。
彼女も今日の昼食は学食らしく、丼を乗せたトレイを手にし、辺りをきょりきょろと見回している。
「席、探してるっぽいよ」
「ああ」
ちょうど昼食時だ。学食は利用する学生や教職員でごった返していた。だがあまり長居する者もいないので、少し待てば席はすぐに空くだろう。
「あ」
向かいの席に座る学生が席を立った。
空いたな。
ひなたに声を掛けようかと一瞬迷う、その時だった。
「おーい! 山田さん。こっちこっち」
篠原が大きな声で、立ち往生している彼女に声を掛けているではないか。
呼ばなくていい、本当に呼ばなくても!
心のの中で叫ぶものの、実際叫べるわけもなく。当然篠原に、そんな誉の心の叫びなど知るよしもない。
別にひなたが嫌なわけではない。
……単にあれだ。今まであらぬ誤解を彼女に対して抱いていたせいだろう。誤解だったとわかった今でも、つい身構えてしまう。ただそれだけのことだ。
それにここは学食で、今は昼時なのだ。
学生である彼女と顔を合わせる可能性は十分あるわけであり、いちいち気にしていたら身が持たない。
そうだ。今更何を意識する必要があるというのだ。
自らに言い聞かせているうちに、ひなたとが人混みをかき分け、誉たちの座るテーブルへと辿り着いた。
「篠原さん、ありがとうございます」
ひなたは、ぺこんと頭を下げた。手にしたトレイには、きつねうどんがのっている。
「さあどうぞ、お嬢さん」
篠原はにこにこしながら手招きをする。
「はい、では遠慮な……あ」
ここに来てようやく誉の存在に気付いたらしい。ひなたは驚いたように、僅かに目を見開いた。
「こんにちは」
はにかむような笑顔、というのはこのことを言うのだろう。
「ああ……こんにちは」
つい素っ気なく返してしまい、軽く自己嫌悪に陥りそうになる。
「先生も、きつねうどんですね」
真向かいの席に座りながら、控えめな口調で話し掛けてくる。
「……ああ。ここのきつねうどんは美味いから」
「へえ、そんなに美味しいんですか?」
嬉しげに声を弾ませる。いただきます、と小さく手を合わせ、ひなたは箸を取った。
しかし……彼女もずいぶんと、慣れてきたものだな。
ぎこちないながらも、誉に対しても笑顔を向けてくるようになった。
怯えられるよりも、ずっといいことであるはずなのだが、柄にもなく動揺してしまう。
動揺?
ふと引っ掛かりを覚え、首を捻る。
……どうして動揺なんてしているんだ、俺は。
しかし、その疑問に対しての答えが浮かばない。
まあ、いいか。
考えても、わからないことはわからない。つまり、今わかる必要がないということに違いない。
誉は無理やり己を納得させると、少しのびてしまったうどんに再び箸を付けた。
ちょっと短めですが、夏の章を始めました。