春の章・最終話 ひなたの告白
何を動揺している?
篠原に余計なことを言われたせいに違いない。
――誉くんもいいんじゃない。教え子。
いやいや! 駄目に決まっているだろう!
あの莫迦の戯言に感化されているんじゃない!
頭に浮かんだ邪念を振り払うと、こっそりと咳払いをしてから。
「……どうぞ」
平坦な声で答えると、ゆっくりとドアが開く。
「こ、こんにちは」
ひょっこり顔を出したのは、案の定というべきか、予想通りというべきか……とにかくやっぱり山田ひなただった。
緊張気味の口調、ぎこちない、はにかむような笑顔。彼女はいつもこんな調子であるのはわかっているのに、篠原の余計な言葉のせいで、つい余計に意識してしまう。
「ああ……こんにちは」
挨拶を返しながら、ふと気が付く。
今日、彼女の仕事は無いはずだ。どうしてここに来たのだろう――と考えているうちに、いつのまにか彼女は誉の目の前に立っていた。
「あの……今、お時間いいですか」
覚悟を決めたような面持ち。薄っすらと紅潮した頬。緊張したように小刻みに震える手。
「ああ」
どくん――と、心臓が大きくなる。
不味い。
何が不味いのかわからないが、とにかく不味い。
「や――」
やっぱり用事があると告げようとしたが、ひなたが口火を切る方が早かった。
「先生! 今日は折り入ってお話があります」
いつになくしっかりとした口調に驚く。
「話とは?」
心臓がどくどくと打ち続けるが、耳に届いた自分の声は相変わらず素っ気ない響きで安堵する。
そうだ。彼女が何を言おうと、年長者である自分が冷静に対処すればいいまでのこと。
冷静になれ。落ち着け自分。
彼女が何を言おうと、自分させ落ち付いていれば問題は無い。
息を吸い込み、机の上で軽く手を組むと、さあ来いと言わんばかりに身を乗り出した。
「じ、実はわたし……」
ひなたは一気に頬をさらに赤く染め上げると、誉の視線から逃れるように視線を泳がせる。しかし、それではいけないと思ったのだろう。覚悟を決めたように、大きな瞳を誉に向ける。
「わたし! あの! ごめんなさい!」
勢い良く頭を下げる。
――ごめんなさい?
彼女が謝る理由がわからず、誉はぽかんとしてしまう。
顔を上げると、こちらが居た堪れなくなるような表情を浮かべている。誉もどうすればいいのかわからず、内心おろおろしながら彼女を見守っていると、迷いを振り切るように眼差しを強くする。
「……先生、入学式の前に女子高生とぶつかったの、覚えていますか?」
「女子高生?」
問われたものの、咄嗟には思い出せない。
「コロッケと、先生の本」
あ、と思わず声を上げる。
「先生にぶつかって、コロッケをぶつけて、本を駄目にしちゃったのは……わたしなんです!」
ひなたは一気に言い放つと、もう一度頭を下げた。
「最初にお会いした時から気が付いていたんです。でも……怖くて…………あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
思いもよらないひなたの告白に、誉はしばらく呆気に取られていたが、じわじわと当時の状況を思い出す。
雨粒が散ったレンズ越しに見えた、怯えた女子高生。すでに顔など覚えていない。ただ、畏縮するように誉を見つめる瞳だけは脳裏に焼き付いていた。
九十度の角度でお辞儀をしたままの、ひなたの栗色の頭を見つめながら、これまでの彼女の態度を思い出す。
極端に怯えたような様子だったのは、時折何か言いたげにしていたのは……。
ああ、そうか。
ずっとこのことを詫びたかったのだ。彼女は。
それなのに、彼女が自分に好意を抱いていると勘違いをしていたとは。
「…………」
額にへんな汗が滲んできた。何だか顔まで熱くなってきた。恐らく赤面しているだろう。
「………………」
口元を手のひらで覆うと、堪らず嘆息する。
なんという勘違い。
なんという自惚れ。
考えてみればわかることだ。こんなにも若い彼女が、十以上も歳が離れた男をそのような対象にするわけがなかろうが。
色々と思い起こすと、穴があったら入りたくなるほど恥ずかしい。
「あの……先生」
ひなたが顔を上げようとする気配を感じて、誉は焦る。こんな真っ赤な顔を見られるわけにはいかない。
素早く椅子から腰を上げ、身を乗り出し、伸ばした手を彼女の頭の上に置いた。びくっと彼女の肩が跳ね上がる。一瞬「セクハラ」の文字が頭を掠めるが、そのまま彼女の柔らかな髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「せ、先生?」
「山田さんは…………良い子だな」
黙っていれば、そのままやり過ごせただろうに。
「へっ?」
「いや、あの……」
おい、何を言っているんだ。ほら、彼女も戸惑っているじゃないか。
「そうではなく……」
ああ、どう言えばいいのだろう。
そんなこと気にしなくてもいい、とでも言えばいいのだろうか。それも違うような気がする。
じゃあ、何を言えばいい?
雨の中、彼女が傘を残して立ち去った後、何を思った?
どうすればよかったと、後悔しただろう?
「……あの時は」
ゆっくりと思い起こしながら、素直な気持ちを口にする。
「私も不注意だったんだ。私の方こそ……申し訳ない」
「いいえ、そんなことは!」
頭を撫でる手を止めると、ぽんと軽く叩き、ゆっくりと手を離す。
「………山田さん」
「はい?」
ひなたが顔を上げるタイミングを見計らって、くるりと背を向ける。まだ熱の引かない顔を見られたくなかったからだ。
「……傘を、ありがとう」
助かったと付け加えるように呟くと、背後でふわりと笑ったような息遣いが耳に届く。
「いいえ……お役に立てたなら嬉しいです」
――彼女の方が、案外大人かもしれないな。
火照ったままの頬を撫でながら、入る穴が本当にどこかにあったらいいのにと、我ながら莫迦げたことばかりを考えていた。
春の章、これにて終了です。お付き合いありがとうございました。
最初に書いた春の章よりは、ずいぶんと長くなってしまいました。
あと、飛沢父の再婚相手と、ひなたとの最初の出会いについても、どうにか消化できたのではないか…(消化できたのかな?)と思っております。
次回は夏の章が始まります。夏といえば恋の季節(?)ですので、二人の仲を進展させたいと思っております。