春の章・19 父の再婚相手
今日の待ち合わせは、東京駅からほど近い割烹料理店だ。
午後六時に予約を取ってあるから、十分前に店の前に到着すれば十分であろう。
ここからの所要時間は、約一時間。徒歩を含めて一時間十五分というところか。
現在、午後二時五十五分。支度は三時半には終わるだろう。しかしせっかく都心部に出るなら書店に立ち寄りたい。三時半に家を出れば、四時四十五分……いや四時五十分としておこう。目当ての書店から割烹料理店までは十五分もあれば移動できる。
書店での滞在時間は約四十分。
よし。
計画を立てながらひた歩き、帰宅をするなり誉は浴室へと直行した。
シャワーを浴び、歯を磨き、髭を剃り、所持している中で比較的新しいスーツを身に纏った。
ワイシャツは多少皺が寄っているが、上着を着ていれば目立たない。ネクタイを締め、適当に髪を整え、セルフレームの眼鏡から銀フレームのいつものものに変える。
「……よし」
髪を切りに行けばよかったと後悔するが、今更考えても仕方がない。
あとは財布と携帯電話をポケットに突っ込むと、慌ただしく家を出た。
別にわざわざ会食の前に本屋などに行かなくてもいいだろう。言われてみれば(誉自身のツッコミなのだが)その通りなのだが、どうも気が進まないせいだろうか。目の前に自分自身へのご褒美的なものをぶら下げておかないと、回れ右で逃げ出したくなりそうな気がしていた。
父圭介が選んだ相手と会うのが、正直怖い。
取って食われるわけじゃないことくらいわかっているが、漠然とした不安が心を覆うとでも言うのだろうか。
いや……そうじゃないか。
亡くなった母親の存在が、父の中から消えてしまうのではないかという不安、恐れだろうか。
それも違うな。
単純に嫌なだけかもしれない。母親以外の女性を伴侶とするという行為自体が。
「…………はあ」
大型書店の真ん中で、誉はひっそりと嘆息する。
俺はガキか。
思春期の少年ならいざ知らず、三十路に足を踏み入れた男が何を言っている。
以前から気になっていた本があったというのに。
これから購入しようとしている本を抱えているというのに、一向に心は浮き立たない。
こんなにもたくさんの本に囲まれているというのに。
活字中毒の誉は、ジャンルに問わず書店や図書館といった山のような本に囲まれるだけで心が躍る。本の森の中でなら一日中だって過ごしていられる。
なのに。
「…………ふう」
二度目の嘆息をすると、腕時計を見る。
五時二十五分か。
あと五分時間が残っているが、諦めて店へ向かうとしようか。
三度目の嘆息の後、誉はレジへ向かった。
重たい紙袋を片手に提げて歩くこと十五分。店の前に辿り着いた。
一見オフィスビルかと思いきや、一階のエントランスにあたる場所に日本家屋風の門が鎮座していた。
……ここか?
門に掛かった提灯には立派な筆文字で店名が記されている。
ここで間違いないはずだよな。
門の奥には着物姿の店員が待ち構えている姿が見える。あちらにも誉の姿が見えているらしく、中に入って来るのを待ち構えているようだ。
待ち合わせは店の入り口で、という約束になっているが、少々居心地が悪い。煙草でも吸っていれば手持無沙汰にならずに済んだかもしれないが、生憎喫煙はしていない。
数歩、店員の視界から逃れた場所へ移動すると、携帯電話を上着のポケットから取り出した。メールチェックでもしながら時間を潰そうと思ったものの、一件も受信されていない。
買った本でも読むか。
紙袋をまさぐり、適当な一冊を取り出した。
休日のオフィスビル群の中のせいか、都心部であるにもかかわらず周囲は薄暗い。唯一店から零れる灯りが周囲を照らしているが、温かみのある赤味を帯びた灯りの下の読書は不向きのようだ。
数ページ頑張ってみたが、これ以上視力が落ちても敵わない。諦めて本を閉じた丁度その時だった。
「――誉?」
聞き馴染んだ声に気付いた誉は顔を上げた。
「父さん」
「ずいぶん早かったんだね」
「ああ、まあ……」
小さく手を振りながら歩み寄って来る父の姿に、思わず目を瞠る。
見慣れないグレイのスーツ。恐らく新調したのだろう。髪はすっかり白髪と黒髪が半々に入り混じっているものの、若い頃からほぼ体型が変わらない圭介は、遠目で見ると実年齢よりも若く見える。
もしかすると、誉よりも若々しいのではなかろうか。
やっぱり髪を切って、新しいスーツを用意しておくべきだったかもしれないと思うが後の祭り。
まあいい。
洒落っ気が無いくらいで、父の再婚相手の印象を悪くすることは無いだろう。
「で、相手は?」
一緒に来るものかと思っていた。周囲を見渡すが、それらしき女性は見当たらない。
「少し遅れると連絡があって――ああ、着いたようだ。友紀さん」
圭介は誉の背後に視線を移すと、嬉しげに手を振る。
「圭介さん、ごめんなさい――」
駆け寄って来る女性の声は、案外若々しい。背後からカツカツとヒールの踵を鳴らす音の方向へ振り返る。
「――っ?!」
黒いパンツスーツ姿の女性が、肩を覆う黒髪をなびかせながら駆け寄って来る。年齢は誉とほぼ同世代といったところであろうか。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい」
女性は誉と圭介の目の前で止まると、弾んだ息のまま、ぺこりと頭を下げた。
「大丈夫。僕もついさっき着いたところだから」
「あら、よかった」
圭介の言葉に、安堵したようにほほ笑む。
一見すると化粧が濃いように見えたが、近くでみると案外薄化粧だ。元々目鼻立ちがはっきりしているせいだろう。黒いシンプルな、だがシルエットは女性らしさを感じさせるパンツスーツ。髪も毛先に軽くパーマを当てているが、髪の色自体は生まれ持ったままだ。
……美人だな。
切れ長の大きな瞳。華奢だが付くべき部分には、しっかりと付いている均整のとれた身体。
再婚相手の娘だろうか。
相手にも子供がいてもおかしくはない。こうして誉が面会の場に呼ばれているのだから、相手の息子か娘が同席しても、なんらおかしなことはない。
「始めまして。飛沢誉と申します」
自己紹介をすると、友紀と呼ばれた女性はくすりと笑う。
「廣瀬友紀です。誉さんのことは、圭介さんからいつも色々と伺っているんですよ」
「父から?」
「はい」
友紀は嬉しそうに頷く。
すでに再婚相手とは家族ぐるみでの付き合いだったというのか。
軽い疎外感を覚えるが、今更気にしたところでどうにもならないことくらいわかっている。
大人げないぞ。
誉は軽く息を吐くと、再び周囲を見渡した。
「ところで、お相手の……あなたのお母様はどちらにいらっしゃるのでしょう」
娘が来ているというのに、当事者である母親が不在とはなんたることか。しかし、友紀は不思議そうに首を傾げる。
「私の母? どうして?」
「どうしてって……父の結婚相手はあなたの……では?」
二人が顔を合わせ、ちょっと困った顔になる。
何かおかしなことを言っただろうか。誉が戸惑いの表情を浮かべると、おずおずと友紀が口を開いた。
「あのですね……それ、わたしです」
「え?」
思わず父圭介を見る。すると圭介は、照れ臭そうにこめかみを掻きながら言った。
「誉。彼女がその、お相手だよ」
「……え?」
何度も訊ねるほど莫迦ではない。父圭介と、友紀が言わんとしていることはわかる。だが、頭がそれを拒絶して、理解をさせてくれない。
茫然としている誉の前で、友紀は圭介と肩を並べ、満面の笑みで驚くべき事実を言い放った。
「わたしが圭介さんの結婚相手です。よろしくお願いします」
今度は深々と頭を下げる。
……嘘だろう?
自分と大して年齢が変わらない相手が、父の再婚相手だって?!
己の耳を疑ったが、紛れもない事実のようだ。
何かの悪い冗談か、これは。
「これは……失礼をしました」
誉は頭を抱えたいほどの衝撃を受けたが、日頃の鉄面皮のお陰で相手に気付かれることなく済んだのは助かった。
あれほどコンプレックスだった表情の乏しさに、感謝する日が訪れるとは。
世も末だな……。
誉はひっそりと独ごちた。
誉くん、衝撃のご対面でした。