春の章・2 ひとり暮らしを始めたものの
修正版2話です。
それにしても、父さんは一体どこでそんな相手を見つけたのだろう?
父圭介の職場は、自宅から自転車で二十分たらずの公立中学校だ。そろそろ管理職についてもおかしくはい年齢ではあるのだが、まだ現役として教壇に立っている。
今年度は一年生のクラスの担任で、文化部の顧問もしている。中学校は年中行事も多く、多感な年頃の生徒を相手にするのは、 想像するだけでも気苦労が多そうだ。顧問をしている部活も、文化部……何部だったか忘れてしまったが、なかなか活動的な部であるらしい。
毎日部活にも顔を出し、休日も持ち込んだ仕事をし、暇があれば我が家の家庭菜園の世話をしたりと、どう考えても女性と付き合っている様子はなかった。
気になるなら本人に尋ねればいいのだが、根掘り葉掘り聞くのも気恥ずかしい。再婚の話をされた時に、勢いで尋ねればよかったのだが、朝の忙しい時間帯だったということもあり、タイミングを逃してしまった。
だがまあ、いずれわかることだ。今聞いたからどうなるわけではないのだから、急いで確認する必要もないだろう。
それよりもだ。圭介が再婚するということは、恐らく、いや間違いなく相手はこの家に住むことになるだろう。
ひとり暮らしでも、しようか。
いい加減、独立してもいい歳だ。独り身の父親を一人にはできないと思ってきたが、どこか甘えの気持ちもあったのかもしれない。そう決意すると、いつもは素通りしていた不動産屋の物件情報が自然と視界に飛び込んできた。
「和室六畳二間、台所三畳。四畳半の納戸と、風呂とトイレ別……か」
窓ガラスに貼られた物件情報に足を止め、まじまじと見入ってしまう。
しかもアパートやマンションのような集合住宅ではなく、一戸建ての借家である。しかも小さいながら庭もあると記していある。
しかし、これで家賃が八万五千円というのは、はたして安いのか、はたまた高いのかがわからない。
この辺りの相場はいくらなのだろう……。
「だが、一戸建てというのが魅力だな……」
思わず一人ごちると。
「でしょう? お客さん」
突然、耳元で話し掛けられ飛び上がりそうになった。
「あのさあ、どうしてこんな時期に、よりによって年度末の忙しい時期に引っ越しちゃったわけ?」
誉の職場である大学の、文学部事務室の職員である篠原真人は、不満を隠しもせず、つっけんどんに訊ねる。
「色々あってな」
父が再婚するからだとは、人には少々言いにくい。言葉を濁すと、篠原は面倒臭いと言わんばかりに憂鬱そうに文句を言い出した。
「できればもうちょっと早く書類出して欲しかったな。やっと仕事が落ち着いてきたっていうのに、少しは職員の手間も考えて欲しいんだけど」
「それがお前の仕事だろうが」
「うわ、偉そう! 誉くんのくせに生意気だ」
「一体それはどういう意味だ」
怪訝そうに目を細めると、篠原は誉よりもさらに鬱陶しげに目を細くする。
「いちいち真に受けなくていいから。冗談冗談、冗談ですよー」
人を小馬鹿にしたような態度は如何なものか。しかし、いつものことだから大して気にはならない。毎度のことである。軽いため息ひとつでやり過ごす。
「ちょっと待ってて。今書類出すからさ」
ぶつぶつと文句を言いながらカウンターの引き出しから書類を引っ張り出した。何種類か書類をクリップで留めると、誉にずいと差し出す。
「じゃあこれ。今週中に提出だから」
「ああ、わかった」
「どうせ不動産屋の口車にまんまと乗っかっちゃったんでしょ」
「…………」
ふと言い澱む。篠原の言うとおり、口車に乗ったと言えなくもない。
父の再婚話を聞いた当日、なんとなく不動産屋へ立ち寄った。偶然良さそうな物件があったものだから、つい賃貸契約を交わしてしまったのだが、実は誉自身が一番驚いていた。
「それにしても、またどうして急にひとり暮らし?」
「別に。大した理由はない」
「あ、できたんだ。ずいぶんと久々じゃない?」
「できた? 何が?」
「彼女だよ。彼女ができたんでしょ? だからひとり暮らし始めた。違う?」
なんて短絡的な。無意識のうちに眉間に皺を寄せる。
「あのな……」
篠原も誉と同い年の三十二歳。いい加減、浮かれた学生のような話題を、しかも職場でするのは如何なものか。
「何でも色恋沙汰に結び付けるというのは、どうかと思うぞ」
「でもさ、この歳で実家を出てるっていったら、普通は彼女ができて、そろそろ結婚って……普通思うじゃない?」
「普通がどんなものかは知らんが、違う」
誤解がないように、きっぱりと言い放つと、篠原はあからさまに同情の眼差しになる。
篠原め、そんな目で俺を見るな!
憐れむような視線に耐えかね、さっさとこの場から退散しようと書類を無造作に鞄に突っ込んだ。
ちなみに彼女いない歴は、この三月で五年目に突入。しかも父親に結婚まで先を越されてしまったなどとは口が裂けても言えないし言いたくもない。
「飛沢先生、今度合コンでも開いてあげようか?」
「断る」
力強く即答する。
「でもさあ、このままじゃ一生彼女できないよ」
「大きなお世話だ」
脊髄反射のように即座に撥ねつけ、逃げるような早足で文学部事務室を後にした。
ここだけの話であるが、篠原真人とは高校時代からの友人である。そこまで親しかったわけではないが、昔から何かとちょっかいを出したがる男であった。悪い奴ではないが、マイペース過ぎて少々振り回され気味だ。
お互い歳を重ねたのだから、学生の頃とは違う関係を築けるだろうと思っていたが、人間というものは本質的な部分はそう簡単にはかわらないらしい。
まさかこの歳になっても、奴に振り回されっぱなしとは……。
ふう、とため息を付く。眉間に触れると、深い皺が刻まれている。半ばトレードマークになっている皺をリセットしようと指で擦るが、そう簡単には消えてくれない。
ようやくエレベーターに辿り着き、小さな空間へ足を踏み入れた瞬間、篠原の声が引き止める。
「飛沢先生、ちょっと待った!」
半分閉じかけたエレベーターの扉を足を突っ込みこじ開けると、両手に持った大きな手提げ紙袋を誉の足元に重たげに置いた。大きな二つの手提げ紙袋には、いっぱいに詰まった本の山。
「じゃあ、お疲れ様です~」
茫然とする誉の目の前で、扉が閉じる。
これは……。
手提げ紙袋に入っていたのは、篠原に貸していた童話や神話をはじめとしたあらゆる誉の蔵書であった。
幼い頃に少ない小遣いをこつこつ貯めて買い集めたもから、個人的に買い集めたもの、研究費から購入したものとが入り混じっている。
幼い頃は童話が好きで、そのうちグリム童話の初版は自分が知っているものは違うと知って興味が深まり、それが講じて西洋文学に興味を持ち、大学で専攻し、めぐりめぐって運良く教員として大学に所属している。
長きに渡り関連著書を収集していたせいもあり、誉の蔵書は恐ろしい量まで膨れ上がっていた。その中には専門的な書物もあれば、素人受けする代物も含まれていた。どうやらその素人受けする書物を、篠原にいつの間にか持ち出されていたようだ。
持ち出されて気づかなかった自分自身にも非があるのだろうが、勝手に持ち出す方も方である。
……篠原め。
何もわざわざ大学に持って来なくてもいいだろう。自宅にさっくり返却してくれればいいものを。しかもだ。人が帰路に着こうとしている時に渡さなくてもいいのではなかろうか。
まったく、こんなに重たい荷物をどうしろというんだ。
手提げ紙袋の中に、これでもかと詰められた本の量を見て、思わず眉を潜める。
自宅に持ってくるなり、宅配便で自宅に送るなり、他にも返す手立てがあるだろうに。気が利かない奴だ……などと考えているうちに、エレベーターは一階へ到着した。
「っ……!」
両手で持ち上げた手提げ紙袋は、恐ろしいほどの重量だった。篠原の奴、よくこんなに重いものを軽々と持ってこれたものだと感心しつつ、取り敢えずエレベーターから本の山を引きずり降ろした。
こんな重たいものを、自宅まで持って帰れるだろうか? いや帰れるはずがない。とはいえども、今更研究室へ戻るのも面倒だ。しかも研究室のある棟へ戻るのは、ここからは少々遠い。
「…………よし」
決めた。もって帰ろう。
この安易な考えが大間違いだったと後悔することも知らないで、荷物の重さによろけながら歩き出した。