春の章・16 飛沢先生の取り越し苦労
誉はしゃがみ込んだひなたの正面でゆっくりと膝を折る。
ひなたが気付くよりも先に、チビ太が尾を振って寄って来た。チビ太の頭を撫でると、ひなたは驚いたように湿った睫毛を瞬かせるが、怯えたように目を伏せてしまう。
誉は必死に頭を捻りながら、雨垂れのように切れ切れに言葉を紡ぐ。
「私が、勝手にあげたわけであり、だから……買いに行く必要は無い。よって新しい弁当など必要は、無くても大丈夫というわけであり……」
「……はい」
一応は耳を傾けてくれているようだ。ひなたは、誉の言葉が途切れる度に、いちいち丁寧に相槌を打つ。
「山田さんが謝る必要は全くないわけで……むしろ私の方が……あれだ、その……」
自分の何に彼女が怯えているのか見当が付かないせいもあり、言葉を選ぶのも慎重になってしまう。お陰で何を言っているのか、さっぱりわからなくなってきた。
「だから、その……だな」
チビ太は高齢だから、あまり油っこいものはやらないようにしているのだと言っていたのに、知らないとはいえ与えてしまったのは自分だ。
そうだ。そうだった。
「余計なものを食わせてしまって、申し訳ない」
誉は頭を下げる。
「せ、先生!?」
途端、ひなたは慌てたように顔の前で手を振った。
「そんなことないです! 先生のせいじゃありません!」
「いや、そんなことはある。私も不注意だった」
「いえ! わたしとチビ太が悪いんです!」
何度か押し問答をしているうちに、この状況が可笑しくなってきた。
「……堂々巡りだな」
「そ、そうですね……」
力が抜けたような苦笑を漏らすと、同調するようにひなたもくしゃりと笑う。
……笑った?
もしかすると、彼女の笑顔を目にするのは初めてかもしれない。
これまで怯えたような顔ばかりしか見ていない。それどころか、こうして顔をつき合わせて会話をするのすら始めてなのかもしれない。
ほんのりと紅潮した頬を、うっすらと覆う産毛が陽射しを受けて柔らかく光っている。
今日は化粧をしていないと、わかるくらいの至近距離。普段よりも幼い印象ではあるが、まだ肌が十分に綺麗なのだから化粧などしない方が彼女にはよく似合っているのではなかろうか。
まるで桃みたいだな。
ぼんやりと、そのような感想を思い浮かべた時だった。
「あの……何か顔に付いていますか?」
ひなたに不思議そうに訊ねられ、誉はようやく我に返る。
「ああ、いや……別に何も」
慌てて視線を外しながら、冷や汗が流れる。まさか肌の綺麗さに見惚れていましたなんて言えるわけが無い。
「ええと、とにかくだ」
俺は変態か、ロリコンか……何が桃みたいな肌だ、おい。
誉の頭の中をエロ親父、変態、ロリコンといった文字が、ぐるぐると渦巻いている。あまりにもぐるぐるとして、本当に眩暈がしてきた。
「今回のことはお互いに――うわ!」
突然、生温かく湿ったものが鼻先を舐め上げた。誰が、と説明するまでもなかろうが、一応説明しておこう――チビ太だ。
「うわ、こら……くすぐった……わっ」
誉にずしりと圧し掛かり、何度も何度も顔を舐めてくる。名前はチビでも、身体はデカい。圧し掛かられ、顔を舐められ、しかも相手には一欠けらの悪気がないから、無碍にはできない。
「ちょ、待った……あ、はははっ」
じゃれ付いてくるチビ太を抱え、誉はそのまま尻持ちを着く。
「せ、先生! こら! やめさいチビ太!」
誉を押し倒した愛犬に、ひなたは叱責の声を上げるが、やんわりとそれを制する。
「でも」
「まあいいじゃないか」
外れかけた眼鏡を外し、チビ太の頭をわしわしと撫でながら、犬というものは可愛いものだとしみじみ思う。
「先生、犬……好きなんですか?」
意外そうに、ひなたが訊ねる。
「そうだな。好きかもしれないな」
「犬、飼っていたんですか?」
「いや……残念ながら」
子供の頃、犬を飼いたいとねだったこともあったが、ちょうど母親の具合が悪かった時期でもあった上、父親も仕事が最も忙しい時期でもあった。
「飼いたいとは思ったことがあったが……」
今思えば、誰もいない家に帰るのが寂しかったのかもしれない。だから犬でもいれば、と考えたのだろう。子供らしい短絡的な考えだ。あの時、親が猛反対してくれてよかった。その頃の自分では、きっと面倒を見切れなかったに違いない。
ようやく落ち着きを取り戻したチビ太を抱え、眼鏡を掛け直すが、唾液でレンズが汚れてしまって視界が悪い。生憎ハンカチもティッシュペーパーも持ち合わせていなかった。仕方なく、自分のシャツの裾で拭くと、改めて眼鏡を掛け直した。
「……?」
彼女は誉を凝視したまま呆けていた。あるいは驚愕していた。もしくは、宇宙人と未知との遭遇でもしたかのようだと言ったほうが、適切かもしれない。
「山田さん?」
「え、あ、ははいっ!」
一気に顔を真っ赤に染め、慌てて「気をつけ」の姿勢になる。
誉は思わず身構えるが、はたと思い出す。
そうだ、ついさっきまでこれまでの不可解な言動をはっきりさせようと思ったばかりではないか。
そう、そうだ。
今日こそ彼女の真意を、白日の下に晒してやろう――そう思っていた。が、いざ行動に移そうと決意を固めた途端、急に恥ずかしくなってきた。
よく考えてみろ……もしかすると大いなる勘違いという可能性だってあるじゃないか。
自惚れもいいところだ。いい笑いものだ。これまで困るほど女性に言い寄られた経験などないという人間には無用の心配である。
だがもし。もしも、だ。彼女が本当に好意を持ち、自分に伝えようとしていてもだ、相手は学生だ。教員と学生が色恋沙汰などあってはならない事態である。
……いや待て。
そもそも彼女が自分に好意を持っているかもわからないし、自分が彼女に対してそのような感情は持ち合わせていない。そもそも、彼女と自分の間にそのような関係が成立するとは思えない。
いやいや、そもそも彼女が自分に対して恋愛感情を抱いているかもわからないというのに……。
「あの……先生」
ぐるぐると堂々周りの思考に囚われていたが、ひなたの遠慮がちな声によって我に返った。
もしかして……来るのか、あれが。
ひなたは居住まいを正すと、真っ直ぐに誉と向き合う。つられて誉も背筋を伸ばして、ひなたの言葉を待ってしまう。
「余計なことかもしれませんが……わたしが言うのもどうかと思いますが」
「…………」
心臓の鼓動が速くなってきた。柄にもなく緊張しているようだが、普段から感情の起伏が表に出にくいから傍からはわからないだろう。
「先生」
頬を赤らめたまま、ひなたはベンチの上の弁当を指差した。
「お弁当、冷めてしまいます」
……弁当?
ひなたが指で示す方向に目を向ける。そこにはすっかり冷めきった弁当があった。
「すみません。食べようとしていたのを邪魔しちゃったのはわたしなのに……」
弁当か。ああ、弁当……なるほど。
「ああ……いや」
やはり柄になく緊張していたのだろう。急に身体中の力が抜けていく。同時にもんどり打ちたくなるような羞恥が身体中を駆け巡る。
――自意識過剰だな。
穴があったら入りたい。いや、穴がなかったら自ら掘ってしばらく埋まっていたい。
冷えたコロッケを噛みしめながら、切に思った誉であった。
苦悩は取り越し苦労になってしまったわけでありました。