春の章・15 飛沢先生の苦悩2
「本当に……すみませんでした」
ジャーマン・シェパードのチビ太を抱き締めたまま、山田ひなたは何度も頭を下げる。
ひなたの話によると、散歩の途中でコンビニエンスストアに立ち寄るために、リードを柵か何かに繋いでおいたら、首輪を引っこ抜いて逃走してしまったという。
この公園は散歩コースだから、逃げたチビ太がここへ来ることは見当が付いていたらしい。だが、人の弁当をおねだりしていたのは予想外だったと、ひなたは話す。
「ちゃんと朝ごはんはあげたんですけど……すみません」
と、ひなたは頭を下げる。
「いや別に……私が勝手にしたことなのだから」
誉にしてみれば、犬に弁当をねだられたよりも、こんなところでひなたと遭遇したことの方が予想外だ。
実を言うと、休みに入れば、しばらくひなたと顔を合わせなくて済むと、少々ホッとしていた。けして嫌なわけではないのだが、最近の不可解な言動のお陰で、ついつい身構えてしまう。
怯えた態度を見せたと思えば、物言いたげな眼差しで見つめてくる。
一体何を考えているのか、さっぱりわからない。
これが、誉を悩ませる原因だった。
自分で言うのもどうかと思うが、この無愛想面のお陰で、苦手とする人間がいることくらい自覚はしている。しかし、ここまで苦手意識をあからさまにする人間はいなかった。しかも、彼女の場合は初対面からだ。
そこまではいい。問題は、その後の彼女の態度だ。
話があると言っては、真っ赤になって逃げていく。それが一度ではない。何度もだ。
謎の言動が何度か続くにつれ、今まで怯えていたと思っていた態度が、もしかして単に恥ずかしがっているのだろうかと、我ながら莫迦げた妄想を抱きそうになる。初対面の怯えた態度も、もしやその一環かとも。
無い。それは無い。
ここ数年、彼女がいないせいで欲求不満で、あらぬ妄想まで抱くようになってしまった可能性はある。だが、山田ひなたの一貫性のない態度も、あらぬ妄想に拍車を掛ける一因でもあることは確かだ。
この際だ、はっきりさせてやろう。
此処で会ったが百年目。今までの不可解な言動を、今日こそ白日の下に晒してやろうではないか。
しょぼくれた少女と大型犬の頭を見下ろしながら、静かに決意を固める。
「山」
「実はこの子、ここのお肉屋さんのコロッケが大好きなんです」
言葉を遮られ、誉は口をぱくぱくとさせる。白日の下に晒してやると意気込んでいたというのに、見事に出鼻を挫かれてしまう。
「でも、もう高齢だから脂っこいものをあげないようにしていたんですけど、まさかこんな。人様のものを欲しがるなんて今まで無かったのに」
抱きかかえられたチビ太も、耳を下げ、飼い主と一緒にしょんぼりしている。まるで二匹の犬が耳を垂れているようで、いたたまれない気分になる。
「…………君が気にする必要はない」
考えた末、やっと出たひと言だった。気が利いていないのは、承知の上だ。
「あの、わたし」
突然、ひなたが顔を上げた。
「新しいお弁当買ってきます! 同じものでいいですか?」
誉の返事を待たず立ち上がると、リードをベンチの足に括りつけ、しゃがみ込んでチビ太の頭をわしわしと撫でる。
「チビ太、お座り。良い子にして待ってるんだよ」
チビ太は困ったように、ひなたを見上げている。
「山田さん、新しいものなど買いに行く必要はない」
黙っていたら、このままあの肉屋へ飛んで行ってしまいそうだ。きっぱりと告げるが、ひなたはとんでもないと大きく頭を振る。
「そういうわけにはいきません」
意外にも頑固なところがあるようだ。しかし、誉とて黙って行かせるわけにはいかない。
「新しい弁当などいらない。必要がないと言っているんだ」
少々声を荒げてしまったかもしれないと自覚したのは、ひなたが驚いたように瞠目したからだ。
「で、でも」
大きく見開いた瞳が頼りなく揺れる。
「近いですし、すぐに買ってこれますから……」
顔を背けるように、視線を地面に落とす。微かながら、声が涙声になっているのは気のせいではないだろう。チビ太が慰めるように、ひなたの手の甲を何度も舐めている。
不味い……。
誉の背を、冷たい嫌な汗が一筋伝う。
まだ半分以上残っているのだから、わざわざ買い直しに行く必要は無い……というつもりで告げたのだが、ひなたはそうは受け取ってくれなかったようだ。
また言葉が足りないばかりに、誤解させてしまったに違いない。
これは、何とかしなければいかんだろう。
曖昧なもやもやとした感情はかなぐり捨て、膝の上の弁当容器を傍らに置いた。
ちょっと間が空いてしまいました。今回は少々短いですが、飛沢先生の苦悩はまだ続きます。