春の章・12 ひなたの事情2
男の人を名前で呼ぶなんて、ひなたの人生に一度だってあっただろうか?
思い起こしてみると、名前で呼べる親しい男性といえば弟と、まだ小学生の従弟くらいのものだ。少女漫画のように男の子の幼なじみといった気の利いた存在はいないし、小中学校時代は気恥ずかしくて男子とはろくに口も利かず、高校は女子高だった。
……やっぱり、大学生にもなると違うもんなんだなあ。
ひなたは単調な作業を黙々と続けながら、ひとり感慨にふけっていた。
プリントアウトした書類を三つ折りにする。封筒に入れ、封をする。宛名シールを貼る。ひなたと順也、そしてパート職員の大原と時折お喋りを交えながらの作業は、そろそろ二時間を経過しようとしていた。
「奈美さんはゴールデンウィークはどうするんですか?」
手を動かしながら順也が訊ねる。奈美も作業の手を止めることなく「どうしようかしらねえ」と生返事を返す。
「ご家族と旅行とか行かないんですか?」
と、これも順也の質問だ。それに対して奈美は乾いた笑いを交えて答える。
「子供が小さい頃は頑張って観光地に赴いたりもしたけど、今はねえ。ダンナもわたしも敢えて人が多いところへ行くような気力はないかな。だから出掛けてもせいぜい近所のショッピングモールくらいかしら」
「ああ、最近県道沿いに出来ましたよね」
「そうそう。あそこも混んでるっちゃ混んでるけど、観光地よりは混んでいないしね」
二人の会話は止まる事を知らないかのように延々と続く。
ひなたは二人の会話を、時折相槌を打ちつつ聞いていた。人の話を聞くのは結構好きなので、二人のやりとりは飽きることがない。
もし、ひなたのゴールデンウィークの予定など聞かれたとしても、旅行どころか買い物に行く予定すら無い。
……ゴールデンウィークかあ。
ひなたの両親も奈美と同じように「せっかくの休みに、わざわざ混んでいるところになんて行きたくない」と言っている。弟の祥太郎は今年は大学受験で、ゴールデンウィークも予備校での講習があるからそれどころではない。
……一日くらい、祥君に映画でも付き合って貰おうかな。
せっかくの連休に付き合って貰えそうなのが弟というのがちょっと情けないが、祥太郎とは仲が良いから一緒に遊びに行くのは楽しい。
よし、絶対一日くらい付き合って貰うんだから。
密かに決意を固めたひなたの耳に、順也の明るい声が飛び込んできた。
「それで、ひなたちゃんは? ゴールデンウィークどうするの?」
自分に話を振られたとは思わなかった。一瞬呆けた後、ぱちぱちと瞬きをする。
「え、と……わたし、ですか?」
「うん。やっぱり旅行とか?」
ひなたは慌てたように頭を振る。
「いいえ、あの……弟と映画くらい観に行こうかなって思っているくらいです」
果たして受験生の祥太郎が、暇な姉に付き合ってくれるかはわからないが。
「あら、弟さんがいるんだ。いくつ?」
と興味深々に訊ねるのは奈美。
「はい。ひとつ下の高三です」
「あら。ひなたちゃんに似ているの? 可愛い?」
「いえ全然! 昔は可愛かったんですけど今は全然です。中学生の頃、背を越されてしまってから、わたしが妹だと間違われるくらいですから」
腹立たしいが、最近二人で並んでいても、ひなたが姉に見られることはない。
「あらー、じゃあカッコいい系?」
「全然です!」
我が弟にしては、割とカッコいいのではないかと思いつつ、恐らく七割は身内びいきである。それに順也を前にしてしまったら、とてもじゃないがカッコいいなんて部類に振り分けなんてできやしない。雲泥の差、月とスッポン、とにかく全く比較になりやしない。
「特に予定が無いなら、ひなたちゃんも行かない?」
唐突な順也の提案に、ひなたの心臓が大きく跳ねる。
「どこに、ですか?」
「ネズミーランド。よかったら、ひなたちゃんもどう?」
「わ、わたしですか?」
あ、いいなーという奈美の声が聞こえてくるが、自分の心臓の音が邪魔をしてそれ以上耳に入ってこなかった。
もしや、それって……。
「あ、メンバーはゼミの奴らと、卓球サークルの連中ね」
だ、だよね……。
ありもしない想像を抱いた自分が恥ずかしい。
「総勢十人くらいかな? もちろん女の子もいるし」
「ええと……」
知らない顔ぶれで遊びに行くのは、果たして楽しいのだろうか。一抹の不安がよぎる。せっかく入った大学で、せっかく知り合った素敵な人のお誘いを断るなんて無下にしたくはない。
でも……。
「やっぱり、ごめんなさい」
消え入りそうな声を振り絞る。
やっぱり無理だ。たくさんの知らない人たちと一緒に、一日を過ごすなんて、考えただけでも気が重たかった。
「そっか、残念。じゃあまた今度に」
「う、うん」
順也は特に理由を訊ねず、あっさりと引き下がってくれたので、ホッとした半面、なんとなく物足りないような気がしてしまう。自分から断った癖に勝手なものだと、ひなたは自分が嫌になりそうになる。
「皆で楽しんできてね」
「ありがと」
社交辞令みたいな台詞なのに、嫌な顔ひとつしない順也に感謝する。
しばらく黙って作業を続けるが、沈黙を破るように奈美が順也に訊ねる。
「ねえ。そのネズミーランドには、飛沢先生は誘わないの?」
あの飛沢先生が……ネズミーランド?!
ひなたは心の中で驚愕の声を上げる。夢の魔法の国、というコンセプトのアミューズメントパークに恐ろしく似合わない。
「ああ、先生には速攻で断られました」
だ、だよね……。
「どうやら親戚関係の用事があるみたいで。まだシーサイドの方は行ってないから、残念がっていましたけど」
「え!」
驚きのあまり声を上げてしまった。慌てて口をつぐむがもう遅い。どうやら順也は気付いたらしく苦笑いを浮かべる。
「驚くのもわからくもないけど、童話の研究をしているような人だよ?」
そうかもしれないけれど……。
「なーんて。別にああいうところが好きってわけじゃないみたいだけど、一度は見ておきたいって思うんじゃないのかな?」
「そうなんだ……」
意外な事実を聞いてしまった。まだ茫然としながら、ひなたは相槌を打つ。
「ちょっと取っつきにくそうだけど、話してみると中々面白い人だよ」
あの飛沢先生が面白い?
「そうそう。結構可愛いところがあるのよ」
あの先生が、可愛い?!
「は、はあ……」
「だからひなたちゃん、そんなに身構えなくても大丈夫だよ」
「そうそう。大丈夫大丈夫」
順也と奈美は安心させるように告げる。
ひなたが飛沢に対して、恐れに似た警戒心を抱いていることに気付いたのだろう。
「うん、ありがとうございます」
でも違うんです、順也くん奈美さん。
あのことを、この人たちに言えたら、どんなに気が楽になるだろう。
本当は……わかっていた。いつまでも秘密を胸に抱えていてるから、飛沢が怖くて堪らないのだと。
確かに、あの時も大切な本なんだろうなって思っていたけれど。
あの時、コロッケ熱かっただろうなって思っていたけれど。
せめてもの罪滅ぼしで、お仕事を一生懸命やろうって思ったけれど。
――駄目だ、やっぱり。
ちゃんと謝らなくちゃ。
あの冷たい雨の日、あたなにコロッケをぶつけて火傷をさせたのは、わたしですって。
あなたの大切な本を、ずぶ濡れにしてしまったのは、わたしですって……ちゃんと謝らなくちゃ。