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春の章・11 ひなたの事情1

 コン、コン。

 ドアがノックされた瞬間、ちらりとモニタの端に表示された時刻を盗み見る。

 時刻は十六時十分前。初日の時と同じ時刻だ。


「……失礼します」


 微かな軋みを上げてドアが開くと同時に、気弱そうな声が上がる。モニタから視線を外し、半開きのドアから姿を覗かせた少女と視線がぶつかった。


「こ、こんにちは」


 途端、ぎくりと強張らせた少女(大学生を少女と呼ぶべきか否か悩むところであるが)は、文学部一年の山田ひなたである。


「ああ……こんにちは」


 すでに笑顔になる努力を放棄した誉は、恐らく仏頂面と呼ばれている顔のまま返事を返す。途端、気不味い沈黙が訪れるが、これではいかんだろうと思い直す。


「今日は……小原くんたちの手伝いをお願いしたいのだが」

「は、はい!」


 順也の名を出した途端、ひなたの表情に安堵が浮かんだ。

 人任せにするなと、篠原の叱咤が聞こえてきそうだが、ようやく表情を和らげたひなたを見て、誉自身も安堵する。


 こうも警戒心を露わにされると、自分自身も知らず知らずのうちに身構えてしまう。

 ひなたに順也たちが作業をしている講義室を伝え、研究室から追いやった再び一人になった空間で、誉は知らず知らずのうちに安堵の息をついていた。



 * * * * *



 今日は飛沢が所属している学会の案内を郵送する作業のようだ。飛沢に告げられた場所へ行くと、すでに二人が作業していた。順也ともう一人の女性は事務室でパートタイムで働いている女性だった。名前は確か大原だったはずだ。年齢は恐らく母親と同じくらいだろう。


「あら、山田さん」


 ひなたの顔を見るなり、大原は笑顔を向けて小さく手を振った。


「あ、こんにちは」


 ひなたは緊張気味に小さく会釈する。


「ひなたちゃん。説明するから支度が出来たら声掛けてよ」

「あ、はい!」


 順也だって、会ってまだ数回だ。こんなにカッコいい人と言葉を交わすだけでも心臓がドキドキしてしまうが、順也の気さくな振る舞いが緊張を半減させてくれる。

 飛沢先生とじゃ、絶対こうはいかないな。

 引け目を感じているせいかもしれないが、どうも飛沢は近寄りがたいオーラを感じてならない。抑揚の少ない喋り方。怒ってもいないが、笑いもしない無表情。飛沢の講義は受けていないからわからないが、やはりこんな調子で講義をしているのだろうか。その様子は容易に想像できてしまう。


 この二人は、平気なのかな?


 順也も大原も飛沢のことをどう思っているのだろう。順也は割と普通に話しているようだった。いや、割とどころか冗談を言ったりツッコミを入れたり、からかったり色々していたような気がする。対する飛沢は相変わらずな様子だったけれど。


 ひなたはバッグとコートを講義室の隅っこにある椅子に置くと、二人が作業をしているテーブルに近付いた。


「小原さん、用意が出来たので……」


 言われた通り、順也に声を掛ける。すると順也は一瞬きょとん、とした表情でひなたを見つめると、いきなり満面の笑顔になった。


「お願いだから『小原さん』はやめてよ。順也でいいから」

「え」


 順也の申し出に、ひなたは固まってしまった。

 いきなり名前で呼んでいいと言われても、あまりにもハードルが高すぎる。


「え、え、あの、でも」


 顔が真っ赤になっているのが嫌でもわかる。大原に救いを求めるが、あくまで傍観を決め込むつもりらしく、ニコニコとした笑顔を向けるだけだ。


「ほら練習練習」


 魅力的なはずの順也の笑顔が、今は脅威でしかない。


「でも、やっぱり、でも」


 尻込みするひなたに、順也は容赦ない。


「一、二の三で言わないと罰ゲームだよ」

 そ、そんな……。

 真っ赤に血が上った顔から、急激に血の気が引いてくる。眩暈がしそうだ。


「いちにの、さん、はい!」

「あの! こ、小原くん、では駄目でしょうか?」

 ひなたにしては頑張ったつもりだが、順也にその努力は認められなかった。

「ぶー。ダメです」

「そ、そんなあ……」


 順也の無情な発言に、もしかすると本気で泣きそうになっていたのかもしれない。茫然となってしまったひなたに、ようやく大原は救いの手を差し伸べてくれた。


「小原くん。初心な女の子に、あんまり無理強いは良くないんじゃない?」

 やんわりとたしなめられて、順也は意外そうに目を見開いた。


「無理強い、してました?」

「うん。とっても」


 大原は大袈裟なくらい大きく頷いて見せた。そっかあ、と順也は苦笑してから、くるりとひなたに向き直る。


「ごめんね、ひなたちゃん」


 順也はしょんぼりとした様子で呟くと瞼を伏せる。

 けして悪いことなどしていないと、胸を張って言えるくらいなのに、相手がしおれてしまうと自分がとてつもなく悪いことをしてしまったと思うのは何故だろう。


「わたしこそ、あの……ごめんなさい。男の人を名前で呼んだことがないから……」

「ないから?」


 順也に無邪気に問われて、ひなたは素直に答える。


「恥ずかしくて」

「じゃあ。別に嫌ってわけじゃないんだ」

「ええ……まあ、はい」

「じゃあ呼んでよ、ね?」


 順也は満面の笑みを浮かべる。こんな笑顔で迫られたら、誰だってきっと抗えないだろう。明らかにときめきとは違う早鐘のような心臓の音を自覚しながら、しどろもどろになりながら呟いた。


「…………え、あの、じゅ、順也くん」


 さすがに呼び捨てには出来そうにない。一瞬、順也は微妙な面持ちになるが、やがて軽く息を吐くと嬉しそうに相好を崩した。


「うん、よし。合格」

 ひいい……恥ずかしい!


 再び赤面しながら、ひなたは引きつった笑顔を浮かべてみる。

 すると傍らで眺めていた大原までもが、自分を指差して言った。


「じゃあ、私のことも名前で呼んでくれる? ひなたちゃん」

 すかさず首に下げたストラップに入った職員証を突き出した。


「……じゃあ、奈美さん」


 まだ大原を下の名前で呼ぶ方が抵抗がない。


「じゃあこれからそう呼んでね」


 奈美はニコニコとしながら、ひなたにスタンプを手渡した。


「さ、お仕事お仕事。今日中の集荷に間に合わせなきゃ。ひなたちゃんは、封をする前の封筒にスタンプを押してね」

「は、はい!」


 不思議と、最初に感じていた緊張が和らいだような気がした。大学に入学してから力が入りっぱなしだった肩から、ようやく力が抜けたような感じ。

 高校からの友人である智美に連行されていったサークルの飲み会から、引っ張り出してくれたのは順也だった。

 ――よかった。いい人たちに囲まれていて。

 重苦しい空気を纏う飛沢の下で働くのはちょっと辛いが、この人たちがいれば頑張れそうな、そんな気がしていた。

ひなたのパートになります。あともう1話だけ、ひなたパートとお付き合いください。

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