春の章・10 慣れないことはするもんじゃない
しばらくの間、前話が10話と書いてしまっていましたが、9話の間違いです。失礼しました…。
今回の話が10話です。
「今日からよろしくお願いします」
ひなたは怖気づいたような声で挨拶をすると、ぎこちなく会釈をする。
「ああ――」
誉も会釈を返すが、さすがに座ったままというのもどうかと思い、慌てて立ち上がった途端に、背後に積んだ本が音を立てて崩れる。
たちまち本に足元を埋めつくされ、足の踏み場が無くなってしまう。
せっかく自分なりに分類別に分けたというのに……。
自分で整理して、自分で散らかしては世話が無い。
知らず知らずのうちに眉根を寄せてため息を吐くと、のろのろとしゃがみ込んで崩れた本を拾い始めた。
「大丈夫ですか?」
一連の出来事を目にしていたひなたは目を丸くすると、肩に掛けたバッグを下ろすのも忘れて、慌てたように崩れた本の山に駆け寄った。床に膝を着くと、せっせと散乱した本に手を伸ばす。
「あの、先生。この辺りのは段ボール箱に入れておけばいいですか?」
崩れたひと山から本を拾い上げ、誉に見えるように掲げてみせる。
「ああ、ありがとう――あ、それは足元の段ボールに」
「はい」
「隣にある――ああ、その辺りのものは、適当に積み上げて欲しい」
「わかりました」
誉の指示に従いながら、手際良くひなたは片付けを進めていく。
ちらりと、必死に本と格闘するひなたの様子を盗み見る。
今は怯えている様子が見受けられない。恐らく作業に没頭しているからであろう。
――しかし……どうして彼女は、このバイトを引き受ける気になったのだろう?
始めて対面した時、ひなたが見せた表情を改めて思い出す。
まるで危険人物に遭遇したかのような強張った表情。今すぐここから逃げ出したいと言わんばかりの蒼ざめた頬。
――いくら愛想が悪いからとはいえ、そこまで怯えられる憶えはない。だが……。
誉自身、自覚はしているが、あまり人に好かれるような人柄ではない。話上手でもなければ、優しいわけでもない。篠原のように始終へらへら……いや、始終にこやかであれば周囲の反応も変わってくるのだろうが、恐らく表情筋が笑うという行為を忘れてしまったのだろう。
「あの、先生。これはどこに置けば?」
「これはこっちへ――」
誉が手を伸ばすと、ひなたは両手で本の束を差し出した。受け取った瞬間、目と目が合ったものの、恐れをなしたように視線を彷徨わせる。
……そんなに怖いだろうか。この面は。
無意識のうちに眼鏡のフレームに触れ、絆創膏が貼られた眉間に触れる。
正直ここまで怯えられてしまうと、少々気持が落ち込むのは否めない。
『ちゃんと上手くやりなよね。何でも小原くんに任せたりしないように』
篠原の言葉が脳裏をかすめる。
――わかっている。
『スマイルのレッスンでもしてあげようか?』
――お前のレッスンなど誰が受けるか。
『特に誉くんみたいなタイプだったら、より効果的だと思うよ』
――笑顔。か。
「山田さん」
「はい?」
「――ありがとう」
そして、笑顔とまではいかないが、軽く表情を和らげるくらいはしようと思った。
だがやはり、普段から動かさない筋肉が、そう簡単に動いてくれるはずもなかった。ほほ笑むなど程遠いものになっていたらしい。
「……っ!」
ひなたは誉と目が合うなり、驚愕の表情のまま手にした本を落としてしまう。
そう。彼女の反応を見れば、鏡を見るよりも明らかだ。
「す、みません」
落とした本を追うように床に視線を落とすと、それきりひなたは床ばかり見ている。その姿は、もう二度と目を合わすまいという意思表示のようにも思えた。
……ああ、やめておけばよかった。
穴があったら入りたい。今、まさにその心境だった。
結局この日は、研究室の片付けにあけくれ、本来ひなたに頼むつもりだった入力作業は、誉が自宅でやる羽目となった。