結婚が嫌なわけではありません。一緒に暮らすのが無理なだけで。
「侯爵家バードン・シンプソン、お前の婚約相手だ」
向かいに座る父が言った。母がその言葉に合わせるように、釣書と絵姿をテーブルに広げる。
(お世辞にもスリムとは形容しづらいお姿だわ)
ブリーチズは太ももまで上がっているし、ベストのボタンは下腹部が閉まらず、ウエストコートを羽織って見栄えよく描いていただいたのだろうけれど、首もとの白のクラバットが大変お苦しそう。
「……言いたいことはわかる。私も正直、やや小太りな見た目だとは思う」
「そうですわね。なぜお体に合わせた正装着をお仕立てしなかったのでしょう?」
「いや、そういうことではなく……」
「お父様。婚約についてはすでに承知しております」
「あ、ああ……」
二つ返事も当然でしょう。見た目や性格などは関係ない。家柄と相互利益を第一とした政略結婚など、貴族間ではとくに珍しい話でもないのだから。
次の日、ベルナール家全員で王都から少し離れた領地を持つシンプソン侯爵家に向かった。
馬車は正門前に停車。我がベルナール男爵家とは比較にならないほどの使用人の数だわ。
「こちらへどうぞ」
お屋敷まで続く舗装された中通路の中心には立派な噴水があり、両側には広大な庭園。それらを横目に、わたくしはこの先に待ち構える不安と緊張との戦いに胸を押さえていた。
お屋敷に招かれると、大広間にはシンプソン侯爵家当主エドラル・シンプソン様と奥様のローゼン・シンプソン様がおられ、丁重にお出迎えしてくださった。
しかし肝心の、わたくしの婚約相手のお姿が見えない。ある程度のご挨拶を交わしたのち、父が尋ねた。
「それで、御子息はどこに……?」
「ああ。それについてなのだが……」
エドラル様のにごった表情が、わたくしの不安をさらに掻き立てました。
「少し訳があってな。すまないがアナスタシア嬢、先に息子に会いに行ってやってくれないか。部屋は使用人に案内させよう」
「ええ。かしこまりました」
いずれ分かることとはいえ、今のわたくしには聞かれたくないのでしょう。無理な詮索はやめ、使用人に促されるまま婚約者のお部屋へ向かった。
「お初にお目にかかります。ベルナール男爵家令嬢アナスタシア・ベルナールと申します」
向かいに座る男性は、絵姿で拝見したときよりもさらに恰幅良くなっていました。
(もしかして……あの正装、元々はお体に合わせてお仕立てしたものだったのかもしれないわね)
「君がアナスタシア嬢か。話には聞いていたが、こうして見ると随分と美しい御方だ。僕の婚約者としてはもったいないほどの」
「光栄です」
「ときにアナスタシア。容姿にたがわず綺麗な名だが、ご両親からはなんと?」
「アナとお呼びいただいております」
「そうか。ではアナ、一つ聞きたい。君は料理はできるか?」
「料理……ですか?」
「ああ。君との婚約をきっかけに、両親が新居を用意したのだが、何人かの使用人は連れていけると思うが……今のこの生活を維持するのに足りるかどうか」
「お料理は得意です。それにお掃除やお洗濯も」
「本当か。それは僥倖だ。よし、では何も問題はないということーー」
「ですが。わたくしは反対です」
「え? な、なにが?」
「今のご生活を維持なさろうとすることが」
「どういうことだ……?」
「シンプソン侯爵家は歴史ある貴族であり、エドラル様も歴代の名に恥じぬ立派な当主。その御子息であられるバードン様は、これまで何一つ不自由なく好きなように生活を送られてきたのでしょう」
「……アナ。はっきりと言ってくれ。僕の婚約者なのであれば遠慮はいらない」
「それでは失礼して」
結婚するなら他人事ではありませんからね。ここは、はっきりとお伝えさせていただきましょう。
「バードン様、太りすぎです」
「え」
「絵姿を拝見したときよりもさらに。見た目から部屋からあまりお出になられない印象を受けますが、その蓬髪も貴族としていかがなものかと」
「う……!」
「そして極めつけは体臭です。この距離でも鼻につくのですが、バードン様、ご入浴は?」
「め、面倒くさいので、あまり好きではなく……」
「好き嫌いの問題ではありません。貴族としてのマナーであり、何より不衛生極まりありません」
「わ、わかった……。君が僕との結婚が嫌だというのはもう十分わかった」
「結婚が嫌なわけではありません。一緒に暮らすのが無理なだけで」
少し言いすぎたかしら。でもこれから結婚するのであれば大切なことですものね。
「随分はっきりと……。では君は、このままの僕とは一緒に暮らせないというのだな?」
「はい。ですがもちろん、結婚なのでそういうわけにもまいりません。ただバードン様が遠慮なくとおっしゃいましたので、わたくしの気持ちとしては嫌ですと申し上げました」
「……どうすればいい」
「え?」
「どうすれば君に嫌な気持ちをさせずに済む」
(……あれ? この人……)
「新居への移転はいつ頃をご予定に?」
「二週間後を予定している」
「では、それまでの二週間。まずはしっかりとご入浴してお体を綺麗にしてください」
「……それから?」
「日に一度はお外の空気を吸いに出てください。ずっとお部屋の中にいられるよりも心がリフレッシュして気持ちが良いですわ」
「……そのあとは?」
「わたくしと新居へ移転し、一緒に生活を見直しましょう。バードン様のお体が健康になりますよう、ご協力いたします」
「……わかった」
わたくしがバードン様のお部屋を出たと同じタイミングで、大広間のシンプソンご夫妻と両親の話にも一区切りがついたようでした。
帰宅後、父は早速テーブルを囲んで腰を下ろした。
「アナ。お前も実際に見ただろうから分かっていると思うが、私たちもエドラル侯爵から御子息について色々と窺った。一言で言えば愚息であり、もはや手に追えんと」
「ええ。おまけに不衛生で蓬髪で、今のままではとても次期当主に相応しくない生活だとお見受けました」
「アナ。お願いですからそのようなことはご本人の前で言わないようしなさいね」
お母様が心配そうにわたくしを見つめる。申し訳ありませんお母様。すでに言ってしまったあとなのです。
「ご本人にも直接お伝えしました。遠慮なくとのことだったので」
「なんと! そ、それで、御子息は?」
「とくに何も。結婚を強要されることもなく、何か条件をつけられたわけでもなく。おそらく、今回の一件でベルナール家とシンプソン侯爵家の利害関係にひびが入るようなことはないでしょう」
「……そうか。それならばいい。いくら政略婚とは言え、他にも我がベルナール男爵家と繋がりのある貴族はいるからな。お前も無理にあの御子息と結婚しなくてもーー」
「いいえお父様。わたくしは、バードン様と結婚いたします」
「なっ!? どういうことだ? やはり私たちの知らないところで何か強要でもされたのか?」
「いいえ、全く。ただバードン様は、わたくしが今のままで一緒に暮らすのは嫌ですとお伝えしたら、すぐにどうすれば君に嫌な思いをさせずに済むかとお尋ねになられました」
「……」
「そうしたらまずは転居までの二週間、しっかりご入浴されることとお部屋に引きこもらないことをお約束いただけました。もしバードン様がわたくしとの約束を果たしてくれるのであれば、次はわたくしが果たす番です」
「何を?」
「バードン様の生活を見直し、彼のお体を健康にすること。そして、彼を立派な次期当主へと微力ながらわたくしがお力添えするのです」
「アナ……」
「ベルナール男爵家令嬢に二言はありません。どうぞご理解ください。お父様、お母様」
両親はそれ以上、何も言わなかった。
元々はお父様とシンプソン侯爵側の関係性の中から出た政略結婚ですから、その当人が承諾したのであれば白紙にする理由もありません。
転居の準備に追われながらもわたくしの心は、バードン様とお会いするまで覆っていた不安という天気に少しの日差しが降り注いだような、そんな心境で過ごした二週間でした。
「何かあればすぐに手紙を」
「ええ。行ってまいります、お父様、お母様」
生まれ育ったベルナール男爵家を離れ、わたくしはバードン様とこれからの人生を共にする新居へ向かった。
シンプソン侯爵家の領地よりも少し王都に近い都。馬車の通りも多く、並木も随所に散りばめられた素敵な街。その一角に、ベルナール家よりもさらに一回り小さな新居と、二週間ぶりのバードン様がわたくしをお出迎えしてくれた。
「お久しぶりです、バードン様」
「ああ、久しぶりだ。どうぞ……遠慮なく言ってくれ」
「そうですね。あまりお変わりなく、お元気そうで」
「はは……。やはり二週間では何も変わらないか」
「そんなことはありません。少なくとも、これほど近くにいるのに体臭はほとんど気にならなくなりました」
「一歩前進と言ったところ、か?」
「ええ。大きな一歩ですわ」
「とりあえず入ってくれ。使用人を二人連れてきた。まずは紅茶でもーー」
「なりません」
「え?」
「まずは持ち込んだ荷物を整理しなくては」
「いや、だから。使用人を連れてきたと言っただろう? 荷物の整理などわざわざ自分たちでしなくとも使用人を使ってーー」
「使用人のお二方には、本日付けでシンプソン家にお戻りいただきます」
「ええっ!?」
驚きの声は抑えていましたが、使用人のお二方も互いに顔を見合わせて狼狽しはじめました。
「あ、あの、アナスタシアお嬢様! 我々はバードン様の日常の手助けを……」
「その手助けがバードン様を駄目にするのです。もちろん、あなた方の責任ではありません。すべてはそれら周囲や環境に甘えてこられたバードン様のご責任。ですが、これからのバードン様にその手助けは不要です」
「で、でもアナ、片付けると言ってもかなりの量だぞ。少しくらい手伝ってもらったほうが……」
「そうですね。それなりに時間もかかることでしょうから、その間、使用人の方々には紅茶でも飲んで寛いでいただきましょう」
「ア、アナ? それは逆ではないのか?」
「いいえ。これらはわたくしたちの物であり、使うのもわたくしたちです。使用するときにどこに何があるか、しっかりと把握しておいたほうが宜しいとお思いになりません?」
「ま、まぁ……確かに、一理ある、か?」
「でしょ?」
一日目はほとんどを片付けに費やし、宣言通り、夜になる前には使用人の方々にはお帰りいただきました。
最初はかなり渋っておりましたが、バードン様とわたくしの直筆の手紙を持たせるという条件をつけると納得したようです。
次の日から、わたくしとバードン様の新たな生活がはじまりました。
「バードン様、おはようございます。朝食の準備が整いました」
「おはようアナ。えと……食べていいのか? 僕はまだこんなに太っているが」
「無理に食事を抜かれてはいけません。体重も大事ですが、何より健康であることが一番ですから。ただし、量については多少の我慢はしていただきますね」
「ああ、ありがとう」
ある日の午後は。
「熱っ!」
「大丈夫ですか、バードン様! 一体何を……」
「いや、君と紅茶でも飲もうかと思ってね。はじめてやってみたのだが、やけどしてしまったよ」
「わたくしに言ってくだされば紅茶くらいすぐに!」
「いつも支えてもらってばかりだからね。たまには僕も君のために何かしたいなって」
「ありがとう、ございます。バートソン様、お覚えになられるまでは次からは二人で淹れましょう? お怪我されると困ります……」
「ああ、わかった。ありがとう」
買い物にお出かけするときも、はじめは当たり前のように馬車に乗ろうとしていたバードン様だったけれど、それも少しずつ変わってきた。
「おっと、また乗るところだった」
「今日は随所遠くまで来ましたからね。帰りは乗って帰りましょう、バートソン様」
「君は疲れていないのかい?」
「わたくしは、とくに平気ですが」
「僕も大丈夫だ。君の横を歩いていると、不思議と疲れを感じずにまだまだ歩けそうな気がしてくるよ」
「お気持ちは嬉しいのですが、どうかご無理はなさないでください」
「ああ、心配ないよ。ありがとう」
そんな中、わたくしはバードン様について一つ勘違いしていることがあった。
「バードン様、それは?」
「ああ。シンプソン家の領地に関わる資料だよ。領地内でちょっと揉め事が起こったみたいでね、明日出掛けてこようと思う」
「あ、あの、わたくしは……」
「ん、君も来てくれるのかい?」
「行きます、連れて行ってください」
「少し遠いのだが……」
「距離など全く問題ありません」
「わかった。君さえ良かったら是非一緒に来てくれ」
「あの、バードン様」
「ん?」
「領地の経営に携わるのは、今回がはじめてではないのですか?」
「まあね。シンプソン家の仕事は大体こなしていたけれど、あの頃は見た目もああだったし、何より家から出ることが極端に億劫だったから。よく父にも、侯爵家の仕事はいいがお前はそれ以外がどうしようもないって怒られていたよ」
「……申し訳ありませんバードン様。わたくし、貴方のことを何も知らないのに、はじめてお会いした見た目だけで、バードン様がシンプソン家に取って次の当主に相応しくない御方なのだと思っておりました」
「仕方ないさ。実際、父にも『この引きこもりの愚息が!』って言われていたからね」
「わたくしは、人を見かけで判断した最低の人間です。本当に、申し訳ありません……」
「でも君は、そんな印象の僕とここに来るを決めてくれた」
「バードン様は、わたくしが一緒に暮らすのは嫌ですとお伝えしたとき、どうすればわたくしに嫌な思いをさせずに済むかと聞き返してくださいました。わたくしはそのとき、なんて素敵な人だろうと思ったのです」
「……」
「遠慮なくとの前置きがあったとは言え、初対面の婚約者に一緒に暮らすのは嫌と言われ、それでもその相手に気遣いができる人などそうはいません。わたくしはあのとき、貴方を支えたいと強く思いました」
「ありがとう、アナ。実は僕もね、嬉しかったんだ」
「え?」
「はじめてだった。面と向かって生活のことを指摘されたのは。太っているとか体臭のこととか、仲の良かった使用人や両親にさえ言われたことはない」
「……申し訳ありません」
「今まで僕を見た人たちは、僕の見た目を否定するもことなく近寄らなかった。なのに君は、政略婚とは言え、はじめて僕の見た目を正面から指摘して、その上で一緒に生活する道を選んでくれたんだ。感謝してる」
なんと朗らかで、優しい御方なのでしょう。
こちらを一言たりとも責めず、わたくしの失態や失言は自分に非があるような言い方をされ、逆に感謝しているとまでおっしゃってくれる。
「バードン様。不束者ですが、これからも宜しくお願いいたします」
「ああ、僕の方こそ。よろしく、アナ」
もう、見た目なんてどうでもよかった。
ただバードン様が健康でいてくれたらそれで。
後日そのことをお伝えしたのですが、君の隣を歩くに相応しい男になりたいじゃないか。と、彼は笑った。
そして馬車を使わずに歩く生活にも慣れた頃、彼は護身のために剣術を学ぶと言って、剣術の師範の方に庭に来てもらって稽古を重ねるようになる。
毎日欠かさず木剣を振るう、彼の横顔を微笑ましく見守るのがわたくしの日課となりました。
その後も徹底した食生活の見直し、木剣を振るう日課に安定した起床と睡眠。彼のわたくしに対する優しさは全く変わりませんでしたが、彼の体は日を追うごとにみるみると痩せていき、次第に健康体を取り戻していきました。
一年後ーー
結婚式を来月に控えたわたくしたちは、バードン様の当主補佐としての手続き等のために久しぶりにシンプソン家を訪れました。
見た目もさることながら、元々周囲に対して気遣い上手な性格がよりいっそ明るくなって彼の表情まで変えた。今では、夜会の場でも人目を惹くほどに。
わたくしの、自慢の婚約者様です。
もちろんその変わりようは、シンプソンご夫妻から見ても一目瞭然だったようで。
「ほ、本当にバードンなの?」
「お久しぶりです。父上、母上」
「わずか一年でこんなにも……。見違えたぞ」
「アナの献身的な支えと愛情があってこその結果です。彼女のお陰で僕は変わることが出来ました。これからも感謝し続けるとともに、大事にしていきたいと思っています」
「アナスタシア嬢……いや、アナ。君の父上と決めたある種身勝手な婚姻だったが、君が息子を受け入れてくれたことには本当に感謝している。ありがとう」
「感謝しているのはわたくしの方です。わたくし、バードン様と婚姻することになって本当に幸せですもの」
今でも十分すぎるくらい幸せですけれど、わたくしたちの生活はまだまだはじまったばかり。もちろん、これから苦悩もあるとは思いますが、バードン様となら、わたくしはどんな壁でも乗り越えて行けると信じています。




