04 暗闇の刻印。壁画というエロスの饗宴
地を這い、略奪し、血を流す「水平の残虐」と、立ち上がり、天を仰いで神を予感する「垂直の崇高さ」。
この二つの矛盾する力がサピエンスという種の内で激しく火花を散らしたとき、その閃光の中から「表現」という名の新たな生命が誕生した。
しかし、その表現へと至る前に、サピエンスは夥しい死の集積に直面しなければならなかった。
狩猟人類種としての彼らは、常に死と共生していた。
そこには自分たちの食料となった動物たちの死があり、駆逐していった他種族の男たちの死があり、あるいは食らい尽くした肉体の死があった。
荒野において、死は決して「終わり」ではなかった。
敵として戦った勇敢な動物たちや、槍を交えた他種族の戦士たち。
彼らが最期に上げた叫び、雄叫び、あるいは絶望的な泣き声。
それらは物理的な音として消え去るのではなく、草原を渡るそよ風や、闇の森で響く獣の遠吠えと混ざり合い、世界に残響し続けたのである。
中沢新一が説くところの「対称性の思考」が、そこにはあった。
文明以前のサピエンスにとって、人間と動物、生者と死者、そして奪う者と奪われる者の間には、現在のような断絶した境界線は存在しなかった。
彼らは、殺し殺される関係の中に、ある種の「命の交換」という対称性を見出していた。
動物を殺し、その肉を食らうことは、その動物の霊的な力を自らの内に取り込み、自分の一部にすることであった。他種族を略奪し、あるいは食することもまた、相手という「他者」を自分の中に溶かし込み、一つの生命へと回帰させる神聖な儀式であった。
そこでは、殺された者たちの魂がこの世とあの世を自由に行き来し、殺した者たちの意識と交歓し合う。男が略奪した肉体を組み伏せるとき、聞こえてくるのは悲鳴だけではない。
それは、かつて自分が殺めた戦士たちの呪詛であり、同時に自分を生かしてくれる森の精霊たちの祈りの声でもある。
この「対称性」のダイナミズムこそが、原始のサピエンスが抱いた宗教的感覚の核心であった。
彼らは、略奪と暴力によって他者の生命を奪うという原罪を、単なる罪としてではなく、生命の巨大な循環の一部として受け入れた。
奪われた命は、自分の中で再び拍動を始める。
この「他者との融合」という超越的な感覚が、エロスの深淵に横たわる「自分を失い、世界と一体化したい」という強烈な欲望の源泉となったのである。
そして、この目に見えない「命の交歓」と、世界に響き渡る声なき声を、何とかしてこの世に繋ぎ止めておきたいという切実な願いが、彼らを洞窟の暗闇へと突き動かした。
旧石器時代、サピエンスは太陽の光が一切届かない絶対的な暗闇へと降りていった。
フランスのラスコーやショーヴェ、スペインのアルタミラ。これらの洞窟は単なる住居ではなく、彼らにとっての聖域であり、同時に自らの内なる深淵を映し出す巨大なスクリーンでもあった。
彼らが松明の頼りない火に照らされながら岩壁に描きつけたものは、単なる獲物の図絵ではない。
それは、狩りの中で対話した獣たちの魂であり、略奪の最中に指先に触れた他者の実存である。
岩肌の自然な凹凸を、あたかも生命の豊かな曲線であるかのように見立て、赤土や炭でなぞっていく。このとき、サピエンスは「不在のものを、あたかもそこにあるかのように現出させる」という、脳内における現実の再構築を果たした。
この暗闇の刻印こそが、官能小説の正体である。
官能小説家が言葉を紡ぐとき、それは対称性の世界で失われた命を呼び戻そうとする祖先の筆致と重なる。
文字という記号を用い、読者の脳という洞窟の壁に火を灯し、肉体を躍動させる。
読者が頁をめくり、文字の列に体温を感じ、生々しい感覚を思い出すとき、そこには数万年前の洞窟で松明を掲げた男と同じ「創造の法悦」が宿っている。
私は今夜も、静まり返った部屋でキーボードを叩く。私の指先が紡ぐ淫らな言葉の数々は、かつて荒野で流された血と、絶叫と、宇宙を見上げた孤独の記憶を呼び戻すための、ささやかな儀式なのだ。
しかし、私たちの祖先が獲得した表現の衝動は、洞窟の岩壁に赤土をなぞるだけにとどまらなかった。
彼らはその「身体」そのものを最大のメディアとして、原始の闇にさらなる饗宴を開いていくことになる。
次の『エロス起源論Ⅱ ――対面の惑溺と粘膜の迷宮――』では、言葉になる前の、声と踊り、そして対面がもたらした「口と生殖器官の対称性」という、より濃密なる粘膜の迷宮へと、さらに深く潜入していく。
『エロス起源論 Ⅰ』完
この作品はnoteの「エロス起源論Ⅰ」にも収められています。
一気読みしたい方は一度覗いて見て下さい。
https://note.com/kaito_x999/n/nd0a8b659ea0d




