バグだらけの神魔大戦(ソーイング・モード)
午前四時。脳の細胞が一つずつ消滅していくような錯覚を覚える、限界の徹夜明け。
僕は、マグカップに入った特製の「塩レモンコーヒー」を一口すすった。強烈な酸味と塩気、そしてカフェインが、泥のようになっていた意識を無理やり覚醒させる。
「よし……これでラストスパートだ」
僕――ハルは、個人ゲーム開発者であり、同時にキャリア7年の刺繍アーティストでもある。
画面には、3年間作り続けているビジュアルノベル兼RPGのソースコード。そしてその横の作業机には、趣味と実益を兼ねた最新型のデジタル全自動ミシンが鎮座している。
限界を迎えていた僕の指先は、完全にバグっていた。
ゲーム内の「隠しボス・暗黒魔王ガルザ」のドット絵挙動コードを修正し、ビルドボタンを押した――つもりだった。
だが、僕が実際にクリックしたのは、ミシンに刺繍データを転送するコマンドだった。しかも、あろうことかゲームのシステムファイルそのものを、ミシンの「縫製パターン」として誤同期させてしまったのだ。
直後、部屋の空気がブレた。
「ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガッ!!!」
突如、全自動ミシンが、これまでの製品規格を完全に無視した超音速のジャックハマーじみた駆動音を響かせた。
「な、なんだ!? バグか!?」
慌ててミシンに駆け寄ったが、手遅れだった。ミシンの針は、セットされていた11号の布を突き抜け、何もない「空間」を猛烈な勢いで上下に往復していた。
いや、何もない空間ではない。
ミシンの針が通るたびに、現実の空間に「黒と紫の絹糸」が物質化し、見る見るうちに16ビットのドット絵を立体化したような、禍々しい異形のシルエットが縫い上げられていく。
「我が名は暗黒魔王ガルザ……千年の眠りより目覚め、今こそこの世界を混沌に――」
空間から半分飛び出す形で編み上がった魔王が、威厳たっぷりに咆哮した。
しかし、そのセリフは途中でフリーズした。
「ガガガガガガガ!」
「――混沌に、と、とに、混沌に……おのれ、身体が動かん!? 何だこの、限界まで密度を高められたサテンステッチは! 物理的な固定力が強すぎるぞ!」
魔王の叫び通り、ミシンの針は彼の「暗黒の魔力」を現実の空間に恐ろしい精度で縫い付け、完全にホールドしていた。
高次元のテクスチャ崩壊
事態はそれだけで終わらなかった。
ゲームシステムと同期してしまったミシンは、僕の六畳間の「壁」や「空気」をすべて「布地」として誤認し始めていた。
針が空を切るたびに、部屋の壁紙がポリゴンの裏側を見せるようにベロリと剥がれ、代わりにカラフルな刺繍糸で構成された「ゲームの背景グラフィック(初期設定の草原)」に書き換えられていく。
これがいわゆる、高次元のテクスチャ崩壊というやつか。
「待て待て待て! 賃貸だぞここ! 壁紙の現状復帰にいくらかかると思ってるんだ!」
「人間よ、部屋の心配をしている場合か! このままでは我が暗黒の魔力ごと、この世界の空間そのものが、この『下糸の張力』によって引き絞られて破滅するぞ! 誰だこのミシンの糸調子を『最強』に設定した奴は!」
魔王がドット絵の顔を歪めて悲鳴を上げた。見れば、部屋の四隅が巾着袋のようにキュッと縮まり始めている。空間が糸で引っ張られているのだ。
「システムエラー……下糸供給不足……」
PCのモニターには、絶望的な赤文字のログが流れる。
「クソ、コードのループ処理が止まらないんだ! ミシンの強制終了を受け付けない!」
「ならばその針を止めよ! 我が右腕の『滅びのバースト・ストリーム(未実装)』を放ちたいが、輪郭線をバックステッチでガッチリ補強されていて指一本動かせん!」
塩レモンコーヒーの奇跡
僕は必死に脳を回した。
今、手元にあるのはノートPC、刺繍用の糸、そして――半分残った塩レモンコーヒー。
「……待てよ。この魔王のデータは、まだビルド途中の『未確定オブジェクト』だ。つまり、属性値が書き換われば、縫製パターンも変わるはず!」
僕は左手に塩レモンコーヒーのマグカップを持ち、右腕でキーボードを猛烈に叩いた。
魔王ガルザの属性コードを開く。
「魔王の属性を『闇』から『柑橘系・電解質』に強制置換する!」
「な、何を言っている、人間――」
エンターキーを叩きつけると同時に、僕はマグカップに残っていた塩レモンコーヒーを、ミシンの基盤と、空間に縫い付けられている魔王の顔面にぶちまけた。
ジジジッ!! バチバチバチッ!!
「ぐわあああ! 酸っぱい! 塩っぱい! 覚醒する! 我の中の闇の力が、急激に健康的なクエン酸に浄化されていく――!?」
水分と塩分を得たミシンの基盤が、ショート寸前の奇跡的なバグを起こした。
画面のコードが書き換わる。
『魔王ガルザ ――> 属性:レモン(食用)』
「ガガガガガガ……ピピッ!」
駆動音が変わり、ミシンの針が驚くほど軽やかなリズムを刻み始めた。
黒と紫の禍々しい糸が、一瞬にして鮮やかな「イエロー」と「ライムグリーン」の糸へと切り替わる。
「あ、あれ? 締め付けが……優しく……?」
魔王の輪郭をガッチリ固めていたサテンステッチが、ふんわりとした「チェーンステッチ」へと変化していく。空間を引き絞っていた糸の張力が緩み、歪んでいた部屋の四隅が元の位置に戻っていった。
ソーイング・モードの終焉
数分後。
ミシンは「ピー」と気の抜けた電子音を鳴らして、完全に停止した。
静寂が戻った六畳間。
そこには、世界の崩壊も、恐ろしい魔王の姿もなかった。
ただ、僕の部屋の空間の「宙空」に、非常に手触りの良さそうな、もこもことした半立体的な【特大レモンの刺繍(ドット絵風)】が、ポツンと浮いていた。
「……助かった、のか?」
僕は緊張の糸が切れ、その場にへたり込んだ。壁紙は一部、のどかな草原のドット絵に縫い替えられたままだが、まあ、ポスターでも貼って隠せば大家さんにはバレないだろう。
宙に浮くレモン(元魔王)に触れてみると、実に丁寧な仕上がりで、ほんのりとコーヒーとレモンの良い香りがした。
「よし……。バグも取れた(物理的に)ことだし、今日の開発はここまでにしよう」
僕はノートPCを閉じ、限界を迎えた身体をベッドに投げ出した。
明日の朝(というか数時間後)には、出版社へのメール連絡が待っている。
けれど今は、このレモンの刺繍の温かさに包まれながら、泥のような眠りに落ちることにした。
(おしまい)




