レプリカ
偽物は所詮、偽物だ。永遠に本物にはなれない……。
「峰先生、どうです?」
やや太めの中年男が、目の前の青年にうやうやしく尋ねた。
「うーん……」
峰先生と呼ばれた青年は、少し考え込んで、すぐには答えなかった。
二人は高級レストランで食事をしていた。峰 真は手元の品をじっと見つめ、大河内社長は期待を隠せない顔で返事を待っている。
しばらくして、真がようやく口を開いた。
「大河内さん。いや、悪い意味じゃない。今回の“掘り出し物”は、相当いいよ」
「本当か!」
大河内はパッと顔を明るくした。ようやく欲しかった答えが来た、という顔だ。
——だが、次の一言で表情が凍る。
「出来のいい模造品だ。ちゃんと売れば、いい値が付く」
「……は?」
大河内は口を開けたまま固まり、慌てて指をさした。
「じゃ、じゃあこれも? これと、これも……?」
真は気の毒そうにうなずく。
「全部……“模造”だ」
「そんな……!」
大河内はしぼんだ風船みたいに椅子へ沈み込み、しばらく動けなかった。
真は小さく息を吐いて言う。
「俺だって、全部本物だって言ってやりたい。でもさ……」
ほんの少し間を置いて、淡々と続けた。
「偽物は偽物だ。永遠に本物にはならない」
「でも……あれは『マナ』遺跡から掘り出したものなんだぞ!」
大河内は食い下がる。
真の目が細くなる。
「……俺を疑ってんの?」
「いや、違う! そうじゃない!」
大河内は慌てて手を振った。
真は冷たく言い切る。
「運ぶ途中で入れ替わったのか、最初からそうだったのかは知らない。けど、俺が言えるのはひとつ。——これは模造品だ。
出来はいい。真作扱いで飾ったって、あんたが満足できるならそれでいいだろ」
そう言って席を立とうとした。
大河内は即座に立ち上がり、引き留めた。
「悪かった、怒らないでくれ。もちろん、峰先生の目は信じてる!」
「……ふん」
真は鼻を鳴らし、座り直す。
「長い付き合いだから話してる。それだけだ」
「はい、はい……」
大河内はうなずきながらも、どうにも納得できない顔だ。
「けど……どうやって見分けてる? 正直、信じたいが信じきれん」
「企業秘密」
真はそう言った。——本当は話したくないわけじゃない。ただ、理由が自分でも分からない。
「言えるのは、偽物は絶対に俺の目をごまかせないってことだけだ」
それは誇張ではなかった。真は真贋鑑定で外したことがない。だから大河内は、彼をここへ呼んだ。
峰 真は、もともとバイトで食いつなぐただの若者だ。けれど、彼には異様な能力があった。
——真偽を見抜く力。
その力のおかげで暮らしは多少ましになったが、本人はこの能力で稼ぐことにどこか抵抗がある。理由は分からない。使うたび、体の奥が気持ち悪くなる。
それでも彼は、この力だけは譲れなかった。疑われるのが何より嫌だ。たぶんそれが、彼に残った数少ない誇りだった。
大河内は深追いしない。どうせ聞いても答えは出ないのを知っている。
ただ、困った顔で言った。
「……峰先生。『マナ』に一度行ってくれないか。現地で真贋を確かめてほしい。あそこから出たものが、一本たりとも本物じゃないなんて……正直、気味が悪い」
真は即答する。
「行かない。俺とあんたの関係って、ここでの取引だけだろ」
大河内は引かない。
「車馬代はいくらでも出す! 頼む、峰先生!」
真は首を振り、ため息をついた。
「はぁ……話が噛み合わない」
立ち上がる。
「峰先生!」
大河内がまた立つ。
その必死さが効いたのか、真は入口で足を止めた。大河内が急いで近づく。
「峰先生!」
「……しーっ」
真は人差し指を口元に当てた。
「向かいの通り。赤い服の女、どう思う?」
「どれだ?」
大河内が目を凝らす。
「あれ」
「ああ……あれか。いいじゃないか。胸も尻も、しっかりしてる。服のセンスも悪くない」
男が女を品定めするとき、だいたい視点は同じだ。
真は小さく舌打ちして首を振る。
「だから分かってない。俺がいいと思うのは、あっちの淡い黄色のほうだ」
大河内はそちらを見る。
「……まあ悪くはないが、普通だろ。顔は中の上、体型も並。特別そそられない」
真はどこか寂しげに笑った。
「もし赤いほうが、顔をいじってて、胸も作り物だって知ったら? それでも“綺麗”って言える?」
大河内は即答する。
「言えないな」
「だろ」
真の声に諦めが混じる。
「この時代、自然な美人ってどこ行ったんだよ」
——真偽が見えすぎるのも、しんどい。
彼の目には、人が“精巧な作り物”に見えることがあるのだ。
大河内は、そこで一気に理解した。真の弱点。
そして、その弱点の使い方。
「……峰先生。これは好みじゃないか?」
大河内は懐から一枚の写真を出した。
真は受け取った瞬間、息を呑む。
心臓を撃ち抜かれたみたいに。
「……誰だ、これ」
大河内はわざと咳払いする。
「ごほん。——うちの秘書だ。雲居 由」
「……どこにいる。紹介してくれ」
真の声が、少しだけ熱を帯びた。
「できないことはない。だが……」
大河内は間を作った。
「だが?」
「彼女は今から『マナ』遺跡へ向かう」
(この狸……!)
真は心で毒づきつつ、口では平静を装う。
「じゃあ帰ってからでいいだろ。戻ったら紹介しろ」
大河内は余裕たっぷりに笑う。
「もちろん、それでもいい。……ただな」
わざと考えるふりをして、言葉を選ぶ。
「それだと峰先生は、“二人きり”で異国を旅するチャンスを逃す」
“二人きり”を妙に強調して、さらに追い打ちをかけた。
「こっちは男も多い。由さんに言い寄るやつも多い。帰ってくる頃には……どうなってるか分からんぞ?」
真は歯を食いしばる。
分かってる。罠だ。
でも——こんな“本物”みたいな女を、逃したくない。
少し計算してみる。損はない。
そして結局、衝動が理性に勝つ。
「……分かった。行く」
真は言った。
大河内の口元が、わずかに歪む。
その不気味な笑みに、真は気づかなかった。
三日後。真は空港にいた。
と言っても、大河内の私設空港だ。これから乗るのは、操縦士を除けば真と由だけの小型機。
初対面の第一声をどうするか、まだ決められない。
知っているのは、彼女の姓と名だけ。
雲居 由。
——それは、彼の人生を変える名前になる。
だが、そのことを彼はまだ知らない。
考え込んでいると、甘く柔らかな声が背後から聞こえた。
「……峰 真さん、ですよね。峰先生」
真が振り向く。
「はじめまして。雲居 由です。どうぞよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げる所作。
その瞬間、真は見惚れて固まった。
何を言ったのか、何をしたのか——よく覚えていない。
気づいたときには機内の座席で、由が隣に座っていた。
真は彼女を見る。
こんなに綺麗な女を、見たことがない。
澄んだ瞳。白い肌。流れる黒髪。
まるで現実から切り取った“奇跡”みたいだった。
真はすでに、彼女の優しさに酔っていた。
そして次に我に返ったとき、自分がもう“賊船”に乗っていて、海の真ん中へ運ばれていることに気づく。
飛行機は目的地へ直行しなかった。近くに降りたわけでもない。
降り立った場所は——目的地からはるかに遠いところだった。
機を降りてから、真は十数キロ歩いた。荒野を抜け、辿り着いたのは砂漠だった。
暑い。暑い。マジで暑い。
他の言葉が出てこない。
なのに、由の背中は相変わらず軽い。歩幅も一定で、呼吸も乱れない。
汗? 見えない。髪も頬も、乾いたままだ。
(……おかしいだろ)
荒野を越えて、そのまま砂漠を横断してるんだぞ。
普通の人間が、あんな平然としていられるわけがない。
真は自分の体力に少し自信があった。
けど由を見た瞬間、その自信は粉々に砕けた。跡形もない。
そしてもう一つ、確信に近い感覚が生まれる。
——この女、ただ者じゃない。
ただ、由の“ただ者じゃなさ”はそれだけじゃなかった。
真が限界に近づくたび、由はちょうどそのタイミングで振り返って、にこっと笑うのだ。
その笑い方が、また絶妙にずるい。
「大丈夫ですか? もう少しですよ」
その一言と、その笑顔だけで、真は歯を食いしばって歩いてしまう。
男ってやつは、美人の前で情けない顔を見せたくない。
ましてや、由みたいな女の前なら——。
真も同じだった。
美人ってのは、人を殺す。
しかも、死んだことに気づかせないまま。
やがて夕陽が沈みかけた頃、彼らはようやく「マナ」に到着した。
目の前には山がそびえている。登れば遺跡だ。
真はもうヘロヘロだった。足は鉛、喉は砂。
なのにその視界に、緑に覆われた青い山が飛び込んでくる。
……その瞬間。
体の奥がざわついた。
(気持ち悪い)
さっきまで砂漠だったんだ。
その先に、こんな瑞々しい山があるのは不自然すぎる。
登りたくない。
直感が叫んでる。ここ、何かある。
由も真の迷いを見抜いたのか、さらっと言った。
「遺跡の加護で、こんなに美しいのかもしれませんね」
その言葉は、疑問を“説明”してしまう。
そして由にそう言われたら、真はもう何も言えない。
今さら「帰ろう」なんて言えるわけがない。
そもそも、帰るにしても遅すぎた。
由はもう登り始めていて、真は追うしかなかった。
山の上は、確かに美しかった。
道中、運がいいのか悪いのか、大雨が降った。
空がさっきの酷暑の埋め合わせでもするみたいに、容赦なく。
二人は一気にずぶ濡れになった。
真は内心「ラッキー」と思ってしまう。濡れた服は、いろいろ見えるから——。
(いや、違う違う。俺は紳士だ)
そう自分に言い聞かせる。
……けど、見えてしまったものは見えてしまった。人間だ。
夜になると山は冷え込んだ。
由が小さく震えるのを見て、真はすぐ上着を脱いで彼女にかけた。
「ありがとうございます」
由は微笑んだ。
その笑顔が、妙に胸に刺さる。
守りたい、なんて甘い言葉が喉まで上がる。
(何やってんだ、俺)
——でも、もう遅い。
この時点で真の心は、かなりの割合で由に持っていかれていた。
真は胸の奥で誓ってしまう。
何が起きても、命に代えても、彼女は守る、と。
純情ってのは、時々いちばん残酷な罠になる。
そのときだ。
真の頭の中に、唐突な“感覚”が走った。
ぞわっと背筋が凍る。
(危ない!)
反射的に真は由へ飛びつき、体ごと引き倒すように抱え込んだ。
由が驚いた顔をする。
次の瞬間——
轟音。
雷が落ちた。
ちょうど、彼らがさっきまで立っていた木の真上に。
木は真っ二つ。焦げた生臭い匂い。
炎が裂け目に燃え移り、ぱちぱちと音を立てる。
少しでも遅かったら、二人は炭になってた。
由は地面にへたり込み、怯えたように顔をそむける。
「大丈夫か?」
真はそう言いながら、今の体勢が妙に近いことに気づいて慌てて離れた。
由の肩にかけた上着がずれ、白い首筋が見える。真は視線を逸らす。
だが由は、驚くほど早く立て直した。
「大丈夫です……前に小屋があります。早く行きましょう。ここにいるのは危険です」
そう言って、いつもの柔らかい笑みを浮かべ、先へ歩き出す。
(……早すぎないか?)
雷で死にかけた直後の人間が、あんなに平然と笑えるか?
真の胸の奥で、嫌な予感が少し強くなる。
それでも彼は、由の背中を追う。
炎はまだ燃えていた。
翌日。二人は「マナ」遺跡へ辿り着いた。
それは洞窟だった。暗い、暗い洞窟。
由は小さく息を飲む。
「……中、暗いですね。ちょっと怖いです」
真は二つ返事だった。
「俺が先、行く」
洞窟は深い。道は一本しかない。
なのに途中、作業員の姿は一人もいない。音もしない。
(いや、さすがにおかしい)
嫌な予感が増していく。
引き返そう——そう思って振り向きかけた瞬間、由が真の腕にぎゅっとしがみついた。
「……帰らないで」
声がやけに小さい。
その言い方が、真の足を止める。
そして気づけば、彼らは大きな空洞に出ていた。
その瞬間。
ぱっと、洞窟全体が明るくなった。
灯りだ。
人工の灯り。
「……は?」
背中に冷たい汗が走る。
(どうしてここに灯りがある)
真は反射で入口へ走ろうとした。
だが遅い。
「うっ」
背後から手が伸び、両腕を後ろでがっちり固定された。
鉄みたいな力。
「動かないでください」
声は由。
甘い、柔らかい声。
なのに手つきは、容赦がない。
真の脳が一瞬で真っ白になる。
「……由?」
洞窟の壁が、すっと開いた。
そこから出てきたのは——大河内だった。
真は目を疑った。
でも現実は、ひどく丁寧に、そこに立っている。
大河内はゆっくり言った。
「組織を代表して宣言する。——模造品であるお前の回収に、正式に成功した」
一語一語が妙に遅い。
それだけで、背中に氷を流し込まれたみたいに寒い。
真は声が出ない。
ただ目を見開いて大河内を睨むしかない。
大河内の背後から、全身武装の男たちが入ってきた。
銃口が、真に向く。いつでも撃てる角度だ。
大河内は笑みを崩さない。
「疑問だらけだろう? 教えてやるよ。さて、どこから話そうか……」
考えるふりをして、真へ近づく。
真は動けない。
動けば撃たれる。
「自分の過去を疑ったことはないのか? それとも、疑いたくないのか?」
真には三年分の記憶しかない。
思い出したいと思ったことはある。
でも最後には諦めた。怖かった。過去が今を壊す気がしたから。
——だから忘れることを選んだ。
真は何も言わない。
大河内は続けた。
「お前は、組織が“俺を元にして”作った模造品だ。分かるか? 偽物なんだよ」
真の喉が鳴る。
否定したいのに、言葉が出ない。
大河内は急に講釈臭くなる。
「ところで“模造”と“複製”の違いは知ってるか?」
「複製は、本物とまったく同じにするのが目的だ。せいぜい本物と同じ止まり」
「模造は、本物を見本に“作る”。だから別物になったり、本物を超える可能性もある」
大河内は口元を歪めた。
「だが、お前は違う」
次の瞬間——
拳が真の腹にめり込んだ。
「ぐっ……!」
息が一気に抜け、視界が揺れる。
由は支えるふりをして、逃げないよう固定する。手が緩まない。
大河内は吐き捨てる。
「お前みたいな失敗作が、よくも俺に向かって偉そうにできたな」
さらに膝が入る。
真は折れそうになるのを堪え、歯を食いしばる。
その間、由の声だけが優しい。
「大丈夫ですか?」
優しい声。
優しい声のまま、腕をへし折るみたいに抑え込んでくる。
真は初めて理解する。
——この優しさは、武器だ。
由が見かねたように言った。
「もういいでしょう、大河内さん。発散は十分です」
大河内は急に媚びるようにうなずく。
「は、はい。確かに十分です。だが……由さんを、こんなやつに渡すなんて俺は……」
由は淡々と言った。
「組織の命令です」
「……はい」
大河内は悔しそうに真を睨み、後ろへ下がった。
「今、組織を代表して告げる。これからお前は、組織の下で生きる」
真の頭の中は混乱で真っ白だった。
大河内の言葉が、悪魔の笛みたいに頭の奥で鳴る。
けど腹の痛みが、逆に意識を少しだけ現実へ引き戻す。
真は、やっと気づいた。
(……マナの全部、偽物だ)
荒野も、砂漠も、青い山も。
だからずっと気持ち悪かった。
あの違和感は、身体が“嘘”を拒んでたんだ。
真は首を回し、背後の由を見ようとした。
大河内が笑う。
「やっと気づいたか。雲居 由は、組織が作った最も成功した模造品だ。知能も身体も。何より重要なのは“従順さ”」
「ほらな。お前のことを好きになっていても、最後には忠実にお前をここへ連れてきた」
真は大河内の言葉なんて聞いていなかった。
ただ、由に問いかける。
「……本当、なのか」
由は、うなずいた。
迷いなく、静かに。
その瞬間、真の中の何かが崩れた。
好きになった女に裏切られ、信じた男に売られ、世界までもが“作り物”だった。
もうどうでもいい、という感覚が心の底から上がってくる。
真は由から目を逸らし、大河内へ向き直った。
「……で? 俺みたいな欠陥品を、何に使う」
「いい質問だ」
大河内は楽しそうに笑う。
「欠陥品とはいえ、使える部分はある」
「何だよ」
「“感覚”だ」
大河内は言い切った。
「お前にはあって、由にはない。だから組織は、お前にすぐ手を出さなかった」
「……つまり、ずっと観察されてた?」
「そうだ」
大河内はうなずく。
「お前は鋭い。真贋の判別だけじゃない。命に関わる危険も、事前に察知できる」
「それが由に加わったら……どうなると思う?」
真は乾いた笑いを漏らした。
「……厄介な化け物が出来上がるんじゃないか」
「そういうことだ」
大河内は満足そうだ。
「お前が昨日、雷を避けた。あれは偶然じゃない」
「思いつきで落とした雷を避けた時点で、証明になった」
「一度だけじゃない。何度もある」
「そして何より——由がいなければ、お前はここへ来なかった」
真は思う。確かに。由がいなければ、罠だと分かっていても来なかった。
大河内の声が、さらに冷たくなる。
「まだ選べると思っているのか? お前が飛行機に乗った瞬間から、この世界でお前は“死人”だ!」
真は顔を上げる。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
大河内は笑った。
「お前が乗った飛行機は“墜落”したことになってる。峰 真という人間は、もう死んだ」
真の背中がぞくりとする。
ここまで徹底して、跡形もなく消すのか。
「……じゃあ、俺にできることは……」
大河内は同じ言葉を繰り返した。
「まだ選べると思っているのか?」
真は、その瞬間に悟る。
——これは交渉じゃない。宣告だ。
三年後。
「うわぁ、うわぁ……!」
赤ん坊の泣き声が部屋の中から響く。
真は、扉の前で固まっていた。
今ほど緊張したことはない。
泣き声を聞くだけで、自分が父親になったことは分かる。
でも、胸にあるのは喜びじゃない。
恐怖だ。
理由のわからない、圧倒的な恐怖。
『組織は今、“背神の産物”同士が生んだ次の世代がどうなるか見たい。だから頑張れ』
すべてを奪われたあの日。
未来までも奪われたあの日。
その言葉が、今日になって突然よみがえった。
たった一言で、真の世界は真っ黒になる。
光なんて、どこにもない。
あの日、彼の“全部”は死んだのだ。
「真……!」
部屋の中から、妻の声が聞こえる。
由の声だ。優しい声。昔と変わらない。
なのに真は、扉の前で躊躇した。
この先、自分がどうなるのか分からない。
組織が解放してくれる? 自由にしてくれる?
そんな発想がどれほど甘いか、真は知っている。
死にたいと思っても、死ねない。
彼は永遠に醒めない悪夢に落ちた。
そして二度と目覚めない。
模造品の気持ちが、痛いほど分かる。
——それは、どうしようもなく悲しい気持ちだった。
真は立ち上がる。
扉へ向かう。
手を、ドアノブにかけた……。




