表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

レプリカ

作者: 不知餘
掲載日:2026/02/11

偽物は所詮、偽物だ。永遠に本物にはなれない……。

(みね)先生、どうです?」

 やや太めの中年男が、目の前の青年にうやうやしく尋ねた。

「うーん……」

 峰先生と呼ばれた青年は、少し考え込んで、すぐには答えなかった。

 二人は高級レストランで食事をしていた。峰 (みね・しん)は手元の品をじっと見つめ、大河内社長は期待を隠せない顔で返事を待っている。

 しばらくして、真がようやく口を開いた。

「大河内さん。いや、悪い意味じゃない。今回の“掘り出し物”は、相当いいよ」

「本当か!」

 大河内はパッと顔を明るくした。ようやく欲しかった答えが来た、という顔だ。

 ——だが、次の一言で表情が凍る。

「出来のいい模造品だ。ちゃんと売れば、いい値が付く」

「……は?」

 大河内は口を開けたまま固まり、慌てて指をさした。

「じゃ、じゃあこれも? これと、これも……?」

 真は気の毒そうにうなずく。

「全部……“模造”だ」

「そんな……!」

 大河内はしぼんだ風船みたいに椅子へ沈み込み、しばらく動けなかった。

 真は小さく息を吐いて言う。

「俺だって、全部本物だって言ってやりたい。でもさ……」

 ほんの少し間を置いて、淡々と続けた。

「偽物は偽物だ。永遠に本物にはならない」

「でも……あれは『マナ』遺跡から掘り出したものなんだぞ!」

 大河内は食い下がる。

 真の目が細くなる。

「……俺を疑ってんの?」

「いや、違う! そうじゃない!」

 大河内は慌てて手を振った。

 真は冷たく言い切る。

「運ぶ途中で入れ替わったのか、最初からそうだったのかは知らない。けど、俺が言えるのはひとつ。——これは模造品だ。

 出来はいい。真作扱いで飾ったって、あんたが満足できるならそれでいいだろ」

 そう言って席を立とうとした。

 大河内は即座に立ち上がり、引き留めた。

「悪かった、怒らないでくれ。もちろん、峰先生の目は信じてる!」

「……ふん」

 真は鼻を鳴らし、座り直す。

「長い付き合いだから話してる。それだけだ」

「はい、はい……」

 大河内はうなずきながらも、どうにも納得できない顔だ。

「けど……どうやって見分けてる? 正直、信じたいが信じきれん」

「企業秘密」

 真はそう言った。——本当は話したくないわけじゃない。ただ、理由が自分でも分からない。

「言えるのは、偽物は絶対に俺の目をごまかせないってことだけだ」

 それは誇張ではなかった。真は真贋鑑定で外したことがない。だから大河内は、彼をここへ呼んだ。

 峰 真は、もともとバイトで食いつなぐただの若者だ。けれど、彼には異様な能力があった。

 ——真偽を見抜く力。

 その力のおかげで暮らしは多少ましになったが、本人はこの能力で稼ぐことにどこか抵抗がある。理由は分からない。使うたび、体の奥が気持ち悪くなる。

 それでも彼は、この力だけは譲れなかった。疑われるのが何より嫌だ。たぶんそれが、彼に残った数少ない誇りだった。

 大河内は深追いしない。どうせ聞いても答えは出ないのを知っている。

 ただ、困った顔で言った。


「……峰先生。『マナ』に一度行ってくれないか。現地で真贋を確かめてほしい。あそこから出たものが、一本たりとも本物じゃないなんて……正直、気味が悪い」

 真は即答する。

「行かない。俺とあんたの関係って、ここでの取引だけだろ」

 大河内は引かない。

「車馬代はいくらでも出す! 頼む、峰先生!」

 真は首を振り、ため息をついた。

「はぁ……話が噛み合わない」

 立ち上がる。

「峰先生!」

 大河内がまた立つ。

 その必死さが効いたのか、真は入口で足を止めた。大河内が急いで近づく。

「峰先生!」

「……しーっ」

 真は人差し指を口元に当てた。

「向かいの通り。赤い服の女、どう思う?」

「どれだ?」

 大河内が目を凝らす。

「あれ」

「ああ……あれか。いいじゃないか。胸も尻も、しっかりしてる。服のセンスも悪くない」

 男が女を品定めするとき、だいたい視点は同じだ。

 真は小さく舌打ちして首を振る。

「だから分かってない。俺がいいと思うのは、あっちの淡い黄色のほうだ」

 大河内はそちらを見る。

「……まあ悪くはないが、普通だろ。顔は中の上、体型も並。特別そそられない」

 真はどこか寂しげに笑った。

「もし赤いほうが、顔をいじってて、胸も作り物だって知ったら? それでも“綺麗”って言える?」

 大河内は即答する。

「言えないな」

「だろ」

 真の声に諦めが混じる。

「この時代、自然な美人ってどこ行ったんだよ」

 ——真偽が見えすぎるのも、しんどい。

 彼の目には、人が“精巧な作り物”に見えることがあるのだ。

 大河内は、そこで一気に理解した。真の弱点。

 そして、その弱点の使い方。

「……峰先生。これは好みじゃないか?」

 大河内は懐から一枚の写真を出した。

 真は受け取った瞬間、息を呑む。

 心臓を撃ち抜かれたみたいに。

「……誰だ、これ」

 大河内はわざと咳払いする。

「ごほん。——うちの秘書だ。雲居 (くもい・ゆう)

「……どこにいる。紹介してくれ」

 真の声が、少しだけ熱を帯びた。

「できないことはない。だが……」

 大河内は間を作った。

「だが?」

「彼女は今から『マナ』遺跡へ向かう」

(この狸……!)

 真は心で毒づきつつ、口では平静を装う。

「じゃあ帰ってからでいいだろ。戻ったら紹介しろ」

 大河内は余裕たっぷりに笑う。

「もちろん、それでもいい。……ただな」

 わざと考えるふりをして、言葉を選ぶ。

「それだと峰先生は、“二人きり”で異国を旅するチャンスを逃す」

 “二人きり”を妙に強調して、さらに追い打ちをかけた。

「こっちは男も多い。由さんに言い寄るやつも多い。帰ってくる頃には……どうなってるか分からんぞ?」

 真は歯を食いしばる。

 分かってる。罠だ。

 でも——こんな“本物”みたいな女を、逃したくない。

 少し計算してみる。損はない。

 そして結局、衝動が理性に勝つ。

「……分かった。行く」

 真は言った。

 大河内の口元が、わずかに歪む。

 その不気味な笑みに、真は気づかなかった。


 三日後。真は空港にいた。

 と言っても、大河内の私設空港だ。これから乗るのは、操縦士を除けば真と由だけの小型機。

 初対面の第一声をどうするか、まだ決められない。

 知っているのは、彼女の姓と名だけ。

 雲居 由。

 ——それは、彼の人生を変える名前になる。

 だが、そのことを彼はまだ知らない。

 考え込んでいると、甘く柔らかな声が背後から聞こえた。

「……峰 真さん、ですよね。峰先生」

 真が振り向く。

「はじめまして。雲居 由です。どうぞよろしくお願いします」

 丁寧に頭を下げる所作。

 その瞬間、真は見惚れて固まった。

 何を言ったのか、何をしたのか——よく覚えていない。

 気づいたときには機内の座席で、由が隣に座っていた。

 真は彼女を見る。

 こんなに綺麗な女を、見たことがない。

 澄んだ瞳。白い肌。流れる黒髪。

 まるで現実から切り取った“奇跡”みたいだった。

 真はすでに、彼女の優しさに酔っていた。

 そして次に我に返ったとき、自分がもう“賊船”に乗っていて、海の真ん中へ運ばれていることに気づく。


 飛行機は目的地へ直行しなかった。近くに降りたわけでもない。

 降り立った場所は——目的地からはるかに遠いところだった。

 機を降りてから、真は十数キロ歩いた。荒野を抜け、辿り着いたのは砂漠だった。

 暑い。暑い。マジで暑い。

 他の言葉が出てこない。

 なのに、由の背中は相変わらず軽い。歩幅も一定で、呼吸も乱れない。

 汗? 見えない。髪も頬も、乾いたままだ。

(……おかしいだろ)

 荒野を越えて、そのまま砂漠を横断してるんだぞ。

 普通の人間が、あんな平然としていられるわけがない。

 真は自分の体力に少し自信があった。

 けど由を見た瞬間、その自信は粉々に砕けた。跡形もない。

 そしてもう一つ、確信に近い感覚が生まれる。

 ——この女、ただ者じゃない。

 ただ、由の“ただ者じゃなさ”はそれだけじゃなかった。

 真が限界に近づくたび、由はちょうどそのタイミングで振り返って、にこっと笑うのだ。

 その笑い方が、また絶妙にずるい。

「大丈夫ですか? もう少しですよ」

 その一言と、その笑顔だけで、真は歯を食いしばって歩いてしまう。

 男ってやつは、美人の前で情けない顔を見せたくない。

 ましてや、由みたいな女の前なら——。

 真も同じだった。

 美人ってのは、人を殺す。

 しかも、死んだことに気づかせないまま。

 やがて夕陽が沈みかけた頃、彼らはようやく「マナ」に到着した。

 目の前には山がそびえている。登れば遺跡だ。

 真はもうヘロヘロだった。足は鉛、喉は砂。

 なのにその視界に、緑に覆われた青い山が飛び込んでくる。

 ……その瞬間。

 体の奥がざわついた。


(気持ち悪い)

 さっきまで砂漠だったんだ。

 その先に、こんな瑞々しい山があるのは不自然すぎる。

 登りたくない。

 直感が叫んでる。ここ、何かある。

 由も真の迷いを見抜いたのか、さらっと言った。

「遺跡の加護で、こんなに美しいのかもしれませんね」

 その言葉は、疑問を“説明”してしまう。

 そして由にそう言われたら、真はもう何も言えない。

 今さら「帰ろう」なんて言えるわけがない。

 そもそも、帰るにしても遅すぎた。

 由はもう登り始めていて、真は追うしかなかった。

 山の上は、確かに美しかった。

 道中、運がいいのか悪いのか、大雨が降った。

 空がさっきの酷暑の埋め合わせでもするみたいに、容赦なく。

 二人は一気にずぶ濡れになった。

 真は内心「ラッキー」と思ってしまう。濡れた服は、いろいろ見えるから——。

(いや、違う違う。俺は紳士だ)

 そう自分に言い聞かせる。

 ……けど、見えてしまったものは見えてしまった。人間だ。

 夜になると山は冷え込んだ。

 由が小さく震えるのを見て、真はすぐ上着を脱いで彼女にかけた。

「ありがとうございます」

 由は微笑んだ。

 その笑顔が、妙に胸に刺さる。

 守りたい、なんて甘い言葉が喉まで上がる。

(何やってんだ、俺)

 ——でも、もう遅い。

 この時点で真の心は、かなりの割合で由に持っていかれていた。

 真は胸の奥で誓ってしまう。

 何が起きても、命に代えても、彼女は守る、と。

 純情ってのは、時々いちばん残酷な罠になる。

 そのときだ。

 真の頭の中に、唐突な“感覚”が走った。

 ぞわっと背筋が凍る。


(危ない!)

 反射的に真は由へ飛びつき、体ごと引き倒すように抱え込んだ。

 由が驚いた顔をする。

 次の瞬間——

 轟音。

 雷が落ちた。

 ちょうど、彼らがさっきまで立っていた木の真上に。

 木は真っ二つ。焦げた生臭い匂い。

 炎が裂け目に燃え移り、ぱちぱちと音を立てる。

 少しでも遅かったら、二人は炭になってた。

 由は地面にへたり込み、怯えたように顔をそむける。

「大丈夫か?」

 真はそう言いながら、今の体勢が妙に近いことに気づいて慌てて離れた。

 由の肩にかけた上着がずれ、白い首筋が見える。真は視線を逸らす。

 だが由は、驚くほど早く立て直した。

「大丈夫です……前に小屋があります。早く行きましょう。ここにいるのは危険です」

 そう言って、いつもの柔らかい笑みを浮かべ、先へ歩き出す。

(……早すぎないか?)

 雷で死にかけた直後の人間が、あんなに平然と笑えるか?

 真の胸の奥で、嫌な予感が少し強くなる。

 それでも彼は、由の背中を追う。

 炎はまだ燃えていた。

 翌日。二人は「マナ」遺跡へ辿り着いた。

 それは洞窟だった。暗い、暗い洞窟。

 由は小さく息を飲む。

「……中、暗いですね。ちょっと怖いです」

 真は二つ返事だった。

「俺が先、行く」

 洞窟は深い。道は一本しかない。

 なのに途中、作業員の姿は一人もいない。音もしない。

(いや、さすがにおかしい)

 嫌な予感が増していく。

 引き返そう——そう思って振り向きかけた瞬間、由が真の腕にぎゅっとしがみついた。

「……帰らないで」

 声がやけに小さい。

 その言い方が、真の足を止める。

 そして気づけば、彼らは大きな空洞に出ていた。

 その瞬間。

 ぱっと、洞窟全体が明るくなった。

 灯りだ。

 人工の灯り。

「……は?」

 背中に冷たい汗が走る。

(どうしてここに灯りがある)

 真は反射で入口へ走ろうとした。

 だが遅い。

「うっ」

 背後から手が伸び、両腕を後ろでがっちり固定された。

 鉄みたいな力。

「動かないでください」

 声は由。

 甘い、柔らかい声。

 なのに手つきは、容赦がない。

 真の脳が一瞬で真っ白になる。

「……由?」

 洞窟の壁が、すっと開いた。

 そこから出てきたのは——大河内だった。

 真は目を疑った。

 でも現実は、ひどく丁寧に、そこに立っている。

 大河内はゆっくり言った。

「組織を代表して宣言する。——模造品であるお前の回収に、正式に成功した」

 一語一語が妙に遅い。

 それだけで、背中に氷を流し込まれたみたいに寒い。

 真は声が出ない。

 ただ目を見開いて大河内を睨むしかない。

 大河内の背後から、全身武装の男たちが入ってきた。

 銃口が、真に向く。いつでも撃てる角度だ。

 大河内は笑みを崩さない。

「疑問だらけだろう? 教えてやるよ。さて、どこから話そうか……」

 考えるふりをして、真へ近づく。

 真は動けない。

 動けば撃たれる。

「自分の過去を疑ったことはないのか? それとも、疑いたくないのか?」

 真には三年分の記憶しかない。

 思い出したいと思ったことはある。

 でも最後には諦めた。怖かった。過去が今を壊す気がしたから。

 ——だから忘れることを選んだ。

 真は何も言わない。

 大河内は続けた。

「お前は、組織が“俺を元にして”作った模造品だ。分かるか? 偽物なんだよ」

 真の喉が鳴る。

 否定したいのに、言葉が出ない。

 大河内は急に講釈臭くなる。

「ところで“模造”と“複製”の違いは知ってるか?」

「複製は、本物とまったく同じにするのが目的だ。せいぜい本物と同じ止まり」

「模造は、本物を見本に“作る”。だから別物になったり、本物を超える可能性もある」

 大河内は口元を歪めた。

「だが、お前は違う」

 次の瞬間——

 拳が真の腹にめり込んだ。

「ぐっ……!」

 息が一気に抜け、視界が揺れる。

 由は支えるふりをして、逃げないよう固定する。手が緩まない。

 大河内は吐き捨てる。

「お前みたいな失敗作が、よくも俺に向かって偉そうにできたな」

 さらに膝が入る。

 真は折れそうになるのを堪え、歯を食いしばる。

 その間、由の声だけが優しい。

「大丈夫ですか?」

 優しい声。

 優しい声のまま、腕をへし折るみたいに抑え込んでくる。

 真は初めて理解する。

 ——この優しさは、武器だ。

 由が見かねたように言った。

「もういいでしょう、大河内さん。発散は十分です」

 大河内は急に媚びるようにうなずく。

「は、はい。確かに十分です。だが……由さんを、こんなやつに渡すなんて俺は……」

 由は淡々と言った。

「組織の命令です」

「……はい」

 大河内は悔しそうに真を睨み、後ろへ下がった。

「今、組織を代表して告げる。これからお前は、組織の下で生きる」

 真の頭の中は混乱で真っ白だった。

 大河内の言葉が、悪魔の笛みたいに頭の奥で鳴る。

 けど腹の痛みが、逆に意識を少しだけ現実へ引き戻す。

 真は、やっと気づいた。

(……マナの全部、偽物だ)

 荒野も、砂漠も、青い山も。

 だからずっと気持ち悪かった。

 あの違和感は、身体が“嘘”を拒んでたんだ。

 真は首を回し、背後の由を見ようとした。

 大河内が笑う。

「やっと気づいたか。雲居 由は、組織が作った最も成功した模造品だ。知能も身体も。何より重要なのは“従順さ”」

「ほらな。お前のことを好きになっていても、最後には忠実にお前をここへ連れてきた」

 真は大河内の言葉なんて聞いていなかった。

 ただ、由に問いかける。

「……本当、なのか」

 由は、うなずいた。

 迷いなく、静かに。

 その瞬間、真の中の何かが崩れた。

 好きになった女に裏切られ、信じた男に売られ、世界までもが“作り物”だった。

 もうどうでもいい、という感覚が心の底から上がってくる。

 真は由から目を逸らし、大河内へ向き直った。

「……で? 俺みたいな欠陥品を、何に使う」

「いい質問だ」

 大河内は楽しそうに笑う。

「欠陥品とはいえ、使える部分はある」

「何だよ」

「“感覚”だ」

 大河内は言い切った。

「お前にはあって、由にはない。だから組織は、お前にすぐ手を出さなかった」

「……つまり、ずっと観察されてた?」

「そうだ」

 大河内はうなずく。

「お前は鋭い。真贋の判別だけじゃない。命に関わる危険も、事前に察知できる」

「それが由に加わったら……どうなると思う?」

 真は乾いた笑いを漏らした。

「……厄介な化け物が出来上がるんじゃないか」

「そういうことだ」

 大河内は満足そうだ。

「お前が昨日、雷を避けた。あれは偶然じゃない」

「思いつきで落とした雷を避けた時点で、証明になった」

「一度だけじゃない。何度もある」

「そして何より——由がいなければ、お前はここへ来なかった」

 真は思う。確かに。由がいなければ、罠だと分かっていても来なかった。

 大河内の声が、さらに冷たくなる。

「まだ選べると思っているのか? お前が飛行機に乗った瞬間から、この世界でお前は“死人”だ!」

 真は顔を上げる。

「……どういう意味だ」

「そのままの意味だ」

 大河内は笑った。

「お前が乗った飛行機は“墜落”したことになってる。峰 真という人間は、もう死んだ」

 真の背中がぞくりとする。

 ここまで徹底して、跡形もなく消すのか。

「……じゃあ、俺にできることは……」

 大河内は同じ言葉を繰り返した。

「まだ選べると思っているのか?」

 真は、その瞬間に悟る。

 ——これは交渉じゃない。宣告だ。

三年後。

「うわぁ、うわぁ……!」

 赤ん坊の泣き声が部屋の中から響く。

 真は、扉の前で固まっていた。

 今ほど緊張したことはない。

 泣き声を聞くだけで、自分が父親になったことは分かる。

 でも、胸にあるのは喜びじゃない。

 恐怖だ。

 理由のわからない、圧倒的な恐怖。

『組織は今、“背神の産物”同士が生んだ次の世代がどうなるか見たい。だから頑張れ』

 すべてを奪われたあの日。

 未来までも奪われたあの日。

 その言葉が、今日になって突然よみがえった。

 たった一言で、真の世界は真っ黒になる。

 光なんて、どこにもない。

 あの日、彼の“全部”は死んだのだ。

「真……!」

 部屋の中から、妻の声が聞こえる。

 由の声だ。優しい声。昔と変わらない。

 なのに真は、扉の前で躊躇した。

 この先、自分がどうなるのか分からない。

 組織が解放してくれる? 自由にしてくれる?

 そんな発想がどれほど甘いか、真は知っている。

 死にたいと思っても、死ねない。

 彼は永遠に醒めない悪夢に落ちた。

 そして二度と目覚めない。

 模造品の気持ちが、痛いほど分かる。

 ——それは、どうしようもなく悲しい気持ちだった。

 真は立ち上がる。

 扉へ向かう。

 手を、ドアノブにかけた……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ