第九話:氷解の兆しと新たな役目
アンナが回復したという知らせは、凍てつく大地を駆ける春一番のように、城と城下町を瞬く間に駆け巡った。
私の立場は、一夜にして劇的に変わった。
「セラフィナ様、朝食をお持ちいたしました。今朝は温かいオートミールをご用意しましたので、どうぞ」
翌朝、部屋を訪れたヘルガは、深々と頭を下げた。その瞳から、かつての侮蔑の色は完全に消え去り、深い感謝と敬意が浮かんでいる。彼女だけでなく、廊下ですれ違う使用人たちも、以前のようによそよそしく私を避けるのではなく、皆、畏敬の念を込めてお辞儀をするようになった。
「追放された罪人」は、いつしか「奇跡を起こす薬師様」へと変わっていたのだ。
そして、その日の午後。私は辺境伯様の執務室へと呼び出された。
扉を叩くと、いつもと同じ「入れ」という低い声。しかし、部屋の主の雰囲気は、明らかに以前とは違っていた。
「アンナという子供のこと、ヘルガから聞いた。完全に回復した、と」
ゼオン様は、山積みの書類から顔を上げ、まっすぐに私を見つめて言った。
「あの力は、お前にとって、負担は大きいのか」
その問いは、彼の口から出るとは思ってもみなかった、相手を気遣う言葉だった。
「……力を注いだ後は、少し疲れるだけです。眠れば回復しますので」
「そうか」
彼は短く頷くと、立ち上がって窓辺に立った。
「お前の部屋は、あまりに不便で寒い。もっと温室に近く、陽当たりの良い部屋を用意させる。すぐに移るがいい」
「よろしいのですか?」
「お前は、もはやただの追放者ではない」
彼は、窓の外の雪景色を見つめながら、静かに言った。
「これより、セラフィナ・グリーンウッドを、アイスラー辺境伯付きの公式薬師に任ずる。温室の管理、および、領内の民の治療がお前の役目だ」
公式薬師。それは、罪人としてこの地に来た私に、初めて与えられた、確かな「居場所」だった。
「……謹んで、お受けいたします。この身に余る光栄です」
私が頭を下げると、彼は小さく息をついた。
「礼を言うのは、こちらの方だ」
彼の視線が、窓の外から、私へと戻る。
「お前の薬草がもたらす温かさだけが、長年、この身を苛む呪いの冷気に、唯一抗うことができる」
それは、彼の魂からの告白のように聞こえた。誰にも明かしたことのないであろう、弱さの片鱗。私は、彼の蒼い瞳の奥に、深い孤独と、そして、ごくわずかな希望の光を見た気がした。
その日の夕方、私は新しい部屋へと移った。
以前の塔の一室とは比べ物にならないほど広く、暖炉の火が赤々と燃え、上質な絨毯と寝台が置かれている。窓からは、私が育てている温室が、まるで自分の庭のように見下ろせた。
コンコン、と扉がノックされる。入ってきたのは、温かい夕食を乗せたお盆を持つヘルガだった。
「薬師様。本日は本当にお疲れ様でございました。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
その優しい笑顔に、私は思わず微笑み返した。
ここは、世界の果ての、呪われた土地。
けれど、窓の外に広がる銀世界も、そこに建つ無骨な城も、もはや私にとって、ただの流刑地ではなかった。
凍てつく大地に根を下ろし、ささやかながらも、温かい光を灯す。それが、私の新しい人生。
この氷の国が、私の本当の「故郷」になり始めているのを、確かに感じていた。