第七話:温室の友と騎士の眼差し
私の日常は、温室を中心に回り始めた。
辺境伯様からの新たな命令が下ってから、城の空気は微妙に変化した。特に、侍女ヘルガの態度は、あからさまな侮蔑から、戸惑いの混じった静観へと変わっていた。
「本日のご入用は」
「ありがとう、ヘルガ。今日は新しい花壇の土を耕したいから、丈夫な鍬を貸していただける?」
「……承知いたしました」
彼女は言われたものを黙って用意してくれるようになった。時折、緑が広がり始めた温室を、信じられないものを見る目で一瞥していく。その瞳には、かつての敵意とは違う、畏れにも似た感情が浮かんでいた。
温室での作業は、孤独ではなかった。
あの日以来、月光狐は毎日、決まった時間に姿を見せるようになった。私が休憩するのを見計らって、どこからともなく現れ、金の瞳でじっと私を見つめるのだ。
「はい、どうぞ。今日のカブは、一段と甘いわよ」
私が差し出す野菜をはむと、彼は満足げに喉を鳴らす。
その日、私は作業の疲れから、花壇の縁に座り込んでいた。すると、月光狐はためらうように、しかし、確かな足取りで私に近づき、そっとその身を私の足に寄せたのだ。
「……!」
驚いて固まる私を気にもせず、彼は丸くなって目を閉じる。伝わってくる、驚くほど温かい体温。私はおそるおそる、その白銀の毛皮に手を伸ばした。指先に触れた毛並みは、極上の絹よりも滑らかで、柔らかい。
私が優しくその背を撫でると、彼は心地よさそうに、小さく「クゥン」と鳴いた。
孤独だった私に、初めてできた、温かい友達だった。
その頃、ゼオンは執務室で、日課となった「報告」を受けていた。
今日も、セラフィナが届けたのは、具沢山の温かいポタージュだった。一口飲むごとに、体の芯から呪いの冷気が霧散していく。この食事の時間が、何年も忘れていた安らぎを与えてくれることを、彼は自覚し始めていた。
(一体、どこまでできるのだ、あの女は)
好奇心を抑えきれず、彼は自らの目で確かめるべく、温室へと足を向けた。
扉を開けて、息を呑む。
そこは、もはや彼が知る「死の温室」ではなかった。いくつもの花壇が黒々とした生命力のある土を取り戻し、そこには青々とした葉野菜や、色とりどりのハーブが力強く育っている。空気は温かく、土と緑の匂いに満ちていた。
そして、その中央で、一人の女と一匹の聖獣が、穏やかな陽だまりの中にいる。
女は土で汚れるのも構わずに植物の世話をし、その傍らには、人に懐くことなど決してないはずの月光狐が、安心しきった様子で丸まっていた。まるで、何百年も前からそこにある、一枚の絵画のような光景だった。
視線に気づいたのか、セラフィナが顔を上げて立ち上がり、淑女の礼をとる。
「辺境伯様。本日の作業は順調に進んでおります」
「……ああ」
彼の視線は、彼女の傍らで身を起こした月光狐に注がれる。狐はゼオンを鋭く一瞥したが、セラフィナの側から離れようとはしない。
「月光狐が……、お前に懐いているのか」
「懐く、というよりは……。私が育てた野菜がお目当てのようです。食いしん坊な、お友達ですわ」
そう言って、セラフィナは柔らかく微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、ゼオンの胸の奥で、凍り付いていた何かが、小さく音を立てた。
王都から送られてきた、か弱いはずの罪人。けれど、今、彼の目の前にいるのは、土に汚れながらも、気高く、そして、誰よりも力強い生命力に満ちた女だった。
「……見事だ」
絞り出すようにそれだけ言うと、ゼオンは踵を返した。これ以上ここにいると、自分の中から、知らない感情が溢れ出してしまいそうだったからだ。
一人残された温室で、セラフィナは彼の意外な言葉に頬を染めた。辺境伯様に褒められた。ただそれだけのことなのに、王太子にどんな美辞麗句を並べられるよりも、心が温かくなるのを感じる。
月光狐が、慰めるように、彼女の手にすり、と鼻先を寄せた。
呪われた大地は、確実に、そして静かに、変わり始めていた。