第四話:氷の騎士との契約
あの奇跡から一夜が明けた。
私は疲労困憊で眠ったはずなのに、夜明けと共に弾かれたように目を覚ました。夢だったのではないか。あの小さな芽も、私の高ぶった心が見せた幻だったのではないか。不安に駆られ、私は身支度もそこそこに、凍える廊下を走って温室へと向かった。
扉を開けると、陽の光が差し込んだ温室の中に、それは確かにあった。昨日よりも心なしか背を伸ばし、双葉を健気に広げている、小さな緑の命。
「……よかった」
安堵のため息をつき、私はその場にしゃがみ込んだ。再び芽に触れ、昨日よりも少しだけ強い生命力と温かさを感じる。これなら、きっと大丈夫。この子を育て、種を取り、少しずつ仲間を増やしていけば……。
その時、背後に人の気配を感じて、心臓が跳ね上がった。
温室の入り口に、音もなく佇んでいたのは、この城の主、ゼオン・フォン・アイスラー辺境伯その人だった。彼の存在は、ただそこにいるだけで、温室のガラスの隙間から吹き込む風よりも鋭く、空気を凍てつかせる。
「昨日、お前がしたことだな」
感情の乗らない声で、彼は言った。その蒼い瞳は、私ではなく、私の足元で芽吹いたばかりの命に、まっすぐに注がれている。
「……辺境伯様。何か、問題がございましたでしょうか」
私は立ち上がり、無意識に芽を庇うように、彼との間に体を割り入れた。
「問題しかない」彼はゆっくりとこちらへ歩み寄る。「この土地では二十年、何一つ芽吹いてはいない。これは『問題』だ」
彼の冷たい目が、初めて私を捉えた。嘘も言い訳も通じない、すべてを見透かすような瞳。私は唾を飲み込んだ。
ゼオン様は私の横を通り過ぎ、芽生えの前に屈み込むと、その黒い手袋に覆われた手を、恐る恐るというように、そっと緑の芽に近づけた。
「……温かい…」
彼が、吐息のように、信じられないという響きで呟いた。その瞬間、彼を纏っていた絶対零度の空気が、ほんのわずかに揺らいだ気がした。
「お前の力……」
彼は立ち上がり、再び私に向き直る。その瞳には、初めて「無感情」以外の色、鋭い探究心と、あるいは微かな期待が宿っていた。
「女。お前の過去も、王都で犯したという罪も、私にはどうでもいい」
彼は言った。それは命令であり、交渉であり、そして、私にとって唯一の蜘蛛の糸だった。
「その力が本物ならば、証明してみせろ。この温室を、緑で満たすのだ。もしそれが成されたなら、お前の身分と生活は、私がこの地で保証しよう」
それは、追放者に対する慈悲ではなかった。彼の土地と、彼自身を蝕む呪いに対する、ただ実利だけを求める契約の提案。けれど、それで十分だった。
「……お受けいたします」私は、はっきりと答えた。「その代わり、条件がございます。栽培に必要な種と、農作業に使う道具、そして、この温室を自由に管理する許可をいただきたいのです」
ゼオン様は、私の言葉を吟味するように少し黙った後、短く頷いた。
「よかろう。必要なものは侍女のヘルガに伝えろ。……だが、失敗は許さん」
氷の騎士はそれだけ言うと、音もなく温室を去っていった。彼が去ると、張り詰めていた空気がふっと緩む。
私は、がらんとした、死の気配だけが満ちる温室を見渡した。途方もない挑戦だ。けれど、私の胸には、昨日よりもずっと大きく、確かな希望が灯っていた。
足元の小さな芽に、私は微笑みかける。
「さあ、ここからが本番よ。一緒に、この土地に春を呼びましょう」