第二十一話:聖獣の使者と光の花
城壁の上での、奇妙な睨み合いは、半刻ほど続いただろうか。
ヴァレリウス伯爵は、進むことも退くこともできず、ただ屈辱に顔を歪ませていた。やがて、これ以上の醜態は晒せぬと悟ったのだろう、彼は憎々しげに私を睨みつけ、吐き捨てた。
「……覚えていろ、北の魔女め! その罪深き辺境伯もろとも、王家への反逆の罪を、必ずや償わせてやる!」
その捨て台詞を最後に、王都の調査団は、すごすごと踵を返し、来た道を戻っていった。その敗残兵のような背中を、城壁の上の民たちは、声もなく、しかし、確かな勝利の実感を込めて見送っていた。
軍勢の姿が完全に見えなくなると、城壁の上は、安堵と、そして、静かな歓声に包まれた。
「やった……、追い返したぞ!」
「セラフィナ様、万歳!」
私は、共に戦ってくれた皆に向き直り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。皆様の勇気が、この城を、私たちの家を守りました」
「とんでもない! 私たちこそ、セラフィナ様がいてくださって、本当に……」
ヘルガが、涙声で私の手を取る。その手は、温かかった。
ひとまずの勝利。けれど、私の心は晴れなかった。
この報復は、必ず、王都に囚われているゼオン様へと向かうだろう。ヴァレリウス伯爵が、己の失態を糊塗するために、どれほど事実を捻じ曲げて報告するか、想像に難くない。
(知らせなければ。そして、彼を、助けなければ)
その夜、私は、決意を固めていた。
温室の奥、ルプスと私だけの聖域で、私は一通の手紙を認めていた。ここでの出来事、そして、私たちが健在であることを伝えるための、ゼオン様への手紙。
それから、もう一つ。私が陽光花の隣に、特別に育てていた鉢植えを、丁寧に布で包んだ。それは、聖女リリアーナの偽りの光とは違う、本物の癒やしと温もりを放つ、『光の花』。この地の希望そのものだった。
「ルプス」
私の傍らに静かに座る、白銀の友を呼ぶ。彼は、すべてを理解しているかのように、金色の瞳で私を見上げた。
「あなたにしか、頼めないの。これを、ゼオン様の元へ届けて。お願い」
私は、手紙と、光の花の鉢植えを、彼の前に差し出す。
ルプスは、その荷を傷つけないよう、驚くほど優しく、そっと口に咥えた。そして、私の頬を一度だけぺろりとなめると、くるりと身を翻す。彼の体が、淡い光の粒子となって、夜の闇へと溶けるように消えていった。
聖獣の、神速の渡り。彼ならば、王都まで、誰にも気づかれずに辿りつけるはず。
―――その頃、王都の屋敷で、ゼオンは一人、苛立ちと無力感に苛まれていた。
セラフィナが持たせてくれた薬草の温もりも、日に日に弱まってきている。今頃、彼の城では、セラフィナが、王都の軍勢の前に、たった一人で立たされているかもしれない。そう思うだけで、呪いの冷気が、骨の髄まで凍らせるようだった。
その、暗い執務室の片隅が、ふいに、淡い銀色の光を放った。
「!?」
光の中から、実体を伴って現れたのは、いるはずのない、月光狐のルプスだった。
ゼオンが呆然とする前で、ルプスは、口に咥えていた荷物を、そっと床に置く。
それは、見間違えるはずもない。セラフィナの筆跡で書かれた手紙と、そして。
仄かな、しかし、部屋中の呪いの冷気を霧散させるほどに力強い、温かい光を放つ、一輪の花だった。
北の地からの、返信。そして、希望。
ゼオンは、震える手で、その手紙を拾い上げた。反撃の狼煙は、今、確かに、彼の元へと届けられたのだ。




