第十四話:雪原に描く未来図
王都の使者団が去った後、城には奇妙な熱気が生まれていた。「辺境伯様と薬師様が、聖獣と共に王命を退けた」という噂は、瞬く間に領民たちの間にまで広がり、それは彼らにとって、暗闇の中に灯った、何よりも力強い希望の光となった。
「二人とも、よくやってくれた」
その夜、温室にやってきたゼオン様は、私と、私の足元に誇らしげに座るルプスに、そう言って頭を下げた。私は驚いて首を横に振る。
「いいえ、辺境伯様が、私たちを守ってくださったのです」
「……互いにな」
彼はそう言うと、おそるおそるルプスに手を伸ばした。ルプスは一瞬だけ身構えたが、私の顔を見ると、やがて、その黒い手袋に、自らの鼻先をすり、と寄せた。辺境伯の、固く閉ざされていた心の扉に、もふもふの聖獣が鼻先をねじ込んだ瞬間だった。
この一件は、ゼオン様に新たな決意を促したようだった。
数日後、彼は古びた数枚の羊皮紙を手に、再び温室を訪れた。
「セラフィナ。お前の力は、もはやこの温室だけに留めておくべきではない」
彼が広げたのは、呪われる以前の、古い領地の地図だった。
「この地に、もう一度、我々の手で畑を、森を、蘇らせる。王都に頼らずとも、我々が自給自足できるだけの恵みを、この手で生み出すのだ」
彼の瞳は、ただ目の前の吹雪を見るのではなく、その先の、まだ見ぬ春を見据えていた。それは、この土地の真の独立宣言だった。
「素晴らしいですわ……! ぜひ、私にお手伝いをさせてください!」
「お前がいなければ、始まらない計画だ」
その日から、私たちは夜ごと、彼の執務室で膝を突き合わせた。地図を広げ、風の流れや、古書に記された土地の記憶を頼りに、最初の畑を作る場所を選定する。
「この谷なら、北風から丘が守ってくれます。それに、土の記憶が、ひときわ温かい気がするのです」
「……その谷か。祖父が、昔、そこでは最後に雪が積もると言っていた」
他愛のない会話。けれど、それは、ただの主君と薬師のものではなく、未来を語り合う、対等な協力者の会話だった。
「……っ」
連日の作業と、地図に魔力を通して土地の気配を探るという慣れない作業に、私は不意に強い眩暈を覚えた。視界がぐらりと揺れ、椅子から落ちそうになった体を、とっさに伸びてきた太い腕が、力強く支える。
「セラフィナ!」
間近で聞こえた、彼の焦った声。気が付けば、私は彼の腕の中にいた。彼の手袋越しの腕は、冷たいはずなのに、なぜかとても温かく感じられた。
「……すまない」彼は慌てて私を離すと、厳しい声で言った。「今日はもう休め。薬師が倒れては、元も子もない」
それは、彼の不器用な、けれど、心のこもった労りの言葉だった。
翌日、私が目を覚ますと、部屋にはヘルガが用意してくれた、温かい滋養のスープが置かれていた。辺境伯様からの差し入れだという。いつも私が彼にしてきたことを、今度は、彼が私にしてくれた。その事実が、胸の奥をじんわりと温めた。
窓の外に目をやると、兵士たちが、昨日私たちが選んだ谷で、雪をかき分け、土を掘り起こしているのが見えた。新しい畑の、土台作りが始まっているのだ。
私は温かい外套を羽織り、城壁の上からその光景を眺めた。隣には、いつの間にかゼオン様が立っている。
「始まったな」
「はい」
目の前に広がるのは、相変わらずの白銀の世界。けれど、私にはもう見えていた。
この雪原の向こうに広がる、黄金色の麦畑と、緑豊かな森の姿が。
それは、私と、この不器用な氷の騎士様とで描く、未来の地図だった。