俺、婿入り前に洗われてる!?婚前調査狂騒曲【case B 商会に婿入りする伯爵家の長男の場合】
爵位を継がない貴族の子息などを対象に、婿として適格か秘密裏に調査をしているらしい。
そんな噂が国内で流れ始めたのは二月ほど前のことだった。
噂の出所は定かではないが、貴族や商家が調査を行っており、なんとすでに婿が決まっている家も調査をしているらしい。
そして、商家の入婿になることが決まっていた子爵家の三男の婚約が先月解消になったことにより噂が真実味を帯びた。
男たちは戦慄した。正しくは家を継がない者たちが戦慄した。
婿入りが決まっているからとあぐらをかいてはいられない。いつどこで調査が入り、不適格のレッテルを貼られ婚約がなくなるかわからないのだ。
解消ならまだマシ。自分有責の破棄なら絶望的。
逆に婿入りの打診をされていた家から、今回は見送ることとなったという書面が届いて一家で真っ青になるケースもあった。
実態は不明瞭ながら、確実に自分たちは品定めをされている。そして具体的に何をどうすれば良いのかもわからないのは、婚約者がいようがいまいが同じ。
もちろん噂が流れる前も、婚約前に調査はされていたはずなのだ。しかし、どうやらそれとは何かが違う。
婿になり得る者たちは戦々恐々としながら日々を過ごしていた。
果たして調査員は実在するのか。
調査員を見つけようとするもの、疑心暗鬼になる者、依頼をしたい者などの思惑が絡み合う。
「そんなバカな話があるかよ」
昼休みに食堂で噂の中身を聞いた俺の第一声である。
「婚約者の身辺調査をやり直す?しかも国主導で?はっ、バカらしい。そんな暇があるなら他のことやれっての」
「そうは言うけどなジュール。実際に婚約が見直されちまった家もあるらしいぜ」
クラスメイトのバルナベが言う。
「そうそう。婚約破棄になったって話も聞いた」
「んなこと言っても、婚約なんてそうそう破棄できるもんでもないだろ」
「普通はな。でも流行ってんだろ、真実の愛とか、そういうやつ」
「あー、あれな。それこそバカらしい。何が真実の愛だよ」
さらに残っていたミニトマトをフォークでぶっ刺し、口に入れる。
俺はジュール=グラモン。グラモン伯爵家の長男だ。
「でもさ、ジュールだって婿入りだろ?可能性あるんじゃねえの?」
「事業を広げるために貴族と縁組するような商会がわざわざ金出して調べたりするか?」
「だからこそ、だろ。それともあれか?ジュールとマノン嬢はそんなことを考える必要もないくらいラブラブってか」
「バカ言うなよ、なんで俺が平民の女なんか」
俺の婚約者はミュッセ商会の跡取り娘であるマノン=ミュッセ。同じ学園に通っているが、俺は貴族科でマノンは商学科に在籍している。
我がグラモン家は長子である姉が継ぐことが決まっていた。姉は既に結婚して、婿を迎えている。
「第一、姉貴が婿を迎えて、俺が婿に行くっておかしいと思うだろ?」
「おまえん家は単純に一番優秀な子に家督を継がせるって決まってんだろうが」
「姉貴とは五つ離れてんだぞ、同じ歳に換算したらわかんねえよ」
「いやぁ、それは無理だと思うぜ、お前の姉さん超優秀じゃん」
「そして美人!」
「うるせえ!うちがおかしいんだよ!お前んとこは長男が継ぐんだろ?」
「うちはそうだけど、これは良し悪しだと思うぜ? 向いてりゃ良いけど向いてなかったら地獄じゃん」
「んなもん補佐をつけりゃなんとでもなるだろ」
「……ジュール、お前なんもわかってねえな」
ずっと黙って俺たちの話を聞いていたダリオがぽつりとこぼした。
「ああ!?」
「都合いいとこだけ見てたら、そりゃ羨ましく見えるだろう」
「何言ってんだよ、都合いいも何も事実だろ!?」
声を荒げる俺に肩をすくめると、ダリオがトレーを持ってカウンターへ去っていった。
「何がわかってねえだよ、よくわかってるっつうの」
「……どうかねえ」
テーブルに肘をついてこちらを見ていたバルナベが、ひとつ大きなため息をついた。
婚約者であるマノンとは、週に一度、学園の食堂で昼食を共にしている。これも義務。父には必ず顔を合わせろ、すっぽかすなと言われているが、いつも領地のことばかり聞かれて苦痛でしかない。
「今年のブドウの発育はいかがですか?」
「俺はそれどころじゃないから知らないよ。姉貴に聞いてくれ。それよりも今度の在校生パーティーでお前が着けるアクセサリーはいいものにしてくれよ。貴族と縁付くのだから中途半端なものでは困る。当然僕にも揃いの何かを用意してくれ。ミュッセ商会の腕の見せ所だろう?」
「……かしこまりました」
地味でもなく、派手でもない。凡庸な女。それが婚約者マノン=ミュッセ。平民であってもとびきりの美人であるとか、俺の隣に立ち、俺を立てるに相応しい何かがあればまだいい感情を持てたかも知れないが、それもない。
「マノン嬢とは仲良くやっているのか」
一年のほとんどを領地で過ごしている父親は、たまに王都に来たかと思えばこれだ。
「……はい、父上」
「お前は婿入りする立場だ。そして貴族でもある。我が領はお前にかかっているのだ、ジュール。頼んだぞ」
お前にかかっていると言うのなら、なぜ俺は後継ではないのか。貴族だと言うのなら、なぜ俺は平民に婿入りするのか。
そう言えば良かったのか、尋ねるべきだったのか。そうしたら、何かが変わったのだろうか。
パーティーの三日前、寮にマノンから丁寧にリボンをかけられた贈り物が届いた。
適当にリボンを引いて箱を開けると、中に入っていたのは茶色の貴石がはまったネクタイピン。
「……ちっさ」
石が小さい。光の反射は美しいと思う、おそらくカット技術が良いとかそういう理由で、高価なのだろう。
「見た目に大きいほうが大事だってわかんねえのかよ……胸だってそうだろ?」
だが、良いものには間違いない。何と言ってもミュッセ商会の腕を見せろと言ったのだ。生半可なものは贈ってこない。信用問題に関わるからだ。
翌日からそれをつけて学園に行くと、クラスメイトからそのネクタイピンはどうしたのだと口々に聞かれるようになった。廊下ですれ違う上級生や、王太子である王女殿下にも声をかけられ、婚約者が俺のために贈ってくれたものだと胸を張った。
なんだよ、やればできるじゃないか、あの凡人。
パーティー当日。
エスコートをするパートナーとは学園のホール前で待ち合わせる。
今回のパーティーは学校行事の一環。成績が振るわないものは参加できないが、それは余程のこと。ほとんどの生徒が出席する。
政略である婚約者に優しくしてやる義理はないが、良いネクタイピンをあちこちで褒められ気分を良くしていた俺は、エスコートだけはしてやることにした。
「お待たせいたしました、ジュール様」
開宴の十分前に現れた婚約者は、学園の制服をパーティー仕様にアレンジして現れた。
首元には、俺に贈ってきたのと揃いの貴石がペンダントとなって輝いている。
髪をきっちりと巻き、ほどよく大人びて見える化粧をしたマノンは、いつもよりまともに見えた。もっと普段からそういう風に見せろよ。
「遅いじゃないか。俺を待たせるな」
「……申し訳ございません」
「さっさと入るぞ」
肘を張るとマノンが腕を絡めてきた。ほのかに香る甘い匂いにドギマギする。
こんな時だけ女を見せてくるなんて、なんてあざとい女なのか。
パーティは学園長の挨拶に始まり、俺のネクタイピンを褒めた王太女殿下がスピーチをする。
俺の隣で、グラス片手に熱心にスピーチを聞いてはうなずきを繰り返す婚約者をちらりと見る。
あのレベルは求めないが、せめてもう少し華があってくれれば週に一度と言わず二度、三度と一緒に昼食をとったり、放課後に一緒に街を歩いたりしてやっても良いのにな。
「俺はもう自由に動くから、お前も好きにしろよ」
「わかりました。ジュール様、羽目を外しすぎないようにお気をつけくださいね」
そう言って俺を見る婚約者の目は、他人のように冷ややかだった。せっかく俺がエスコートしてやったのにその態度かよ。
「うるせえな、平民に言われたかねえよ」
一歩下がったマノンを置いて、同級生たちの元へ早足で向かう。
「よう」
「おおジュール。婚約者はどうした?」
「置いてきた。冴えないから隣に連れてるの嫌なんだよ。ほんと口うるさいし、ご貴族様が婿入りしてやるっていうのにあの態度。結婚したら二度とあんな口聞けないようにしてやる」
「……あなた、本気でそれを言っているの?」
「は?」
背後から声がして振り返ると、そこには王太女殿下とその婚約者である隣国の王子殿下がいらした。
慌てて姿勢を正し、深く恭順の礼をする。
「王国の輝ける星、王太子クラウディア王女殿下にご挨拶申し上げます」
「まるでなっていない適当な礼は結構。質問に答えて頂戴。あなた、婚約者が冴えないだなんて本気で言っているの?その言葉が貴族たるあなたの価値を下げているとは考えないのですか?」
「は、はい。僕が結婚するのは商会とは言え平民、国を動かしているのは王家の方々や我々貴族でございま」
「もう結構」
王太女殿下は俺の言葉を遮った。隣に立つ婚約者である王子殿下を控えめな眼差しで見上げる。ああ本当、欲しいのはこういう慎ましさだよ。
「ティエリ様、お付き合いいただき申し訳ありません。参りましょう」
「……良いのかい?クラウディア」
「構いません。参りましょう。それでは皆さん、どうぞ最後まで楽しんでくださいね」
王太女殿下とその婚約者が別の集まりに向かって歩いていくのを眺めながら、「何言ってんだろうな」と呟く。そばにいる同級生たちが言葉一つ発さないことを不審に思い見回すと、同級生たちが得体のしれないものでも見るような顔でこちらを見ていた。
「……ジュール、お前、本気で言ってんの?」
「何が」
「王侯貴族が一番えらいって、お前、本気で思ってんの?」
「当然だろう?お前こそ何言ってるんだよ」
「……バルナベ、行きましょう」
バルナベの婚約者が、バルナベの袖を引いた。
「……あ、ああ。そうだな。引いたわジュール。ネタだと思ってた」
「……は?」
「いや、もう良い。行こう」
ふいと顔をそむけて、バルナベたちが行ってしまった。
他の同級生も、まるで赤の他人のようによそよそしく俺のそばから離れていく。
「……何を引いてるんだか、俺のほうが聞きたいんだけど」
その後、パーティーはその後ダンスタイムを迎えた。パートナーがいなかったり、純粋にダンスが好きな女子生徒たちと踊りながらほったらかしにしていた婚約者の姿を探すも見つからず。
ダンスが上手いと誉めちぎられた俺は、婚約者のことなど忘れ、いい気分になりながら寮へ帰ったのだった。
翌日から、急にクラスメイトたちに距離を取られるようになった。俺が何か悪いことをしたのか?まるで理解できない。
パーティーから三日後。
寮監から呼び出され、応接室へ向かった。
俺が一人孤立していることを問題視したのだろう。やっと重い腰を上げたか。遅えよ。
寮の応接室へ行ったが誰もいない。しばらく座って待っていると、廊下を走ってきた寮監に学園の応接室へ連れて行かれた。
そこには、父であるグラモン伯爵と、婚約者マノン、そしてマノンの父……将来の義父にあたるミュッセ商会長がいた。
「寮の応接室におりました、申し訳ございません」
寮監がそう詫びると、俺を応接室に放り込みドアを閉めて行った。
「……座れ」
父の口調が重々しい。
「はい」
何事かと思いながら父の隣へ座る。一体どういう用件だ?首をかしげていると、父が婚約者とその父に対して深々と頭を下げた。
「この度は誠に申し訳ない」
その声は震えていた。
「父上どうしたのですか、父上が何か失礼を働いたのですか」
「お前だ馬鹿者」
父に頭を押さえつけられ、無理矢理二人へ下げさせられる。
「私の教育不足が全ての原因です、本当に申し訳ありません」
何をさせられているのか、訳がわからない。
「何をするんですか父上!」
頭を上げようとするが、さらに強い力で押さえつけられた。
「何をするもなにも、全てお前のしたことだろうが!」
「僕が何をしたというのですか!」
父の手を振り払い顔を上げる。目が合った父の表情は完全なる無だった。
「何もしていないのか?お前は本当にそう思っているのか?」
「……僕は貴族としてあるべき行いをしているだけですが?」
「お前の立ち居振る舞いが貴族としてあるべきものだというのであれば、私は今すぐお前を殺さねばならないな」
「……は?」
父は何を言っているのか。
「そして私も責任を取って命を絶たねばならない」
「父、上?」
「そこまでしていただかなくて結構ですよ、グラモン伯爵」
ミュッセ商会長の声が応接室内に響いた。
「こちらといたしましては、婚約をそちらの有責で破棄していただければ、それで結構です」
「破棄……?こちらの有責で?」
ミュッセ商会長まで、一体何を言っているのか。
婚約者であるマノンに視線を向ける。
マノンは俺を冷ややかな眼差しで見、ため息をひとつついた。
その全てが、俺の心を逆撫でする。
「グラモン伯爵様が頭を下げられてもなお、何が悪いのか理解できないんですね」
「……は?」
「先日のパーティーですよ。あなたの言葉がクラウディア王女殿下がお気持ちを著しく損ねてしまったことに気付かなかったのですか?あなたは王女殿下に何と言いましたか」
「何を、って」
「国を動かしているのは王侯貴族、平民は所詮平民だと仰ったでしょう。そして、自分がなぜ平民ごときと結婚しなければならないのかと。私のことを冴えない婚約者だと」
……それを父の前で言うのかよ。思わず舌打ちが出る。
「私が冴えない女であることは事実ですしこの際どうでも良いことです。しかし、次の国王になられるクラウディア殿下に対して……国民を最も大切に思われているクラウディア王女殿下に対して、あなたは平民ごときと言ったのです。
成績が良いのでしょう?これが何を意味したのか、わかりますよね」
「……何を意味するって、別に事実を述べ」
「王女殿下が大切に思っていらっしゃる、国民を貶めた。そう判断されたのです」
「は?何を大げさな」
「……大げさなものか」
隣に座っている父が、苦々しく吐き捨てた。
「臣民から絶大な支持を受けているクラウディア王女殿下をお前は真っ向から否定したんだ。国王陛下や議会の期待と信頼を一身に受けておられる王女殿下をだ。それがどういうことだかわかるか」
「……ですから、事実ではありませんか」
「グラモン伯爵家は、民を搾取する相手だとしか思っていないと、税を取り立て贅沢をしているとみなされてもおかしくないのだ!!この愚か者が!!」
「それの何が間違っているというのですか。貴族として生まれたのですから当然のことではありませんか」
「もう結構ですよ、グラモン伯爵。既にお送りしております物資はそのまま伯爵領でお使いください。ただしミュッセ商会は今後、グラモン伯爵領とは一切取引いたしません。もう少しまともだと思っていたのですが、とんでもない選民思想を持った男を婿に迎えてしまうところでした。早いうちに気付けただけ良かったと思いましょう」
行くぞマノン、と商会長がマノンを促し、二人が立ち上がった。
「待ってください!」
「おいジュール!」
「……我々平民を蔑むような男を婿に迎える気はないのですよ」
ミュッセ商会長の冷ややかな眼差しが突き刺さる。不敬だし不快だ。何様のつもりか。
「時代に逆行していることにまるで気付いていない。凝り固まった頭。我々の大敵だ」
「古き良きものがあるだろう!」
「はは、とんだ詭弁だ。長く続くものを盲目的に良いものだと言って憚らない。時流を読み、最新のものを取り扱わなければならない我々商人が最も忌み嫌うものですよ」
淡々とした口調でそう語ると、ミュッセ商会長は父を一瞥した。
「グラモン伯爵と次期伯爵の誠実さと勤勉さに免じて今まで君の振る舞いを黙認してきたが、もうそれも終わりだ」
「は、それはどういう……」
「元々私には、幼い頃から仲良くしている子爵家のご子息と婚約の話があったんですよ」
マノンが会話に割り込んできた。
「ですがその前にグラモン伯爵よりお申し出がありました。ジュール様と婚約して欲しいと。ぶどうとワインをミュッセに優先的に安く卸すことを条件に、婿入りさせて欲しいと」
「あまり良い条件ではなかったが、伯爵は勤勉な方だし後継であるジュール様の姉君は大変優秀だ。お話をいただいたときには現在の領地の課題をよく理解された上で打開策を探り、施策も練っていらした。
そして領地に限らず、広く商いという視点で物事を見られる。聡明な領主になられるであろう姉君と手を組めば、我が商会もより発展していける。そう踏んで、マノンの意思も確認した上で君の婿入りを了承したんだ」
隣でがっくりと肩を落とした父が、はははと力無く笑った。
「断られる前提で打診をしたが、貴族への販路を探っていることも耳にしていたからな。お前が商会の顔になってくれれば構わない、という話だった。マノン嬢とうまくいかない場合は愛人を囲っても良いとまで言ってくれていたんだ。なのにお前は」
「……は?それじゃあ」
初めから俺は、おまけ、ついでだったということか?
「そもそも仲が深まることもございませんでしたわね。ジュール様は全てがご不満のようでしたので、我が商会で顔役を務めていただくことは不可能だと判断いたしました」
「務めることくらいはできる!」
「務めるだけではダメなのですよ、ジュール様。伯爵様はよくおわかりのようですけれど」
「お前がこの婚約を不本意に思っていることはわかっていた。平民を下に見ていることもだ。
しかし我々は貴族、お前が平民だと侮る領民のために生きねばならぬことは理解していると思ったのだが……ははは、とんでもない思い違いをしていたようだ。お前のせいで我が家は終わりだ。贅沢?そんなものもう何年もしていない。せめてお前を良い環境で学ばせてやりたいと願ったことが最大の失敗だったか」
頭の中がぐちゃぐちゃだ。今まで俺が正しいと信じてきたことが誤りだと言われ、俺が全て悪いと断じられている。おかしい。何かが。
ーーそこで俺はひとつの可能性に気がついた。
「まさか、噂になっている婚前調査をしたのか……?」
「いいえ、しておりませんよ」
即座にマノンに否定される。
「調査などするまでもない」
父が俺のネクタイピンを外した。
「これに全て記録されていたからな」
「!!?これは、マノンに頼んだ……」
「それのお金は伯爵家から出ているのですよジュール様。伯爵様にお伺いしたところ、アクセサリーに模した記録型の魔道具を着けさせたいというお話でしたので、ご用意しました」
「せめて良い暮らしをさせたいという親心で頼み込んだ結果がこれだ。私にはもう何もしてやれることはない」
「は……」
「私は好みではないようでしたから、今流行っている『君を愛することはない』なんて言葉をいつ言われるのかと期待もしたのですけれど、それ以前のお話でしたわね。それではさようなら、ジュール=グラモン様」
===
気が付いた時には寮の自室にいた。
学園は学費を前納していることもあり、卒業させてもらえるという。その学費も、ミュッセ商会の援助によるものだと、この時初めて知った。
卒業後のことを考えたら転科の選択肢もあると勧められたが、商学も魔法学も興味がない。ならばそのまま貴族科を卒業し、卒業後は領地で姉の手伝いをしろと言われ、これも拒否する理由もないから承諾した。
領地に帰るのは入学前以来で、道が整備されていたりワインの醸造場が新しく作られていたりした。
「これもミュッセ商会が新しくグラモン領に支店を作るから、ブドウとワインも融通してもらうから、と整備してくれたもんなんですよ」
と、自領に向かう馬車を操る御者が言い、恨めしそうな目でこちらを見た。
姉は婚約を破棄されたことについては何も言わなかった。ただ一言、
「学んできた成果を見せてちょうだい」
とだけ言われた。
姉が伴侶にしたのは、農業に強い遠縁にあたる男爵家の次男だった。
田舎くさい奴だと思っていたが、実際王都の学園には通わず、隣接した領にある農業専門の学校に通っていたらしい。
結婚式以来、数年ぶりに会った姉婿は、親しみやすさの中にも貴族らしさを感じさせる雰囲気をまとっていた。
「お姉さんに鍛えられたからね」
どこで身に付けたのかと尋ねると、そう返された。
「都会の洗練された人たちに侮られない最低限の品は身に付けてくれと厳しく指導されたよ。お義父さんも少し引いていたかな」
「そうですか」
「想像以上に、この領地を成り立たせていくことは過酷だとお姉さんの隣にいて思ったよ。お義父さんが流通面を強化しようとした理由もよくわかる」
「……はい」
俺が領地に戻った年は不作だった。
周期的に豊作と不作の波が来るという。ほぼ予想通りだったらしい。ミュッセ商会のお陰で領民が冬を凌げるだけの十分な食糧が入っていた。
父と姉はこうなることを見越していたのか、と、倉庫の備蓄が減っていく様子を見ながらぼんやりと考えた。
姉と義兄は寝る間も惜しんで働いていた。領地をまわり領民の声を聞いては、農作物の栽培に関しては義兄がデータを集め、土壌の改良や農法の指導などを行い、姉は日々の生活や仕事についての要望を細かく聞き取り、改善しようと動いていた。
父は邸で執務室に籠りっぱなしで出て来ない。いつもああなのか、と家令に聞くと、あれでもマシな方だと返ってきた。
姉について領内を回り、話を聞いたり力仕事を手伝ったりするうちに肌は日に焼けて筋肉もついた。
体型が変わり着られなくなった学園にいた頃の服を王都でバザーに出すための箱にしまう。
そういえばそろそろ社交シーズンだが、一体誰が王都に出るのか。両親も姉夫婦も忙しそうだ。
「社交に出ている場合ではないでしょう?」
姉に尋ねると、鼻で笑われた。
「あなた、自家の領地がこの有様でよく社交だなんて言えたわね。そんな余裕があるように見える?第一、王太女殿下に不敬を働いて爪弾き、笑い者になっている私たちの居場所なんて王都にないわ」
それでも、華々しい王都の空気に触れたくて、王都への荷物を運ぶ役割を御者から奪い取り、幌馬車に乗って王都へ来た。
教会で荷物を下ろし、ふと顔を上げると、ミュッセ商会の看板が目に入った。
こんなところに店を構えていたのか。ろくに見に行ったこともなかったと、今さら気が付く。
店から出てくる華やかな貴婦人、そして連れである上質な服を身にまとった品のある紳士。
俺があるべき姿はあれだったはずなのに、ああなっていたはずなのに。どうしてこうなってしまったのか。
「……あ」
羨望の眼差しでその男女を見つめていて気が付いた。あれは、元婚約者じゃないか。
あんなに幸せそうな顔をして、美しい表情を浮かべている。しかも男は俺をいつか馬鹿にしたダリオだった。
「……ふざけるな……」
俺が手に入れるはずだったものだ。返せ、返せ……!!
懐からナイフを取り出す。ギリギリまで近付いて刺してやろうと歩みを進めると、
「おや、そこの」
不意に声をかけられた。
振り返るとそこには、鷲鼻の老婆が不気味な笑みを浮かべて立っていた。
「そんなに憎しみを湛えた顔をして。そのままでは辛かろう、わしがもらってやろうじゃないか」
「は、何言ってるんだ、どけよババ……」
ずぷり。
何かが刺さったような感触に自分の身体を見ると、さっきまで握りしめていたはずのナイフが、俺の腹部に深々と刺さっていた。
「……っな……っ!?」
「うむうむ、イキの良い憎悪だのう。表情がまるで別人のようじゃ。これよ、この憎悪が貌を変える一番の劇薬」
老婆はそう言って笑うと、俺の腹に刺さったナイフを一思いに引き抜いた。引き抜いたナイフには、おかしなことに、血は一滴も出ていない。
「ははは、純度の高い憎悪がこびりついておる。このナイフはもらって帰ろう。
ジュール=グラモン、これで多少はまともになれるといいのう」
その声を、俺は意識の遠くで聞いていた。次第に世界がぼやけて、このまま死ぬのか、ただ眠るのか、もうよくわからなかった。
===
「いやー、ひっさしぶりに良い感情拾っちゃったよねぇ、めっけもんめっけもん」
ウキウキしながら釜を火にかける。
そこに特殊な溶剤をたっぷりと入れ、一煮立ちしたところで仕入れたばかりのナイフをどぷんと沈めた。
「ああ、ツェレリア様、また誰かの感情を抜き取ってきたんですね!?」
遊びに来ていたルルが釜をのぞき込む。
「あールル。めっちゃ新鮮な憎悪が手に入ったんだよ〜、すぐに加工してコレクションに加えなくっちゃ」
鼻歌でも歌いたいな、でも音痴だからやめろってみんなに言われてるから、我慢しよ。
「ツェレリア様もお人が悪いんですから。人はやり直せるって、ご存知のはずなのに」
「やっぱり新鮮な感情からしか採れない色があるからね。できるかどうかわからない人間の更正と天秤にかけたら、やっぱりフレッシュな気持ちを素材として生かしてあげたいじゃん!!ふふ、あんなにはっきりとした憎悪久しぶりに見たから、仕上がりが楽しみだなぁ」
もっと色を揃えて、ボクの貌を描かなくちゃ。自分の本当の顔が思い出せなくなっちゃう前に、ね。
あの男がどうなったかは知らない。ただ、煮えたぎるような熱々の感情を抜いてきちゃったからな、仮に生きていたとしても、もう抜け殻なんじゃないかな。
ボクはツェレリア。顔も姿も思うがままに変えながら面白おかしく生きてきたら、本当の自分の顔がわからなくなってしまった、幻貌の魔女。
……しっかし、自分が調査されてるだなんて思い上がりも甚だしいね。お前にはそんな価値、なかったろ?