文と訪い 4
お気に入り登録、評価などありがとうございます!
三日夜通いという制度をいったい誰が作ったのか。
翌朝、綾女は忌々しく思いながら、ふわっとあくびをかみ殺す。
三日夜通い。別名、三日夜餅。
貴族の婚姻は、婿とり婚が多い。
世間一般的に言えば、男性が女性を見初めて、もしくは誰かにお膳立てされて、女性に文を贈る。
家族がしっかりしていたら、家族の審査も入り、最終的に求婚が成立すれば、男性は女性の元に三日続けて夜に通う。
これが三日夜通い。
夜を共にした後、後朝の文という手紙をお互いに送り合い、続けて男性が通い続ければ結婚成立とみなされる。
逆に一夜、二夜だけで通わなくなれば浮気相手にされたとみなされ、結婚は不成立となる。
結婚が成立するためには、三日目の夜に行われる露顕と三日夜餅という儀式を行うのが正式なものだが、まあこれは家の状況によるだろう。
父も母もない綾女は、三日夜餅はともかく露顕は省かれるはずだ。
露顕とは、家族が親族や知人を呼び、この二人は結婚しましたよとお披露目をする会である。綾女にも親族と呼べる人間はいるが付き合いはないので、この儀式は不要だろう。
そもそも相手は鬼である。いったい誰にお披露目できるというのだ。
(って、ちがーう‼)
綾女はぱたぱたと頭を振った。
(なんで鬼と結婚する未来を考えてるのよ、しないわよ!)
昨夜、綾女の文句をさらりと流し、紫苑はさっさと帰っていった。
なんとかあと二日通って来るのを阻止してやろうと悶々として寝付けなかった綾女は、翌朝、命婦があきれるほどの隈を作っていた。
「まあまあ姫様、どうなさいましたの!」
「ちょっと寝付けなくて……」
まさか昨夜鬼が来たとは言えない。口が裂けても言えない。命婦に知られれば、あと二日の夜を終えた朝に餅が用意されてしまう。そんなことになれば逃げられない。
はしっこが少し欠けた懸盤に強飯と漬物、野菜の煮つけと汁物が乗っている。
急いで食べたところでこの後の予定などないのだからと、いつも通りゆっくりと食事をしていた綾女は、ふと歌のことを思い出した。
「そうだ命婦、ちょっと教えてほしいんだけど」
綾女は紫苑に「会いたくない」と伝えたつもりだったのに盛大に誤解させたようなのだ。
今後歌を詠む機会があるかどうかは別として、後学のために失敗は確認しておいたほうがいい。
「あのね、命婦。歌を詠んだんだけど、なんかわたしが考えた意味と違うみたいなのよ……」
ご飯を咀嚼しながら説明すれば、命婦は目を丸くして、「あらあらまあまあ」と笑いだした。
「姫様はお歌のお勉強はあまりしませんでしたからねえ」
「ねえ、『夜の衣をかへしてぞ着る』って、どういう意味?」
命婦は「あらあらまあまあ」と繰り返して微苦笑を浮かべる。
「姫様は『いとせめて 愛しき時はむばたまの 夜の衣をかへしてぞ着る』というお歌をご存じですか?」
「知らない」
もしかしたら内裏で読んだ草子か巻物かに書かれていたのかもしれないが、ちっとも記憶になかった。そもそも記憶に残っている歌なんてないのだが。
「簡単にお伝えしますと、姫様が詠まれたお歌はそのお歌を引用し、『あなたがちっとも来てくれないから、せめて夢の中でお逢いできるように夜着を裏返して祈りながら眠ります』という意味になりますわ」
「なんですって⁉」
綾女は口に含んだ汁物を噴き出しそうになった。
「『いとせめて 愛しき時はむばたまの 夜の衣をかへしてぞ着る』というお歌は、『あなたにお会いしたい夜は、夜の衣を裏返して着るのです』という意味のお歌ですもの。そもそも、夜着を裏返して着て眠ると、好きな殿方の夢が見られると言われておりますし……、姫様はご存じなかったのでしょうが」
「知らないわよそんなの!」
どうりで紫苑が訪ねてくるはずだ。
綾女は頭を抱えたくなった。
「会いたくない!」と伝えたつもりだったのに、結果として「こんなに思っているのにちっとも来てくれないのね」とあてこすった歌を書いて送りつけたわけだ。綾女が会いたがっていると認識されても不思議ではない。
「それで姫様、そのような誤解を招くお歌を誰に……ははぁ」
命婦はそこでにやにやしはじめた。
「なるほど、鬼のお方にお送りしたわけでございますか」
「笑い事じゃないのよ」
「よいではございませんか。それではそのうち訪いがございますわね。まあ、楽しみ」
「楽しまないでちょうだい!」
相手が鬼だというのに、命婦は歓迎する気満々である。当然だ。命婦の中では、紫苑は生活に苦しむ綾女を陰ながら優しく支えてくれる殿方なのである。
こまめに贈り物をしてくれることからも、お金持ちの上玉と認識している節があって、綾女にお姫様のような暮らしを取り戻してほしい命婦は、早く結婚すればいいのにとせっついているくらいだ。「こんなに思ってくださる殿方もなかなかいらっしゃいませんよ」などと宣うほどである。
綾女だって、相手が人間ならばまだ考えた。
やれ愛人だ妾だという話は、貴族には珍しい話ではない。実際、綾女の母方の祖父にあたる人も、複数人の愛人や妾がいたと聞く。父方の祖父は言わずもがな。帝であったのだから複数人の妃がいるのは当然のことだ。
父は一途な人だったが、どちらかと言えば珍しい部類に入るだろう。
(これは、もう来たあとなんて言えないわ……)
昨夜はただ団子を食べて喋っていただけだが、命婦に知られたら誤解される。さすがに昨日のあれで後朝の歌なんて送りつけてこないだろうが――そんなもの来ても困るし――、あと二日通ってくると紫苑は豪語したのだ。気を付けていないと、どこで命婦にばれるかわかったものではない。
(来るのが阻止できないなら、なんとかやり過ごすしかないわ)
昨夜は紫苑が何かしたようで、命婦は物音にも気づかなかった。
あと二夜も同じように命婦に気づかれずに終わりたいところだ。
「常陸宮様に代わり、この命婦、目の黒いうちに必ず、必ず、姫様がお幸せになるのを見届けとうございます! ええ、それがわたくしに残された使命でございますれば」
使命なんて重たい言葉を使わないでもらいたかった。
だが、綾女が内裏から追い出されたとき、綾女以上に悔しがっていたのは命婦である。
(だけどあのときは仕方がなかったのよ)
今ならば少し状況が違っただろうか。
あのとき権威を持っていた中関白殿――伯父の一人だった道隆は亡くなり、今一番権威を持っているのは左大臣の道長伯父だ。
綾女の母は道隆と道長の腹違いの妹である。
とはいえ、外祖父である兼家が戯れに手を付けた女の娘である母は、一族では厚遇されてはいなかったようだけれど。だが、道隆伯父はともかく、道長伯父とは仲がよかったと聞いていた。
だから、もし六年前ではなく今ならば、内裏を去るとしても道長伯父の口利きでもう少しましな暮らしができていただろう。
すべては過ぎたことなので、たらればを語ったところで仕方がないが、一番時期の悪いときに父が亡くなってしまったのは事実だ。
(幸せって言うけど、命婦ってばわたしが鬼と結婚したら幸せになれるって本気で思っているのかしら?)
相手は人ではなく鬼なのに。
綿星が言うには、紫苑は土御門大路のあたりに邸を構えているらしいけれど、鬼がいつまで人の理の中で生活するのかどうかは不明である。もし紫苑が今後人間社会から去ることになったとして、そのとき鬼の妻になっていたら、綾女は否応にも鬼の理の中で生きていくしかなくなるのだ。
紫苑が好きとか嫌いとか、それ以前の問題である。綾女にはそう簡単に人の世を、理を捨てる覚悟を持てない。
けれど、いつまでも綾女が拒否をし続けていたら、紫苑も愛想を尽かすかもしれない。そうなると彼からの貢ぎ物が途絶えるわけで……、それらがないと、綾女の生活は途端に立ち行かなくなるのもまた事実だった。
(せめてもの救いは、彼が人とあまり大差ない外見だったことだけど……)
口が裂け、角が生えた異形でなかっただけホッとした。さすがにそのような異形が相手だったら平静ではいられない。心を通わす前に、恐怖のあまり心臓が止まってしまう。
(はあ、どうしたものかしら……)
結婚はしたくない。
だけど、もう、逃げられないところまで来ているのかもしれない。
綾女は漬物をぽりぽりとかじりながら、物憂げなため息をついた。
ブックマークや下の☆☆☆☆☆にて評価いただけると嬉しいですヾ(≧▽≦)ノ