文と訪い 3
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(待って待って! ちょっと待って⁉)
綾女は大混乱に陥りながらも、必死に考えた。
確か、紫苑から届けられた文には、会いたいから夜に会いに行くよ、みたいな内容の歌が書かれていた。
だから綾女は、会いたくないから夜着をひっくり返して寝るわ、と返したつもりだった。
それどうして、会いたいと認識されてしまったのか。
頭を抱えたが、今はその間違いについて考えている余裕はない。
思いっきり勘違いしている紫苑は、綾女を腕の中にすっぽりと閉じ込めて、よしよしと頭を撫でている。
これはもしかしなくとも、かなり危険な状況ではあるまいか。
なし崩しにこのまま嫁にされる可能性があると判断した綾女は、腕を突っぱねると、紫苑の腕の中から抜け出そうと試みた。
「ちょ、ちょっと待っていろいろ誤解が……!」
「まあ、もういいころ合いだろうからね。俺の邸の北の対に、君の部屋を用意させているよ」
「用意しなくて結構よっ」
突っぱねた腕の長さ分距離は生まれたが、背中に回された紫苑の腕ははがれてくれない。
「綿星から聞いていたとおり、なかなか意地っ張りだね。でも、近いうちに必ず君を連れていくよ。これ以上は待てない」
「わたしの意思!」
「残念ながら、君の父君と約束した時点で、君が俺の嫁になることは決定事項だ」
うぐ、と綾女は唸った。
これまで強引なことはしてこなかったから、このまま嫌だ嫌だと逃げ続ければなんとかなるのではないかと、心の中で高をくくっていたのだ。
鬼との約束はそんなに簡単に反故にできるものではないとわかってはいたが、気まぐれで父を助けるような変わった鬼なら、もしかしたらと思ったのだ。
「そんなに怯えなくても、さすがに今日いきなり組み敷いたりしないよ」
「お、怯えてないわよ!」
つい強がったが、今日のところは貞操の危機はなさそうだと内心ではホッとした。鬼のくせに人情がある。
「だが、せっかくだ。少し話でもしよう。夫婦になるのだから、お互いをもっと知るべきだ。そうだろう?」
もっとどころか、綾女は鬼が紫苑という名であること以外は何も知らないのだが、話をするだけで解放されるのならば拒否する理由はない。
ここであれも嫌だこれも嫌だと言って、最終的に押し倒されたらたまったものではないからだ。
(あのお守りも、送り主本人相手には役に立たないでしょうし……)
それに、鬼と結婚するのは嫌だが、送られてくる貢ぎ物には感謝している。あれがなければ綾女は飢え死にしていてもおかしくなかったからだ。
まあ、そうなる前に、命婦が綾女の生活の面倒を見てくれそうな殿方を探したかもしれないが、それはそれで生きていくために誰とも知らない男の愛人になることを意味している。
綾女が今日まで健やかに生きてこられたのは、目の前の鬼のおかげだ。ちょっと癪だけど!
「わ、わかったから、少し離れて」
「なぜだ? くっついていたほうが温かいだろう」
「そういう問題じゃないの!」
鬼のくせに、着ている衣からはいい香りがするし……、なんだか落ち着かないのだ。
これは決してときめいているわけではないと自分自身に言い訳するが、鼓動が速くなっているのは否定できない。
速く大きくなった鼓動が、紫苑に気づかれるのだけは避けたかった。
紫苑は仕方がなさそうに綾女の背に回していた腕を離すと、「ならばせめて火を入れるか」と部屋の端に置いていた火桶を持ってきた。
寝る前に焚いていた火桶の火はもう消えていたのに、紫苑が手をかざすと、ぽっと火が灯る。炭もすべて灰になっていたのに、一体どうなっているのだろう。
(鬼ってすごいわね)
感心しつつ、赤くゆらゆらと燃える炎を見やった。
話をするにしても、帳台の中に隠れたほうがいいのだろうが、もう顔を見られてしまったし今更だ。それに、火の側のほうが温かい。
「……鬼って、姿かたちは人と変わらないのね」
火桶に当たりながら、ぽそっと思ったことを口にすれば、紫苑が笑った。
「髪も目も、人と色が違うと思うが?」
「だけど、それ以外は同じだわ」
「まあそうだね。だが、見た目はいくらでも変えられるぞ」
「そうなの?」
「ああ。……食べるか?」
火桶を眺めていると餅が焼きたくなるなと思っていると、どこからか紫苑が団子を取り出した。
「ありがと」
素直に受け取り、火桶で軽くあぶって口に入れる。
もぐもぐと口を動かしながら、綾女は端正な紫苑の顔をじっと見つめた。
「じゃあその顔も偽物なの?」
「これは本物だ。だが、年寄りにも女にも、そうだな、口が裂けた角が生えた異形にも、なろうと思えばなれる」
「ふぅん」
自分の姿を自在に変えられるなんて、面白いものだと綾女は思った。
もしそんなことができるなら、綾女なら男になって参内するかもしれない。そうすれば誰かを頼らずとも自力で生きていくこともできる気がした。
(それに、もし男になれたら……)
ふと、何年も前に胸の奥深くに押し込めた感情が溢れ出しそうになって、綾女はぎゅっと心臓の上を押さえる。
今更だ、と自分に言い聞かせる一方で、もしも男になれたら、参内できたら、あの時の無念も晴らせるのだろうかと考えてしまった。
(馬鹿ね。たとえ参内できたとしても、権力を手にできなければどうしようもないのに)
自嘲し、二個目の団子を口に入れる。
ほんのり甘い団子を、喉元まで出かかった暗い感情と共に飲み込むと、綾女は気を取り直して訊ねた。
「鬼は、他にもいるの?」
「いるが都にいるのは今のところ俺だけだね。鬼は縄張りを持つんだ」
「都があなたの縄張りなの?」
「今はそうだな。昔は親父殿だったが、都に飽きたと数年前に別の地へ移ったよ」
紫苑も、手元の団子をぽんと口の中に放る。
「綾女は、普段はどうやってすごしている?」
「わたし?」
別に特別なことは何もしていないけれど、と言いかけて、綾女は半眼になった。
「どうも何も、いつもいつもあなたのところのうるさい物の怪が突撃してきて迷惑しているわ」
「綿星か。そう邪険にするな。あれでも、君のことを守っているつもりなんだよ」
「あの綿毛が?」
「あの見た目だが、あれはそれなりに強い妖だぞ」
「そうなの?」
全然そんなふうには見えない。
綾女に簡単に首根っこを掴まれるし、いつもやかましく「主様と結婚してくだされ!」と騒いでいるだけの小物だと思っていた。
見た目だけは可愛らしいけど。
(だけどまあ、綿星が来なかったら、日がな一日ぼんやり過ごして終わる毎日だからね。いないよりはましか)
掃除や炊事など、命婦を手伝おうとしたこともあるが、命婦自身に「姫様がそのようなことをしてはなりません」と止められた。
姫と言うが、内裏を追われた落ちぶれた内親王だ。内親王という身分が邪魔をして働こうにも働けず、外にもろくに出られない。
ただのお荷物でしかない綾女をいまだに「姫様」と呼んで大切にしてくれるのは命婦くらいなものである。
ちょっぴり……ほんのちょっとだけ、もし鬼との結婚を了承すれば、命婦も楽になるのかなと考えたことはあった。
命婦もあと二年もすれば五十の大台に手が届く。
まだまだ元気そうではあるが、四十の賀をとうに終えた命婦には、できるだけゆっくりしてもらいたい。
夫に先立たれ、子もいなかった命婦には行く場所がないからとずっと綾女の側にいてくれているけれど、いつまでも綾女が身を固めなければ、命婦はこんなさびれた場所で苦労を続けることになる。
けれども、相手が鬼というのが綾女に二の足を踏ませていた。せめて人なら決心もついただろう。
ぽつりぽつりと、他愛ない話をして、団子がなくなると紫苑が立ち上がった。
「さて、今日のところはお暇するよ。また明日の夜に来る」
「え、来なくていいけど……」
まだ来るのか、と目を丸くした綾女に、紫苑はとろけるような笑みを浮かべた。
「三日ほど通うつもりだよ」
綾女は「うん?」と首をひねってから、素っ頓狂な声を上げた。
「じょ、冗談じゃないわよ‼」
三日夜通い。
それが終われば、結婚だ。