文と訪い 2
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綾女が大きな間違いを犯したと気づいたのは、次の日の夜のことだった。
帳台の中で微睡んでいた綾女は、微かな物音に目を覚ました。
きっちりと下ろしていた帳がわずかに揺れている。
今日は昼から綺麗に晴れていて、おかげで月の光もはっきりと届くようだ。
部屋に差し込んだ銀色の明かりにそんなことを考えて、綾女は、いや、おかしいと眉を寄せた。
寒いから、蔀も襖も全部きっちりと閉めている。
御簾も下ろしているし、帳台の中に入り込んでくる冷気を少しでも減らそうと、周囲を几帳で囲っていた。
この状態で月の明かりが帳台の中に入って来るはずがない。
では、この銀の光は何なのだろうか。
綾女は褥の上で身を固くした。
(妖の類……かしら)
そうであれば動くのはまずい。
綾女は妖が見えるが、相手が悪しきものならそれを知られるのは危険なのだ。
天照大神の末裔である帝の血を引く綾女は、それだけで妖たちからすれば格好の獲物である。
その身を食らって力をつけようというものもあれば、紫苑とか言う鬼のように、綾女を娶ろうと考える妖もいる。
加えて妖が見えるとなれば、狙われる可能性は格段に跳ね上がるのだ。
強い妖の中には、妖が見えない人間にも己の姿を認識させることができるものがいるが、それはごく少数。
そして、妖の見える綾女には、相手がそうであるのか否かの判断はつかない。何故なら等しく見えるからだ。
ごくり、と綾女は息を呑む。
相手がほかの人間には見えない妖の類であれば、このまま無視を決め込んでもいいだろう。
帳台の中には、鬼がくれたお守りがある。
綾女は認めていないが、綾女のことを嫁認定している鬼は、彼女がほかの妖にかすめ取られないようにと綿星を通してお守りをよこしたのだ。
あれさえ近くにおいておけば、弱い妖は近づくことができないという。
だが問題は、相手が自力で他の人の目にも己を認識させることができるような強い妖の場合だ。
その場合、綾女が気づかないふりを決め込めば逆に怪しまれる。
なぜなら相手は、人に己を認識させているからだ。綾女が気づかないふりをすれば、それはわざとそうであるようにふるまっているとすぐばれる。
そして、その理由から、綾女が妖が見える体質だと気づかれる。
さらに、相手が強い妖なら、鬼からもらったお守りでは防ぎきれない可能性があった。
(……どうしよう)
綾女は枕元に置いていたお守りを手繰り寄せた。
このあばら家に移り住んでから六年。
綿星のような、鬼の使いだという害のない妖がやってくることはあっても、危険な妖がやってきたことはない。
法師や陰陽師のように妖を調伏する力を持たない綾女に、どれほどの抵抗ができるだろうか。
(お父様がくれた守り刀は……)
確か、厨子の中に納めていたような。
その厨子に守り刀を取りに行くとなれば、帳台から出なければならない。
帳台から飛び出して守り刀を取りに行くのが最善か、それともこのままここで気づかないふりをしているのが最善か、綾女には判断がつかなかった。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう……」
気休め程度に、昔、父から教えてもらった曼荼羅を口の中で唱えはじめた綾女だったが、帳の外からくつくつと笑い声が聞こえてきて途中で止めた。
若い男の声だ。
怪訝に思って上体を起こせば、帳のすぐそばに誰かが座る気配がした。
帳越しではあちらの様子はわからないが、銀の光だけは帳越しに帳台の中に届く。
息を殺して相手の出方を伺っていると、ひとしきり笑った男が言った。
「ひどいな。招かれたから来たのに」
(招かれた?)
ますます怪訝に思った綾女だったが、次の一言で飛び起きた。
「俺の嫁はなかなか冷たい」
「なんですって?」
嫁という単語に、綾女は慌てて帳の外に転がり出る。
すると、驚いたように目を見張る、二十歳くらいの男がそこにいた。
思わず息を呑む。
男は、星の輝きを集めたような銀色の髪をしていた。
瞳は赤く、目鼻立ちは我を忘れて見入るほどに整っている。
冠も烏帽子もかぶっておらず、艶やかな銀の髪は無造作に背中に払われていた。
白い衣に、淡い紫色の打掛。
形のいい唇を笑みの形にして、ぽかんと呆けてしまった綾女を面白そうに眺めていた。
「おやおや、俺の嫁はなかなか威勢がいい。だが、顔が見られて嬉しいよ」
「……あ」
そこでようやく、綾女は家族でもないこの男に堂々と素顔をさらしてしまったことに気が付いた。
こんなところに打ち捨てられても内親王。
殿方に素顔をさらすべきではないという常識は、幼い頃から刷り込まれている――はずだった。ここのところ接する者といえば命婦か綿星しかいなかったから、つい失念していたが。
少しの間硬直し、よし、今のはなかったことにしようと、しれっと帳台の中に隠れようとした綾女の手首を、男がむんずと掴む。
「まあ、待て」
「待たないわよ!」
つい声を張り上げて、慌てて掴まれていないほうの手で口を押えた。
命婦が起きて来るかもと慌てたが、男は笑顔のまま首を横に振る。
「命婦殿は起きてこないようにしてあるよ」
「なんですって?」
「だって、ほら、様子を見に来られたくないだろう?」
どういう意味だ、と首をかしげると、男が袖の中から一通の文を取り出した。それは昨日綾女が適当に書いて送った文だ。
(ってことはやっぱり、こいつが鬼……)
紫苑とかいう、綾女を嫁認定している迷惑な鬼だ。
これまで一度だって会いに来なかったくせにいったいどんな了見だと思えば、文を広げた紫苑が楽しそうに喉を鳴らす。
「まさか君にこんなに可愛らしい文をもらえるとは思っていなかったよ?」
「は?」
会いたいというような歌を詠まれたから、会いたくないと返したはずの文の、何がいったい可愛らしいというのか。
首をひねった綾女に、紫苑は赤い目を細めて微笑む。
そして、ぐいと掴んでいる手が引っ張られ、気が付いたら綾女は彼の腕の中に抱き込まれていた。
(ひ!)
何が起こっているのかと瞠目する綾女の耳に、紫苑のささやきが落ちる。
「夜の衣をかえしてぞ着る……夢で逢いたいと思うほど、思っていてくれたんだね」
「……へあ⁉」
綾女は思わず、素っ頓狂な声を上げた。